第15話 ロンドンからの手紙
その手紙が届いたのは、サロンの予約の合間のことだった。
未沙はいつものように届いた郵便物に目を通していた。
請求書、案内状、業者からの封書。
その中に、一通だけ見慣れない海外からの封筒が混じっていた。
差出人の住所には、ロンドンの地名が記されていた。
未沙は一瞬だけ手を止めた。
海外から手紙が届くこと自体、まったくないわけではない。
けれど、こうしてあらためて異国の地名を目にすると、そこにある距離が急に現実味を帯びる。
封を切り、中の便箋を取り出す。
丁寧な文章で綴られていたのは、ロンドンにあるサロンからの打診だった。
講師として来てもらえないか――。
未沙はその一文を、すぐには飲み込めなかった。
内容を読み進めるうちに、話のきっかけもわかった。
以前、日本にいた頃に未沙の施術を受けていた女性がいた。
今はロンドンで自分のサロンを営んでいて、その彼女から講師の打診が届いたのだった。
あのとき受けた未沙の技術が、ずっと記憶に残っていたらしい。
思いがけない縁だった。
未沙は便箋を持ったまま、しばらく黙っていた。
ロンドン。
その響きは、どこか現実から少し離れた場所のように感じられた。
行ったことのない街。
知らない空気。
知らない人たち。
そこで自分が講師として立つ姿は、すぐにはうまく想像できなかった。
もちろん、うれしくないわけではない。
むしろ光栄な話なのだと思う。
自分のしてきたことが、遠い場所で誰かの記憶に残り、別の形で戻ってきた。
それは静かに胸を打つ出来事だった。
けれど同時に、その話はあまりにも突然だった。
開始時期として提示されていたのは、未輝の高校卒業の時期と、ほとんど重なっていた。
未沙はその一文の上に、視線を落としたまま動かなかった。
人生を変えるような話は、案外こういうふうにやってくるのかもしれない。
何かを決める準備が整ったあとではなく、まだ迷いも、ためらいも、日常の続きも手の中にあるうちに。
まるで、こちらの都合など待たないように。
その夜、未沙は食卓でその話を切り出した。
「今日、少し変わった手紙が届いたの」
母の声に、未輝は顔を上げた。
「手紙?」
「ええ。ロンドンのサロンから」
未輝は一瞬、意味をつかみきれないように目を瞬かせた。
「ロンドン?」
その響きは、未輝にとってもどこか遠かった。
自分の生活とはほとんど接点のない、別の世界の名前のように思えた。
未沙は静かに説明した。
以前、日本で施術を受けていた人が、今はロンドンでサロンを経営していること。
その人から、講師として来てほしいという打診があったこと。
まだ決まったわけではないこと。
五条は驚いたように「光栄な話だね」と言った。
素直な感心がその声にはあった。
未沙は少しだけ困ったように笑う。
「まだ打診の段階だけれどね」
未輝は黙って話を聞いていた。
すごい話だと思った。
未沙の仕事が、そんなふうに遠い場所へ届いていたことにも驚いた。
ロンドンでサロンを営む人が、未沙に講師として来てほしいと望んでいる。
それは誇らしいことのはずだった。
けれど未輝の心が大きく動いたのは、ロンドンという地名よりも、その次の言葉だった。
「いつ頃からなの?」
未輝はできるだけ自然な声で尋ねた。
未沙は少しだけ間を置いてから答えた。
「ちょうど卒業の頃と重なるくらいかしら」
その瞬間、未輝の胸の奥で何かが止まった気がした。
卒業の頃。
その時期を聞いた途端、ロンドンという遠い地名より先に、未沙がその頃ここにいないかもしれない、という感覚が胸に差し込んだ。
けれど未輝は、すぐにはそれを不安と呼べなかった。
応援するべき話だとわかっていたし、そんなふうに感じる自分は子どもっぽい気もした。
だからただ、ロンドンという言葉だけが妙に心に残った。
「そう……なんだ」
未輝はそれだけ言って、箸を持ち直した。
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
うれしいと言うべきなのかもしれない。
すごいね、と笑うべきなのかもしれない。
でも、そう言葉にしてしまうと、未沙が本当に遠くへ行ってしまうことまで現実になってしまう気がした。
未沙はそんな未輝の様子を見ていたが、何も言わなかった。
まだ自分でも整理のついていない話なのだろう。
軽々しく期待も不安も口にしない、その静けさがかえってこの話の大きさを感じさせた。
食後、自室に戻った未輝は、机の前に座ったまましばらく動けなかった。
卒業の頃。
その言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
高校を卒業したあと、自分がどうしていくのか。
何を選び、どこへ向かうのか。
考えなければならないことは増えているのに、まだどこか現実味を持てずにいた。
そんな時期に、未沙のほうへ先に大きな変化の話がやってきた。
もし未沙が行くことになったら。
卒業の頃、自分はどこにいて、どんな気持ちでいるのだろう。
そのとき未沙は、そばにいないのだろうか。
そう考えたところで、未輝ははっとした。
自分は、不安なのかもしれない。
ロンドンという遠い街のことではなく、
卒業という境目の時期に、未沙が今までと同じ場所にいないかもしれないことが。
けれど、その不安をそのまま認めるのは難しかった。
未沙にとって大切な機会かもしれないのに、行かないでほしいと思うのは違う気がした。
