1.コーヒーとおしるこ
旧都の外れに、ぽつんと明かりを灯す中華料理屋がある。
年季の入った店内には、換気扇のカタカタという音と、かけ流しのテレビの声。客の声は、ない。
まあ、俺のバイト先である。
「……はぁ、今日も今日とて──」
暇だ。
その一言は、寸前で飲み込んだ。言えばキッチンの奥から店長が詰め寄ってくる。昨日はそうだった。
「……おい、今日も今日とてなんだ」
飲み込むのが遅かったらしい。
振り返ると、店長が額に青筋を立てて仁王立ちしていた。
「え、いやぁ、今日も今日とて店長の作る料理は美味そうだなぁ、と」
「……ほう。美味そうか、俺の料理は」
「そ、そうっすよ。いい匂いですぐお腹減っちゃって、もう困っちゃうなぁ、はは」
店長は、にいっと笑った。子供が見たら泣き出しそうな笑顔だ。
「まだお前が来てから一度も料理してないんだがな」
「よ、呼び込みしてきまーす」
俺は逃げるように店を飛び出した。
背後で閉まったドアには、“命を懸けて営業中”の案内板。懸かっているのは主に従業員の命だと思う。
「客が来ねえの、俺のせいじゃねえだろ……」
看板を見上げる。中華料理屋『三龍軒』。
料理は絶品なのに、立地が悪いのか店長の顔が怖いのか、出勤して一時間半、客は一人も来ていない。
呼び込もうにも人通りがないので、道路の斜向かいにある自動販売機へ向かった。
隣のバス停には、女子高生が一人座っていた。
肩までの黒髪に、俺と同じ高校の制服。両手で包んだ缶を、少しずつ傾けている。
俺はコーヒーを買って飲み干し、空き缶を捨てた。
「……寒いな」
十月半ばの夕方に、Tシャツ一枚は厳しい。
小走りで店へ戻り、ドアを閉めるときに振り返ると、ベンチの彼女が軽く会釈をしたように見えた。
* * *
それから、彼女を毎日のように見かけた。
平日の十八時過ぎ。いつも一人で、いつもお汁粉を飲んでいる。
だから、十月も終わりに差し掛かったその日、彼女が何も買わずにベンチへ戻ったのが、妙に気になった。
彼女は財布を開いて、ハッとして、鞄へ引っ込めたのだ。
今は手ぶらのまま、新都の方を眺めている。
「──あのさ、これ」
俺は買ったばかりのお汁粉を差し出した。
「……え、あの、なん……ですか?」
振り返った彼女は、ひどく狼狽していた。
そりゃそうだ。知らない男がいきなりお汁粉を渡してきたら、俺だって困る。
「君、いつもここでお汁粉飲んでるじゃん。けど今日はなんか、買えない感じだったから。よかったらどうかなって」
言ってから後悔した。いつも見てますみたいになってないか、これ。
「……え、あ! そんな、えと、お、お心遣い痛み入りますです!?」
彼女は顔の前で両手をぶんぶん振った。
内心かなり焦っていた俺より慌てている。
「えっと、それで、いる?」
「い、いただきます。ありがとうございます」
缶を受け取った彼女は、一口飲んで、ほっと息をついた。
「あ、あの、わたし馬場櫻子というものです。お名前……伺ってもよろしいでしょうか?」
「俺は晴人。そこの店でバイトしてる」
「晴人さん……って、もしかして、あの辰守晴人さんですか?」
あの、ときたか。
同じ高校なら、知っていてもおかしくない。
「あぁ、まあ、その辰守晴人です」
俺は「じゃあ」とだけ言って、道路へ向き直った。
怖がらせてしまっただろう。やっぱり余計なことをするんじゃなかった。
「……あ、あの!」
呼び止められて、足が止まる。
礼ならさっき言われた。残る可能性は、経験上、何かしらの罵声とか──
「晴人くん、また明日!」
また明日。
それは、ちょっと予想していなかった。
* * *
「晴人君、またサボってるの?」
翌日、コーヒーを買ったところで櫻子に声をかけられた。
「サボってるんじゃなくて、エネルギー補充。そっちは? 今帰りなのか?」
「……うん。部活やっててね」
一瞬だけ、櫻子の顔が引きつった気がした。
「それより晴人君。わたし、先輩だよ? 一応」
櫻子が胸元の赤いリボンを揺らす。二年生の色だ。
「……俺に何か用ですか、先輩」
「ああ違う違う。敬語を使ってほしいんじゃなくて、昨日お汁粉をご馳走してくれたでしょ? 後輩に奢られっぱなしじゃ、先輩として格好つかないじゃない」
百円そこらのお汁粉で、ずいぶん義理堅いことだ。
「コーヒーくらいご馳走させてよ」
「ごめん。もう買っちゃった」
右手の缶を見せると、櫻子の笑顔がしぼんだ。
「そ、そっか。そうだよね、ごめんね。ろくにお礼もできないわたしっていったい……」
「いや、そんなに落ち込まなくても……」
さっきまであんなに明るかったのに。
階段から転げ落ちるみたいな勢いで卑屈になるな。
「まあ、何かしてくれるって言うなら、飯食べていかない? うちの店、暇すぎて店長の機嫌が悪いんだよ」
そうして招いた櫻子は、店長の機嫌を直すには十分すぎるほど大量注文してくれた。
「お待たせしました。エビチリとレバニラ、酢豚に天津飯に餃子です」
「わあ、すっごく美味しそう! いただきます!」
料理を前に、櫻子が目を輝かせる。
「こんなに頼んで大丈夫か?」
「全然大丈夫。昨日お金おろしたばっかりだから」
金じゃなくて量の話だったんだが。
「おいハレ! チャーハン上がったぞー」
「あいよー」
カウンターで皿を受け取り、櫻子のテーブルへ運ぶ。
「お待たせしました、って、なんでもう皿が空いてるんだ!?」
天津飯と餃子が消えていた。
まだ十数秒しか経ってない。外にぶん投げたりしてない?
