第19話 新しい場所
ロンドンに着いた日の空は、思っていたより低かった。
灰色の雲が薄く広がり、光はあるのに明るいとは言い切れない。
空港を出た瞬間、ひやりとした空気が頬に触れて、未輝は思わず肩をすくめた。
「寒い?」
隣を歩きながら未沙が聞く。
「ちょっとだけ」
「すぐ慣れるわよ」
「ほんとに?」
「たぶんね」
その言い方があまりに未沙らしくて、未輝は少しだけ笑った。
大きなスーツケースを引きながら、未輝は周囲を見回した。
聞こえてくる英語、見慣れない案内表示、行き交う人々の足取り。
頭ではわかっていたはずなのに、実際にその中へ立ってみると、自分が本当に遠くまで来てしまったのだということが、ようやく実感として押し寄せてくる。
未沙は迷いなく前を歩いていく。
ときどき振り返って未輝の歩幅を確かめながら、それでも足取りは落ち着いていた。
未輝はその背中を追いながら、自分の中にある緊張を意識していた。
不安がないわけではない。
むしろ、空港に着いてからずっと、気持ちは落ち着かないままだった。
何をするにも、ひとつひとつ確かめなければならない。
見慣れない表示、知らない街の流れ、どこを見ればいいのかも、どう動けば自然なのかも、まだよくわからない。
けれど、言葉そのものに怯えているわけではなかった。
英語には自信があった。
高校ではアメリカ人の英語教師と会話をすることもできたし、それを苦に思ったことはなかった。
だからロンドンへ来ても、言葉のことは何とかなると思っていた。
実際、まったく通じないわけではない。
案内は読めるし、簡単なやりとりならできる。
必要なことを伝えるだけなら、たぶん困らない。
それなのに、未輝はすぐに、自分が思っていた「できる」の輪郭が少し違っていたことを知った。
新しく暮らす部屋は、未沙が先に整えてくれていた。
大きすぎないリビングに、簡素な家具と、まだ少しよそよそしい生活の匂いがある。
窓の外には、似たような色の建物が並び、その向こうを二階建てバスが通っていった。
「少し休む?」
荷物を置きながら未沙が言う。
「うん……でも、なんか変な感じ」
「何が?」
「ほんとに来たんだなって」
未沙は小さく笑った。
「来たのよ」
その一言は簡単なのに、不思議と現実味があった。
来たのだ。
もう、想像していた未来の中ではなく、実際にこの街で暮らし始める場所まで。
数日が過ぎても、未輝はまだ何もかもに慣れなかった。
朝、窓の外の光で目を覚ます。
日本にいた頃とは違う部屋の匂い、違う水の音、違う街の気配。
カーテンを開けるたびに、ここが自分の知っている場所ではないことを思い出す。
近所のスーパーへ行くだけでも、未輝には小さな緊張があった。
商品の並び方も、値札の見方も、レジでの距離感も、何もかもが少しずつ違う。
注文や会計そのものはできる。
相手の言っていることも、だいたいわかる。
けれど、そこで交わされる短いやりとりの速さに、自分だけがほんの少し遅れている気がした。
ある日、パンを買いに入った店で、未輝は注文を問題なく終えた。
店員の言葉も聞き取れたし、返事もできた。
けれどそのあと、相手が笑いながら何かを続けて言ったとき、未輝はとっさに言葉を返せなかった。
意味は、少し遅れてわかった。
たぶん、ほんの軽い冗談だったのだと思う。
難しいことを言われたわけではない。
ただ、その場の空気に合う返しがすぐには出てこなかった。
店員は気にした様子もなく次の客へ向かったが、未輝は店を出てから、ひどく居心地の悪い気持ちになった。
英語ができないわけではない。
それなのに、自分だけが会話の外側に立っていたように感じた。
言葉は通じる。
けれど、その場の空気をつかむには、もっと時間がかかった。
何を言われているのかはわかっても、それをどんな温度で受け取ればいいのか、どんなふうに返せば自然なのかが、未輝にはまだすぐにはわからなかった。
日本にいた頃なら、英語は未輝にとって得意なものだった。
ちゃんとできる自分を支えるもののひとつだった。
けれどここでは、その英語ですら、自分を完全には守ってくれない。
部屋に戻ると、未沙がキッチンに立っていた。
「早かったのね」
「うん」
「買えた?」
「買えた」
