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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第2章 仮面の少女
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第23話 母の途中

 その夜、部屋に戻ってからも、未輝の頭の中にはあの言葉が残っていた。


 未沙さんも最初からあんなふうだったわけじゃないのよ。


 ベッドに入っても、すぐには眠れなかった。

 部屋は相変わらず静かで、冷蔵庫の低い音だけが遠くで続いている。

 けれど昨夜までとは少し違っていた。

 静けさの中に、ひとつ新しい問いが置かれている。


 未沙にも、自分の知らない時間がある。


 そんな当たり前のことを、未輝は今さらのように考えていた。

 母は母として最初からそこにいたような気がしていた。

 迷いなく、強く、自分で立てる人として。

 けれど本当は、その形になるまでの時間があったのだ。


 未輝は天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。


 知りたい、と思った。


 何があったのか。

 未沙はどうやって今の未沙になったのか。

 どうしてあんなふうに、人を見て、必要なことだけを言える人になったのか。


 翌日も、その思いは消えなかった。

 授業のあいだも、課題に向かっているときも、ふとした拍子に昨夜の女性の言葉が浮かぶ。

 気になっているのなら、聞けばいい。

 そう思う一方で、どこかためらいもあった。


 母の過去を、母ではない誰かから聞くことに、少しだけ後ろめたさがあった。

 けれど未輝は、未沙本人には聞きにくいとも思っていた。

 もし本当に、うまくいかなかった時期の話ならなおさらだ。


 数日迷った末、未輝はあのカフェへもう一度行った。


 同じ時間、同じ窓際の席。

 会える保証なんてなかった。

 それでも、あの人ならまたここにいるかもしれないと思った。


 温かい飲み物を頼んでしばらくすると、扉が開いた。

 入ってきたのは、あの女性だった。


 女性も未輝に気づき、少し驚いたように目を見開いたあと、やわらかく笑った。


「また会ったわね」

「……はい」

「待ってた?」

「少しだけ」


 そう答えると、女性はおかしそうに笑った。

 未輝は少し迷ってから言った。


「この前の話、気になって」

「未沙さんのこと?」

「はい」


 女性は未輝の向かいに座り、少しだけ表情をやわらげた。


「そうよね。あそこで止めたら気になるわよね」

「……はい」


 未輝は自分のカップに視線を落とした。


「母って、最初からああいう人だった気がしてたんです」

「しっかりしてて、迷わなくて、何でもちゃんとできる人?」

「……たぶん」

「そう見えるでしょうね」


 女性は少しだけ懐かしそうに笑った。


「でも、未沙さんにもちゃんと途中があったのよ」


 未輝は黙ってその先を待った。


「日本で最初にひとりで店を出した頃、全然うまくいかなかったって聞いたことがあるわ」

「うまく、いかなかった?」

「ええ。技術はあっても、お客さんがすぐつくわけじゃないでしょう。経営なんて、また別の話だし」

「……」


 未輝は何も言えなかった。

 そんな話、聞いたことがなかった。


「予約がほとんど入らない日もあったみたい」

 女性は静かに続ける。

「材料費や家賃のことを考えて、眠れない日もあったって」

「……お母さんが?」

「そう。意外よね」


 少し笑ってから、女性は言った。


「それでもしばらくは続けてた。でも、結局一度、店を手放したのよ」

「……手放した?」


 その言葉は、未輝の中でうまく形にならなかった。


 店を。

 手放した。


 そんなこと、考えたこともなかった。


「続けられなかったの?」

 思わずそう聞くと、女性は少しだけ首を傾けた。


「続けなかった、のほうが近いかもしれないわね」

「え……」

「このまましがみついたら、自分まで駄目になるってわかったんでしょうね」

「……」

「悔しかったと思うわよ。でも、未沙さんはそこで自分まで見失わなかった」


 未輝は黙ったまま、カップの表面に揺れる光を見つめた。


 続けられなかった、ではなく、続けなかった。


 その違いは小さいようでいて、大きかった。

 ただ失敗して終わったのではない。

 駄目になる前に、自分で手を放したのだ。


「それで終わりじゃなかったの」

 女性は続ける。

「店を手放したあと、未沙さんは別のサロンで働いたのよ。一従業員として」

「……従業員」

「ええ」


 未輝は言葉を失った。


 未沙が誰かに雇われて働く姿なんて、想像したこともなかった。

 未沙はいつだって、自分で立って、自分で決めて、自分の場所を作る人だと思っていたからだ。


「意外でしょう」

 女性は少し笑った。

「でも、あの人らしいとも思う」

