第21話 準備の一年
ファウンデーションコースが始まってすぐ、未輝は自分がまた新しい種類の戸惑いの中に入ったことを知った。
ロンドンでの暮らしには、少しずつ慣れてきていた。
街の流れにも、店で交わされる短いやりとりにも、以前ほど身構えなくなっている。
言葉が通じても空気をつかむには時間がかかる、ということも、もう未輝は知っていた。
だからこそ、最初の頃のように、うまくできないたびに自分を丸ごと否定することは少なくなっていた。
けれど、学ぶことはまた別だった。
授業が始まってまもなく、未輝は課題の量にまず圧倒された。
読むものが多い。
書くものも多い。
しかも、ただ内容を理解していればいいわけではなかった。
何をどう考えたのか、自分はどこに着目したのか、それを自分の言葉で示すことが求められる。
日本にいた頃の未輝は、与えられた問いに対して、できるだけ正確に答えることに慣れていた。
何が求められているかを読み取り、なるべくずれない答えを出す。
それは未輝の得意なやり方でもあった。
けれど、ここではそのやり方だけでは足りなかった。
授業の中で意見を求められる。
課題では「あなたはどう考えるか」と問われる。
正解を早く見つけることよりも、自分なりの視点を持っているかどうかのほうが重く見られているようだった。
最初のうち、未輝は何度も立ち止まった。
何を書けばいいのかわからない、というより、どこまで自分の考えとして言っていいのかわからなかった。
根拠が足りなかったらどうしよう。
見当違いだったらどうしよう。
もっと正しい答えが別にあるのではないか。
そう思い始めると、言葉はすぐに止まった。
ある課題では、未輝は何度も書き直した末に、結局どこか無難な文章しか出せなかった。
間違ってはいない。
けれど、自分でもそれが薄いことはわかっていた。
読み返してみても、そこにいるのが自分ではなく、ただ「正しく見えるように書こうとしている誰か」のように感じられた。
提出したあと、未輝は机に突っ伏した。
疲れているのに、やりきった感じがしない。
頑張ったはずなのに、どこにも届いていない気がする。
その夜、未沙が紅茶を淹れながら聞いた。
「難しい?」
「……難しい」
「課題?」
「うん。何を書けばいいのか、わからなくなる」
「わからないのは内容?」
「内容もだけど、それより、自分の考えって何だろうってなる」
未沙はカップを置きながら、少しだけ笑った。
「それを考えるための場所なんでしょうね」
「そんなの、すぐにはわからないよ」
「ええ。だから一年あるんじゃない?」
未輝は少しだけ口を尖らせた。
「慰めてるのか突き放してるのか、よくわかんない」
「両方かもしれないわね」
その曖昧さが、かえって未沙らしかった。
未輝は課題に向かうたびに、自分の癖を思い知らされた。
早く正解にたどり着きたい。
間違えたくない。
評価されるなら、なるべく安全な場所に立っていたい。
けれど、ここではその姿勢のままだと、どこかで行き詰まる。
自分の考えを持つというのは、正しさの外へ出ることではない。
けれど、最初から誰かが用意した答えの中に隠れていることでもないのだ。
未輝は少しずつ、そのことを学び始めていた。
授業で発言するとき、最初は声が小さくなった。
自信があるわけではない。
それでも、一度言葉にしてみると、思っていたよりも簡単には否定されないことがわかった。
違う意見が返ってくることはある。
けれどそれは、間違いを責められているのではなく、考えを先へ進めるためのやりとりなのだと、少しずつ理解していった。
課題も同じだった。
最初から整った答えを書こうとするより、今の自分がどこまで考えたのかを、まずは自分の言葉で置いてみる。
そうしてみると、不思議と次の一文が見えてくることがあった。
もちろん、いつもそううまくいくわけではない。
途中で止まる日もある。
何を書いても薄く感じて、全部消したくなる夜もある。
それでも未輝は、前より少しずつ、自分の言葉で考えることから逃げなくなっていた。
正解を探すのではなく、自分の足で学ぶ。
その感覚はまだ不安定だったが、たしかに未輝の中に育ち始めていた。
そうして季節がいくつか移り変わった頃、もうひとつの変化がやってきた。
未沙の講師期間が終わり、日本へ帰国することが決まったのだ。
その話を聞いたとき、未輝はすぐには何も言えなかった。
いつかそうなることは、最初からわかっていた。
未沙がずっとロンドンにいるわけではないことも、未輝は理解していた。
それでも、実際にその日が来ると知らされると、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「……もう?」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
未沙は静かにうなずいた。
「ええ。予定通りよ」
「そっか」
未輝はそれ以上、すぐには続けられなかった。
未沙が帰れば、自分はロンドンに残る。
ひとりで暮らしながら、大学合格を目指すことになる。
頭ではわかる。
けれど、その現実は思っていたより重かった。
日本を出るとき、未沙が先にいてくれたことは、未輝にとって大きかった。
新しい街も、新しい生活も、未沙がいたから何とか足をつけていられた部分がある。
その未沙がいなくなる。
不安がないわけがなかった。
けれど同時に、未輝はどこかでわかってもいた。
ここから先は、自分ひとりで立つ時間なのだと。
