5.コートとクロバネ
【馬場櫻子】
転校してから初めて友達と出掛ける日の朝は、やっぱり落ち着かなかった。
何度も確認した待ち合わせ場所へ向かいながら、コートの襟を直す。
待ち合わせ場所の噴水公園には、のんびりと犬の散歩をする人や新聞を読む人、お揃いの赤い上着で駆け回る子供の姿があった。
スマートフォンを見る。
九時四十五分……待ち合わせの十五分前。
早すぎる、というほどじゃないよね。
噴水のそばのベンチに座り、メールを送った。
『おはようございます。少し早いけど、待ち合わせ場所に着きました』
んん、堅苦しかったかな。
そう思った途端、手の中でスマートフォンが震えた。
『おはよ。早すぎだろ。今起きた。飛ばしていく』
なんだろう……突っ込みどころが多い。
『ベンチでのんびり待ってるから、ゆっくりでいいよ』
即座に返信。
『今顔洗ってる。外寒いか?』
『晴れてるから昨日より暖かいよ』
送信。
振動。
『厚着やめとく。もう家出る』
いろいろ早すぎでは?
『本当にゆっくりでいいからね。気をつけて来てね』
『今学校通り過ぎた。もうすぐ公園』
……からかわれている。
きっとまだベッドで寝転がって、わたしの反応を見ているんだ。
そうに違いない。
『もう、からかわないで。夕張さん、本当は今どこなの?』
また、振動。
『頭上注意』
「……頭上?」
見上げた。
夕張さんが降ってきた。
……夕張さんが降ってきた!?
パァンッ、と乾いた音を立てて、目の前に着地する。
舞い上がった砂埃を払い、彼女は軽く手を上げた。
「おっす。待たせたな」
「な、なんで空から……」
「寝坊したから、跳んできた」
「空、飛べるんだね……」
「飛べねえよ。跳ねる方の、跳んできた」
分かったような、全然分からないような。
「マンションの屋上から、建物の屋根伝いにな。信号ゼロだから爆速」
「家からここまで、ジャンプで!? わたし普通にバスで来たよ」
「普段はアタシもそうだぞ。魔力使いすぎると疲れるし」
魔女って、そういうものなんだろうか。
わたしが理解を試みていると、ぐうう、と彼女のお腹が鳴った。
「あー、とりあえず飯行こうぜ。朝、食ってねえんだよ」
「ふふ、さっき起きたばっかりだもんね」
差し出された手を取り、ベンチから立ち上がる。
もう一度時計を見ると、まだ十時になっていなかった。
* * *
「つーか、ヒカリでいいよ」
ハンバーガーをコーラで流し込みながら、夕張さんが言った。
公園を出てすぐのバーガーショップ。
わたしは朝食を家で済ませていたから、バーガー二つとポテトだけにしておいた。
「夕張さんって、なんかピンとこねえし」
名前で呼んでいい。
それは、ちょっと嬉しい。
「……えっと、じゃあ、ヒカリさん」
「さんもいいって。アタシも櫻子って呼ぶから」
「呼び捨ては、その、慣れてなくて……ヒカリちゃんじゃ、駄目かな?」
「ん。じゃあ、それで」
あっさり決まった。
お互いを、下の名前で呼ぶ。
かなり友達っぽいのでは。っぽいのでは!?
「……ヒカリちゃん」
「ん?」
「あ、ごめん。呼んだだけ」
恥ずかしくなって、前髪を耳に掛けた。
ヒカリちゃんが盛大にむせた。
「だ、大丈夫!?」
「んぐっ……変なとこ入った」
差し出した紙ナプキンを受け取り、彼女が口元を押さえる。
そのとき、店の奥から怒鳴り声が聞こえた。
「悪かったわね! お子ちゃまで!」
女の人の声に続いて、男の人が何か言った。
聞き覚えがある気もしたけれど、振り向く前に、目の前のヒカリちゃんがそちらを睨んだ。
「……ったく、メシも静かに食えねえのかよ」
目つきが、全然素人じゃない。
優しい人だと分かってきたところだけど、やっぱりちょっと怖い。
それでも、さっき櫻子と呼んでくれたのを思い出すと、口元が緩んでしまった。
食事の後は、駅に隣接するショッピングモールへ行った。
こんなの似合わない、というわたしに、ヒカリちゃんは次々に服を持ってくる。
試着室へ入り、出て、また入るの繰り返し。なんだか着せ替え人形にでもなった気分。
ゲームセンターでは、プリクラも撮った。
ポーズを決める時間が短すぎて、最後は二人とも中途半端な格好になったりして、けど、それさえ楽しかった。
「こんなに服買ったの、初めてだよ」
最上階のベンチに座り、足下に並べた紙袋を見る。
いざヒカリちゃんと会ったらどうしようと、家で必死に考えていた話題なんてとっくに忘れていた。
「そうなのか?」
「服とか、あんまり関心なくて。わたしなんかがおしゃれしても、って感じだし……」
「んなこたねえだろ。櫻子、可愛い顔してるし」
ヒカリちゃんの手が伸びた。
俯いた拍子に落ちた髪を、耳に掛けられる。
「っ、か、可愛くなんてないよ!」
反射的に、その手を払ってしまった。
「あ……」
ヒカリちゃんの手が止まる。
違う。
嫌だったわけじゃない。
急に近づかれて、びっくりしただけで。
言わなきゃと思うほど、喉が詰まった。
「……」
「……」
さっきまで、あんなに楽しかったのに。
何をしているのよ、櫻子。
指先でコートの裾をつまむ。
謝ろうと顔を上げた、その瞬間だった。
ビーー! ビーー!
