第12話 完璧な娘
未輝は、周囲の期待に応えることに慣れていた。
いい子で、優秀で、感じのいい娘。
そう見られることに失敗しないよう、無意識のうちに自分を整えている。
それはもう、考えてそうしているというより、ほとんど癖のようなものだった。
朝、鏡の前で髪を整える。
制服の襟元に乱れがないかを見る。
表情が硬すぎないか、眠たそうに見えないか、ほんの一瞬だけ確かめる。
誰かに指摘されたことがあるわけではない。
けれど未輝は、そうしておくほうが安心できた。
学校では、明るく、感じよく、そつなく振る舞う。
話しかけられれば笑って答えるし、頼まれごとをされれば、できるだけ嫌な顔をしない。
成績も落とさないようにしていた。
目立ちすぎず、けれど悪く見えないように。
近づきやすく、それでいて軽く見られないように。
そういう加減を、未輝はいつのまにか身につけていた。
「未輝って、ほんとちゃんとしてるよね」
友人にそう言われて、未輝は笑う。
「そんなことないよ」
口ではそう返しながら、その言葉を否定しきれない自分もいた。
ちゃんとしているように見えることは、未輝にとって大事なことだった。
ちゃんとしていれば、安心される。
ちゃんとしていれば、好かれる。
ちゃんとしていれば、余計な心配をかけずにすむ。
そうやって少しずつ身につけてきたものが、今の未輝を形づくっていた。
けれど、ときどき思う。
その“ちゃんとしている自分”の中に、本当の自分はどれくらい残っているのだろう、と。
昼休み、教室ではいくつもの会話が飛び交っていた。
進路のこと、クラスのこと、誰かの恋愛のこと、週末の予定。
未輝もその輪の中にいて、必要なときには笑い、相づちを打ち、自然な調子で言葉を返す。
外から見れば、何ひとつ問題のない、いつも通りの未輝だった。
けれど会話が途切れた一瞬、ふと自分だけが少し遠くにいるような感覚に襲われることがあった。
ちゃんとそこにいるはずなのに、どこか薄い膜を一枚隔てて、みんなの声を聞いているような感じ。
自分も笑っているのに、その笑いが少し遅れてついてくるような感じ。
それはほんの短い違和感だった。
けれど最近、その違和感は前よりも少しずつ増えていた。
放課後、担任に呼び止められた。
「五条は本当に安定してるな」
提出物を受け取りながら、担任は感心したように言う。
「成績もそうだし、普段の様子を見ていても安心感がある」
未輝は「ありがとうございます」と笑って頭を下げた。
褒められているのだとわかっていた。
実際、それは悪いことではないはずだった。
けれどその言葉を受け取るたびに、自分が“安心できる誰か”として見られていることに、少しだけ息が詰まる。
安心感がある。
手がかからない。
ちゃんとしている。
そういう言葉は、未輝を肯定するようでいて、同時にそこから外れにくくするものでもあった。
帰り道、駅へ向かう途中で、クラスメイトの女子二人が前を歩いていた。
少し離れた場所から聞こえてきた会話の中に、自分の名前が混じる。
「未輝って、なんでもできるよね」
「わかる。ちゃんとしてるし、親も安心だろうな」
「悩みとかあっても、うまくやれそう」
悪意のない声だった。
むしろ好意的ですらあった。
未輝は足を止めることなく、そのまま歩き続けた。
けれど胸の奥に、細い針のようなものが残った。
うまくやれそう。
そう見えるのだろう。
実際、未輝はたいていのことを“うまくやる”。
波風を立てず、困らせず、失望させずに、その場に合った自分でいる。
でも、それを続けるほど、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていく気がした。
何が好きなのか。
何が嫌なのか。
何をしたいのか。
何をしたくないのか。
そういうものを考える前に、先に“どう振る舞えばいいか”が浮かぶ。
その場にふさわしい答え。
相手が安心する返し方。
感じのいい表情。
角の立たない言葉。
それらを選ぶことに慣れすぎて、本当の気持ちがどこにあるのか、自分でもわからなくなることがあった。
家でも、未輝は手のかからない娘だった。
「おかえり」
母の声に、「ただいま」と自然に返す。
食事の手伝いを頼まれれば、素直に動く。
