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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第3章 泡のゆくえ
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28/29

第28話 継ぐ覚悟

 未沙がロンドンから戻ってきて数年が経った。


 六月の終わり、雨上がりの空気がまだ少しだけ街に残っていた。


 夕方のサロンには、精油のやわらかな香りが静かに満ちている。

 最後の客を見送ったあと、美咲は使い終えたタオルをたたみ、施術室のリネンを整え、受付まわりの確認をしていた。

 予約表に目を通し、明日の準備を済ませ、レジを締める。

 ひとつひとつはもう身体に馴染んだ動きだった。


 未沙のいない一年、美咲はこの店を回してきた。


 最初はただ、目の前のことに必死だった。

 予約を途切れさせないこと。お客様を不安にさせないこと。店の空気を変えすぎないこと。

 未沙が戻ってきたとき、ここがちゃんと“いつもの場所”であるように。

 そのことだけを考えて、毎日をつないできた。


 簡単だったことは一度もない。

 けれど、守ることはできたのだと思う。

 少なくともこの場所を閉じずに、未沙が帰ってこられる場所として残すことはできた。


「美咲ちゃん」


 呼ばれて振り向くと、未沙がカウンターの奥に立っていた。

 やわらかな声だったが、どこかいつもより静かな響きがあった。


「はい」

「少しだけ、いいかしら」

「はい、大丈夫です」


 美咲は手にしていた伝票をそろえて置き、未沙のほうへ歩いていく。

 店の外はまだ薄明るく、ガラス扉の向こうを人影がゆっくりと通り過ぎていった。

 営業を終えたあとのサロンには、昼間とは違う静けさがある。

 誰かのために整えられていた空間が、ようやく息をつくような時間だった。


 未沙はすぐには話し出さなかった。

 カウンターの上に置かれた予約表へ一度視線を落とし、それから美咲を見た。


「前から、ちゃんと話しておきたいと思っていたことがあるの」


 その言い方に、美咲は少しだけ背筋を伸ばした。

 未沙の声はいつもと変わらず穏やかなのに、その奥にあるものが今日は少し違って聞こえた。


「はい」


 未沙は小さく息をつくようにしてから、静かに言った。


「この店のこれからのことを考えたときにね、美咲ちゃんに託したいと思っているの」


 一瞬、美咲は言葉の意味をうまく受け取れなかった。


「……託す、って」

「ええ」

 未沙はやわらかくうなずく。

「いずれ、この店を美咲ちゃんに継いでもらえたらと思ってるの」


 継ぐ。


 その言葉が胸の奥に落ちてきた瞬間、美咲は息を止めた。


 任されることなら、知っている。

 未沙の代わりに施術に入ることも、店を回すことも、判断を引き受けることも、もう経験してきた。

 未沙のいない一年、この場所を守るために必要なことは、ひとつずつ自分の手でやってきた。


 けれど、それでも違うのだと思った。


 あの一年は、未沙が戻ってくる場所を守る時間だった。

 預かっていたのだ。

 最後には、帰ってくる人がいた。


 でも、継ぐというのは違う。


 戻ってくる人がいない場所に、自分が最後まで立つということだ。

 この先の時間ごと引き受けるということだ。


「私、ですか……?」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


「ええ」

 未沙は急かさずに答えた。

「ずっと見てきたの。美咲ちゃんがこの場所にどう向き合ってきたかも、お客様にどう触れてきたかも」


 美咲は何も言えなかった。


 うれしくないわけではなかった。

 そんなふうに思ってもらえていたことは、胸が熱くなるほどだった。

 けれどその熱より先に、足もとがすうっと冷えていくような感覚があった。


 怖い、と思った。


 その気持ちは、自分でも意外なほどはっきりしていた。


「……私、未沙さんがいないあいだ、この店を回してきました」

 美咲は視線を落としたまま言った。

「大変なこともたくさんありましたけど、それでも守らなきゃって思って、ずっとやってきました」

「ええ」

「でも、それは未沙さんが戻ってくるってわかっていたからです」


 言葉にした瞬間、その違いがいっそう鮮明になった。


「戻ってくる場所を守るのと、これから先ずっと自分が引き受けるのとは、やっぱり違います」

 喉の奥が少し詰まる。

「任せてもらえるのは、うれしいんです。すごく。でも……継ぐって言われたら、急に重さが変わる気がして」


 未沙は黙って聞いていた。

 急かさず、遮らず、ただ美咲の言葉が出てくるのを待っていた。


「私、できないとは思ってないんです」

 美咲は小さく息を吸った。

「この店のことも、お客様のことも、大事です。守りたいとも思っています」

 そこまで言ってから、少しだけ声が揺れる。

「でも、だからこそ怖いんです」


 その一言は、美咲の胸のいちばん深いところから出てきた気がした。


「未沙さんが築いてきたものの重さを、少しは知ってるつもりです。あの一年で、簡単なことじゃないって何度も思いました」

 美咲は唇を結び、それから続ける。

