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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第2章 仮面の少女
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第26話 母をほどく

 あの夜にカフェで聞いた未沙の話は、時間が経っても未輝の中に静かに残り続けていた。


 店を持ったこと。

 うまくいかなかったこと。

 手放したこと。

 雇われる側に戻って、そこからまた学び直したこと。


 どれも大きな出来事のはずなのに、未沙は一度も自分から話さなかった。

 隠していたというより、わざわざ語るものではないと思っていたのかもしれない。

 もう通り過ぎたこととして、自分の中でしまっていたのかもしれない。


 未輝は大学の帰り道や、部屋でひとりになった夜に、ときどきそのことを思い返した。


 完璧で、強くて、最初から何でもできた人。


 未輝の中で未沙は、ずっとそういう人だった。

 少なくとも、そう見えていた。


 朝は誰より早く起きて、必要なことを迷いなく片づける。

 感情に流されず、言うべきことを言う。

 甘やかさないけれど、見放しもしない。

 子どもの頃の未輝にとって、未沙は揺るがない人だった。


 だからこそ、少し苦しかったのかもしれない。


 未輝は自分が迷うたびに、どこかで未沙と比べていた。

 母はこんなところで立ち止まらない気がした。

 母ならもっとちゃんとできる気がした。

 そう思うたびに、自分の未熟さばかりが目についた。


 けれど今は、その見え方が少しずつ変わってきていた。


 未沙も最初からああだったわけではない。

 失敗しない人だったわけでもない。

 迷わない人だったわけでもない。


 うまくいかない時期があって、手放す決断をして、立場を変えて、そこからまた作り直した。

 その時間を通ってきたからこそ、今の未沙がある。


 未輝はそれを知ってから、子どもの頃の記憶まで少し違って見えるようになった。


 たとえば、夜遅く帰ってきた未沙が、玄関で一度だけ深く息を吐いてから部屋に入ってきたこと。

 たとえば、仕事の話をほとんどしないまま、それでも翌朝にはいつも通りの顔で立っていたこと。

 たとえば、何かを決めるとき、即答しているように見えて、実はその前に長く考えていたのかもしれないこと。


 あの頃の未輝には見えていなかったものが、今なら少しだけ想像できる。


 未沙は、母である前にひとりの人だったのだ。


 当たり前のことなのに、未輝はそれを本当の意味ではわかっていなかった。

 母は最初から母としてそこにいるものだと思っていた。

 自分の知らない時間や、自分に見せない迷いや、自分とは関係のない痛みを持っていることを、ちゃんと考えたことがなかった。


 未輝は机に向かったまま、ふと手を止めた。

 窓の外は薄く曇っていて、夕方の光が部屋の中にやわらかく落ちている。


 尊敬は、消えなかった。


 むしろ前より深くなった気さえした。


 ただ、その質が変わったのだと未輝は思う。


 前は、届かない理想を見るような尊敬だった。

 遠くにある、完成されたものへの憧れ。

 だからきれいで、でも少し苦しかった。

 見上げるたびに、自分が足りない気がした。


 けれど今は違う。


 未沙は、迷いながら進んできた人だ。

 失敗しても終わらず、手放しても立ち止まったままではいなかった人だ。

 そう思うと、その姿は遠ざかるどころか、少し近くなる。


 自分とはまるで違う場所にいる人ではなく、同じように途中を生きながら、それでも前へ進んできた人。

 そう見えたとき、未輝の中で未沙への憧れは、少し形を変えた。


 それはもう、自分を責めるためのものではなかった。


 できない自分を突きつけるための光ではなく、迷っても進んでいいのだと教えてくれる灯りのようなものだった。


 未輝は小さく息を吐いた。


 誰かを人間として見られたとき、こんなふうに気持ちは変わるのかもしれないと思う。

 強い人を強いまま遠くに置いておくのではなく、その強さがどうやってできたのかを知ること。

 その人にも途中があったと知ること。


 そうすると憧れは、呪いではなくなる。


 追いつけない苦しさではなく、いつか自分も進めるかもしれないという支えに変わる。


 未輝は椅子の背にもたれ、静かに目を閉じた。


 未沙のことを、前より少し近く感じる。

 それは母を軽く見ることではなかった。

 尊敬が薄れることでもなかった。


 ただ、ようやくほどけてきたのだ。


 母、というひとつの固い像が。

 強くて正しくて、揺るがない人という、未輝の中だけで作られた輪郭が。


 その輪郭の内側に、迷い、選び、失い、それでも立ち続けてきたひとりの人がいる。


 未輝はそのことを、少しうれしく思った。


 完璧ではない人を尊敬できること。

 弱さや途中を含んだまま、なおその人を大切に思えること。

 それはたぶん、前よりずっと本当の意味で、その人を好きになることなのだろう。


 机の上には、開いたままのノートと、読みかけの資料がある。

 やるべきことはまだたくさんあった。

 迷うことも、きっとこれから先いくらでもある。


 それでも未輝は、前ほど自分を急かさなくなっていた。


 母にも途中があった。

 なら、自分がまだ途中にいることも、きっと悪いことではない。


 遠くにある理想を見上げるのではなく、同じ地面の上を歩いてきた人の背中を思う。

 そのほうが、ずっと息がしやすかった。


 窓の外では、夕方の光がゆっくりと薄れていく。

 未輝は静かな部屋の中で、小さく背筋を伸ばした。


 母をほどくことは、たぶん自分をほどくことでもあるのだと、未輝は思った。


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