父の何気ない問いかけにも、感じよく答える。
家の中に大きな問題はなく、未輝は親に反抗することもほとんどなかった。
両親は未輝を信頼していた。
その信頼は、未輝にとってうれしいものでもあった。
けれど同時に、その信頼を裏切らないようにしている自分にも気づいていた。
困らせないように。
心配させないように。
面倒な娘だと思われないように。
そうやって整えられた自分は、たしかに“いい娘”だったのだと思う。
でも、その“いい娘”の奥にいる自分は、だんだん声を出さなくなっていた。
ある夜、自室の机に向かいながら、未輝はふと手を止めた。
開いたままのノートの上に視線を落としながら、自分が何を考えていたのかも曖昧になる。
静かな部屋の中で、時計の音だけがやけに耳についた。
自分は、何をしたいんだろう。
その問いは、最近何度も胸の中に浮かんでは、はっきりした形にならないまま沈んでいく。
何か特別に苦しいことがあったわけではない。
誰かにひどく傷つけられたわけでもない。
むしろ未輝は、恵まれているほうなのだと思う。
それなのに、ときどき、自分の中がひどく空っぽに感じられる。
ちゃんとしている。
うまくやれている。
周りから見れば、たぶん何も問題はない。
けれど、その“問題のなさ”の中で、自分だけが少しずつ薄くなっていくようだった。
数日後、未輝はまたサロンを訪れた。
扉を開けると、やわらかな香りと静かな空気が迎えてくれる。
ここに来ると、少しだけ呼吸がしやすくなる。
何かをうまくやらなくてもいい場所のように思えた。
「いらっしゃい」
未沙が顔を上げる。
「こんにちは」
未輝は笑ってそう返した。
その笑顔さえ、いつもの癖のように出たものだった。
けれど未沙は、未輝の表情を見て、少しだけ首をかしげた。
「疲れてる?」
「え?」
「なんとなく」
未輝は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく笑った。
「そんなことないよ」
反射のように出た答えだった。
未沙はそれを否定しなかった。
ただ、静かな目で未輝を見ていた。
その視線の前では、取り繕った言葉が少しだけ頼りなくなる。
「……たぶん」
未輝は視線を落とした。
「疲れてるっていうより、よくわからない感じ」
「よくわからない?」
「うん」
未輝はソファに腰を下ろしながら、ゆっくりと言葉を探した。
「ちゃんとしてるつもりだし、別に何か失敗してるわけでもないし、困らせてるわけでもないんだけど」
「ええ」
「でも、そうやってると、自分が何を思ってるのか、だんだんわからなくなることがあって」
未沙は黙って聞いていた。
「みんなが思うような自分でいようとすると、そのほうが楽なはずなのに」
未輝は小さく息をつく。
「気づくと、何が好きで、何が嫌で、何をしたいのかも、ぼんやりしてくるの」
言葉にしてしまうと、それは思っていたより切実だった。
「空っぽになる感じ?」
未沙が静かに言う。
未輝は少し驚いたように顔を上げ、それから小さくうなずいた。
「……うん。そんな感じかも」
未沙はすぐには何も言わなかった。
急いで答えを与えるのではなく、未輝の言葉がそこに落ち着くのを待っているようだった。
「ちゃんとしていることが悪いわけではないのよ」
やがて未沙は言った。
「でも、ちゃんとしている自分だけを続けていると、ほかの声が聞こえにくくなることはあるかもしれないわね」
「ほかの声……」
「嫌だと思う気持ちとか、疲れたと思う気持ちとか、ほんとはこうしたいっていう気持ちとか」
未輝は黙ったまま、その言葉を聞いていた。
そういうものは、たしかにあったはずだった。
けれど未輝は、それを表に出す前に、いつも先に整えてしまう。
このくらいなら大丈夫。
ここで嫌な顔をするほどじゃない。
ちゃんとしたほうがいい。
そうやって、自分の小さな感情を何度も奥へ押し込めてきた。
「私、別に無理してるつもりはなかったんだけど」
「そういうこともあるでしょうね」
未沙はやわらかく答える。
「無理している自覚がないまま、そうすることに慣れてしまうこともあるから」
未輝は膝の上で指を組んだ。
その指先に、少しだけ力が入る。
「いい子でいたほうが、うまくいくから」
ぽつりと未輝は言った。