鋭い警報が、頭の上から降ってきた。
『魔獣災害発生。魔獣災害発生。民間人は直ちに地下シェルターへ移動してください』
「え……魔獣?」
ヒカリちゃんが立ち上がった。
「櫻子、シェルター行け!」
さっきまでの空気が、一瞬で消えた。
彼女は階段へ走り出す。
「ヒカリちゃんは!?」
「アタシは仕事! 悪い、それ頼んだ!」
紙袋を指差し、彼女は人混みへ消えた。
仕事。
つまり、魔獣と戦うということだ。
わたしは二人分の荷物を抱えた。
謝るのは、帰ってきてから。
だから、どうか、無事に戻ってきて。
* * *
「慌てず、順番にお進みください!」
係員の声に従い、階段を下りる。
魔獣災害以来、建物の地下には避難用のシェルターが作られている。
このモールにもある。一階の非常扉を抜け、その先の階段を下りればいいのだ。
何度も聞いた避難の手順。
なのに、紙袋を握る手には汗が滲んでいた。
警報のとき最上階にいたわたしは、列の後ろの方だった。
一階へ着くころには、人影も少なくなっている。
非常扉へ向かっていたとき、モールの出入口でシャッターが下り始めた。
外に通じるガラスの自動扉は、開いたまま止まっている。
──その向こうから、子供が二人走ってきたのが目に入った。
お揃いの、赤い上着。
「……あ、あの、外に子供が」
近くの係員に声をかける。
係員が振り向いた、そのとき。
後ろの子が転んだ。
先に走っていた子が戻り、しゃがみ込む。
シャッターは、その間も下り続けている。
「子供がいます! 待ってください!」
係員が出入口を見て、無線へ手を伸ばした。けど、シャッターは止まらない。というか、そもそもあのままじゃあ……。
転んだ子は立ち上がらない。
もう一人が腕を引いている。でも、動かない。
女の子が泣いているのがハッキリ見えた時、わたしは紙袋を放り出して走っていた。
走り出したわたしに、係員が何か叫ぶ。
けどダメだ。止まれない。外には魔獣がいて、比喩とかじゃなしに死ぬほど危ないって分かってるのに、足が止まらなかった。
あの子たちはまだ、こっちへ来ようとしている。
下降し続けるシャッター隙間へ、身体を投げ出した。
綺麗なスライディングなんてできず、地面を転がる。
コートが引かれた。
裾が、シャッターに挟まっている。
強く引っ張ると、びりっと音がした。
振り返らず、立ち上がった。
「大丈夫? 怪我したの?」
小さい子が、膝を押さえて泣いていた。
もう一人が、その身体を抱きしめている。
よく見れば、今朝公園で見た姉妹だった。
「ちょっと擦り剥いちゃったね。お姉ちゃん、櫻子っていうの。お名前言える?」
震える声を、どうにか抑える。
「わ、わたしミユ。この子、ミク。妹なの」
「そっか。ミユちゃん、妹を守ってたんだね。偉いね」
周りに、大人はいなかった。
背後のシャッターは、もう閉まっている。
「ミクちゃんは抱っこするから、ミユちゃんは隣を歩ける?」
「うん!」
別の入口か、別の建物。
とにかく、入れるシェルターを探さないと。
叫び出しそうな恐怖を押し込めながら、ミクちゃんを抱き上げたそのとき。
轟音と一緒に、風が背中を叩いた。
「っ!」
ミユちゃんを引き寄せ、しゃがみ込む。
細かな破片が、足下へ転がってきた。
振り返ると、モール前の広場を巨大な身体が転がっていた。
四本の腕。
ゴリラみたいな胴体に、長い尻尾。
起き上がると、それは四、五メートルはあった。
ミクちゃんをそっと下ろし、二人を背中へ隠す。
目の前にいるものを、うまく理解できなかった。
どうしよう。
逃げないと。
でも、どっちへ。
膝が震えて、立てない。
「きゃあああっ!」
ミユちゃんが叫んだ。
魔獣の顔が、こちらを向く。
次の瞬間には、巨体が迫っていた。
振り上げられた腕が見える。
わたしは二人の前で両手を広げた。
こんな事をして何になるのか、自分でも分からなかったけど、身体が勝手に動いてしまったのだ。
わたしは数瞬後に訪れる絶対的な絶望に、目を固く閉じた。
地面を打つ重い音……何かが傍に落ちた?
