第20話 進路
ロンドンでの暮らしが、ようやく少しずつ日常の形を持ちはじめていた。
朝になれば決まった時間に目を覚まし、窓の外の曇り空にも前ほど戸惑わなくなった。
近所の店へ行く道も、駅までの流れも、何度か通ううちに体が覚えていく。
まだ慣れきったとは言えない。
それでも、最初の頃のように、何をするにも身構えなければならない感じは少しずつ薄れていた。
未輝はその変化を、自分でも静かに感じていた。
できないことはまだある。
言葉の速さについていけない日もあるし、その場の空気を読みきれずに少し遅れてしまうこともある。
けれど、そういう自分を前ほど強く責めなくなっていた。
うまくいかない日があっても、それで全部がだめになるわけではないと、少しずつ思えるようになっていた。
そんなふうに生活が落ち着きはじめた頃、未輝の前に、もうひとつの現実がはっきりと姿を見せはじめた。
進路だった。
ロンドンへ来ることを決めたときから、その先に大学進学のことがあるのはわかっていた。
けれど、それはまだ少し先の話のようにも感じられていた。
新しい生活に慣れることだけで精一杯だった間は、未来の輪郭を細かく考える余裕がなかったのだ。
けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
イギリスの大学へ進むなら、まずファウンデーションコースで学ぶ必要がある。
未沙からその説明を受けたとき、未輝はうなずきながら聞いていた。
制度としては理解できる。
けれど、理解することと、自分の進路として引き受けることは別だった。
ファウンデーションコース。
その言葉を頭の中で繰り返すたびに、未輝は少しだけ緊張した。
それは単なる準備期間ではない。
ここで何を学び、その先にどんな分野へ進むのかを考える時間でもある。
つまり、未輝はもう「とりあえず次へ進む」だけではいられないのだ。
日本にいた頃なら、きっともっと違う選び方をしていたと思う。
失敗しない道。
説明しやすい道。
周囲から見て自然に思える道。
そういうものを先に並べて、その中からいちばん安全そうなものを選んでいたかもしれない。
それは間違いではない。
けれど、その選び方では、自分が何をしたいのかは後回しになってしまう。
未輝はそのことを、今なら少しわかる気がしていた。
ある日の夕方、未輝は部屋の机に向かい、大学やコースについて調べた紙を広げていた。
分野の名前、必要な条件、学べる内容。
見慣れない単語も多く、読んでいるだけで頭が疲れる。
それでも、ただ情報を追うだけでは足りないことを、未輝は感じていた。
何がいちばん安全かではなく。
何がいちばん失敗しにくいかでもなく。
自分は何を学びたいのか。
その問いは、思っていたよりずっと重かった。
未沙はリビングで本を読んでいたが、しばらくして未輝の様子に気づいたのか、顔を上げた。
「進まない?」
「……進んでるけど、進んでない感じ」
「難しい言い方ね」
「自分でもそう思う」
未沙は本を閉じ、未輝の向かいに座った。
「何が引っかかってるの?」
未輝は少し考えてから言った。
「前だったら、もっと簡単だった気がする」
「どういうふうに?」
「たぶん、いちばん無難なものを選んでたと思う。ちゃんと説明できて、失敗しにくそうなやつ」
未沙は黙って聞いていた。
「でも今は、それで決めたくないって思う」
未輝は紙の上に視線を落としたまま続ける。
「せっかくここまで来たのに、また“間違えないため”だけに選ぶのは、違う気がして」
その言葉を口にしながら、未輝は自分の中にある変化をあらためて感じていた。
以前の自分なら、こんなふうには考えなかったかもしれない。
進路は、できるだけ失敗しないように決めるものだと思っていた。
けれど今は、それだけでは足りないと思っている。
未沙は小さくうなずいた。
「それは、いい変化ね」
「いいのかな」
「ええ。難しくはなるけれど」
未輝は少しだけ笑った。
