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2.晴人とフー

包丁がまな板を叩く音に、腹の虫が重なる。


「うう、ううう」

「今作ってるから、座って待っとけ」

「……まっ、とけ?」

「そうそう、待っとけ待っとけ」

「そーそー、そーそー」


 さっきから部屋をうろついていた金髪の少女が、ようやく腰を下ろした。

 言葉は通じていないはずだが、こっちの意図はなんとなく伝わるらしい。


 冷蔵庫から取り出した食材を切り、鍋に並べていく。煮立つ前のだしから昆布を取り出し、調味料を加えると、部屋にいい匂いが広がった。


 路地裏で少女を助け、家に帰ってきたのが十五分ほど前。

 少女はなんと裸足だったため、おぶって帰ってきた。そのせいで足はもうパンパンだ。


 少女は、俺が何を聞いても唸ったり鼻を鳴らしたりするばかりだった。

 ただ、こちらの言葉を真似することはあるので、だんだん九官鳥とでも話している気分になってきた。


 素性も、名前も分からない。

 唯一はっきりしているのは、腹が減っているということだ。腹の音がギュルギュル鳴ってるからな。


 鍋をコンロにかけ、改めて少女を見る。


 雪のように白い肌に、腰まで伸びた金髪。年は俺とそう変わらない、と思う。

 明るい場所で見ると、着ているものは病院の患者が着る服に似ていた。


「あー、まじでどうしたもんか」


 勢いで連れてきたものの、この後のことは何も考えていない。

 警察に事情を話すべきなんだろうが、路地裏の一件を説明すれば、俺もただでは済まない気がする。主にマサヨシ君の件で。


『ふん! バカも考え休んでニッタリってね!』


 脳裏に龍奈が浮かんだ。

 馬鹿の考え休むに似たりだろ。と、脳内の龍奈にエアツッコミをいれる。


 いや、さすがに本家はここまでひどくないか。すまん龍奈。


 ぐつぐつと、鍋が煮え始めた。

 少女が膝を抱え、目を爛々とさせて鍋を見つめている。


「よし、できたぞ」

「できたぞー? できたぞー?」


 両手で自分の膝をぺしぺし叩く。

 なんか、ちょっと可愛い。


 乾いたタオルで蓋を持ち上げると、湯気がふわっと広がった。


「熱いからな。気をつけて食うんだぞ」

「くうー! だぞー!」


 取り皿によそって差し出した瞬間、少女が顔を突っ込んできた。


「あっぶねぇ!」


 慌てて皿を引くと、不服そうに睨まれた。


「まあ、火傷するっつっても分かんねえか」


 俺はフォークを持ってきて、少女の右手に握らせた。


「いいか。これで刺して、冷ます。ふー、ふー、だ」


 その手を支え、ウィンナーを刺して顔の前へ運ぶ。息を吹きかける真似をすると、少女も真剣な顔で口をすぼめた。


「ふー、ふーだ。ふー、ふーだ」


 何度か繰り返したところで、こちらを見る。

 もう食べていいか、と聞かれているような気がした。


「うん。食べていいぞ」


 ウィンナーが口に消えた。

 もぐもぐと、何かを確かめるようにウインナーを咀嚼して飲み込んだ少女は、目を見開いてフォークを振った。


 お気に召したようで何よりだ。でも超危ない。


 続けて二本目を刺し、そのまま口へ運ぶ。


「んんっ!?」


 すぐに離した。そりゃ熱いだろう。

 涙目になりながらも、今度はちゃんと息を吹きかけ始める。


「そうそう。熱いときは、ふーふーだぞ」


 なんか、子供を育ててる気分になってきた。


* * *


 十分ほどで、鍋は空になった。


「ううぅ、うぅ」

「まだ食い足りないのか? 俺、全然食ってないんだけど」


 櫻子といい、女子が少食って実は嘘なんじゃなかろうか。


「うう、ううー」

「そんなに睨んでも、もう食えるもんがないんだよ。無い袖は振れん」


 少女は身をよじらせ、何かを訴えている。

 よく見ると、下っ腹を押さえていた。


 そして、そのまましゃがみ込む。


「……トイレか!? ちょ、待て! そこでするなよ!」


 慌てて抱き上げた瞬間、足に激痛が走った。


