7.鼻血と飯田ペッシ
【辰守晴人】
──登校前の相談にて。
「フーを学校に連れて行く!? 狂気かお前!?」
「正気かどうかを疑いなさいよバカハレ! ぶっ飛ばすわよ!」
「だいたい、どうやって連れてくんだよ」
「龍奈に成り済ませばいいじゃない。龍奈ずっと学校行ってないし、アンタと同じクラスだし」
「いや、いやいや! 龍奈さん。バレるよ」
「大丈夫よ。ちゃんと制服も持ってくるから、せいぜい首を洗って待ってなさい!」
「首を長くして、な。俺が殺されるみたいになってんぞ」
そもそも、小柄な龍奈の制服がフーに合うとは思えない。
そう指摘すると、龍奈はふっと遠い目をした。
「高校入ったら伸びると思って、大きめの買っといたのよ。一ミリも伸びなかったけどね……」
「悲しいエピソードパートⅡかよ」
そして現在。
「──で、この時の木こりの心情だが。轟、お前分かるか?」
現国の教師が、黒板に書いた『木こり』から矢印を引きながら言った。
窓際の席に座るフーは、しばらく黒板を眺めていたが、数秒遅れて俺を見た。
そうです。今呼ばれたのは君です。
「……何でもいいから、思ったこと言っとけ」
困ったように俺の方を見つめるので、隣の席から小声で教える。
もっとも、教室中の注目が集まっているので、多分小声だろうがみんなに聞こえている。
「えっとね、これは多分──」
「轟、その、すまんが立ってから答えてくれるか?」
座ったまま話し始めたフーに、教師が控えめに言った。
半年ぶりに登校した生徒への気遣いなのか、どことなく腫れ物を扱うような口調だ。そんなになるなら無理して当てなくてもいいだろうに。
「立つ? ハレ、立って答えたらいいの?」
「ああ。答え終わったら、また座る」
なるほど、と頷いてフーが立ち上がる。
本人は楽しそうだが、俺としてはさっきから周囲の視線が痛い。
なんで一緒に登校してきたのか。
二人はどういう関係なのか。
そもそも本当に轟さんなのか。
不良だと怖がられていなければ、今頃質問攻めになっていたことだろう。今日ばかりは悪評に感謝するべきかもしれんな。
「んー、木こりは、多分お昼ご飯のこと考えてたんじゃないかな?」
「……お昼ご飯?」
「うん。朝ご飯を食べたって、どこにも書いてなかったから」
教師は教科書とフーを交互に見た。
「轟。目の前で人が熊に襲われてるのに昼飯のことを考えてたとしたら、木こりはきっとサイコパスだぞ」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
俺も先生と同意見だ。
その木こりには、ぜひ人命救助に専念していただきたい。
フーはきょとんとしていたが、教師に促されて椅子に座ると、俺に顔を寄せた。
「違った?」
「……違うとは言いきれんが、もうちょっと木こりの目の前で起きてることを気にしてやってくれ」
本当に、こんな調子で大丈夫なのだろうか。
* * *
四限の終了を告げるチャイムと同時に、教室が騒がしくなった。
食堂へ走る奴、購買へ向かう奴、机をくっつけて弁当を広げる奴。
俺はいつも自分の席で黙々と食べるのだが、今日はそうもいかない。
フーが椅子ごと俺の真ん前に移動してきて、机を半分占領したからだ。
「ハレー、やっとご飯の時間だね! 私、じゃなかった、龍奈もうお腹ぺこぺこだよー」
今朝俺が用意した弁当箱を置いて、歌うように言う。
制服姿のフーは、正直、ドキリとするくらい可愛い。
しかし鼻の下を伸ばしている場合ではない。目を離せばいつボロを出すか分からないからな。
まあ、一人称が私だろうが龍奈だろうが、誰も気にしないと思うけど。
「フ……龍奈は食いしん坊だからな。いっぱい食えよ」
俺も人のことは言えなかった。
そもそも二人が正反対すぎる。この太陽みたいな笑顔に向かって龍奈と呼ぶのは、何というか、違和感が──
これ本人に言ったら殺されるな。
「いただきます!」
フーは元気よく両手を合わせると、猛烈な勢いで弁当を食べ始めた。