「やっぱり難しくはなるんだ」
「自分で選ぼうとすると、簡単ではいられないものよ」
その言葉に、未輝は静かに息をついた。
たしかにそうだった。
誰かが決めた正しそうな道に乗るだけなら、考えることは少なくてすむ。
けれど、自分で選ぶということは、そのぶん迷うということでもある。
何を選んで、何を選ばなかったのか。
その理由を、自分で引き受けなければならない。
未輝は机の上の紙を見つめた。
学びたいこと。
興味のあること。
まだはっきり言い切れないものも多い。
それでも、以前よりは、自分の内側に問いを向けようとしているのがわかった。
何が好きなのか。
何に惹かれるのか。
どんなことを知りたいと思うのか。
それは、正解を当てる作業ではなかった。
むしろ、自分の未来に対して、初めて自分で責任を持とうとすることに近かった。
未来を選ぶというのは、ただ期待することではない。
こうなれたらいい、ああなったら素敵だ、と思うだけではなく、その先にある不安や迷いも含めて、自分で引き受けることなのだ。
未輝はそのことを、まだ完全に理解できているわけではなかった。
けれど、少なくとも今、自分はその入口に立っているのだと思えた。
数日後、未輝は未沙に、自分の考えを少しずつ話した。
どの分野に興味があるのか。
何を学ぶことに惹かれるのか。
まだ曖昧な部分も多かったが、それでも言葉にしていくうちに、自分の中で輪郭が少しずつ見えてくる気がした。
「ファウンデーションコースで学ぼうと思う」
そう口にしたとき、未輝は自分の声が思っていたより落ち着いていることに気づいた。
未沙はすぐには何も言わなかった。
ただ、未輝の言葉をそのまま受け止めるように見ていた。
「たぶん、まだ不安はある」
未輝は続ける。
「ちゃんとやれるかもわからないし、その先で何を選ぶかも、まだ全部決まってるわけじゃない」
「ええ」
「でも、ここでちゃんと考えたい。何が安全かじゃなくて、自分が何を学びたいのかで決めたい」
未沙は静かにうなずいた。
「それでいいのよ」
未輝は少しだけ目を伏せた。
その一言は、背中を押すというより、未輝が自分で立つのを認めてくれるような響きだった。
「進路って、もっと先に答えがあるものだと思ってた」
未輝はぽつりと言った。
「ちゃんと考えたら、これしかないってわかるものだと思ってた」
「そういうこともあるでしょうね」
「でも、たぶん違うんだね」
「何が?」
「選んでから、自分でその先を引き受けていくんだってこと」
未沙は少し笑った。
「ええ。たぶん、そういうものよ」
その言葉を聞いたとき、未輝は胸の奥が静かに定まっていくのを感じた。
未来は、まだ見えない部分のほうが多い。
この選択が正しかったのかどうかも、今すぐにはわからない。
けれど、わからないままでも、自分で選ぶことはできる。
そして選んだなら、その先を自分で生きていくしかない。
それは怖いことでもあった。
けれど同時に、初めて自分の人生を自分の手に置くような感覚でもあった。
未輝は窓の外を見た。
ロンドンの空は相変わらず曇っていたが、その曇り空にももう見慣れていた。
最初はただ不安の象徴のように見えていた景色が、今は少し違って見える。
晴れていなくても、前は見える。
はっきりしない空の下でも、人は歩いていける。
それはきっと、未来も同じなのだろう。
未輝は机の上の書類にもう一度目を落とした。
そこに並ぶ文字はまだ少し遠く感じられる。
けれど、その遠さごと引き受けて進むのが、今の自分にできる選び方なのだと思った。
ファウンデーションコースへ進む。
その決断は、誰かに与えられた次の一歩ではなかった。
未輝が初めて、自分の未来を自分で引き受けようとした一歩だった。
未輝は静かにペンを取り、必要な書類へ目を通しはじめた。
未来はまだ完成していない。
けれど、その未完成の未来に対して、自分の名前で責任を持とうとしている。
そのことが、未輝には少しだけ誇らしかった。