 つった。


 おぶって帰ってきた疲れが、最悪のタイミングで襲ってきた。

 踏ん張れず、少女を抱えたまま床に倒れると、仰向けの俺の腹に少女が座り込むような形になった。


「「……あ」」


 二人同時に声が漏れた。

 まあ、漏れたのは声だけじゃなかったわけだが。


 腹の辺りに、じんわりと温かい感覚が広がる。


 落ち着け。今日はもういろいろあった。

 これ以上ひどくはならない。だから泣くな、晴人。


「ハレ! この龍奈がわざわざ忘れ物届けに来てあげたわよ!」


 これ以上があった。泣いてもいいですか。


 居間の扉が勢いよく開き、弁当を持った龍奈が現れた。

 俺の腹には、少女が乗っている。


「……」

「……」


 数秒、居間が凍りついた。


「ご、誤解だ」


 なんとか絞り出した言葉がそれだった。

 龍奈が何を考えているかは知らんが、今の状況を正しく把握していないことだけは分かる。


「べ、べっつに誤解じゃないんじゃない? 好きにすればいいわよ!」

「待て龍奈! ほんとに誤解なんだって!」


 起き上がろうとしたが、少女は放心状態で腹に乗ったままだ。

 せめてどいてくれないか。


「誤解なんてしてないっつってんでしょ! ちゃんとゴムつけなさいよね、このスマケムシ! 死ね!」

「してんじゃねぇか誤解! つーかスケコマシだろ! いや、俺は違うけど!」


 事情を説明するまでに、今日一番の労力を使った。


* * *


 洗った雑巾を、漂白剤入りのバケツへ放り込む。

 着ていたシャツとズボンも、既に洗濯機の中だ。


「くそ、なんでこんなことに」

「はあ? アンタが自分でまいた種でしょ」


 振り返ると、風呂場へ行ったはずの龍奈が立っていた。


「まあ、そうだな。あの子は?」

「洗い終わったとこ。着てた服も洗濯しなきゃだから、アンタの服出しなさいよ」

「あー、分かった」

「かわいそうだけど、パンツもアンタの汚いの履かせるしかないわね」

「全部新品出すわ! あと別に汚くねえし!」


 誤解が解けるなり、龍奈は少女を風呂へ連れていってくれた。

 俺が忘れた賄い弁当を届けに来ただけなのに、今やすっかり頼りきりだ。


 クローゼットから新品のシャツとズボン、それからトランクスを取り出して渡す。


「なんでこんなに新品の服が出てくるわけ? バカなの?」

「ストックがないと落ち着かないんだよ! 何かあったとき安心だろ?」

「キモ! 石橋を叩いて回るアンタらしいわね!」

「渡る、だからな! なんなんだよ、その狂人は!」

「いちいち細かいのよ! あと、使ってない上着も出しときなさい!」


 龍奈は再び風呂場へ消えた。

 石橋を叩きながらくるくる回る自分を想像してしまった。嫌なものを見せやがって。


 しばらくして、龍奈が少女を連れて戻ってきた。

 俺の七分袖のシャツが、少女にはちょうど長袖になっている。全体的にだぼついているのは仕方ない。


「助かったよ。お前が来てくれなかったら、どうなってたか」

「ふん! 地獄に畑ってね! 感謝しなさいよ!」

「仏ね。何育ててんだよ、その畑」

「だっから細かい! それより上着は!?」

「おう、これな」


 出しておいたスカジャンを投げ渡す。


 受け取った龍奈が、ぴたりと止まった。


「……ハレ。アンタ殺すわよ?」

「なんでだよ。情緒不安定にも程があんだろ」

「これ、龍奈がアンタに買ってあげたやつじゃない!」

「使ってない上着って言うから……」

「アンタもう殺したから!」

「過去形!? 怖っ!」


 龍奈はスカジャンを握りしめ、わなわなと震えた。

 後ろにいる少女まで、じりじり離れていく。


「つーか、買ったの? 家にあったけど誰も着ないからって言ってなかった?」

「……っ! 服ごときにうだうだ言うなんてバカのすることよ! フーも逃げてないでこっち来なさい!」


 特大のブーメランを投げ放ち、龍奈が少女に上着を着せ始めた。

 少女も特に抵抗せずに、されるがまま不思議そうに服を着ている。


挿絵(By みてみん)

