6.好きと愛
【辰守晴人】
──まぶた越しに、ほんのり温かい光を感じて目を覚ました。
天井。見慣れた我が家の、自分の部屋の天井が俺を見下ろしている。全身が虚な感覚で、目覚めの余韻が心地いい。
──シュルリ、と衣擦れの音がそばで聞こえた気がした。
まあ、気がしただけだからそんな些細なことはすぐにまどろみに溶けていった。今はまだ、もう一眠りしたい気分だ。
「……むぅ、これ、どうやって取るの?」
はっきりと聞こえた声。これは女の声だ。
途切れ掛けていた意識が覚醒した。
「……っだ、誰だ!?」
──目の前には裸の女の子がいた。
正確には女の子はフーで、裸というか、下着姿なのだが、俺にとってはもはや裸と一緒だ。
しかも、俺の方を見て固まったフーは、よく見ると手が下着にかかっており、今まさに、本当に裸になる一歩手前らしかった。
「ハレ! よかった、目が覚めたんだね!」
一瞬固まっていたフーが、ものすごい勢いで俺に抱きついてきた。上体を起こしていた俺はフーに押し倒される形で再びベッドに身体を沈める。
肌と肌が直接触れ合う艶かしい感覚が全身を駆け巡る。
今気づいたが、何故か俺も服を着ていなかった。
「いや、ちょっと待て! 落ち着け! 何で服を着てないんだよ俺もお前も! ていうかなんか濡れてないかお前!」
「えっとね、さっきお風呂入った時に濡れちゃったの。気持ち悪いから取りたいんだけど、コレ取り方わかんない。ハレ取ってくれる?」
フーは俺の胸に片手をついて馬乗りの態勢になると、空いた方の手でブラジャーをグイグイと引っ張った。
引っ張られるブラジャーに合わせて胸が大きくたゆむ。
出来るだけフーの方を直視しないようにしながら俺は今起きていることの状況把握に努めた。
「ふ、風呂って、なんで!?」
「だって、ハレが血だらけだったし、汗もすごかったから。龍奈は汚れたらお風呂で綺麗にしないとダメって言ってたよ?」
「……血?」
──俺が、血だらけ?
不意に自分の手についた真っ赤な血の映像が頭を過った。
「……そうだ、魔獣。ケガしたんだよ、腹から血が出てて……」
俺は次々蘇ってくる記憶を追いながら、恐る恐る、フーが跨っている自分の腹を見る。
──無い。傷も血の跡も、何もなかった。
いったい何故? あれは夢だったのか、否、そんなはずはない。身体から血が失われていく感覚、まだしっかりと覚えている。あれは夢なんかじゃない。
でも、だったらどうして俺はまだ生きていて、傷が無くなっているんだ?
それに、俺が逃したあの姉妹、ミユちゃんとミクちゃんは無事なのか?
「ごめんね、ハレ。私のこと助けてくれて、それでケガしたんだよね」
考え込んでいると、フーが心配そうに俺の顔を覗き込みながらそう言った。
「ケガって、やっぱりあの時俺、腹から血が出てたよな」
「うん、お腹のケガは治ったんだけど、血がいっぱい出てて、だから血を分けてあげないとって思ってね、私の血を飲ませたの」
よく、理解できない箇所があった。
お腹のケガは治ったんだけど?
私の血を飲ませたの?