「どうして」

「自分に何が足りなかったのか、ちゃんと知りたかったんでしょうね」


 未輝は黙って聞いていた。


「技術だけじゃ店は続かないし、ひとりで抱え込めば、どこかで歪む」

 女性は静かに言う。

「未沙さんはたぶん、それを一度ちゃんと痛い目で知ったのよ」

「……」

「だから、もう一回現場に戻った。オーナーじゃなくて、雇われる側として」

「……そんなことまで」

「できる人、案外少ないのよ」


 未輝はカップを持つ手に少し力を入れた。


 できる人が少ない。

 たしかにそうだと思った。


 一度上に立った人は、なかなかそこを降りられない。

 失敗を認めるみたいで、怖いからだ。

 自分の価値まで下がる気がしてしまうからだ。


 でも未沙は、降りたのだ。

 自分に足りなかったものを見るために。

 次に立つとき、ちゃんと立てるように。


「未沙さん、前よりずっと人を見るようになったのは、その頃からだと思う」

 女性は言った。

「前はたぶん、自分ひとりで何とかしようとしてた。でも戻ってきてからは違った」

「……」

「人を育てることも、任せることも、店を整えることの一部だって知ったのよ」


 未輝は何も言えなかった。


 未沙は最初から強かったわけではない。

 最初から迷わず、何でもできたわけでもない。

 失敗して、手放して、立場を変えて、そこからまた学び直していた。


 その時間があったからこそ、今の未沙がいる。


 未輝は、胸の奥が静かに揺れるのを感じていた。


「私が未沙さんをロンドンに呼んだのもね」

 女性はふと、少し遠くを見るような目で言った。

「技術があったからだけじゃないの」

「……」

「一度崩れても、崩れたままで終わらない人だって知ってたから」


 未輝は顔を上げた。


 その言葉は、思っていたより深く胸に入ってきた。


 崩れたままで終わらない人。


 それは、今の未輝がいちばん欲しかった言葉かもしれなかった。


 課題の前で立ち止まること。

 ひとりの部屋で息苦しくなること。

 進学先を決めきれずに迷うこと。

 そういう自分を、どこか未熟で弱いもののように感じていた。


 けれど、未沙もまた、そういう途中を通ってきたのだ。

 しかもただ耐えたのではなく、いったん失って、立場を変えて、そこからまた作り直してきた。


 未輝は、自分の中で何かが少しだけほどけるのを感じた。


「……知らなかったです」

 ようやくそれだけ言うと、女性は静かにうなずいた。


「言わなかったんでしょうね。未沙さん、そういうこと、自分からはあまり話さなさそうだもの」

「はい」

「でも、隠したかったというより、もう通り過ぎたことだったのかもしれないわね」


 未輝はその言葉を胸の中で繰り返した。


 通り過ぎたこと。


 未沙にとっては、もう過去なのかもしれない。

 けれど未輝にとっては、今ようやく知る、母の途中だった。


「ありがとう、ございます」

 未輝が言うと、女性は少しだけ目を細めた。


「どういたしまして」

 それから、やわらかく続ける。

「でもね、未輝ちゃん」

「はい」

「未沙さんの話を聞いたからって、あなたが急に平気になるわけじゃないわ」

「……」

「ただ、今うまくできないことがあっても、それで終わりじゃないってことは、少し信じてもいいと思う」


 未輝は小さくうなずいた。


 それは励ましというより、静かな事実のように聞こえた。

 大丈夫だと言い切るのではなく、終わりではないと言ってくれる。

 その言い方が、未輝にはありがたかった。


 店を出るころには、外はもう暗くなっていた。

 ロンドンの夜気は冷たく、頬に触れる風は細い。

 けれど未輝の足取りは、この前の夜より少しだけ軽かった。


 母もまた、最初から完成された人ではなかった。

 失敗し、手放し、学び直し、それでも立ち続けた人だった。


 そのことを知った今、未輝は自分の迷いを少しだけ違うものとして見られる気がした。

 うまくできないことは、駄目なことではない。

 立ち止まることは、終わりではない。


 部屋に戻ると、相変わらず静かだった。

 けれどその静けさは、もう昨夜と同じではなかった。


 未輝はコートを脱ぎ、机の前に座った。

 開きっぱなしだった資料に目を落とす。

 進学先の候補、必要な条件、これから考えるべきこと。

 まだ迷いはある。

 不安もある。


 それでもいいのかもしれない、と未輝は思った。


 母にも途中があった。

 なら、自分がまだ途中にいることも、きっとおかしくはない。


 未輝は静かにペンを取り、白い紙の上にひとつ言葉を書いた。


 どこに行きたいか。


 その問いに、今すぐ完璧な答えは出せない。

 けれど、自分の足で考えていくことはできる。


 未沙がそうしてきたように。

 失敗しても、迷っても、崩れたままで終わらないように。


 その夜、未輝は少しだけ深く息を吸うことができた。


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