「……え、つーかその子、フーっていうの?」

「知らないわよ! 自分でそう言ってたの!」

「自分で?」

「お風呂で名前聞いたら、フー、フーって。アンタも名前くらい聞いときなさいよね!」

「……へえ」


 きっとシャワーが熱かったんだろうなあ。可哀想に。


 とはいえ、呼び名がないのも不便だ。

 ひとまずは俺もフーと呼ばせてもらおう。


「俺は辰守晴人だ。改めてよろしくな、フー」

「よろしくなー、はれとー、よろしくなー」


 ぶかぶかのスカジャンを着たフーが、身体を揺らして笑う。


「よろしくって……アンタ、この子ここで飼うつもりなの?」

「飼うって、お前はフーをなんだと思ってんだよ」

「捨て猫?」

「おい、真面目に……」

「真面目な話。この子、ミナトから来たんじゃないの?」


 龍奈の声が、急に落ち着いた。


「……根拠は?」

「外国人で、ボロボロの服で、この容姿。それと、これ」


 ポケットから、小さなタグを取り出す。


「腕についてたの。番号が印刷されてる」


 差し出されたそれを、俺は受け取った。


「噂通りなら、人身売買くらいするわよ。あそこの連中は」

「……外国から売られてきたってことか?」

「確信はないけど。その可能性はあるでしょ」


 ミナト。

 もしあそこが絡んでいるなら、警察に保護を頼めばそれで解決、とは限らない。


 警察の手が届かないところで売り買いされていた子が、逃げてきた。

 龍奈の推測が当たっていたら、俺はそんな事情を何も知らないまま、フーを連れ帰ったことになる。


「で、どうすんの。この子」


 顔を上げる。

 フーは俺の服を着て、スカジャンの袖を不思議そうに振っていた。


 今のこいつから事情を聞くことはできない。

 ほんとの名前だって分かったわけじゃない。


「──俺がまいた種だ。面倒見るよ」


 少なくとも、何も分からないまま放り出す気にはなれなかった。

 一緒に鍋をつついた仲でもあるし。


 龍奈に怒鳴られるかと思ったが、彼女は少しだけ頬を緩めた。


「……そう。じゃあ明日の朝また来るから、出掛ける用意しときなさい」

「出掛けるってどこに?」

「フーちゃんの服とか日用品、買わなきゃでしょ。一人で用意できるっての?」

「できなくは、ないんじゃねえの?」

「ふーん。買えるんだ? ブラジャー」

「……え?」

「せっかくついていってあげようと思ったのに。自分で買えるんだぁ、ショーツとか、生理用ひ──」

「何卒ご助力お願いします、龍奈様!」


 路地裏の男より素早く土下座した。

 確かにそれは、ハードルが高すぎる。


 龍奈が仁王立ちで俺を見下ろす。


「情けない人のためならば、ってね!」

「……情けは人の為ならず、じゃね?」


 龍奈のかかと落としが炸裂した。


* * *


「ハレ! 龍奈様が来てやったわよ! いつまで寝てんの!?」


 怒鳴り声で、爽やかな朝を迎えた。


「……お前、インターフォンのない国から来たの?」

「大家の娘にそんな口聞いていいと思ってんの? 家賃上げるわよ!」


 龍奈が指先で合鍵を回す。勝手に家に上がり込んでこの態度である。


「お前の血は何色だよ」

「可愛いピンクに決まってんじゃない!」

「赤であれ!」


 渾身のツッコミで、完全に目が覚めてしまった。

 ソファの脇のスマートフォンを取る。


 午前四時三十分。


「……怖。お前イカれてんの?」

「はあ? 死にたいの? 殺すわよ死ね!」

「会話が蛮族かよ」


 昨夜は二階の寝室をフーに譲り、俺は居間のソファで寝た。

 背中が痛い。ベッドのありがたみを思い知る。


「フーちゃんはとっくに起きてるみたいよ!」

「冗談だろ。まだ四時半だぞ」

「じゃあ見てきなさいよ」


 身体を起こし、階段を上がる。

 途中から、テレビの音が聞こえてきた。


 寝室のテレビだ。

 俺はつけていない。フーが自分でつけたんだろうか。


「フー、入るぞー」


 一応ノックをして、扉を開ける。


「ん、ハレだー。こんにちはわー!」


 返事があった。


 俺は、ドアノブを握ったまま固まった。


「……フー。お前、言葉、話せたのか?」

「んー、勉強したのよ? これで勉強したの」


 フーがテレビを指さす。

 所々おかしいが、昨日のような棒読みじゃない。


「ハレー。フーの話、変じゃないわけ?」

「あ、ああ。全然変じゃないぞ。少なくとも龍奈よりまともに会話できてる」

「は? アンタ今なんつった?」


 背後に龍奈さんがいた。


「ハレがねー、龍奈よりフーの方がいいってー」


 素晴らしい。

 一晩でこれだけ話せるようになるなんて。

 あとは空気が読めれば完璧だ。


 龍奈の回し蹴りが、俺の尻に炸裂した──


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