4.櫻子とヒカリ
【馬場櫻子】
〜ハレ君と知り合う、少し前のこと〜
──学校から二時間かけて歩いて帰るのが、わたしの日課になっていた。
新都の中心街を抜け、住宅地を越えると、足下の舗装が急にひび割れ始める。
二十年前の魔獣災害の後に作られた新都と、その爪痕を残す旧都。そこが境目なのだ。
街路樹が秋風に揺れる。茂みから虫の声がする。
ローファーが地面を打つ音だけが、やけにはっきり聞こえた。
家までは、あと三十分。
坂道のせいで重い足が、家に近づくにつれてますます重くなる。
「──ただいま」
「あらぁ、おかえりなさい。今日も部活遅かったのねぇ」
廊下で洗濯カゴを抱えたおかあさんが出迎えた。
靴を脱ぎながら、気づかれないように息を整える。
「うん。文芸部の皆が、ちょっとした歓迎会みたいなのしてくれてさ……」
真っ赤な嘘だった。
部活には入っていない。そもそも文芸部が学校にあるかどうかさえ知らない。
「ふふ、楽しそうでよかったわぁ。新しい学校で馴染めるか、心配だったのよ」
おかあさんは安心した顔で笑った。
わたしも笑って、その背中を見送った。
ごめんなさい。
あなたの娘は、全然馴染めていません。
今日も誰ともろくに話さず、授業が終わってから一人で帰ってきました。
部活があるふりをするために、バスにも乗らず歩いています。おかげで脚だけは随分鍛えられました。
……どこで失敗したんだろう。
いや、そんなことはわかりきっていた。どこだと言うならば、それは転入初日のことである──
* * *
その日、職員室で待っていたわたしに、担任の先生が声をかけた。
「馬場さん、それじゃあ教室に向かいましょうか!」
快活な笑顔に頷いて、鞄を握り直す。
先生の名前は、なんだっただろう。
さっき聞いたばかりなのに、緊張で思い出せない。確認する勇気もないまま、後ろをついていった。
大丈夫。
挨拶と自己紹介をするだけ。
難しいことじゃない。
そう言い聞かせているうちに、二年二組の教室に着いてしまった。
号令が終わると、先生が教卓の前にわたしを招いた。
「今日はホームルームの前に、転入生を紹介します」
三十人ほどの視線が集まる。
鞄を握る手に、じんわり汗が滲んだ。
芋だ。
この人たちは、みんな芋だと思うのよ、櫻子。
「は、はじめまして。馬──」
ガガァンッ!
教室のドアが、激しい音をたてて縦枠にぶつかった。
わたしも、先生も、芋たちも、一斉にそちらを見る。
小柄な金髪の女の子が立っていた。
ふわふわしたツインテールに、わたしと同じ制服。ただし、ブレザーの代わりにだぼっとしたパーカーを羽織っている。
「夕張さん? 今日は急用で来られないって……」
「思いのほか早く終わったもんで」
女の子は片手をポケットに入れたまま、淡々と答えた。
「あら、そうだったの。ちょうど転入生の紹介をしていたところだから、夕張さんもお願いね。じゃあ、まずは──」
「夕張ヒカリ」
先生がわたしを見るより先に、女の子が言った。
……今の、自己紹介?
まだわたしの番の途中だったんだけど。
というか、名前だけでいいの?