よほど腹が減っていたらしい。
木こりまで食いしん坊にされた理由が分かった気がする。
「ハレが作ってくれたお弁当、おいしいねー」
ほっぺたに米粒をつけたまま、フーがくしゃっと笑った。
なんだこれ。可愛すぎやしないかこの生き物。
「そりゃどうも。けど落ち着いて食えよ。ほっぺがおっちょこちょいになってんぞ」
俺は米粒を取って、ほら、と見せてやった。
直後、妙な視線を感じて顔を上げる。
少し離れた席の女子たちが、何やらニヤニヤしながらこっちを見ていた。
しまった。つい家にいる時のノリで──
引っ込めようとした指先に、フーがぱくりと食いついた。
「ん、おいしい」
教室の端で、ひときわ高い声が上がる。
決定打だった。
完全に、デキてると思われた。
もはや何を言っても言い訳にしかならないだろう。
「ハレ、学校って楽しいね!」
当の本人は周囲の反応など気にせず、タコさんウインナーを持ち上げている。
そして、今度は声をひそめた。
「こんなに楽しいのに、何で龍奈は来ないんだろう?」
「……さあな。いろいろ事情があるんじゃねえの」
龍奈が学校に来たのは、入学してから最初の三日だけだ。
何か問題を起こしたとか、病気になったとか、そういう話を聞いた覚えはない。ただ、突然来なくなったのだ。
当時、俺は家が近いという理由で、龍奈の家へプリントを届けていた。
玄関に出てきたのが、俺の借りた家の大家──三龍軒の店長だったのだ。
何度か通ううちに親しくなり、そのまま店でバイトをすることになった。龍奈とまともに話すようになったのも、それからだ。
半年も付き合っていて、あいつのこと案外何も知らないんだよな。
何も知らないといえば、目の前のフーにしてもそうだ。
「なあ。俺に会う前、どこで何してたか何か思い出せないか?」
フーが魔女だと分かったのは昨日。
それ以外のことは、相変わらずさっぱりだった。
既に何度かした質問だが、フーは箸を止めて、真剣に考え始めた。
「……水の中にいた気がする」
「水?」
初めて、『分からない』以外の答えが返ってきた。
「うん。お風呂みたいな、お湯の中。あとは雨がいっぱい降ってて……あの、辛い水、何だっけ?」
「海か?」
「それ! 海に落ちたの」
フーはそこで言葉を切った。
さっきまで軽快に動いていた箸が、弁当箱の上で止まっている。
「……あとは、分かんない」
「ほかに何か、覚えてないか?」
フーは顔を伏せ、眉間を指でぐりぐりした。
急かさないように待っていると、やがて小さく顔を上げた。
「お湯の中にいた時、誰かが言ってた気がする」
「何を?」
「……アイビス、って」
聞き覚えのない言葉だった。
「アイビス?」
「うん。でも、何のことかは分かんない」
人の名前なのか、場所なのか。
そもそも、その記憶がどの順番に起きたことなのかも分からない。
ただ、風呂に入っていたら海へ落ちた、で済む話ではなさそうだ。
フーはしょんぼりと眉を下げ、唇を突き出した。
「ごめんね、ハレ」
「いや、謝ることじゃねえよ。無理に思い出さなくてもいいから」
俺は弁当箱を指さした。
「とりあえず、飯食っちまおう。邪魔したの俺だけど」
「ハレは邪魔じゃないよー。それに私、あ、龍奈もう全部食べたもん」
弁当箱には、ブロッコリーだけが残っていた。
早い。早すぎる。
もしかして早食いの魔法とかあるのだろうか。
そういえば、櫻子もこんなペースだったっけ。
「……それも食ってからな」
ブロッコリーを見つめて固まるフーに、俺の弁当も半分やることにした。
* * *
フーを連れた初めての学校が終わり、俺は三龍軒へ寄った。
バイトの開始を、一時間ほど遅らせてもらえないか相談するためだ。
これまでは午後五時から十時まで働いていたが、今は少しでも長くフーと一緒にいた方がいいだろう。
「ちょっと話してくるから、ここで待っててくれ」
「うん!」
バスを降りた俺は、フーを停留所のベンチに座らせた。
