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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第2章 仮面の少女
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第18話 卒業の春

 卒業式の朝、未輝はひとりで家を出た。


 玄関の扉を閉めたあと、ふと振り返る。

 もう誰もいない家は静かで、その静けさにまだ少しだけ慣れきれない自分がいた。


 二月のはじめに未沙はロンドンへ旅立った。

 向こうに着いてから何度か連絡は来ている。

 部屋のこと、街のこと、まだ寒いこと。短い言葉ばかりだったけれど、そのどれもが未沙らしく、必要以上に寂しさを煽らない書き方だった。


 未輝も返事をした。

 ちゃんと起きてるよ、とか。

 今日は少し暖かいよ、とか。

 そんな何気ないやりとりを交わしながら、それでも未沙がもうここにはいないのだということを、未輝は日ごとに覚えていった。


 制服の襟元を整え、未輝は駅までの道を歩く。

 空気はまだ冷たいのに、光だけは少しずつ春に近づいていた。

 三月の朝のやわらかな明るさが、冬の終わりを静かに知らせている。


 今日で高校を卒業する。


 その事実は、思っていたよりもあっさりしていた。

 もっと特別な実感があるのかと思っていたのに、朝の街はいつもと変わらず、電車もいつも通りに走っていて、自分だけが節目の中にいるような、不思議な気持ちだった。


 学校へ向かう道には、同じ制服を着た生徒たちの姿があった。

 友達同士で並んで歩きながら笑っている声が聞こえる。

 卒業式だというのに、泣いている気配よりも、どこか浮き立つような明るさのほうが強かった。


 校門をくぐると、見慣れた校舎がいつもより少しだけよそよそしく見えた。

 ここへ通うのも今日で終わりなのだと思うと、急に現実味のないことのように感じられる。


「おはよう、未輝」


 声をかけられて振り向くと、クラスメイトが手を振っていた。

 未輝も「おはよう」と返す。


「なんか、ほんとに卒業なんだね」

「ね。まだあんまり実感ないかも」

「わかる。春から大学とか、まだ変な感じ」


 そんな会話を交わしながら教室へ向かう。

 教室の中は朝から落ち着かず、みんなそれぞれに写真を撮ったり、寄せ書きを見せ合ったりしていた。

 笑い声があちこちで弾んでいる。


 進学先の話も自然と耳に入ってきた。

 都内の大学へ行く人。

 地方へ出る人。

 専門学校へ進む人。

 もう部屋を決めたとか、サークルをどうするかとか、新生活の話題はどれも具体的で、手ざわりがあった。


 未輝はその輪の中にいながら、少しだけ違う場所に立っているような気がした。


 自分にも次の場所はある。

 ロンドンへ行くと決めた未来がある。

 けれどそれは、みんなの話す進学先のように、すぐ目の前に形を持って並んでいるものではなかった。

 まだ準備の途中で、まだ完全には届いていない。

 たしかに選んだはずなのに、どこか途中にある未来。


 前の未輝なら、その曖昧さにきっと落ち着かなくなっていた。

 自分だけが決まっていないような気がして、周囲と比べて、焦っていたかもしれない。


 けれど今は、その不確かさを前ほど怖いとは思わなかった。


 もちろん、不安がなくなったわけではない。

 ロンドンでの生活がどうなるのか、まだわからないことはたくさんある。

 向こうでちゃんとやっていけるのかと思う夜もある。

 けれど、わからないことがあるからといって、自分の未来が空っぽなわけではないのだと、今は思える。


 途中にある、ということは、まだ終わっていないということだ。

 まだ形になりきっていないだけで、ちゃんと前へ続いている。


 そのことを、未輝は少しずつ信じられるようになっていた。


 式が始まると、体育館には独特の静けさが満ちた。

 椅子の引かれる音、壇上に向けられる視線、読み上げられる言葉。

 何度も練習したはずの流れなのに、本番になるとどこか遠い出来事のように感じられる。


 卒業証書授与で名前を呼ばれ、未輝は立ち上がった。

 返事をして前へ進む。

 その一つひとつの動作が、思っていたよりも静かに胸へ落ちてきた。


 この学校で過ごした時間。

 教室の窓から見た空。

 放課後の廊下。

 何気なく交わした会話。

 その全部が、今日でひとつの区切りを迎える。


 けれど、区切りというのは、何かがきれいに終わることだけではないのかもしれない。

 終わりきらないものや、まだ途中のものを抱えたままでも、人は次の場所へ進んでいく。

 卒業とは、そういうものなのかもしれなかった。


 式のあと、教室に戻ると、担任が最後の話をした。

 ありきたりな言葉もあったし、少し照れくさくなるような励ましもあった。

 それでも、教壇の前に立つ先生の声を聞きながら、未輝はこの教室にいた日々を思っていた。


 毎日が特別だったわけではない。

 むしろ、ほとんどは何でもない日だった。

 けれど、その何でもない日の積み重ねが、今こうして終わろうとしている。


 最後に「卒業おめでとう」と言われたとき、教室のあちこちで笑い声と拍手が起こった。

 泣いている子もいた。

 未輝はその光景を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


 教室を出たあと、何人かと写真を撮った。

 春からの予定を聞かれて、未輝は少しだけ迷ってから答える。


「少ししたら、ロンドンに行くんだ」


「えっ、ロンドン?」

「すごい」

「留学みたいな感じ?」

「うん、そんな感じ」


 驚いた顔をされて、未輝は少し笑った。

 まだ全部をうまく説明できるわけではない。

 自分でも、これから先のことを完全に言葉にできるわけではなかった。

 けれど、それでいいのだと思えた。


 説明しきれない未来でも、自分で選んだものなら、それはちゃんと自分の未来だ。


 校舎を出るころには、午後の光がやわらかく差していた。

 制服姿の生徒たちがあちこちで立ち止まり、名残惜しそうに話している。

 見慣れた景色が、今日だけは少しだけ輪郭を強くして見えた。


 未輝は校門の前で立ち止まり、空を見上げた。

 淡い青の向こうに、春の気配がうっすらと広がっている。


 高校を卒業したのだと思う。

 もうこの場所に守られるだけの時間は終わって、これからは自分で選んだ場所へ向かっていく。


 それでも、未来はまだ途中だ。

 はっきり決まりきっているわけではない。

 見えない部分も、揺れる気持ちも、まだ少し残っている。


 けれど未輝は、そんな自分を前よりも否定しなくなっていた。


 決まっていないことは、遅れていることではない。

 途中にあることは、立ち止まっていることではない。


 まだ見えない先があっても、人は前へ進める。

 不確かなままでも、歩き出すことはできる。


 未輝は小さく息を吸い、そしてゆっくり吐いた。


 卒業おめでとう、と誰かの声が遠くで聞こえる。

 笑い声が重なり、春の光が校舎の窓にやわらかく反射していた。


 未輝はもう一度だけ学校を振り返り、それから前を向いた。


 自分の未来は、まだ完成していない。

 けれど、その途中にいる自分のことを、今日はちゃんと信じてみたいと思った。


 春のはじまりの中を、未輝は静かに歩き出した。


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