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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第2章 仮面の少女
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19/31

第19話 新しい場所

 ロンドンに着いた日の空は、思っていたより低かった。


 灰色の雲が薄く広がり、光はあるのに明るいとは言い切れない。

 空港を出た瞬間、ひやりとした空気が頬に触れて、未輝は思わず肩をすくめた。


「寒い?」

 隣を歩きながら未沙が聞く。


「ちょっとだけ」

「すぐ慣れるわよ」

「ほんとに?」

「たぶんね」


 その言い方があまりに未沙らしくて、未輝は少しだけ笑った。


 大きなスーツケースを引きながら、未輝は周囲を見回した。

 聞こえてくる英語、見慣れない案内表示、行き交う人々の足取り。

 頭ではわかっていたはずなのに、実際にその中へ立ってみると、自分が本当に遠くまで来てしまったのだということが、ようやく実感として押し寄せてくる。


 未沙は迷いなく前を歩いていく。

 ときどき振り返って未輝の歩幅を確かめながら、それでも足取りは落ち着いていた。


 未輝はその背中を追いながら、自分の中にある緊張を意識していた。

 不安がないわけではない。

 むしろ、空港に着いてからずっと、気持ちは落ち着かないままだった。

 何をするにも、ひとつひとつ確かめなければならない。

 見慣れない表示、知らない街の流れ、どこを見ればいいのかも、どう動けば自然なのかも、まだよくわからない。


 けれど、言葉そのものに怯えているわけではなかった。


 英語には自信があった。

 高校ではアメリカ人の英語教師と会話をすることもできたし、それを苦に思ったことはなかった。

 だからロンドンへ来ても、言葉のことは何とかなると思っていた。


 実際、まったく通じないわけではない。

 案内は読めるし、簡単なやりとりならできる。

 必要なことを伝えるだけなら、たぶん困らない。


 それなのに、未輝はすぐに、自分が思っていた「できる」の輪郭が少し違っていたことを知った。


 新しく暮らす部屋は、未沙が先に整えてくれていた。

 大きすぎないリビングに、簡素な家具と、まだ少しよそよそしい生活の匂いがある。

 窓の外には、似たような色の建物が並び、その向こうを二階建てバスが通っていった。


「少し休む?」

 荷物を置きながら未沙が言う。


「うん……でも、なんか変な感じ」

「何が?」

「ほんとに来たんだなって」


 未沙は小さく笑った。

「来たのよ」


 その一言は簡単なのに、不思議と現実味があった。


 来たのだ。

 もう、想像していた未来の中ではなく、実際にこの街で暮らし始める場所まで。


 数日が過ぎても、未輝はまだ何もかもに慣れなかった。


 朝、窓の外の光で目を覚ます。

 日本にいた頃とは違う部屋の匂い、違う水の音、違う街の気配。

 カーテンを開けるたびに、ここが自分の知っている場所ではないことを思い出す。


 近所のスーパーへ行くだけでも、未輝には小さな緊張があった。

 商品の並び方も、値札の見方も、レジでの距離感も、何もかもが少しずつ違う。

 注文や会計そのものはできる。

 相手の言っていることも、だいたいわかる。

 けれど、そこで交わされる短いやりとりの速さに、自分だけがほんの少し遅れている気がした。


 ある日、パンを買いに入った店で、未輝は注文を問題なく終えた。

 店員の言葉も聞き取れたし、返事もできた。

 けれどそのあと、相手が笑いながら何かを続けて言ったとき、未輝はとっさに言葉を返せなかった。


 意味は、少し遅れてわかった。

 たぶん、ほんの軽い冗談だったのだと思う。

 難しいことを言われたわけではない。

 ただ、その場の空気に合う返しがすぐには出てこなかった。


 店員は気にした様子もなく次の客へ向かったが、未輝は店を出てから、ひどく居心地の悪い気持ちになった。


 英語ができないわけではない。

 それなのに、自分だけが会話の外側に立っていたように感じた。


 言葉は通じる。

 けれど、その場の空気をつかむには、もっと時間がかかった。

 何を言われているのかはわかっても、それをどんな温度で受け取ればいいのか、どんなふうに返せば自然なのかが、未輝にはまだすぐにはわからなかった。


 日本にいた頃なら、英語は未輝にとって得意なものだった。

 ちゃんとできる自分を支えるもののひとつだった。

 けれどここでは、その英語ですら、自分を完全には守ってくれない。