「感じよくしてたほうが、嫌われないし」
「ええ」
「ちゃんとしてたほうが、安心されるし」
「そうね」
未沙は否定しなかった。
だからこそ、未輝は続けることができた。
「でも、そればっかりだと、何がほんとの自分なのかわからなくなる」
声は小さかった。
「私、ちゃんとしてる自分のことしか、みんなに見せてない気がする」
未沙はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「見せていない部分があることと、そこに何もないことは、同じではないでしょう」
未輝はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
「……同じじゃない?」
「ええ。見えにくくなっているだけで、なくなったわけではないのかもしれない」
なくなったわけではない。
その言葉が、未輝の胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
自分は空っぽなのではなく、見えなくなっているだけかもしれない。
そう思うと、張りつめていたものがほんの少しだけゆるむ気がした。
「……私、ちゃんとしてないとだめだと思ってたのかも」
未輝はぽつりと言った。
「そうしてないと、がっかりされる気がして」
「誰に?」
未沙の問いは静かだった。
未輝は少し考えて、それから曖昧に笑った。
「……みんなに」
未沙はその答えを急かさずに受けとめた。
それから、静かな声で言った。
「失敗しないことより、失敗しても戻ってこられる子でいてくれるほうが、親は安心できるものよ。
少なくとも私はそう思うわ」
未輝はその言葉に、すぐには返事ができなかった。
失敗しないこと。
がっかりされないこと。
ちゃんとしていること。
未輝が大事にしてきたものとは少し違う場所から、その言葉は届いた気がした。
「完璧でいようとしなくても、大丈夫な場所があるといいのだけれどね」
未沙は穏やかに言った。
未輝はその言葉に、すぐには返事ができなかった。
完璧でいようとしなくてもいい場所。
そんなものが本当にあるのだろうか、と一瞬思う。
けれど少なくとも、この場所では、少しだけそれに近い気がした。
うまく笑わなくてもいい。
感じよく答えなくてもいい。
すぐに答えを出さなくてもいい。
そう思えるだけで、呼吸が少し深くなる。
未沙はそれ以上、問いつめなかった。
ただ、その曖昧な答えの中にあるものを、そのまま受けとめているようだった。
「がっかりされないように生きていると、自分が何を望んでいるのか、見えにくくなることはあるわね」
未沙は言う。
「でも、見えにくくなっているだけなら、これから少しずつ見つけていけるかもしれない」
少しずつ。
その言葉は、未輝にとって救いだった。
今すぐ全部わからなくてもいいのだと思えるだけで、胸の奥の緊張が少しほどける。
サロンの窓から、午後のやわらかな光が差し込んでいた。
棚に並んだボトルの影が、静かに床へ落ちている。
店の奥では、美咲が誰かと小さな声で話している気配がした。
未輝はその静かな空気の中で、自分の呼吸を確かめるように息をついた。
完璧でいようとすることは、たぶんもう癖になっている。
すぐには変えられないだろう。
明日になればまた、学校で笑って、感じよく振る舞って、ちゃんとした自分でいるのだと思う。
それでも、その奥にあるものまで消えてしまったわけではないのかもしれない。
そう思えたことが、今の未輝には大きかった。
「ありがとう」
未輝は小さく言った。
「どういたしまして」
未沙はやわらかく微笑む。
特別なことをしたわけではないのに、この場所では、少しだけ自分をほどいてもいい気がする。
その感覚を胸の中に抱えながら、未輝は立ち上がった。
サロンを出ると、外の空気は少し冷たかった。
けれど胸の奥には、さっきまでよりもわずかにやわらかなものが残っていた。
完璧な娘でいようとするほど、自分の輪郭は薄れていく。
けれど、薄れて見えなくなっているだけなら、きっとまた触れられる日が来るのかもしれない。
未輝は白く息を吐き、ゆっくりと歩き出した。
まだはっきりとはわからない。
それでも、自分の中にある見えにくいものへ、少しずつ目を向けていこうと思った。