続いて、耳を塞ぎたくなるような咆哮。
……痛くない。
恐る恐る目を開けた。
魔獣が鮮血を撒き散らしながらのたうち回っていた。
見ると、ついさっきまでわたしに迫っていた右側の腕が、二本ともない。
少し離れた地面に、それは落ちていた。
「……え?」
何が起きたの。
考える間にも、魔獣は体勢を立て直した。
残った腕が、地面を掻く。
また、目が合った。
ああ、やっぱりダメだ……今度こそ──。
「吹っ飛べ、クソがああっ!」
聞き覚えのある声。
横から飛び込んできた影が、魔獣の頭を蹴り抜いた。
巨体が傾く。
その向こうから、太陽が現れた。
光を背に、金色のツインテールが揺れていた。
「ヒカリちゃん……!」
安堵したのもつかの間、振り返ると姉妹は地面にへたり込んでいた。二人とも目を閉じて、呼びかけに返事がない。
けれど息はしている。気を失っただけらしい。
「櫻子、お前──」
すぐ後ろでその声を聞いた途端、こらえていたものが切れた。
「ひ、ひ、ヒカリちゃんっ……ありがとう……っ、わたし、もう駄目かと……!」
思わず抱きつく。
ずっと止めていた息を吸った時みたいに、身体を埋めつくした苦しさがスっと軽くなった。
「櫻子、待て!」
肩を掴まれて引き離される。
「まだ二匹いる!」
「……二匹?」
ヒカリちゃんの背後で、車が跳ねた。
乗り捨てられた車を押しのけ、二体の魔獣が迫ってくる。
角の生えた六本脚の獣と、大きなハサミを持つサソリみたいなやつ。
「角のヤツはアタシがやる! ちっこい方、頼んだ!」
「わ、分かった!」
……ん?
「いや、嘘! 今のなし!」
「ああ!? こんなときに何言って──」
「なんでわたしが戦うことになってるの!?」
小さい方でも、二メートルくらいある。
あんなの頼まれてどうにかできる大きさじゃない。
「隠してたことはどうでもいい! けどガキを助けたいなら手伝え! お前も魔女だろ!」
「……わたしが?」
ヒカリちゃんの顔を見る。
冗談を言っている顔じゃなかった。
「さっき腕、切り飛ばしてただろ!」
「あれは、ヒカリちゃんが……」
「アタシじゃねえよ!」
魔獣の足音が、近づく。
ヒカリちゃんが舌打ちして振り返った。
角の魔獣が頭を下げ、こちらへ突進してくる。
「……もういい!」
彼女が地面を蹴った。
足下の舗装が、靴の形に砕ける。
ヒカリちゃんは正面から、魔獣の角を掴んだ。
激突。
ヒカリちゃんの身体が押されて、地面を踏みしめる両足がコンクリートをゴリゴリ砕いて轍を作り出す。
わたしは姉妹のそばへ戻って、二人の身体を抱き寄せた。
突進する魔獣が、どんどん近づいてくる。
その鼻先が、五メートルほど向こうで止まった。ヒカリちゃんが食い止めたのだ。素手で。
「オラアアァ!」
ヒカリちゃんが、身体を捻った。
鈍い音が響く。
角を掴まれた魔獣の頭がぐるんっと勢いよく回り、巨体が横倒しになった。
すごい。
魔法って、思っていたより力技──。
その身体の陰で、光が膨らんだ。
サソリのような魔獣。
大きなハサミの間から、炎の塊が飛んできた。
「櫻子、逃げろ!」
ヒカリちゃんが振り向く。
無理だ。
二人を抱えて逃げる時間なんて、ない。
わたしは姉妹を背に庇った。
炎が迫る。
その瞬間、頭の中を、何かが駆け抜けた。
映像。
音。
知らないはずなのに、どこか懐かしい気配。
走馬灯。
そう思ったけれど、どれも輪郭がぼやけていた。
知らない。
でも、知っている。
目まぐるしく流れるものの中から、一つの声だけが鮮明になった。
『──どうじゃ。便利な力じゃろ?』
炎の熱が、頬に触れる。
『この力の名はな……』
右手が、前へ出た。
考えるより先に、唇が動いた。
「……黒羽」
クロバネ。
口にした音が、胸の奥へ落ちた。
視界が、黒く染まった。
炎ではなかった。
液体とも、気体ともつかない漆黒が、目の前を覆っていた。
何も見えない。
けれど、熱くなかった。
ほんの数秒だった。
黒いものが、波の引くように戻ってくる。
わたしの身体へ吸い込まれ、消えていく。
その向こうに、広場が見えた。
炎は、もうなかった。
「はあぁっ!」
ヒカリちゃんが、最後の魔獣へ拳を振り下ろした。
音が、遠くなる。
足下の姉妹を見ようとした。
ちゃんと守れたのか、確かめたかった。
でも、うまく顔を下げられなかった。
さっきの声は、誰だったんだろう。
わたしは、何をしたんだろう。
答えが浮かぶ前に、意識が途切れた──




