表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第2章 仮面の少女
PR
27/35

第27話 わたしになる

 未輝は、演習室のいちばん後ろの席で、配られたプリントを静かに見つめていた。


 心理カウンセリング学科の基礎演習。

 今日のテーマは、傾聴と応答だった。


 相手の話を途中で奪わないこと。

 すぐに結論を出そうとしないこと。

 正しい助言より先に、相手が何を感じているのかを受け取ること。


 プリントに並んだ言葉はどれも簡潔だったけれど、未輝にはそのどれもが簡単なことには思えなかった。


 人の話を聞くことは、黙っていることとは違う。

 寄り添うことは、ただ優しくすることとも違う。

 相手のためを思うことが、そのまま相手を支えることになるとも限らない。


 先生は教室の前で、穏やかな声で言った。


「支援という言葉を使うと、どうしても“何かをしてあげること”のように感じる人が多いです。でも実際には、相手が自分で立てるように関わることのほうが大切です」


 その言葉に、未輝はふと顔を上げた。


 相手が自分で立てるように関わること。


 その響きに、未輝はなぜか胸の奥を小さく引かれるような気がした。


 必要以上に前へ出ず、けれど放っておきもしない。

 相手の代わりに立つのではなく、その人が立てるように場を整える。

 未輝はそのあり方を、たぶんずっと前から知っていた。


 母の姿を通して。


 演習では二人一組になって、片方が話し手、もう片方が聞き手になる練習が行われた。

 未輝の相手は、同じ学科の女子学生だった。

 まだそれほど親しいわけではないが、何度か同じ授業で顔を合わせている。


 話し手になったその子は、最初はぎこちなく笑いながら、最近の悩みとして、課題とアルバイトの両立がうまくいかないことを話し始めた。

 どちらも中途半端になっている気がして、何を優先すればいいのかわからない。

 周りはちゃんとやれているように見えるのに、自分だけ要領が悪い気がする。

 そんなふうに、言葉を選びながら少しずつ話していく。


 未輝は相づちを打ちながら、その話を聞いていた。


 何か気の利いたことを言わなければいけない気がした。

 励ましたほうがいいのかもしれないと思った。

 時間の使い方を工夫すればいいとか、優先順位を決めればいいとか、言えることはいくつか浮かんだ。


 けれど、そのどれもが少し違う気がした。


 今その子がほしいのは、正しい答えではないのかもしれない。

 うまくできない自分を、すぐに直すための言葉ではないのかもしれない。


 未輝は少しだけ間を置いてから、静かに言った。


「ちゃんとやらなきゃって思うほど、苦しくなるよね」


 その子は一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。


「……うん。そうかも」

「どっちも大事にしたいんだよね」

「そう。だから余計に、どっちもちゃんとできてない気がして」


 未輝はうなずいた。

 それ以上、急いでまとめようとはしなかった。


 演習が終わったあと、その子はプリントを片づけながら、少し照れたように言った。


「なんか、話したらちょっと楽になった」

「ほんと?」

「うん。別に解決したわけじゃないんだけど」

 そこで少し笑って続ける。

「でも、わかってもらえた感じがした」


 未輝はその言葉を聞いて、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。


 わかってもらえた感じ。


 それはたぶん、何かをうまく言えたからではない。

 正しい助言ができたからでもない。

 ただ、その子が抱えていた重さを、少しだけ一緒に持てたということなのかもしれなかった。


 教室を出たあと、未輝はひとりで廊下を歩きながら、さっきのやりとりを思い返していた。


 心理カウンセリングを学べる大学を選んだのは、自分だった。


 あの頃はまだ、その理由をうまく説明できなかった。

 人の心に関わることに惹かれていた。

 うまく言葉にならない痛みや、ひとりで抱え込んでしまうものに、未輝はずっとどこかで気づいていた。

 ただ、それを学びたいと思った。


 母に勧められたわけではない。

 誰かに向いていると言われたからでもない。

 未輝が、自分で選んだのだ。


 けれどその選択を、未輝はどこかでまだ、自分のものとして言い切れていなかったのかもしれない。


 人を支える仕事に惹かれるのは、母の影響かもしれないと思っていた。

 誰かのために動こうとするたびに、それは本当に自分の意思なのかと、心のどこかで確かめるような気持ちもあった。


 母のように強いわけではない。

 母のように迷いなく振る舞えるわけでもない。

 それなのに同じように誰かを支えたいと思うのは、背伸びなのではないか。

 そんなふうに思ったことも、一度や二度ではなかった。


 でも今は、少し違う。


 未沙もまた、最初から完成された人ではなかった。

 迷い、失敗し、立ち止まり、それでも自分の足で選びながらここまで来た人だった。


 そのことを知ってから、未輝の中で、母の存在は遠い理想ではなくなった。

 届かない基準ではなく、途中を生きながら、それでも前へ進んできたひとりの人として見えるようになった。


 だからこそ、ようやく思える。


 母のようになる必要はない。


 母が教えてくれたのは、完璧になることではなかった。

 迷わない人になることでも、誰より強い人になることでもなかった。


 自分として生きること。

 途中のままでも、自分の足で選びながら進んでいくこと。

 たぶん、それがいちばん深いところで受け取っていたものなのだと思う。


 未輝は廊下の窓の前で足を止めた。

 外ではやわらかな光が中庭に落ちていて、ベンチに座る学生たちの声が遠く聞こえる。


 心理カウンセリングを学びたいと思ったあの日の自分は、たぶんもう、ここへ向かって歩き始めていたのだ。


 誰かの痛みに気づいてしまうこと。

 うまく言葉にできない苦しさがあることを知っていること。

 ひとりで抱え込む人の隣に、そっと立ちたいと思うこと。


 それは未輝の中に、ちゃんと前からあった。


 母から受け取ったものは、たしかにある。

 けれど、それをどう生きるかは、自分で選んでいい。


 受け継ぐというのは、その人になることではない。

 その人が生きてきた迷いや強さを、自分の中で受け取りながら、自分の形で生きていくことだ。


 未輝はガラス越しの空を見上げた。


 まだ、自分がどんなふうになっていくのかはわからない。

 この先、何度も迷うだろうと思う。

 学ぶほど、自分の未熟さを知ることも増えるだろうと思う。


 それでも、前より少しだけ怖くなかった。


 完璧じゃなくていい。

 途中でもいい。

 誰かの期待にぴったり沿えなくても、自分で選んだ道なら、きっと引き受けていける。


 未輝は小さく息を吸い込んだ。


 わたしになる、というのは、たぶん何か特別なものになることじゃない。

 誰かより優れた人になることでも、迷わない人になることでもない。


 迷いながらでも、自分の足で立つこと。

 自分の声で選ぶこと。

 そうして少しずつ、自分の人生を自分のものにしていくこと。


 未輝は静かに背筋を伸ばした。


 母の娘であることは、これからも変わらない。

 そこから受け取ったものも、きっとずっと自分の中に残る。


 けれど、その先を生きるのは自分だ。


 未輝はもう一度、前を向いた。


 母のようになるためではなく、

 誰かの期待に応えるためだけでもなく、

 ちゃんと、自分として生きていくために。


 その一歩を、これから自分で選んでいくのだと、未輝は静かに思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