第17話 自分の未来
二月のはじまりが近づくにつれて、時間の流れ方が少しずつ変わっていくようだった。
未沙がロンドンへ発つ日が決まり、家の中には目に見えない緊張のようなものが静かに満ちていた。
大げさに騒がしいわけではない。
けれど、棚の上に置かれた書類や、部屋の隅に寄せられたスーツケースや、そういう小さなものたちが、もうすぐ何かが動くのだと告げていた。
未輝はその空気の中で、何度も同じことを考えていた。
日本に残る未来。
ロンドンへ行く未来。
どちらも、もうただの想像ではなかった。
ひとつは今までの延長線上にあるように見える未来。
もうひとつは、まだ輪郭の定まりきらない、けれど確かに手を伸ばせば届くかもしれない未来。
未沙に「未輝も一緒にいく?」と言われたあの日から、その問いは未輝の中に残り続けていた。
どちらが正しいかではなく。
どちらの未来が、あなたを少しでもわくわくさせるか。
その言葉を思い出すたびに、未輝は立ち止まる。
わくわく、という言葉は、未輝にはまだ少し眩しかった。
そんなふうに未来を選んでいいのだと、頭ではわかっても、心はすぐには追いつかない。
不安のない道のほうが正しいのではないか。
ちゃんと説明できる未来のほうが安心なのではないか。
そう考える癖は、簡単には消えなかった。
けれど、不安があることと、違う道を選びたくないことは、同じではないのかもしれない。
そのことに、未輝は少しずつ気づき始めていた。
ロンドンへ行くことを思うと、不安はある。
知らない場所。
知らない生活。
今までとはまったく違う毎日。
簡単なことではないと、未輝にもわかる。
それでも、その未来を思い浮かべたとき、胸の奥のどこかが静かに動くのを感じた。
怖いのに、目をそらしたくはない。
不安なのに、考えるのをやめたくはない。
その感覚は、日本に残る未来を思うときとは少し違っていた。
日本に残る未来は、見慣れていた。
進学して、周囲と同じように次の生活へ進んでいく。
きっとそれは自然な道で、誰も心配しない。
自分でも説明しやすい未来だ。
けれど、その未来を思い描くと、未輝の心は静かなままだった。
安心はある。
けれど、それ以上の何かが動く感じはなかった。
一方で、ロンドンへ行く未来には、落ち着かなさがあった。
けれど同時に、まだ知らない扉の前に立っているような気配もあった。
未輝は自分の部屋の机に向かいながら、窓の外を見た。
冬の空は白く、午後の光は薄かった。
街はいつも通りに見えるのに、自分の中だけが少しずつ変わっていく。
未来を選ぶというのは、もっとはっきりしたものだと思っていた。
迷いが消えて、これしかないと確信できて、それで初めて決められるのだと。
けれど本当は、迷いがあるままでも、人は選ぶのかもしれない。
その夜、未輝はリビングで、出発の準備をしている未沙を見ていた。
テーブルの上には、必要な書類や小物がきれいに並べられている。
未沙はひとつひとつ確認しながら、落ち着いた手つきで荷物を整えていた。
「忘れ物、なさそう?」
未輝が聞くと、未沙は顔を上げて笑った。
「たぶんね。でも、ひとつくらいは何か忘れるかもしれない」
「お母さんでも?」
「私でも」
そのやりとりが、少しだけ未輝をほっとさせた。
未沙はいつも、何でも迷いなく決めているように見える。
けれど本当は、未沙だって完璧なわけではない。
不安がないわけでもないのだろう。
それでも、自分で選んで進んでいく。
未輝はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸った。
「私……」
未沙が手を止める。
未輝は自分の指先を見つめた。
言葉にするのは、まだ少し怖かった。
口にした瞬間、ただ考えていただけの未来が、本当に自分のものになってしまう気がしたからだ。
けれど、言わなければ前には進めない気もした。
「ロンドン、行きたい」
声は思っていたより静かだった。
強く言い切れたわけではない。
けれど、その言葉はたしかに未輝の中から出てきたものだった。
未沙はすぐには何も言わなかった。
ただ、未輝を見つめていた。
その沈黙が、未輝にはありがたかった。
軽く受け流されるのでもなく、大げさに喜ばれるのでもなく、その言葉がちゃんとそこに置かれるのを待ってくれているようだった。
「そう」
やがて未沙は、やわらかく言った。
「あなたがそう思えたなら、それでいいの」
未輝は少しだけ目を伏せた。
「でも、まだ不安だよ」
「ええ」
「向こうでちゃんとやれるかもわからないし、何がどうなるのかも、まだ全然……」
未沙は少し笑った。
「私だって不安だもの。楽しみなのと、たぶん同じくらい」
その言い方があまりに自然で、未輝は思わず顔を上げた。
「でも、不安があることと、行きたくないことは、別でしょう?」
未輝は顔を上げた。
その言葉は、未輝がここ数日、ぼんやりと感じていたことを、そのまま形にしたようだった。
「全部わかってから決めるんじゃなくてもいいの」
未沙は続ける。
「見えないものがあっても、それでも行きたいと思うなら、それはもう十分、あなたの気持ちでしょう」
未輝は何も言えなかった。
ただ、胸の奥にあったものが、少しずつ静かに落ち着いていくのを感じていた。
行きたい。
その気持ちは、たしかにある。
不安が消えたわけではない。
けれど、不安があるから間違いだというわけでもない。
未輝はようやく、自分が何を選びたいのかを、自分の言葉で受けとめられた気がした。
数日後、未沙の出発の日が来た。
朝の空気は冷たく、吐く息は白かった。
空港へ向かう車の窓から見える景色は、どこも変わらない冬の街なのに、今日だけは少し遠く感じられた。
未輝は隣に座る未沙の横顔を、ときどきそっと見た。
未沙はいつも通り落ち着いていた。
けれど、その静けさの奥に、やはり小さな緊張があることを、未輝はなんとなく感じていた。
空港に着くと、出発ロビーには旅立つ人と見送る人が行き交っていた。
スーツケースの音。
アナウンスの声。
行き先の違う人たちの足音。
そのすべてが、ここが誰かの始まりと別れの場所なのだと告げていた。
「じゃあ、行ってくるわね」
未沙はそう言って、未輝を見た。
未輝はうなずいた。
「うん」
本当は、もっといろいろ言いたい気もした。
気をつけて、とか。
向こうに着いたら連絡して、とか。
寂しい、とか。
でも、どの言葉もしっくりこなくて、最後にはただその一言だけが残った。
「行ってらっしゃい」
未沙は少し笑った。
「ええ。未輝も、ちゃんと来るのよ」
その言葉に、未輝も小さく笑った。
「うん」
もう迷いはなかった、とは言えない。
けれど、前のような揺れ方ではなかった。
不安はまだある。
それでも、自分が向かいたい場所は、もうわかっていた。
未沙は手を振り、それから人の流れの中へ入っていった。
搭乗口の向こうへ消えていく背中を、未輝は黙って見つめていた。
寂しさがないわけではなかった。
心細さが消えたわけでもない。
けれど、不思議と、ただ置いていかれるような気持ちではなかった。
未沙は先に行く。
そして自分も、そこへ向かう。
まだ少し先の未来。
けれどもう、それは誰かに決められるものではなく、未輝が自分で選んだ未来だった。
冬の終わりの光の中で、未輝は小さく息をついた。
見送るだけだったはずのその日、自分もまた、静かに歩き出しているのだと思った。