 部屋に戻ると、未沙がキッチンに立っていた。

「早かったのね」

「うん」

「買えた?」

「買えた」

 未輝は少し間を置いてから続けた。

「でも、なんか……思ってたのと違った」

「何が?」

「話せないわけじゃないのに、ちゃんと入っていけない感じがする」


 未沙は手を止めて、未輝を見た。

 急かさず、続きを待つような目だった。


「先生と話してたときは、もっと普通にできてた気がする」

「ええ」

「聞き取れるし、言いたいことも言えるのに、こっちだと少しずつずれるっていうか……」

「自然にできないのね」

「……うん」


 その言葉にしてしまうと、未輝は少しだけ悔しかった。

 できているはずなのに、できていないように感じる。

 その半端さが、かえって苦しかった。


 未沙はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「あなた、話せていないわけじゃないでしょう」

「うん」

「でも、話せることと、その場所で自然に振る舞えることは別なのよ」


 未輝は黙って聞いていた。


「言葉が通じることと、その場の空気がわかることも、同じじゃないわ」

 未沙は続ける。

「相手も違うし、速さも違うし、何を冗談として受け取るのかも、どこまで踏み込むのが自然なのかも違うもの」

「……そうかもしれない」

「だから、今うまくいかないのは、あなたに力がないからじゃないのよ。ただ、まだこの場所の流れに慣れていないだけ」


 未輝は小さく息をついた。


 その言葉で急に楽になるわけではなかった。

 けれど、自分が感じていた引っかかりに、ようやく名前がついた気がした。


 できないのではない。

 ただ、まだ馴染めていない。

 その違いは、未輝にとって思っていたより大きかった。


 数週間が過ぎるころには、未輝は少しずつ街の輪郭を覚え始めていた。

 よく行く店の位置。

 駅までの道。

 信号の変わるタイミング。

 店でよく使われる言い回し。

 相手の言葉を最後まで待たなくても、流れが少し読める瞬間が増えてきたこと。


 ほんの小さな変化ばかりだったけれど、それでも最初の日とは違っていた。


 もちろん、まだうまくいかないことはある。

 会話の輪に入るタイミングがつかめず、自分だけが少し外側にいるような気持ちになる日もある。

 何気ない雑談にうまく返せなくて、帰り道にひとりで思い返すこともある。


 それでも、前より少しだけ、自分を責める時間が短くなっていた。


 できると思っていたのに、思うほどできない。

 そのことは、未輝にとって小さくない痛みだった。


 けれど同時に、その痛みの中でしか見えないものもあった。


 自分は何でもできるわけではない。

 得意だと思っていたことにも、届かない場所がある。

 ちゃんとできる自分だけが、自分の全部ではない。


 そう思うことは、悔しいけれど、どこかで少しだけ未輝を自由にもした。


 完璧にできなくてもいい。

 少しずつずれても、言い直せばいい。

 会話の流れにうまく乗れない日があっても、それで自分が否定されるわけではない。


 ある夕方、未輝はひとりで近所のカフェに入った。

 注文をして、店員の問いかけに答え、最後に交わされた短いひと言にも、今度は少し笑って返すことができた。


 ほんの一瞬のことだった。

 けれど席に着いたとき、未輝は胸の奥に小さな灯りがともるような気がした。


 窓の外には、見知らぬ街の夕方が広がっている。

 行き交う人々の声。

 まだ自分のものになりきっていない景色。

 それでも未輝は、ここに座っている自分を、前より少し自然に感じていた。


 完璧ではない。

 何でも思い通りにできるわけでもない。

 日本にいた頃のように、得意なことがそのまま自分を支えてくれるわけでもない。


 けれど、だからといって生きていけないわけではないのだと、未輝は初めて実感し始めていた。


 できない自分を知ることは、失うことではない。

 できると思っていた自分の限界を知ることも、終わりではない。

 むしろそこからしか始まらないものが、きっとある。


 未輝はカップに手を添え、ゆっくりと息をついた。


 新しい街の空は相変わらず曇っていた。

 それでも、その曇り空の下で生きていく自分の姿を、未輝は少しずつ思い描けるようになっていた。


 何もかも思うようにはいかない。

 それでも、ここが自分の新しい場所なのだ。


 未輝は窓の外を見つめながら、静かにそのことを受け入れていた。


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