「おい、それだけかよー」
誰かが笑いながら声を上げた。
夕張さんが、短くため息を吐く。
たぶん、隣にいたわたしにしか聞こえなかった。
「魔女です」
教室が静まり返った。
一拍置いて、椅子が鳴った。
誰かが立ち上がり、「まじで!?」と叫ぶ。
そこから先は、あっという間だった。
「本物!?」
「なんでうちの学校に!?」
「魔法見せてよ!」
次々に飛ぶ声を、先生が慌てて制する。
けれど、騒ぎは収まらなかった。
無理もない。
魔女は、わたしたちにとって英雄なのだから。
二十年前、世界中に突然、魔獣という怪物が現れた。
姿も、大きさも、現れる場所もばらばら。
共通しているのは、魔法としか呼べない力を使うことと、驚くほどの再生能力を持つことだ。
炎を吐き、氷の槍を降らせ、重力さえ操る。
傷つけても、身体のどこかにある核を壊さなければ、なかなか死なない。
対抗する方法も分からないまま、人類が追い詰められていたとき、彼女たちは現れた。
魔女協会。
若い女性ばかりのその組織は、魔獣と同じように不思議な力を使い、世界各地の魔獣を倒していった。
以来、二十年間。
魔獣が現れれば魔女が駆けつけ、人々を守っている。
おかあさんから聞き、学校でも習った。
わたしたちが今、こうして学校へ通えるのも、彼女たちのおかげなのだと。
そんな人が、同じ教室にいる。
これから毎日、隣の席で授業を受けるかもしれない。
普通の転入生なんて、霞んで当然だった。
「席、あそこでいいですか?」
夕張さんが口を開くと、喧騒がぴたりと止まった。
「ええ。後ろの空いている席なら、どちらでもいいわよ」
先生に促され、彼女が教室の最後列へ向かう。
皆の顔が、その歩く先を追った。
「じゃあ、気を取り直して。馬場さん、挨拶をお願い」
そうだった。
わたし、まだ名前も言えていなかった。
「……馬場櫻子です。よろしくお願いします」
頭を下げる。
誰かの小さな拍手が聞こえた。
でも、顔を上げたとき、ほとんどの人はまだ教室の後ろを見ていた。
わたしの席は窓際。
隣には、夕張さん。
同じ日に転入した二人のうち、名前を覚えてもらえたのは、たぶん、わたしだけだった。
* * *
そして、転入から二週間ほど経った金曜日。
「来週も皆、元気に登校するように。さようなら!」
終礼が終わると、教室が一気に騒がしくなった。
部活へ向かう人。帰り支度をする人。友達の席に集まる人。
わたしは机の中から、ゆっくり教科書を取り出した。
早く片付けても、行く場所はない。
「ねえねえ、馬場さぁん」
顔を上げると、高橋さんがいた。
「な、何?」
「ちょーっとお願いなんだけど。お金貸してくれない?」
わたしの机に腰掛け、にこっと笑う。
お腹の辺りが、きゅっと縮んだ。
「……この前貸したお金は?」
二日前にも、同じお願いをされた。
いくら必要なのか聞いたら、今いくら持っているのかと聞き返され、そのまま財布の中身を全部貸した。
だから、あの日はお汁粉が買えなかった。
けど、そのおかげでハレ君と話せた。
そう思えば悪いことばかりでもない、なんて考えようとしていたのに。
「お金? もう使ったけど?」
「う、うん。そうじゃなくて、まだ返してもらってないよね」
「そだね。それがどうしたの?」
長い爪が、机を叩く。
こつ、こつ、こつ。
「だから、前に貸した分を……」
バンッ!
机が揺れた。
わたしの声が止まる。
「貸すの? 貸さないの?」
高橋さんは、もう笑っていなかった。
教室は相変わらず騒がしい。
さっきの音に顔を向けた人も、すぐに友達との話へ戻っていった。
断ればいい。
この前の分を返してもらうまで、貸せないと言えばいい。
頭の中では、ちゃんと言える。
でも、口を開くと、別の言葉が出た。
「……一万円でいいなら」
「きゃー! 馬場ちゃん、まじ天使!」
財布から出したお札を、指先からさらわれる。
「あの、ちゃんと返してね」
「もちもち! バイト代入ったら返すからー」
高橋さんは、弾む足取りで教室を出ていった。
わたしは財布を閉じた。
留め具が、うまくはまらなかった。
貸しただけ。
返してくれるって言っていた。
そう繰り返しても、胸の辺りは少しも軽くならなかった。
教室にいるのがつらくなって、いつもより早く校門へ向かった。
「あの金、絶対返ってこねーぞ」
背後から、透き通った声がした。
綺麗な声に比べて、言葉遣いはえらく乱暴である。
振り返ると、夕陽に金髪を光らせた夕張さんがいた。
「……見てたんだ」
「見てねーよ。聞こえてきた。席、隣だし」
「そっか」
隣同士でも、今まで会話らしい会話はなかった。
廊下でも彼女の周りには人が集まるし、わたしから話しかける理由も、勇気もなかった。
「金、わたしが取り返してやろうか?」
さらっと言われて、顔を上げる。
夕張さんは、何でもないようにそう言った。
落ち着いた佇まいだけど、今わたしが首を縦に振れば、すぐにでも高橋さんを追いかけていきそうな雰囲気があった。
「ありがとう。でも、もうちょっと待ってみる。高橋さん、バイト代入ったら返すって言ってたから」
「……そうか」
短いため息。
怒られるかと思ったけれど、夕張さんはそれ以上言わなかった。
「わかった」
それだけだった。
魔女は人類の救世主。
何度も聞いた言葉だ。
でも、そんな大きな話とは別に、この人は今、わたしを気にかけてくれた。
教室の隣の席にいる、わたしを。
「……ありがとう、夕張さん」
会釈して、校門へ歩き出す。
「おい、馬場櫻子」
また呼ばれた。
「明日、暇か?」
「え? うん、暇だけど」
正確には、明日も暇だけど。
「まあ、あれだ。転入生同士、飯でも食いに行かねえかと思ってな」
返事が、一瞬遅れた。
お金の話の続きじゃない。
何かの聞き間違いでもない。
夕張さんが、わたしを食事に誘っている!