未沙が帰国するまでのあいだ、未輝は表面上はいつも通りに過ごしていた。
授業に行き、課題をこなし、必要な手続きを確認する。
けれど心のどこかでは、静かに数を数えているような気持ちがあった。
あと何日。
あと何回、こうして同じ部屋で話せるのか。
出発の日、未輝は空港まで見送りに行った。
あの日、日本で未沙を見送ったときのことを、未輝は少し思い出していた。
あのときの自分は、まだ未来の入口に立っているだけだった。
けれど今は違う。
もうこの街で暮らし始めていて、その先を自分で続けていかなければならない場所にいる。
「ちゃんと食べるのよ」
未沙が言う。
「子どもじゃないよ」
「そうね。でも、そういうことほど崩れるものだから」
「……気をつける」
「課題も、溜めすぎないこと」
「それは努力する」
「努力じゃなくて、やるの」
「厳しいなあ」
未沙は少し笑った。
未輝もつられて笑ったが、その笑いの奥に、じわりと寂しさが滲んでいるのを自分で感じていた。
「未輝」
未沙が名前を呼ぶ。
未輝は顔を上げた。
「大丈夫よ」
未沙は言った。
「あなたはもう、前よりずっと自分で立てるようになってる」
その言葉に、未輝はすぐには返事ができなかった。
大丈夫だと、自分ではまだ言い切れない。
けれど、未沙がそう言うなら、少しだけ信じてみてもいいのかもしれないと思った。
「うん」
未輝は小さくうなずいた。
「やってみる」
未沙が帰国してからの部屋は、思っていた以上に静かだった。
物音が減ったわけではない。
外ではいつも通り車が走り、人の声もする。
けれど部屋の中だけ、音の置き方が変わってしまったようだった。
最初の数日は、何をするにも少しだけ力が入った。
戸締まりを確認すること。
食事を整えること。
洗濯や買い物の段取りを考えること。
ひとつひとつは小さなことなのに、それを全部自分ひとりで回していくのだと思うと、生活そのものが少し重く感じられた。
それでも、日々は進んでいく。
授業は待ってくれないし、課題も減らない。
未輝は朝になれば起きて、支度をして、外へ出た。
そうして一日ずつ過ごしていくうちに、ひとりで暮らすことにも、少しずつ手触りが生まれていった。
完璧ではない。
うまく回らない日もある。
けれど、できないなりに続けていけば、生活は少しずつ自分のものになっていく。
帰国後も、未沙とはときどき短い連絡を取り合った。
長い電話をするわけではない。
必要なことを確認したり、近況を少し伝えたりする程度だ。
けれど、その簡潔さがかえって心地よかった。
離れていても、つながりが切れたわけではないとわかるだけで十分だった。
ある夜、課題をひと区切りつけたあと、未輝のスマートフォンに未沙からメッセージが届いた。
「進学先、どう考えてるの」
未輝は画面を見つめたまま、少し考えた。
以前なら、この問いにうまく答えられなかったかもしれない。
まだ決めきれていないことを、どこか後ろめたく感じていたかもしれない。
けれど今は、少し違った。
「前より、ちゃんと考えてる」
送ると、すぐに返事が来た。
「そう」
未輝は少しだけ笑って、続けて打つ。
「前は、どこに行っても同じな気がしてた」
少し間があってから、返事が届く。
「今は違う?」
「うん。どこで、どう暮らしたいかで考えたい」
送信したあと、未輝は自分の言葉をもう一度見た。
それはまだ完全に整理された答えではない。
けれど、たしかに今の自分の本音だった。
少し間を置いて、未沙から返事が来る。
「いいんじゃない」
未輝は画面を見つめたまま、指を止めた。
それから、少し迷って打ち込む。
「反対しないの?」
「何を?」
「もっと上を目指せ、とか」
返事は、思っていたより早く来た。
「あなたが行きたい場所なら、それでいいわ」
未輝は思わず、少しだけ息を止めた。
「そんな簡単に言う?」
そう返すと、少ししてから未沙のメッセージが届く。
「簡単じゃないわよ」
短いやり取りだった。
それだけだった。
けれど未輝には、それで十分だった。
期待に合わせて選ぶのではなく、自分で選んでいいのだと、未沙はちゃんと許してくれている。
もっと高く、もっと正しく、もっと人から見て立派なものを選ばなければならないわけではない。
自分がどこで、どう生きたいのかを基準にしていいのだと、その短い言葉が静かに伝えていた。
未輝はスマートフォンを伏せ、椅子にもたれた。
離れていても、自分の選択を認めてもらえることが、こんなにも深く支えになるのだとは思っていなかった。
背中を押されるのとは少し違う。
むしろ、自分の足で立つことを、遠くから静かに認めてもらっているような感覚だった。
未輝は窓の外を見た。
夜のロンドンは暗く、街灯の光が濡れた道路に細く伸びている。
ここで暮らしているのは自分だ。
ここで学び、迷い、選んでいくのも自分だ。
その事実は変わらない。
けれど、ひとりで立つことと、ひとりきりでいることは同じではないのだと、未輝は今ならわかる気がした。
認めてもらえることは、甘やかされることではない。
むしろ、自分で選んだ道を自分で歩いていくための、静かな支えになる。
未輝はもう一度、机の上の資料に目を落とした。
進学先の候補、必要な条件、これから考えるべきこと。
まだ迷いはある。
けれど、その迷いを抱えたままでも、自分で選んでいける気がした。
離れていても、未沙は未輝の選択を見ていてくれる。
そして、その選択を自分のものとして認めてくれている。
そのことが、未輝を少しずつ、ひとりで立てる人にしていくのだった。




