第11話 見えていなかったもの
それは、未沙が旅立つ少し前のことだった。
幼い頃、時折サロンを訪れていた未輝も、もう高校三年生になっていた。
美しく、成績もよく、明るく見える未輝は、誰から見ても恵まれた娘だった。
けれどその内側では、息苦しさが静かに積もっていた。
進路を考える時期になっても、自分が何を望んでいるのか、うまくわからない。
周囲の友人たちは、すでにそれぞれの進路を現実のものとして話していた。
志望校の名前を挙げる者、推薦の可能性を見据えて動いている者、受験科目を絞り込み、模試の判定に気を配っている者もいる。
そうした会話の輪の中で、未輝は曖昧に笑ってやり過ごすことが増えていた。
「未輝はいいな、A判定ばっかり大学選び放題だもんね」
悪気なく向けられた言葉に、未輝は「どうだろう」と笑って返す。
成績がいいのだから、選べるのだから、きっと困っていないのだと思われている。
けれど、選べることと、選べるほど自分が見えていることは、同じではなかった。
放課後、教室の窓から差し込む冬の光は白く、机の上に広げた進路資料の文字を平たく照らしていた。
大学案内のページをめくっても、そこに並ぶ学部名や説明文は、どこか遠いもののように見える。
興味がないわけではない。
けれど、そこに自分がいる姿を思い描こうとすると、急に輪郭が曖昧になる。
好きなことがないわけではなかった。
得意なことも、たぶんある。
けれど、それが本当に自分の望みなのかと考えはじめると、わからなくなる。
誰かに褒められたこと、向いていると言われたこと、期待されていること。
そういうものが重なるうちに、自分の気持ちそのものがどこにあるのか、見えにくくなっていた。
帰り道、駅へ向かう人の流れに紛れながら、未輝はマフラーに口元を埋めた。
吐く息は白く、夕方の空気は乾いて冷たい。
制服のポケットに手を入れても、指先の冷えはなかなかほどけなかった。
自分は何に迷っているのだろう、と未輝は思う。
選べる道があることは、恵まれていることのはずだった。
それなのに、そのどれもが、ときどき自分を追いつめるもののように感じられる。
家に帰れば、食卓には温かい夕食が並び、家の中にはいつも通りの落ち着いた空気があった。
両親は未輝を大切に思っていたし、そのことを疑ったことはない。
だからこそ、この時期特有の進路の気配が、かえって未輝には息苦しく感じられた。
夕食の席で、父と母はいつも通りの話をしていた。
けれど会話の端々に、これから先のことを意識している気配がにじむ。
何も強く問われるわけではない。
志望校について細かく聞かれることもない。
それでも未輝は、自分の進路を気にかけられていることを感じていた。
責められているわけではない。
大切に思われているだけだ。
それがわかるからこそ、苦しいとも言いにくかった。
恵まれているのに。
ちゃんとしているのに。
選べるはずなのに。
そう思うたびに、自分の迷いは、口にしてはいけないもののように感じられた。
数日後、未輝は久しぶりにサロンを訪れた。
扉を開けると、外の冷たい空気とは違う、やわらかな温度が頬に触れた。
ほのかに漂うオイルの香りと、静かに整えられた空間。
それだけで、張りつめていたものが少しだけゆるむ気がした。
「いらっしゃい」
受付の奥から未沙が顔を上げる。
「ここに来るの久しぶりね」
「うん」
未輝はそう言って笑った。
その笑い方は、たぶんいつも通りだった。
けれど未沙は、何かを見逃さない人だった。
「学校帰り?」
「そう」
「お疲れさま」
それだけのやりとりなのに、未輝は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
何かを聞き出そうとされるわけでもなく、無理に明るく扱われるわけでもない。
ただ、そこに来たことをそのまま受け取られる感じがした。
店の奥では、タオルをたたむ音がしていた。
美咲がバックヤードから出てきて、未輝に気づく。
「あ、未輝ちゃん」
「こんにちは」
「久しぶり」
「うん」
短いやりとりのあと、美咲はまた仕事に戻っていく。
その自然さが、未輝には少しありがたかった。
気を遣われすぎると、かえって苦しくなることがある。
ここでは、そういう息苦しさが少ない。
「少し座っていく?」
未沙にそう言われ、未輝は小さくうなずいた。
待合の椅子に腰を下ろすと、窓際に落ちる冬の光が目に入る。
棚に並んだボトルや小さな器が、その光を静かに受けていた。
未沙が温かい飲み物を用意してくれる。
湯気の立つカップを両手で包むと、冷えていた指先が少しずつほどけていった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
その沈黙は気まずくなく、ただ静かだった。
「進路のこと?」
やがて未沙が言う。
未輝はカップに目を落としたまま、小さく息をついた。
「……まあ」
「そういう時期だものね」
「うん」
それだけで終わってもよかった。
