第22話 寂しい夜
未沙を見送ったあとの部屋は、思っていた以上に静かだった。
昼のあいだはまだいい。
授業に行き、課題をこなし、買い物をして、食事のことを考える。
やることがあるうちは、生活は前へ進んでいく。
考えるより先に手を動かしていれば、ひとりでいることをあまり意識しなくてすむ。
けれど夜になると、その静けさは急に輪郭を持ちはじめた。
冷蔵庫の低い音。
遠くを走る車の気配。
壁の向こうで誰かが立てる小さな物音。
そういうものは確かにあるのに、部屋の中には家族の気配だけがない。
未輝はソファに座ったまま、何度も意味もなくスマートフォンを手に取った。
未沙から新しい連絡が来ているわけではない。
誰かに今すぐ何かを伝えたいわけでもない。
それでも、画面の明かりを見ていないと、部屋の静けさに飲み込まれてしまいそうだった。
自由になったはずだった。
何時に食事をしてもいい。
何をどこに置くかも、自分で決められる。
誰に気を遣うでもなく、自分のペースで暮らせる。
それなのに、その自由は夜になると少し違うものに変わる。
誰も帰ってこない。
誰も別の部屋にいない。
ただ自分だけが、この部屋の空気を全部引き受けている。
未輝は小さく息を吐いた。
胸の奥が、少しだけ詰まるようだった。
このまま部屋にいると、余計に息苦しくなりそうだった。
未輝は立ち上がり、薄いコートを羽織った。
気分を変えたかった。
どこへ行くあてもないまま、とにかく外の空気を吸いたかった。
夜のロンドンは、昼とは違う静けさを持っていた。
人通りはある。
店の灯りもついている。
けれど、昼間のざわめきが少し引いたあとの街は、どこかよそよそしく見えた。
未輝はあてもなく歩きながら、通りの角に小さなカフェを見つけた。
大きくはない店だった。
窓越しに見える店内はあたたかそうで、黄色い灯りが静かに揺れている。
少し迷ってから、未輝は扉を押した。
店の中には、遅い時間らしい落ち着いた空気が流れていた。
客は多くない。
奥の席で本を読んでいる人と、カウンターの近くで飲み物を手にしている女性がひとりいるだけだった。
未輝は温かい飲み物を頼み、窓際の小さな席に座った。
カップから立ちのぼる湯気を見つめながら、ようやく少しだけ呼吸が深くなる。
部屋にいるよりはましだった。
誰かの気配があるだけで、静けさの重さが少し変わる。
「あなた、未沙さんの娘さんでしょう」
不意にそう声をかけられて、未輝は顔を上げた。
四十代くらいの女性だった。
落ち着いた化粧に、無駄のない所作。
日本人らしいやわらかな顔立ちに、どこか凛とした空気がある。
どこかで見たことがある気がして、未輝は記憶を探る。
「……サロンの」
「覚えてた?」
女性はやわらかく笑った。
「受付を手伝ってたの。――というより、あの店のオーナー」
「あ……」
未輝は目を瞬いた。
そう言われて、ようやく記憶の中の姿とつながる。
未沙が講師として呼ばれていたサロンで、何度か見かけた人だった。
いつも忙しそうに動いていたのに、不思議と慌ただしく見えない人だった。
未沙とも対等に話していて、その空気が妙に印象に残っていた。
「何度か会ってるわよ。あなた、未沙さんを待ってるあいだ、隅の椅子で本読んでたでしょう」
「……あ、はい」
「やっぱり」
女性は少しだけ笑って、未輝の向かいの席を軽く示した。
「座ってもいい?」
「はい」
女性が腰を下ろすと、未輝は少しだけ背筋を伸ばした。
知らない人ではない。
けれど、親しいわけでもない。
その微妙な距離が、かえって今の未輝にはありがたかった。
「ひとり暮らし、始まったんです」
未輝が言うと、女性は「そう」とうなずいた。
「大変?」
「……まだ、ちょっと」
「そうよね」
それだけの短いやりとりなのに、なぜか少しだけ喉が詰まる。
大丈夫です、といつものように言おうとして、未輝はやめた。
女性はカップを置きながら、ふと店の奥を見た。
「未沙さんが帰ってから、少し静かになったわ」
「……そうですね」
「でも、不思議といなくなった感じがしないのよね」
未輝は目を瞬いた。
「いなくなった感じが、しない?」
「ええ」
女性は笑った。
「未沙さん、残していくのが上手だから」
その言葉に、未輝は思わず聞き返す。
「残していく?」
「技術とか、やり方とか、言葉とか」
女性は少し考えるように視線を上げた。
「あと、人の立たせ方かしら」
未輝は黙ってその続きを待った。
「一度、店の空気がどうしてもうまく回らなくなった時があったの」
女性は静かな声で言う。
「スタッフもそれぞれ余裕がなくて、みんなちゃんと働いてるのに、どこか噛み合わなくて」
「……」
「そのとき未沙さんに言われたの。“整えるのは見た目だけじゃないでしょう”って」
「……」
「別にスタッフを優しく慰めらたり、大丈夫とも、うまくいくとも言わなかった」
女性は少しだけ笑った。
「でも、ああ、この人はちゃんと見てるんだって思ったの」
未輝はカップに触れたまま、動けなかった。
未沙のそういうところを、知らないわけじゃない。
まっすぐで、厳しくて、でも見放さない。
言葉数は多くないのに、必要なところだけは外さない。
けれどそれが、自分以外の誰かの中にも、こんなふうに残っていることを、未輝は今までちゃんと考えたことがなかった。
未沙は、未輝の母であるだけではない。
この街で働き、誰かに何かを残していったひとりの人でもあったのだ。
そのことが、未輝には少し不思議で、少しだけ誇らしかった。
寂しさが消えたわけではなかった。
今夜、部屋に帰れば、きっとまた静けさはある。
未沙のいない部屋の広さも、ひとりで暮らしている現実も、なくなりはしない。
けれど、その静けさの中にいるのが、自分ひとりだけではないような気がした。
母もまた、この街で時間を過ごし、誰かと関わり、何かを残していた。
そう思うと、孤独の形が少しだけ変わる。
「でもね」
女性は少しだけ懐かしそうに笑った。
「未沙さんも最初からあんなふうだったわけじゃないのよ」
未輝は思わず顔を上げた。
「え?」