だめだ、全く意味が分からない。
「ケガは、どうやって治ったんだ?」
「私が治したよ」
「じゃあ、なんで血を飲ませたんだ?」
「むぅ、なんだか、そうしなきゃいけないと思って」
順番に、丁寧に聞いてみたがそれでも尚分からない。
フーがケガを治した? そんなことはありえない──はずなんだが、実際に怪我は消えている。
「あ、ハレここもケガしてる。すぐ治してあげるね」
フーが何かに気づいたように、俺の左手を掴んで人差し指をツンツンとつついた。
見ると指の腹がパックリと切れていた。
不思議と血は出ていないし、つつかれるまで痛みも無かったから気がつかなかった。
「治すって、どうやっ……」
突然俺の手が、指が、白い光に包まれた。
光はフーの手から発していて、すこし温かい。
目に見える速度で、俺の指の傷がみるみる塞がっていった。
「……嘘だろ、これって、魔法……!?」
俺が路地裏で助けた少女。
名前も、何処から来たかも、何もかもが謎に包まれた少女に、ようやく確かな情報が加わった。
「……フー、お前魔女だったのか」
「……? 私はマジョ? じゃなくてフーだよ?」
やはりというか、残念ながらというか、フー本人は自分が魔女だということを覚えている様子はない。
というか、魔女と人間の違いすら認識していないようだ。
「うぅ、寒い。でも、ハレの身体あったかいね」
混乱する俺に追い討ちをかけるように、馬乗りになっていたフーが再び俺に抱きついてきた。
フーのたわわに実ったたわわ様が、しっとりと水に乗れたブラジャーごしに俺の胸板に押し付けられる。
心臓の鼓動がフーにも聞かれちまうんじゃないかと思う程に激しく脈打って、行き場を見失った両手はみっともなくフーの背中の辺りでぎこちなく固まっている。
いや、まずいだろこれは。
一応俺も男なわけで、男と女なわけで、そして裸と裸なわけで、肌と肌なわけで、つまり何がまずいかっていうと、ナニがまずいことになるかもしれないわけでね!?
「──ハレ、フーちゃん! 居るの!?」
──そしてもし突然、こんな感じに龍奈とかが部屋に入ってきてこの光景を見たら、間違いなく誤解を生むわけでね……。
「……っりゅ、龍奈!? 待て、誤解なんだ!」
「……死ね」
龍奈の逆水平チョップが炸裂した──
* * *
「子供たちは無事だったわよ」
かなり痛い目にあいつつもなんとか誤解を解き、その後居間でテーブルを囲むなり龍奈はそう言った。
「ミユちゃんとミクちゃん。お母さんにも会えたし、龍奈がちゃんと確認したから」
「……よかった」
大きな息と共に、テーブルについた両手からも力が抜ける。
俺はあの2人を最後まで連れていけなかった。
魔獣が迫る中、走れと言って手を離したのだ。
「……ほんとによかった」
隣に座ったフーもほっとしたように笑った。陽だまりのような暖かい笑顔である。
ちなみに現在、フーはきちんと服を着ている。さっき龍奈が手伝ってくれたからである。
人前でむやみに服を脱いではいけない、とこっぴどく怒られ……教えられている声が、扉越しにもよく聞こえた。
「それにしても、フーちゃんが魔女だったとはね。薩長仰天よ」
「それを言うなら吃驚仰天な。薩摩と長州に何があったんだよ」
「な、いちいち細かいのよ! だいたい伝わればいいでしょ!?」
伝わるまでに、一回歴史を経由したけどな。
「龍奈、心配かけてごめんなさい」
フーが頭を下げた。
龍奈はふん、と鼻を鳴らして腕を組み、椅子の背にもたれる。
「ほんとよ。急にいなくなるし、ハレは連絡つかないし」
「いやほんと悪かった」
「龍奈、病院まで探しに行ったんだからね」
「あら病院も?」
「あら病院もよ! 倒れてた女の人に付き添ったの。その人の子供たちは見つかったのに、アンタたちはいないし」
指先が、組んだ腕をとんとん叩く。
「放り出した荷物だって龍奈が回収したんだからね!?」
「……う、すっかり忘れてた」
「なのに、先に帰ってるし。しかも、あんな──」
「そこは本当に誤解だから!」
龍奈が持ち帰ってくれた袋には、買い揃えた服や日用品が入っていた。
今フーが着ているのも、その一つだ。
ちなみに龍奈には、俺が危うく死にかけたことは言えなかった。
態度はこんな感じでいつも通りに見えるけど、実際はすごく心配をかけたことくらい俺にもわかってる。だから、これ以上余計な心配をかけたくはなかったのだ。
なので龍奈には、フーにちょっとしたかすり傷を治してもらった所だけを切り取って説明した。
「ほんとアンタってスケベなんだから……だいたい、そういうのは好きな人同士じゃないと駄目なんだからね!?」
数瞬、物思いにふけっていたが、龍奈の説教はまだ続いていた。誰がスケベだ誰が。
怒鳴られなくても俺だってそういう事は好きな人同士でしかするつもりはないし──
「私はハレのこと好きだよ?」
フーがポロリとそう言った。
湯呑みを持つ俺の手が止まる。
「ハレは違うの?」
なんという純粋な瞳……思わず言葉に詰まってしまう。
「フ、フーちゃん? そういう好きとは違うのよ!?」
龍奈がテーブルに身を乗り出した。
「龍奈が言ってるのは! そう、ラブなのよ!つまり」
危うくお茶を吹くところだった。
そう、ラブなのよ。つまり。ときたもんだ。
だめだ笑うな。
今笑ったら、俺の命が危ない。命は惜しいだろ辰守晴人!!