「守るだけでもあんなに必死だったのに、それをこの先も続けていく側になるなんて……自分にその資格があるのか、わからなくなるんです」


 店の中は静かだった。

 施術室の奥から、片づけを終えた機械の小さな作動音だけがかすかに聞こえる。


 未沙はその沈黙を急いで埋めようとはしなかった。

 しばらくしてから、やわらかな声で言った。


「そう思えることは、とても大事なことだと思うの」


 美咲は顔を上げる。


「怖くなるのは、それだけ美咲ちゃんが軽く受け取っていないからでしょう?」

「……」

「うれしいより先に怖いと思うのは、ちゃんと大切なものとして受け取ったからなのよ」


 その言葉は、静かに胸へ落ちてきた。


 美咲は、自分の怖さをどこかで情けないもののように感じていた。

 もっと迷いなく受け取れたらよかったのに、とも思っていた。

 けれど未沙は、その怖さを否定しなかった。


「私ね」

 未沙はゆっくりと言葉を継ぐ。

「美咲ちゃんに、私と同じになってほしいと思っているわけじゃないの」


 美咲は黙って聞いていた。


「同じやり方じゃなくていいの。見えるものも、手の感覚も、きっと少しずつ違うでしょうし」

 未沙はやわらかく微笑んだ。

「でもね、この場所を大事に思ってくれることと、お客様に誠実であろうとすることは、美咲ちゃんの中にちゃんとあると思ってるの」


 美咲の胸の奥が、わずかに揺れた。


「それに、あの一年を見ていて思ったの」

 未沙は静かに続ける。

「美咲ちゃんは、ただ店を回していたんじゃないわ。この場所が安心できるものであるように、ちゃんと守ってくれていた」

 

 美咲は息をのむ。


「私がいないから仕方なく、ではなかったでしょう?」

「……はい」

「お客様のことを見て、その日の空気を見て、自分で考えて立ってくれていた。だから私は、お願いしたいと思ったの」


 その言葉には、長い時間をかけて見てきた人だけが持つ確かさがあった。

 期待だけでも、情でもない。

 ちゃんと見届けたうえで差し出される信頼だった。


「継ぐって、たしかに重いことだと思うわ」

 未沙は言う。

「でもね、ひとりで全部を完璧に背負えるかどうかだけで決まるものでもないの」

「……」

「大事にしてきたものを、これから先も大事にしていこうと思えるかどうか。その気持ちが、いちばん根っこにあるものだと思うの」


 美咲は何も返せなかった。


 不安が消えたわけではない。

 怖さがなくなったわけでもない。

 けれど、その怖さの中にいたままでも、ここに立っていていいのだと教えられた気がした。


「すぐに答えを出してほしいわけじゃないの」

 未沙は言った。

「急がせたいわけでもないのよ。ただ、ちゃんと伝えておきたかったの」

 

 その声音は、どこまでも穏やかだった。


「私がこの先のことを考えたときに、美咲ちゃんにお願いしたいと思っているって」

「……はい」

「だから、怖いと思う気持ちも含めて、ゆっくり考えてくれたらいいの」


 美咲は小さくうなずいた。

 それだけで精いっぱいだった。


 未沙はそれ以上、何も言わなかった。

 答えを求めるように見つめることも、励ますように言葉を重ねることもなかった。

 ただそこに、静かに待つように立っていた。


 そのことがかえって、美咲の胸を強く打った。


 本当に受け取る瞬間、人は喜びより先に怖さを知るのかもしれない。

 それは、差し出されたものが大きいからだけではない。

 自分がそれを受け取ってしまったら、もう前と同じ場所には戻れないとわかってしまうからだ。


「……少し、考えさせてください」


 しばらくしてから、美咲はようやくそう言った。


「ええ、もちろん」

 未沙はやわらかくうなずく。

「そのために話したのだから」


 責める色のない返事に、美咲は胸の奥で小さく息をついた。


「でも」

 美咲は未沙を見た。

「逃げたくは、ないです」


 その言葉を口にしたとき、自分の声が少し震えているのがわかった。

 怖さがなくなったわけではない。

 自信が持てたわけでもない。

 それでも、向き合わずにやり過ごしたくはなかった。


 未沙はその震えごと受け止めるように、静かに目を細めた。


「うれしいわ」

 そう言ってから、少しだけ間を置く。

「美咲ちゃんがそう言ってくれるなら、それで十分よ」


 その“十分”の響きが、美咲には思っていたよりあたたかく感じられた。


 営業を終えたサロンには、もう誰の声もない。

 整えられた施術ベッド、たたまれたタオル、静かに香る精油。

 今日まで何度も見てきたはずの景色が、少しだけ違って見えた。


 未沙のいない一年、この場所を守ることはできた。

 けれど、守ることと継ぐことは違う。

 預かることと引き受けることも違う。


 その違いを知ってしまったからこそ、もう前と同じ気持ちでは立っていられないのだろう。


 けれど同時に、その怖さの中に足をとどめることが、覚悟の始まりなのかもしれなかった。


 美咲は店の灯りを最後にひとつ落とし、静かになった空間を見渡した。

 まだ答えは出ていない。

 けれど、受け取ってしまった言葉だけは、もう胸の中で確かな重さを持っていた。


 その重さから目をそらさずにいようと、美咲はそっと思った。


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