けれど、その日は少しだけ、言葉がこぼれた。
「別に、すごく困ってるわけじゃないんだけど」
「ええ」
「でも、何を選んでも、これでいいって思えない感じがして」
「……」
「周りから見たら、たぶんそんなに悩むことないって思われると思う」
未輝は少しだけ笑った。
「成績もそこそこだし、家も普通だし、別に何か大きな問題があるわけでもないし」
笑ったつもりだったのに、声は少し乾いていた。
「だから、苦しいって思うのも、なんか違う気がして」
未沙はすぐには答えなかった。
未輝の言葉が落ち着くのを待つように、静かにそこにいた。
「恵まれて見えることと、苦しくないことは、同じではないでしょう」
未輝は顔を上げた。
その言葉は、思っていたよりもまっすぐ胸に入ってきた。
「……そうなのかな」
「そうだと思う」
未沙の声は穏やかだった。
「外から見えているものだけで、その人の息苦しさまではわからないもの」
未輝は何も言えなかった。
誰かにそう言われたのは、初めてだったかもしれない。
困っていないように見える。
ちゃんとしているように見える。
だから大丈夫だと思われる。
その見え方の中に、自分もずっと閉じ込められていた気がした。
「自分でも、贅沢なんじゃないかって思う」
未輝はぽつりと言った。
「もっと大変な人だっているのに、とか」
「比べなくていいのよ」
未沙は静かに言う。
「苦しさは、順番をつけるものではないから」
未輝はカップを持つ指先に少しだけ力を入れた。
湯気がゆっくりと立ちのぼっていく。
「何を望んでいるのかわからないって、変かな」
「変ではないと思う」
「でも、そろそろ決めなきゃいけないし」
「決めることと、すぐに全部わかることは、同じではないでしょう」
未輝はその言葉を胸の中で繰り返した。
決めることと、全部わかることは同じではない。
自分はずっと、正しい答えを見つけてからでなければ選んではいけないと思っていたのかもしれない。
けれど、本当はそうではないのだと、そのとき少しだけ思えた。
「見えていないだけのことも、あるのかもしれないわね」
未沙は窓際の光を見ながら言った。
「今はまだ、自分の中で名前がついていないものとか」
「名前がついていないもの……」
「ええ。好きとか、向いているとか、そういう言葉にまだなっていないもの」
未輝は黙ってその言葉を聞いていた。
自分の中に何もないのではなく、まだ見えていないだけかもしれない。
そう思うと、胸の奥の固さがほんの少しだけゆるむ気がした。
「焦って見つけようとすると、かえって見えなくなることもあるから」
未沙は続ける。
「ちゃんと見ようとすることだけでも、今は十分意味があると思う」
ちゃんと見ようとすること。
その言葉は、未輝にとって思っていたよりやさしかった。
何かにならなければいけない。
答えを出さなければいけない。
そういう言葉ばかりを自分に向けていた気がする。
けれど未沙の言葉は、まだ答えのない自分を、少しだけそのまま置いてくれるものだった。
「……そっか」
未輝は小さく息をついた。
「私、自分のこと、ちゃんと見てるつもりで、見てなかったのかも」
未沙はやわらかく笑った。
「そういうことは、よくあるでしょうね」
店の奥で、美咲がタオルを棚に戻す音がした。
外では車の走る音が遠くに聞こえる。
サロンの中には、いつもの静かな時間が流れていた。
未輝はカップの中の残り少ない飲み物を見つめた。
進路のことが解決したわけではない。
明日になればまた、学校で同じような話を聞くだろう。
家に帰れば、現実は変わらずそこにある。
それでも、さっきまでとは少しだけ違っていた。
自分の苦しさを、すぐに否定しなくていいのかもしれない。
まだ見えていないものがあるのだとしても、それは空っぽだということとは違うのかもしれない。
そのことを思うだけで、呼吸が少し深くなる気がした。
「ありがとう」
未輝は小さく言った。
「どういたしまして」
未沙はいつも通りの静かな声で答える。
特別な励ましがあったわけではない。
何かが劇的に変わったわけでもない。
けれど未輝には、その時間が確かに何かをほどいてくれたように思えた。
見えていなかったものは、外にある答えではなく、自分の中にまだ名前を持たないまま残っているものなのかもしれない。
サロンを出るころには、外の空気はすっかり夕方の冷たさに変わっていた。
未輝はマフラーを整え、扉の前で一度だけ振り返る。
店の中には、やわらかな光が落ちていた。
自分はずっと、見えているものだけで自分を決めようとしていたのかもしれない。
成績や期待や、周りからどう見えるか。
けれど本当に大事なのは、まだうまく言葉にならないもののほうなのではないか。
そう思えたこと自体が、今の自分には小さな救いだった。
未輝は白く息を吐いて、駅へ向かって歩き出した。
進む先はまだはっきりしない。
それでも、見えていなかったものに目を向けようとする気持ちだけは、確かに自分の中に生まれていた。




