第25話 隣に立つ
大学生活が始まってしばらく経った頃、未輝はようやく日々の流れに少しずつ慣れ始めていた。
講義の教室。
課題の締切。
図書館の使い方。
どの時間に食堂へ行けば混みすぎないか。
どの駅の出口を使えば遠回りにならないか。
そういう細かなことが、少しずつ身体になじんでいく。
まだ気を張ることは多い。
英語だけで進む講義は、集中していないとすぐに置いていかれるし、グループワークでは発言のタイミングを測るだけで疲れることもある。
それでも最初の頃に比べれば、未輝はずいぶん周りを見る余裕ができていた。
人との距離の取り方も、少しずつ覚え始めていた。
無理に輪の中心へ入らなくてもいい。
けれど、完全に離れてしまわないくらいの位置にはいられる。
その加減が、ようやく少しわかってきた気がしていた。
だからかもしれない。
輪の中に自然に入っていけない人の気配に、未輝はなぜかすぐ気づいてしまう。
ある日の帰り道、未輝は同じ講義を取っている女子学生と駅まで一緒になった。
おとなしくて、自分から前へ出るのがあまり得意ではない子だった。
グループワークのたびに、何か言おうとして少し間を置いたあと、結局そのまま誰かの話に流されてしまう。
発言しないわけではない。
ただ、入るタイミングをつかむ前に会話が先へ進んでしまうのだ。
その日も、講義が終わったあと、何人かの学生たちが楽しそうに話しながら先に歩いていった。
その子は少しだけ遅れて立ち上がり、追いつくでもなく、その場に半歩だけ残るように立っていた。
未輝は足を止めた。
「一緒に帰る?」
そう声をかけると、その子は少し驚いたように目を上げた。
それから、ほっとしたように小さくうなずく。
「……うん」
並んで歩きながら、二人は講義の話をした。
次の課題の締切が思ったより早いこと。
参考文献が多すぎて、どこから読めばいいかわからないこと。
駅前のパン屋に新作が出ていたこと。
甘い系らしいとか、でも見た目は少し地味だったとか、そんなたわいない話もした。
それだけなのに、その子は少しずつ笑うようになった。
駅の近くまで来たところで、その子がふいに言った。
「未輝さんって、話しかけやすいね」
未輝は少し戸惑って、その子を見た。
「そうかな」
「うん。ちゃんとしてるのに、怖くない」
その言葉に、未輝は思わず苦笑した。
「ちゃんとしてる、はよくわからないけど」
「してるよ」
その子は笑って続ける。
「でも、ぴりぴりしてないっていうか」
未輝は返事に少し迷った。
自分では、ちゃんとしているつもりなんてあまりなかった。
むしろ、周りに置いていかれないように必死で合わせているだけのことのほうが多い。
するとその子は、少しだけ声をやわらげて言った。
「今日も、私が入れなさそうなの気づいてくれてたでしょう」
未輝はすぐには答えられなかった。
気づいていた。
助けようと思った、というほど立派なものではない。
ただ、そのまま通り過ぎるのが嫌だった。
置いていかれる感じを、未輝は知っていたからだ。
輪の外にいるわけじゃない。
でも、うまく中へ入れない。
誰も明確に拒んでいるわけではないのに、自分だけ少しタイミングがずれてしまう。
その小さな居心地の悪さを、未輝も知っていた。
「……少しだけね」
そう答えると、その子は笑って「ありがとう」と言った。
それから少し間を置いて、続ける。
「未輝さんがいると、ちょっと安心する」
その言葉は、未輝の中に静かに残った。
安心する。
その響きに、未輝はふと未沙を思い出した。
技術や言葉だけではなく、人がちゃんと立てるように場を整える力。
未沙が誰かに残していったもの。
それを、未輝は少し前に知ったばかりだった。
未沙のように、強く静かに場を支配することは、まだできない。
必要な一言で空気を変えることも、たぶんまだ難しい。
けれど、誰かの緊張を少しだけほどくことなら、できるかもしれない。
ひとりで立てなくなりそうな人の隣に、さりげなく立つことなら。
駅の改札でその子と別れたあと、未輝はひとりでホームへ向かった。
電車を待つ人の列に並びながら、さっきの言葉をもう一度思い返す。
安心する。
それはきっと、大きなことではない。
目立つことでもない。
けれど、誰かがちゃんと立っていられるためには、そういう小さなことが案外大事なのかもしれなかった。
未輝はホームに吹き込む風の中で、小さく息をついた。
受け継ぐというのは、同じように振る舞うことではないのかもしれない。
未沙と同じ強さを持つことでも、同じ言葉を使うことでもない。
自分なりのやり方で、誰かが少し楽に立てるようにすること。
その人がひとりになりすぎないように、隣に立つこと。
電車が滑り込んできて、未輝は静かに顔を上げた。
それなら、自分にもできるかもしれないと思った。