未輝は少し間を置いてから続けた。
「でも、なんか……思ってたのと違った」
「何が?」
「話せないわけじゃないのに、ちゃんと入っていけない感じがする」
未沙は手を止めて、未輝を見た。
急かさず、続きを待つような目だった。
「先生と話してたときは、もっと普通にできてた気がする」
「ええ」
「聞き取れるし、言いたいことも言えるのに、こっちだと少しずつずれるっていうか……」
「自然にできないのね」
「……うん」
その言葉にしてしまうと、未輝は少しだけ悔しかった。
できているはずなのに、できていないように感じる。
その半端さが、かえって苦しかった。
未沙はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「あなた、話せていないわけじゃないでしょう」
「うん」
「でも、話せることと、その場所で自然に振る舞えることは別なのよ」
未輝は黙って聞いていた。
「言葉が通じることと、その場の空気がわかることも、同じじゃないわ」
未沙は続ける。
「相手も違うし、速さも違うし、何を冗談として受け取るのかも、どこまで踏み込むのが自然なのかも違うもの」
「……そうかもしれない」
「だから、今うまくいかないのは、あなたに力がないからじゃないのよ。ただ、まだこの場所の流れに慣れていないだけ」
未輝は小さく息をついた。
その言葉で急に楽になるわけではなかった。
けれど、自分が感じていた引っかかりに、ようやく名前がついた気がした。
できないのではない。
ただ、まだ馴染めていない。
その違いは、未輝にとって思っていたより大きかった。
数週間が過ぎるころには、未輝は少しずつ街の輪郭を覚え始めていた。
よく行く店の位置。
駅までの道。
信号の変わるタイミング。
店でよく使われる言い回し。
相手の言葉を最後まで待たなくても、流れが少し読める瞬間が増えてきたこと。
ほんの小さな変化ばかりだったけれど、それでも最初の日とは違っていた。
もちろん、まだうまくいかないことはある。
会話の輪に入るタイミングがつかめず、自分だけが少し外側にいるような気持ちになる日もある。
何気ない雑談にうまく返せなくて、帰り道にひとりで思い返すこともある。
それでも、前より少しだけ、自分を責める時間が短くなっていた。
できると思っていたのに、思うほどできない。
そのことは、未輝にとって小さくない痛みだった。
けれど同時に、その痛みの中でしか見えないものもあった。
自分は何でもできるわけではない。
得意だと思っていたことにも、届かない場所がある。
ちゃんとできる自分だけが、自分の全部ではない。
そう思うことは、悔しいけれど、どこかで少しだけ未輝を自由にもした。
完璧にできなくてもいい。
少しずつずれても、言い直せばいい。
会話の流れにうまく乗れない日があっても、それで自分が否定されるわけではない。
ある夕方、未輝はひとりで近所のカフェに入った。
注文をして、店員の問いかけに答え、最後に交わされた短いひと言にも、今度は少し笑って返すことができた。
ほんの一瞬のことだった。
けれど席に着いたとき、未輝は胸の奥に小さな灯りがともるような気がした。
窓の外には、見知らぬ街の夕方が広がっている。
行き交う人々の声。
まだ自分のものになりきっていない景色。
それでも未輝は、ここに座っている自分を、前より少し自然に感じていた。
完璧ではない。
何でも思い通りにできるわけでもない。
日本にいた頃のように、得意なことがそのまま自分を支えてくれるわけでもない。
けれど、だからといって生きていけないわけではないのだと、未輝は初めて実感し始めていた。
できない自分を知ることは、失うことではない。
できると思っていた自分の限界を知ることも、終わりではない。
むしろそこからしか始まらないものが、きっとある。
未輝はカップに手を添え、ゆっくりと息をついた。
新しい街の空は相変わらず曇っていた。
それでも、その曇り空の下で生きていく自分の姿を、未輝は少しずつ思い描けるようになっていた。
何もかも思うようにはいかない。
それでも、ここが自分の新しい場所なのだ。
未輝は窓の外を見つめながら、静かにそのことを受け入れていた。