店長にまでフーのことを知られると、何だか面倒なことになりそうな気がする。
龍奈にも、絶対にバレるなと釘を刺されてるし。
道路を渡ると、ちょうど店のドアが開いた。
「ん、ハレか。もう出勤してきたのか?」
店長が入り口で足を止める。
相変わらず、客商売に向かない仏頂面だ。
「おはざーす。シフトのことで相談なんスけど、しばらく出勤時間を遅くしてもらえますかね?」
俺はベンチが店長の視界に入りにくい位置へ、さりげなく立った。
「そうか。ちょうどいい」
店長は少し間を置いてから言った。
「今、店がごたついててな。一週間くらい閉めようと思ってたんだ」
「え、何かあったんすか?」
「まあ、ちょっとな」
太い腕をほどき、頭の後ろをがしがしと掻く。
「次に開ける日の目処が立ったら、龍奈に伝えさせる。それまでは悪いが、休みにしといてくれ」
これまでのバイト代もそれなりにあるから、一週間くらいなら金の心配はない。
フーを一人にしなくて済むし、こちらとしても都合はいい。
「……そういうことなら、了解っス」
「おう。お疲れさん」
店長はそれだけ言って、店内へ引き返した。
閉まるドアの隙間から、店の中が一瞬見えた。
いつもより、やけに散らかっている。
模様替えでもしているのだろうか。
ドアが閉まってから、ふと思った。
そういえば店長、何か用事があって外へ出てきたんじゃなかったのか。
* * *
「おいフー。洗濯するから、制服出してくれないか?」
帰宅後、俺は二階の部屋をノックした。
以前は俺の寝室だったが、今はフーの部屋になっている。
「んー、分かったー!」
テレビの音に混じって返事がした。
フーは相変わらずテレビがお気に入りらしい。
家に着くなり階段を駆け上がり、俺も一緒に見ようと誘われたのだが、そうすると誰も家事をしなくなるので断念した。
しばらくして、ドアが開く。
「はい、制服だよー!」
丸めた制服を差し出すフーは、下着姿だった。
「ちょっ、お前、着替えてから──」
慌てて顔を背け、半歩下がる。
──が、そこに床はなかった。
「うおっ!?」
足が空を踏んだ。
背中が段差にぶつかり、視界がぐるりと回る。
そのまま俺は、文字通り階段を転がり落ちた。
「ハレ!? 大丈夫!?」
一階で仰向けになった俺のそばへ、フーが慌てて駆け下りてくる。
返事をする間もなく肩を掴まれ、ものすごい勢いで揺さぶられた。
脳が。俺の脳が揺れている。ついでにフーの胸もゆっさゆっさと……
「ちょ、やめ、大丈夫! 大丈夫だから!」
「ほんと? でも、血が出てるよ!」
鼻の下を拭うと、指先が赤くなった。
どこかにぶつけたらしい。断じてフーの胸を見たせいじゃない。断じて。
鼻血はともかくとして、背中も痛いし、頭もぐらぐらする。
頭がよく回らないけど、まずはフーに服を着てもらって、それから──
「ハレ! 学校どうだった!?」
玄関の方から、聞き慣れた声がした。
まずい。
昨日、一昨日のパターンからすると、この後に起きることはほぼ決まっている。
廊下に顔を出した龍奈が、こちらを見て固まった。下着姿のフーに抱きつかれて、鼻血を出している俺をだ。
龍奈さんの笑顔が、ゆっくりと消えていく。
「ま、待て龍奈! 誤解なんだ!」
ここ最近よく言うセリフであり、同時に役に立った試しのないセリフでもある。
そしてやはり今回も──
「この変態!」
立ち上がりかけた俺に、龍奈の回し蹴りが炸裂した。
* * *
「それにしても、ケガを治せるなんて便利な魔法よね。次からはもうちょっと強めに蹴ろうかしら」
「発想がサイコパスかよ」
十分後。
どうにか誤解を解いた俺は、居間でフーの治療を受けていた。
もちろん、今はちゃんと服を着ている。
龍奈は文句を言いつつ、壁に飛び散った血を雑巾で拭いていた。
龍奈がやると何かの証拠隠滅にしか見えないな。
「はい、治ったよー!」
フーが手を離す。
さっきまでの痛みが、嘘のように消えていた。
