第16話 一緒に行く?
ロンドンの話が出てからというもの、未輝の中には、言葉にしきれない揺れが残り続けていた。
未沙が本当に行くのかどうかは、まだ決まっていない。
それでも、一度生まれた可能性は、なかったことにはならなかった。
卒業の頃。
その言葉は、未輝の中に静かに沈んだまま、ときどき不意に浮かび上がってきた。
数日後、未輝はまたサロンを訪れていた。
いつものように整えられた空間。
やわらかな香り。
静かに流れる時間。
ここに来ると少しだけ呼吸がしやすくなるのに、今日は胸の奥に落ち着かないものが残っていた。
未沙はお茶を置きながら、未輝の顔を見た。
「この前から、ずっと考えているのね」
未輝は少しだけ苦笑した。
「そんなにわかる?」
「なんとなく」
未沙の声は、いつも通りやわらかかった。
問い詰めるでもなく、見透かすでもなく、ただそこにある揺れを静かに受けとめているような響きだった。
未輝はカップに手を添えたまま、視線を落とす。
「お母さんは……どうするの?」
「ロンドンのこと?」
「うん」
未沙は少しだけ黙った。
迷いがないわけではないのだろう。
けれど、その沈黙のあとに出てきた声は静かだった。
「私、ロンドンに行こうと思ってるの」
未輝は顔を上げた。
その言葉は、思っていたよりもまっすぐ胸に入ってきた。
まだ決まっていない話だと思っていたものが、急に輪郭を持った気がした。
「……そうなんだ」
それだけ言うのがやっとだった。
未沙は未輝の表情を見つめ、それから、まるで思いついたことをそのまま口にするような調子で続けた。
「未輝も一緒にいく?」
未輝は息を止めた。
一瞬、意味がわからなかった。
言葉はたしかに聞こえたのに、それが自分に向けられたものだと理解するまでに、少し時間がかかった。
「……え?」
未沙は少しだけ笑っていた。
冗談のようにも見える。
けれど、その目は冗談だけではなかった。
その一言は、水面に小さな石を投げ入れられたように、未輝の中へ落ちた。
音はほとんどしなかったのに、落ちた場所から波紋だけが静かに広がっていく。
一緒にいく。
そんなこと、考えたこともなかった。
卒業したら進学する。
あるいは日本で何かを探す。
はっきり決めていたわけではないのに、未来はなんとなくその延長線上にあるものだと思っていた。
ロンドンに行く。
未沙と一緒に。
そこで新しい生活を始める。
その発想は、未輝の中になかった。
なかったはずなのに、聞いた瞬間、ただ突飛な話としては片づかなかった。
「そんなの……」
未輝はやっと声を出した。
「急すぎるよ」
「そうね」
未沙はやわらかく答える。
「だから、今すぐ答えを聞いているわけじゃないの」
未輝は黙った。
今すぐ答えなくていい。
そう言われても、胸の内側は静かにならなかった。
むしろ、答えなくていいからこそ、その言葉はそのまま未輝の中に残った。
「日本で進学する道もあるでしょうし」
未沙は穏やかに続ける。
「向こうへ行くのが簡単なことだとも思っていないわ」
「……うん」
「ただ、そういう選び方もある、というだけ」
未輝は何も言えなかった。
そういう選び方もある。
その言葉が、また別の波紋を広げる。
今まで未輝の前にあった選択肢は、最初から形の決まったものばかりだった気がした。
進学する。
ちゃんとする。
周りが安心する道を選ぶ。
それが自然で、それが無難で、それが正しいのだと、どこかで思っていた。
けれど今、未沙はそこにまったく別の道を置いた。
しかも重たくではなく、ただひとつの可能性として。
その軽さが、かえって未輝の心を揺らした。
もし、行くとしたら。
もし、日本に残るとしたら。
そんなふうに考えたことは、今までなかった。
選ぶ前から、もう答えは決まっているような気がしていたからだ。
未輝はカップの中のお茶を見つめた。
表面は静かなのに、自分の内側だけが落ち着かない。
「私……」
言いかけて、言葉が止まる。
行きたいのか、行きたくないのか、それすらまだわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
今までの未輝なら、こんな話を本気で考える前に、無理だと決めていたかもしれない。
現実的じゃない。
ちゃんとしなきゃいけない。
普通に進学したほうがいい。
そうやって、自分の気持ちより先に、正しそうな答えを選んでいたはずだった。
けれど今は、すぐにそうは思えなかった。
未沙は急かさなかった。
答えを求めるでもなく、ただそこに選択肢を置いたまま、未輝が自分で向き合うのを待っていた。
「考えてみたらいいわ」
未沙が静かに言う。
「日本に残ることも、向こうへ行くことも、どちらが正しいかじゃなくて――どちらの未来が、あなたを少しでもわくわくさせるか」
未輝はその言葉を黙って聞いていた。
どちらの未来が、あなたを少しでもわくわくさせるか。
その問いは、未輝にとって新しかった。
正しいかどうかではなく。
失敗しないかどうかでもなく。
誰かを安心させられるかでもなく。
自分の心が、どちらへ動くのか。
そんなふうに未来を考えていいのだと、今まで本気では思っていなかった。
サロンの中は静かだった。
棚に並ぶボトルがやわらかな光を受けている。
時計の針の音さえ、今日は妙に遠く感じられた。
一緒にいく?
たったそれだけの言葉なのに、未輝の中で何かが確かに動き始めていた。
人生が動くきっかけは、もっと大げさなものだと思っていた。
決定的な出来事とか、強い衝撃とか、そういうものが必要なのだと。
けれど本当は、案外こんなふうにやってくるのかもしれない。
何気ないような顔をして。
冗談のようでもあり、本気のようでもある一言として。
こちらがまだ準備できていないうちに、静かに目の前へ置かれる。
その帰り道も、未輝の胸の中には波紋が残っていた。
一緒にいく。
その言葉を思い返すたびに、今まで見えていなかったものが、少しずつ輪郭を持ちはじめる。
日本に残る未来も見えた。
ロンドンへ行く未来も、初めて輪郭を持った。
どちらが正しいのかではなく、
どちらが自分の未来なのか。
その問いだけが、静かに胸に残っていた。
未輝は小さく息をついた。
まだ答えは出ない。
ロンドンへ行くのか、日本に残るのか、それはまだわからない。
けれど、考えずにやり過ごすことだけは、もうできない気がした。
人生が動くきっかけは、案外さりげない一言でやってくる。
未輝は静かに前を向いた。
その足取りはまだ迷いを含んでいたけれど、ただ流されるだけの歩き方では、もうなかった。