「知ってるよ?」
しかし、フーは少しも躊躇わずに追撃の一手をぶちかました。
「私の好きは、愛してるの好きだよ」
盛大にお茶を吹いた。
* * *
午後六時を過ぎ、窓の外はすっかり暗くなっていた。
俺はテーブルを拭きながらも、フーと龍奈、2人の様子を盗み見るようにうかがった。
「誰かのことが大好きで、ずっと一緒にいたいのが、愛してるってことでしょ?」
壁掛け時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
「それで、ずっと一緒にいようねって約束するのが結婚」
「……どこで覚えたんだ、それ」
「んーミユちゃんとミクちゃん!」
どうやら公園で恋バナをしたらしい。
最近の子供、進みすぎじゃない?
「えっと、それで結婚して、パパとママになったら、子供ができるんだよね」
「厳密には子供ができたらパパとママになるんだけどな」
「黙ってなさい、バカハレ!」
訂正しただけで怒られた。すみません。
「私、ハレとずっとずーっと、一緒にいたいから。これって愛してるってことでしょ?」
フーは照れもせず、眩しいくらいの笑顔でそう言った。なんだか後光が指しているように見える。天使かな?
そして、天使様にそんなことを言われた俺はと言うと、正直悪い気はしない……というか、なんなら嬉しい。
昨日会ったばかりなのにとか、助けたから懐いているだけじゃないのかとか、考えることは色々あった。あったのだが、この笑顔の前ではどれも意味が薄れてしまいそうになる。
そして、龍奈は龍奈で忙しそうだった。
「でも! でもね!? 一緒にいたいからって、それが必ず愛とは限らないでしょ。龍奈だって、このバカハレとはそれなりに長く付き合いがあるわけで──」
「龍奈も、ハレのこと愛してるの?」
「愛っ!?」
龍奈の声が裏返った。わかるよ。あまりに的外れだもんな。
「ないない」
俺が笑うと、龍奈がこちらを向いた。
「龍奈もハレと結婚したいの?」
「け、けけ、結婚!?」
龍奈が椅子ごと後ずさる。わかるよ。あまりにも以下略。
「はは、ありえねえな」
机をばんばん叩くと、今度は睨まれた。
フォローしてるんだから、ちょっとうるさくしただけでそんな顔するなよな。
「でも、結婚は二人しかできないんだよね。好きな人、皆でできたらいいのに」
「おお、ミユちゃん、そこまで教えてくれたのか」
「うん。重婚は、痴情のもつれで昼ドラだって……」
「もはや俺より色恋沙汰に詳しい可能性あるな、ミユちゃん」
「ハ、ハレ! アンタも何とかしなさいよ!」
「いや、何をどうしろってんだよ」
俺は肩をすくめた。
「あーあ、モテる男はつらいなあ……ふげっ!?」
ものすごい勢いで濡れ布巾が飛んできた。
ごめんなさい。
調子に乗りました。
「……この話はもういいわ」
俺が額を押さえている間に、龍奈は椅子を引き戻した。
「それより、月曜からどうするつもり?」
「何が?」
「学校よ。バイトもあるでしょ。フーちゃんは?」
あ。
「……留守番、とか」
「は? フーちゃんを長時間一人にするつもり!? バカなの?!」
「ですよね」
昨日、面倒を見ると決めたときは、そこまで深く考えていなかった。
ものの一日で、フーは自分の言葉で愛を語るようになった。
が、翻ってその好奇心と学習意欲は、気になったら確かめずにいられないということでもある。
はたしてそんなフーに、留守の番が務まるのか……否。窓の外に猫を見つけようものなら、飛び出してついていきかねない。
「ハレ、私もガッコ行きたい〜!」
隣を見ると、フーがこちらを見ていた。
「学校?」
「うん。ハレと一緒がいい」
まったく、簡単に言ってくれる。
