第13話 作った笑顔
笑うことは、未輝にとってもう癖になっていた。
楽しいから笑う。
うれしいから笑う。
そういうことも、もちろんある。
けれど気がつけば未輝は、それとは別のところでも笑っていた。
場の空気をやわらげるために。
相手を困らせないために。
感じのいい自分でいるために。
嫌われないように。
がっかりされないように。
そうやって選び続けてきた笑顔は、いつの間にか未輝の顔に馴染みすぎて、本当の気持ちより先に出てくるようになっていた。
朝、教室に入ると、友人がすぐに手を振った。
「おはよう、未輝」
「おはよう」
未輝は自然に笑って返す。
その笑顔は、たぶん傍から見ればいつも通りだった。
明るくて、やわらかくて、話しかけやすい顔。
けれど席に着いたあと、未輝はふと考える。
今の私は、ほんとうに笑いたくて笑ったんだっけ。
考えた瞬間、そのこと自体がおかしかった。
おはようと言われて笑って返すことに、いちいち理由なんていらないはずなのに。
でも未輝は、なぜかそこに引っかかった。
昼休み、友人たちと話しているときも同じだった。
誰かが軽い冗談を言う。
みんなが笑う。
未輝も笑う。
その場に合うように、少しだけ口角を上げる。
声を立てすぎず、でも冷たく見えないくらいには笑う。
相手が気持ちよく話せるように、うなずくタイミングも合わせる。
そういうことを、自分があまりにも自然にやっているのが、急に怖くなった。
笑う前に、考えていない。
考えるより先に、もう反応している。
それはたぶん、今まで未輝を守ってきたものだった。
その場に馴染むための術であり、波風を立てないための知恵でもあったのだと思う。
けれど今は、その“うまくできてしまうこと”が、少しだけ不気味だった。
放課後、クラスメイトにノートを貸したときも、未輝は笑って「いいよ」と答えた。
本当は、その日は少し疲れていた。
早く帰りたい気持ちもあった。
でも断るほどではない、と思った。
断って空気が変になるほうが面倒だ、とも思った。
だから笑って渡した。
相手は「助かった、ありがとう」とうれしそうに言った。
それでよかったはずなのに、未輝の胸には小さな違和感が残った。
嫌だったわけじゃない。
でも、快く引き受けたわけでもない。
その曖昧な気持ちを置いたまま、笑顔だけが先に相手へ渡っていく。
そんな感じがした。
帰宅して、洗面所の鏡の前に立つ。
制服の襟をゆるめ、髪を耳にかけながら、未輝は自分の顔を見た。
少しだけ笑ってみる。
やめてみる。
もう一度、笑ってみる。
ちゃんと、笑える。
そのことに、なぜだか胸がざわついた。
笑顔をつくれることは、悪いことではない。
むしろ今まで、それで困ったことは少なかった。
けれど、どんな気分のときでもそれなりに笑えてしまうと、今の顔が気持ちから出たものなのか、ただの癖なのか、わからなくなる。
私は、どんな顔をしていたいんだろう。
そんなことを考える自分が、少し変に思えた。
でも、考えずにはいられなかった。
数日後、未輝はまたサロンを訪れた。
扉を開けると、やわらかな香りが静かに流れてくる。
ここでは、学校のようにすぐ反応しなくてもいい。
そう思うだけで、少し肩の力が抜けた。
「いらっしゃい」
未沙が穏やかに声をかける。
「こんにちは」
未輝はそう返して、いつものように笑った。
けれど次の瞬間、自分でその笑顔に引っかかった。
「あ……」
「どうしたの?」
未沙が首をかしげる。
未輝は少し迷ってから、小さく息をついた。
「今のも、たぶん癖で笑った」
未沙は何も急がせず、静かに未輝を見ていた。
「別に、嫌だったわけじゃないの」
未輝は言葉を探しながら続ける。
「でも、笑いたいと思ったかどうかより先に、笑ってた気がして」
「ええ」
「なんていうか……ちゃんと感じる前に、もう“感じのいい反応”をしてるの」
未沙は黙って聞いていた。