「ありがとな、フー」
頭を撫でると、フーは嬉しそうに目を細めた。
「治ったんなら手伝いなさいよ!」
直後、濡れ雑巾が俺の顔面に飛んできた。
スパーン、といい音がする。
音以外は全然よくない。
「ねえ、フーちゃん。龍奈、ちょっとバカハレと話があるから、二階でテレビ見て待っててくれる?」
俺が顔を押さえている間に、龍奈は打って変わって優しい声を出した。
「はーい! 終わったら呼んでねー!」
フーが階段を駆け上がっていく。
「……いってぇな、急に何すんだよ」
「そんくらいで大げさなのよ。さっさと起きなさい」
促されるまま、俺は椅子に座った。
治してもらったばかりの顔が、もうひりひりしてやがる。
「で、話って?」
「……その、言い出ぺっしの龍奈が言うのも、何だけど」
いつになく神妙な顔だった。だから俺も神妙になって返した。
「言い出しっぺ、な」
「……? ちゃんと言ってるでしょ。言い出ぺっし」
「……そうか」
俺の頭の中に、サッカーのユニフォームを着た飯田ペッシという男が浮かんだ。
今は帰っていただこう。
「フーちゃんを学校に連れていくの、やっぱりやめた方がいいかも」
俺は龍奈の顔を見直した。
あれだけ強引に話を進めた本人が、今さら何を言い出すのか。
「……何でだよ?」
「アンタもしばらく学校休んで、家でフーちゃんとおとなしくしてなさい」
「いや、待てよ。急にどうしたんだよ。何かあったのか?」
龍奈は目を合わせなかった。
「別に。龍奈のフリして学校なんか行って、バレたら面倒でしょ」
「それ、俺が最初に言っただろ」
「いいから!」
テーブルの上で、龍奈の手がぎゅっと握られた。
「死にたくなかったら、黙って言うこと聞きなさいよね!」
声に押されて、俺は口を閉じた。
怒鳴られるのはいつものことだ。
殺すだの死ねだのも、龍奈との間じゃ日常会話だ。
けど、今のは違った。
龍奈もそれに自分で気づいたのか、はっとした顔をした。
「……ごめん」
小さく呟き、俯く。
二階から、テレビの笑い声が聞こえた。
居間にいる俺たちは、しばらく何も言わなかった。
しばしの沈黙の後、目線を龍奈に戻すと龍奈の顔色が少し悪い事に気がついた。
俺は椅子から立ちあがって、そばへ寄った。額に手を伸ばす。
「ひゃっ!? な、何よ!」
「いや、顔色悪いし。熱でもあるのかと思って」
聞いたこともない声を出されて、こっちまで妙に恥ずかしくなった。
その時、前髪に触れた指先に、何かが引っ掛かった。
「……お前、怪我してんじゃねえか」
額の右上に、絆創膏が貼ってあった。
前髪に隠れて、今まで気づかなかったのだ。
「うっさいわね。家の鴨居にぶつけただけよ」
「お前の身長で、どうやって鴨居に頭ぶつけるんだよ」
「うるさいわね! どこで怪我しようが龍奈の勝手でしょ!」
俺の手が振り払われた。
龍奈はそそくさと前髪を直して、また顔を伏せる。
さっきの店長の曖昧な返事。
散らかっていた店内。
急に話をひっくり返した龍奈と、額の怪我。
根拠はないけどどうも無関係には思えなかった。ただ、それを確認出来るような雰囲気でもないし、もやもやした気持ちだけが膨らんでいく。
「……自分の怪我なんだから勝手かもしれねえけど、隠すなよ。心配するだろ」
胸に居座る不満のせいか、思ったよりきつい言い方になった。
けど、龍奈は何も言わなかった。
「……きょ、今日はもう帰るから」
椅子を引き、龍奈が立ち上がる。
「おい、龍奈」
「とにかく、しばらく家から出るんじゃないわよ」
顔を伏せたまま、足早に居間を出ていった。
玄関の扉が閉まる。
少しして、鍵を掛ける音も聞こえた。
あんなふうに出ていっても、鍵はちゃんと掛けるんだな。
俺はしばらく、閉まった居間のドアを見ていた。
フーの楽しそうな声が、二階から聞こえる。
今日の学校のことを話そうと思っていたのに、龍奈には何も話せなかった。
「……明日、学校休むか」
一人になった居間で、俺は呟いた──