「い、行きたい……です」
「なんで敬語なんだよ」
呆れた声だった。
でも、さっきみたいなため息は、つかなかった。
* * *
「──それで、明日ご飯を食べに行くことになったの!」
三龍軒で話し終えると、ハレ君が追加のチャーハンを置いた。
「やったな、櫻子。早くも友達二人目か?」
いたずらっぽい笑顔に、頬が熱くなる。
「ま、まだ友達って言っていいか分からないけど」
「休みの日に飯食いに行くなら、いいんじゃねえの?」
そうなのかな。
そうだったら、いいな。
教室では言えなかったことも、この店だとするする口から出てくる。
ただし、お金の話はしなかった。せっかく嬉しいことがあったのに、自ら水を刺すような真似はしたくなかった。
店には今日も、わたし以外のお客さんはいない。
カタカタ鳴る換気扇と、中華鍋を振る音が聞こえる。
「仲良くなれたら、ハレ君にも紹介するね」
「え、まじで? 夕張先輩って、怖い人じゃない?」
「言葉遣いは、ちょっとあれだけど。すごく優しい人だよ」
ハレ君が、空いたお皿を重ねる。
さっきから、追加の料理を持ってきては空いたお皿を下げてくれる。わたしの食べる速さに、少し引いている気もする。これでもペース、落としてるんだけどなぁ。
「俺、まだ見たことないんだよな。夕張先輩」
「一年生と二年生、校舎が離れてるもんね」
「あと、俺が動くと皆びくびくするから、基本、席を動かないようにしてるせいって説もある」
「何その悲しい説」
怖いと思われたくなくて動かない。
そんなことを気にする不良って、いるんだろうか。いやまあ、ハレくんは勘違いされてるだけで不良ではないんだけど。
「夕張さんはね、綺麗な金髪を、こう、ツインテールにしてて」
自分の髪を持ち上げて説明する。
「顔もすっごく可愛くて、背はわたしより低いんだけど、スタイルがいいっていうか。出るとこ出てるっていうか、けしからん身体つきというか、うぇへへ……」
「後半、エロオヤジに憑依されてんぞ」
ハッとした。
わたしは何という目で夕張さんを。
「ま、まあ、とにかく素敵な人だよ」
「それは伝わったけど、紹介するとき本人の前で言うなよ、それ」
「言わないよ!?」
「──酢豚と、追加の餃子です」
わたしたちの間に、お皿が差し入れられた。
運んできたのは、マスターの娘さんだった。
黒髪のポニーテールにバンダナを巻き、ハレ君と同じ三龍軒のTシャツを着ている。
たしか、名前は龍奈ちゃん。
昨日も、キッチンにいた女の子だ。
「ありがとうございます」
顔を上げると、彼女はお皿を置いて、ハレ君を睨んだ。
「ハレ。鼻伸ばしてないで、ちゃんと仕事しなさいよね」
言い終えるなり、スタスタとキッチンへ戻っていく。
「……それを言うなら鼻の下、だろ。ピノキオか、俺は」
姿が見えなくなってから、ハレ君がぼそっと言った。
鼻の下を伸ばしていたところは、否定しないのだろうか。
「はあ!? ピノキオ、アンタ何か文句あんの!?」
キッチンの奥から怒声が飛んだ。
すごい。聞こえていたんだ。
「ぴ、ピノキオ、文句ありません!」
……ハレ君、弱いな。
笑いを堪えながら、餃子に箸を伸ばした。
明日の待ち合わせ場所と時間は、もう決めてある。
何を着ていこう。
どんな話をすればいいんだろう。
ご飯を食べ終わったら、もう少し一緒にいてもいいのかな。
いつもなら、休みの日は学校へ行かなくて済む日だった。
今は、早く明日になってほしい。
おかあさんにも、今度は嘘をつかずに言える。
明日は、友達と出掛けてくるね、と。