その静けさに押されるように、未輝はさらに言葉を継ぐ。
「私、前はこんなこと気にしたことなかった」
「うん」
「でも最近、笑ってるときに、ときどき思うの。今のってほんとの私なのかなって」
未沙は少しだけ目を細めた。
「そう思うのね」
「うん」
未輝は視線を落とす。
「笑ってるのに、どこか自分じゃない感じがすることがある」
しばらく間があってから、未沙は静かに口を開いた。
「身についた反応なのかもしれないわね」
未輝は顔を上げる。
「人に合わせることに慣れていると、考えるより先に表情が動くことはあると思う」
未沙の声はやわらかかった。
「それで助かることも、きっとたくさんあったのでしょうね」
未輝は小さくうなずいた。
たしかに、その笑顔に助けられてきたことは多かった。
感じよくしていれば、たいていのことは丸く収まる。
余計な摩擦も減る。
未輝はそうやって、自分を守ってきたのだ。
「でも」
未沙は続けた。
「守るためのものでも、ずっとつけたままだと苦しくなることはあるわ」
未輝はその言葉を黙って聞いた。
ずっとつけたまま。
その表現が、胸のどこかに静かに触れた。
「私、笑うのが悪いわけじゃないってわかってる」
未輝はぽつりと言う。
「でも、笑ってる自分がほんとにそこにいるのか、わからなくなるの」
「ええ」
「それが、ちょっと怖い」
未沙はすぐには答えなかった。
未輝の言葉が落ち着くのを待つように、静かな時間が流れる。
「怖いと思えたのは、大事なことかもしれないわね」
やがて未沙は言った。
「今までは、それだけ自然にやってこられたということでもあるし、同時に、もう見過ごせなくなってきたということでもあるから」
「見過ごせなく……」
「ええ。自分の気持ちが、ちゃんとここにいるかどうかを」
未輝はその言葉を胸の中で繰り返した。
自分の気持ちが、ちゃんとここにいるかどうか。
笑顔の形ばかり整っていて、その中に自分がいなかったら。
それはたしかに、苦しいのかもしれない。
「じゃあ、どうしたらいいんだろう」
未輝は小さく言った。
「急に変えるのは無理だと思う」
「変えなくていいのよ」
未沙はやわらかく答える。
「ただ、今の笑顔が気持ちから出たものなのか、癖で出たものなのか、気づいていくだけでも違うと思うわ」
「気づくだけで?」
「ええ。すぐにやめようとしなくていいの。まずは、自分がどんなふうに笑っているのかを知ることからでしょう」
未輝はゆっくりとうなずいた。
それなら、できるかもしれないと思った。
無理に本音を出すのではなく、無理に笑顔を消すのでもなく、ただ自分の反応を見てみる。
それは小さなことのようでいて、未輝にとっては初めてのことだった。
サロンの窓から、午後のやわらかな光が差し込んでいた。
棚に並んだボトルの影が、静かに床へ落ちている。
その穏やかな空気の中で、未輝はひとつ深く息をついた。
笑顔は、たぶんすぐには変わらない。
これまでの自分が身につけてきたものだから、簡単にはほどけないだろう。
それでも、その笑顔が誰のためのものなのか、自分はその中にちゃんといるのか、少しずつ見ていきたいと思った。
「ありがとう」
未輝は小さく言った。
「どういたしまして」
未沙はやわらかく微笑む。
その微笑みを見たとき、未輝はふと思った。
こんなふうに、ただそこにある笑顔もあるのかもしれない、と。
サロンを出ると、外の空気は少し冷たかった。
未輝はマフラーに口元を埋めながら、ゆっくり歩き出す。
笑うことは、悪いことじゃない。
でも、笑っていれば大丈夫というわけでもない。
作った笑顔は、未輝を守ってきた。
けれど今は、その笑顔が自分を少し息苦しくしている。
だからこそ、その奥にいる自分を見失わないようにしなければならないのだと思った。
未輝は白く息を吐きながら、夕暮れの道をまっすぐ前へ歩いていった。