まあ簡単にできるならどうにかしてやりたくなる頼みではあるんだが。
「……何も考えてないなら、龍奈が案を出してあげてもいいわよ」
「それは誰も血を流さない案ですか?」
「アンタもう殺したから」
「だからなんで過去形なんだよ!」
龍奈が、ふんと鼻を鳴らした。
この顔には、ろくな予感がしない。
でも、俺には代案がなかった。
聞くだけ。
とりあえず、聞くだけ聞いてやろうではないか──
* * *
〜月曜日の朝〜
予鈴の鳴り終わった廊下を、俺たちは足早に歩いていた。
普段なら、とっくに席に着いている時間だ。そう、普段ならな。
早く行けばそれだけ質問される可能性が上がる。
だからなるべく何も聞かれないよう、朝のホームルーム開始のギリギリの時間を狙ったのだ。
一年三組。
教室の前にたどり着き、隣を見た。
一周まわって不安になるほどにこにこしている。
「……打ち合わせ通りにな」
頷いた手を取り、扉を開ける。
担任だと思ったのか、教室の視線が一斉に集まった。
『誰?』
『手、繋いでる』
『外国人じゃない?』
『おい、あんま見るなって……』
聞こえないふりをして、教室の最後列へ向かう。
二つ並んだ空席。
そこへ座ったところで、本鈴が鳴った。
間もなく、担任が入ってくる。
「はーい、号令ー」
しわのついたジャージ。
片手の孫の手で、肩をぽんぽん叩いている。
起立。
礼。
着席。
隣のコイツも、ちゃんと周囲に合わせて同じように動いた。よしよし、いいぞ。
「……あれ。辰守、席そこだっけ?」
担任が首を傾げた。
「てか、隣のは誰?」
来た。
「何言ってるんですか。轟ですよ。轟龍奈」
教室がざわついた。
入学から三日で不登校になった轟龍奈。
その名前を覚えている奴は、思っていたより多かったらしい。
なんで今になって。
なんで辰守と一緒に。
声にされなくても、視線で分かる。
「おー、轟か。久しぶりだな」
担任が、こちらを見る。
「まあなんだ……さっきのは冗談だ。もちろん教え子のことはしっかり覚えてたぞ先生は。うん……その髪、どうした?」
綺麗な、天然の金髪。まあ当然聞かれるよな。
「染めました」
隣から、明るい返事。
「ほー綺麗に染まるもんだな」
担任が頷く。
いけるか……いや、いってくれないと困る。
「……でも轟って、もっとこう……小柄じゃなかったか?」
さすがに、数日会っただけでも覚えているらしい。
でも、それも想定内だ。
「伸びました」
即答。
「まあ……まだ高一だしな」
そんなことでいいのか。
いや、いい。今はその調子で頼む。
「でも、そんな外国人みたいな顔だったっけ?」
「メイクです」
笑顔で、即答。
担任は怪訝な顔つきで少し考えた。
俺も、思わず息が詰まった。
「あー、なるほど。そう言われりゃ、轟はそんな顔だったな。大丈夫、ちゃんと覚えてたぞ先生は」
本当によく見ろよ。
喉まで出かかったツッコミを、必死に飲み込んだ。
「こいつ、俺と一緒なら学校に来られるって言うんで。勝手に席、移動してます」
間を置かずに付け加える。
担任は、孫の手を持ち直した。
「そういうことなら、まあいいか。せっかく来る気になったんだし」
教室のざわめきが、少し弱まる。
「んじゃ辰守、ちゃんと面倒見てやれよ」
「……はい」
隣から、小さな声がした。
「やったね」
龍奈に成り済ましたフーが、嬉しそうに笑っていた。
不登校の龍奈の代わりに、フーが学校へ来る。
そんな案を聞いたときは龍奈の正気を疑ったが、まさか本当に通ってしまうとは。
俺は深く息を吐いた。
フーは机の上の教科書を、興味津々に覗き込んでいる。
この先、何も起きないなんてことはないんだろうな。さすがに。
そんな予感を抱えたまま。
フーは俺と同じ高校に通う、同級生になった。




