第27話 わたしになる
未輝は、演習室のいちばん後ろの席で、配られたプリントを静かに見つめていた。
心理カウンセリング学科の基礎演習。
今日のテーマは、傾聴と応答だった。
相手の話を途中で奪わないこと。
すぐに結論を出そうとしないこと。
正しい助言より先に、相手が何を感じているのかを受け取ること。
プリントに並んだ言葉はどれも簡潔だったけれど、未輝にはそのどれもが簡単なことには思えなかった。
人の話を聞くことは、黙っていることとは違う。
寄り添うことは、ただ優しくすることとも違う。
相手のためを思うことが、そのまま相手を支えることになるとも限らない。
先生は教室の前で、穏やかな声で言った。
「支援という言葉を使うと、どうしても“何かをしてあげること”のように感じる人が多いです。でも実際には、相手が自分で立てるように関わることのほうが大切です」
その言葉に、未輝はふと顔を上げた。
相手が自分で立てるように関わること。
その響きに、未輝はなぜか胸の奥を小さく引かれるような気がした。
必要以上に前へ出ず、けれど放っておきもしない。
相手の代わりに立つのではなく、その人が立てるように場を整える。
未輝はそのあり方を、たぶんずっと前から知っていた。
母の姿を通して。
演習では二人一組になって、片方が話し手、もう片方が聞き手になる練習が行われた。
未輝の相手は、同じ学科の女子学生だった。
まだそれほど親しいわけではないが、何度か同じ授業で顔を合わせている。
話し手になったその子は、最初はぎこちなく笑いながら、最近の悩みとして、課題とアルバイトの両立がうまくいかないことを話し始めた。
どちらも中途半端になっている気がして、何を優先すればいいのかわからない。
周りはちゃんとやれているように見えるのに、自分だけ要領が悪い気がする。
そんなふうに、言葉を選びながら少しずつ話していく。
未輝は相づちを打ちながら、その話を聞いていた。
何か気の利いたことを言わなければいけない気がした。
励ましたほうがいいのかもしれないと思った。
時間の使い方を工夫すればいいとか、優先順位を決めればいいとか、言えることはいくつか浮かんだ。
けれど、そのどれもが少し違う気がした。
今その子がほしいのは、正しい答えではないのかもしれない。
うまくできない自分を、すぐに直すための言葉ではないのかもしれない。
未輝は少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「ちゃんとやらなきゃって思うほど、苦しくなるよね」
その子は一瞬だけ目を見開いて、それから小さく笑った。
「……うん。そうかも」
「どっちも大事にしたいんだよね」
「そう。だから余計に、どっちもちゃんとできてない気がして」
未輝はうなずいた。
それ以上、急いでまとめようとはしなかった。
演習が終わったあと、その子はプリントを片づけながら、少し照れたように言った。
「なんか、話したらちょっと楽になった」
「ほんと?」
「うん。別に解決したわけじゃないんだけど」
そこで少し笑って続ける。
「でも、わかってもらえた感じがした」
未輝はその言葉を聞いて、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。
わかってもらえた感じ。
それはたぶん、何かをうまく言えたからではない。
正しい助言ができたからでもない。
ただ、その子が抱えていた重さを、少しだけ一緒に持てたということなのかもしれなかった。
教室を出たあと、未輝はひとりで廊下を歩きながら、さっきのやりとりを思い返していた。
心理カウンセリングを学べる大学を選んだのは、自分だった。
あの頃はまだ、その理由をうまく説明できなかった。
人の心に関わることに惹かれていた。
うまく言葉にならない痛みや、ひとりで抱え込んでしまうものに、未輝はずっとどこかで気づいていた。
ただ、それを学びたいと思った。
母に勧められたわけではない。
誰かに向いていると言われたからでもない。
未輝が、自分で選んだのだ。
けれどその選択を、未輝はどこかでまだ、自分のものとして言い切れていなかったのかもしれない。
人を支える仕事に惹かれるのは、母の影響かもしれないと思っていた。
誰かのために動こうとするたびに、それは本当に自分の意思なのかと、心のどこかで確かめるような気持ちもあった。
母のように強いわけではない。
母のように迷いなく振る舞えるわけでもない。
それなのに同じように誰かを支えたいと思うのは、背伸びなのではないか。
そんなふうに思ったことも、一度や二度ではなかった。
でも今は、少し違う。
未沙もまた、最初から完成された人ではなかった。
迷い、失敗し、立ち止まり、それでも自分の足で選びながらここまで来た人だった。
そのことを知ってから、未輝の中で、母の存在は遠い理想ではなくなった。
届かない基準ではなく、途中を生きながら、それでも前へ進んできたひとりの人として見えるようになった。
だからこそ、ようやく思える。
母のようになる必要はない。
母が教えてくれたのは、完璧になることではなかった。
迷わない人になることでも、誰より強い人になることでもなかった。
自分として生きること。
途中のままでも、自分の足で選びながら進んでいくこと。
たぶん、それがいちばん深いところで受け取っていたものなのだと思う。
未輝は廊下の窓の前で足を止めた。
外ではやわらかな光が中庭に落ちていて、ベンチに座る学生たちの声が遠く聞こえる。
心理カウンセリングを学びたいと思ったあの日の自分は、たぶんもう、ここへ向かって歩き始めていたのだ。
誰かの痛みに気づいてしまうこと。
うまく言葉にできない苦しさがあることを知っていること。
ひとりで抱え込む人の隣に、そっと立ちたいと思うこと。
それは未輝の中に、ちゃんと前からあった。
母から受け取ったものは、たしかにある。
けれど、それをどう生きるかは、自分で選んでいい。
受け継ぐというのは、その人になることではない。
その人が生きてきた迷いや強さを、自分の中で受け取りながら、自分の形で生きていくことだ。
未輝はガラス越しの空を見上げた。
まだ、自分がどんなふうになっていくのかはわからない。
この先、何度も迷うだろうと思う。
学ぶほど、自分の未熟さを知ることも増えるだろうと思う。
それでも、前より少しだけ怖くなかった。
完璧じゃなくていい。
途中でもいい。
誰かの期待にぴったり沿えなくても、自分で選んだ道なら、きっと引き受けていける。
未輝は小さく息を吸い込んだ。
わたしになる、というのは、たぶん何か特別なものになることじゃない。
誰かより優れた人になることでも、迷わない人になることでもない。
迷いながらでも、自分の足で立つこと。
自分の声で選ぶこと。
そうして少しずつ、自分の人生を自分のものにしていくこと。
未輝は静かに背筋を伸ばした。
母の娘であることは、これからも変わらない。
そこから受け取ったものも、きっとずっと自分の中に残る。
けれど、その先を生きるのは自分だ。
未輝はもう一度、前を向いた。
母のようになるためではなく、
誰かの期待に応えるためだけでもなく、
ちゃんと、自分として生きていくために。
その一歩を、これから自分で選んでいくのだと、未輝は静かに思った。