応援したい気持ちも、たしかにある。
だからこそ、その奥にある自分の心細さを、うまく扱えなかった。
人生を変えるような話は、もっと何かが整ってから来るものだと思っていた。
覚悟ができて、準備もできて、迷いも少しは片づいたあとで。
けれど実際には、そんなふうには来ないのかもしれない。
まだ何も決めきれていないときに。
まだ心のどこかが追いついていないときに。
それでも容赦なく、次の扉のようなものは目の前に現れる。
未輝はベッドに腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。
数日後、未輝はサロンを訪れた。
いつもと変わらない香り。
いつもと変わらない静かな空気。
けれど未輝には、その場所が少しだけ違って見えた。
ここが、もしかしたら今のままではなくなるかもしれない。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
「いらっしゃい」
未沙が穏やかに声をかける。
「こんにちは」
未輝はそう返したが、自分の声が少しだけ硬いことに気づいた。
未沙はそれに気づいたようでもあり、気づかないふうでもあった。
ただ、いつも通りのやわらかな距離で未輝を迎えた。
そのことが、かえって未輝の胸を静かに揺らした。
「この前の話……」
未輝はソファに座ってから、ぽつりと言った。
「ロンドンの」
「ええ」
未沙は静かにうなずく。
「どうするの?」
未輝は尋ねてから、少しためらって続けた。
「……行くかもしれないの?」
未沙は未輝を見た。
その視線はやわらかかったが、まっすぐでもあった。
「まだ考えているところよ」
未沙は静かに答える。
「急に決められる話でもないもの」
その言葉に、未輝は少しだけ息をついた。
安心したのか、まだ不安なのか、自分でもよくわからなかった。
「光栄な話だよね」
「そうね。ありがたいことだと思うわ」
「……うん」
未輝はうなずいた。
けれど、その先の言葉が出てこない。
本当は、何がこんなに引っかかっているのか、もう少しわかっていた。
ロンドンが遠いからではない。
未沙が変わるかもしれないこと。
そしてその変化が、自分の卒業の時期と重なっていること。
そのことが、未輝の中に静かな不安を落としていた。
未沙は未輝の沈黙を急かさなかった。
ただ、静かに待っていた。
「なんか……」
未輝はゆっくりと口を開く。
「卒業の頃って聞いてから、変に気になる」
未沙はその言葉を否定しなかった。
「そう」
「自分でも、何が気になるのか最初はよくわからなかった」
未輝は視線を落とす。
「でも、たぶん……その頃にお母さんがいないかもしれないって思ったからだと思う」
言ってしまうと、それは思っていたよりずっと幼い響きを持っていた。
未輝は少しだけ唇を結ぶ。
「変だよね」
「どうして?」
未沙の声は静かだった。
「だって、応援したい話なのに」
未輝は小さく言う。
「すごいことだってわかってるのに、先に不安になるなんて」
未沙はしばらく黙っていた。
その沈黙は、未輝の言葉を否定しないための静けさのようだった。
「不安になるのは、変なことじゃないわ」
やがて未沙は言った。
「大事な時期に、大事な人のことが変わるかもしれないと思ったら、心が揺れるのは自然なことよ」
未輝はその言葉を黙って聞いた。
「人生を変えるような話って、準備ができてから来るとは限らないものね」
未沙は続ける。
「むしろ、まだ迷っているときや、何も整っていないときに来ることのほうが多いのかもしれないわ」
未輝は膝の上で指先を重ねた。
その言葉は、ロンドンの話だけではなく、自分自身のことにも向けられているように思えた。
卒業も、進路も、その先の人生も。
きっと全部、十分に整ってから始まるわけではないのだろう。
「まだ、何も決めてないのに」
未輝はぽつりと言った。
「それでも時間は来るんだね」
「ええ」
未沙はやわらかく答える。
「来てしまうものなのよ」
その言い方が、不思議と冷たくは聞こえなかった。
避けられないものを、ただ静かに受けとめている響きがあった。
サロンの窓から、やわらかな光が差し込んでいた。
棚に並ぶボトルの影が、静かに床へ伸びている。
その穏やかな空気の中で、未輝はひとつ息をついた。
ロンドンの話は、まだ決まっていない。
未沙がどうするのかも、まだわからない。
けれど、その話が自分の中に何かを残したことだけは確かだった。
遠い世界の出来事のように見えて、本当に引っかかっていたのは、もっと近いところにある不安だった。
卒業という境目の時期に、未沙との距離まで変わってしまうかもしれないこと。
そのことが、未輝の心を静かに揺らしていたのだ。
人生を変える話は、準備ができる前にやってくる。
そのことを、未輝はまだうまく受け止めきれない。
けれど、受け止めきれないままでも、時間は進んでいくのだと思った。
「ありがとう」
未輝は小さく言った。
「どういたしまして」
未沙はやわらかく微笑む。
その微笑みを見ながら、未輝はふと思う。
変わるかもしれないものがあるからこそ、今ここにあるものの輪郭が少しだけはっきり見えるのかもしれない、と。
サロンを出ると、未輝は小さく息をついて、ゆっくりと歩き出した。
未来はまだ遠い。
けれど、その遠さの中に、もう自分とは無関係ではいられない何かが混じり始めていた。
未輝は静かに前を向き、そのまま歩いていった。