「なんでって、食べたらそりゃ無くなるよ?」
返事をする間にも、チャーハンがさらさらと口へ吸い込まれていく。
チャーハンはお茶漬けじゃないんだよ?
その後も結局櫻子はチャーハンを追加した。それも大盛りで。
「ご馳走さまでした!」
「やっと満足したか。デザートは?」
「今日はやめとこうかな。今から帰って晩ご飯食べないとだからね」
イマカラカエッテバンゴハン?
「……ごめん、俺馬鹿だから日本語しか聞き取れないわ」
「ハレ君!? わたし日本語で喋ってるよ!?」
櫻子がかなりの食いしん坊だと判明したところで、店長がキッチンから顔を出した。
「お嬢ちゃん、美味かったかい?」
「はい! こんな素敵なお料理、生まれて初めて食べました!」
店長の凶悪な笑顔が、さらに深くなる。
「ハレ。もう暗い、お嬢ちゃんを送っていってやれ」
「え、俺まだバイト中……」
「そうですよマスター! お客さんが来たら困るんじゃ……」
マスター。
店長の口元が、ぴくっと動いた。
「はは、大丈夫だよお嬢ちゃん。こんな店、誰も来やしないさ」
いや、それは大丈夫じゃないだろう。
* * *
「ごめんね、仕事中なのに」
「大丈夫。あの店、本当に客来ないから。マジで」
「それは大丈夫じゃないでしょ」
旧都のデコボコ道を並んで歩く。
櫻子が普通に話しかけてくれるのが、不思議だった。
「……あのさ。俺のこと、怖くないの?」
「怖い? ハレ君が?」
「ほら、なんつーか……あの辰守晴人だし」
櫻子が足を止めた。
「ご、ごめんね。昨日、すごく失礼なこと言っちゃってたよね」
「いや、責めてるんじゃなくて。ただ、知ってたのに普通に話してくれるからさ」
高校に入って一週間で、俺は先輩を三人殴った。
野良猫にタバコを押し付けようとしているのを、やめさせようとしたのが発端だ。
結果として、猫は無事だった。先輩は無事じゃなかった。
一人は頬骨を折り、俺は一週間の停学になった。
退学にならなかったのは、おそらく親父が金で解決したからだ。
金持ちの息子で、入学早々に暴力沙汰。学校へ戻ると、誰も俺と目を合わせなくなっていた。
「まあ、そんなわけで。俺に話しかけてくる奴、まずいないから」
櫻子は静かに聞いていた。
「噂は、わたしも知ってたよ。でも、実際に見たわけじゃなかったし」
「……なかったし?」
「お汁粉、奢ってくれたし」
「え。それだけ?」
「それだけって、わたし、すっごく嬉しかったんだから」
くしゃっと笑った櫻子が、少し俯いた。
「わたしね、転入生なの」
「転入生って、じゃあ──」
「魔女じゃないよ。夕張ヒカリさんと同じ日に転入してきた、ただの一般人」
二年生に魔女が転入してきた話は、校内中の噂になっている。
転校生がもう一人いたなんて、知らなかった。
「実は、部活も入ってないの。おかあさんを安心させたくて、学校で上手くやってるって嘘ついちゃって。だから、歩いて帰って時間を潰してるんだ」
あのベンチで休んでいた理由が、ようやく分かった。
「本当は、友達もいないのにね」
転入先では、もうクラスの輪が出来上がっている。
そのうえ、同じ日に来たのが魔女だ。皆がそっちに夢中になっている間、櫻子は一人でいたんだろう。
「……部活はどうか知らないけどさ、友達ならいるだろ」
くさい。言った自分で恥ずかしくなる。
それでも、言ってやりたかった。
「……え。あの、わたしと……ハレ君?」
「まあ、お互い高校生活最初の友達ってことで」
右手を差し出す。
櫻子は俺の手を見て、それから、おずおずと握った。
「あ、あの、よろしくお願いします」
別に、同情したわけじゃない。
知り合って二日だけど、こいつはいい奴だと思った。それだけだ。
「ハレ君、最初で最後の友達にならないように頑張ろうね」
……少し卑屈なところは否めないが。
* * *
櫻子を送って店に戻ると、龍奈の機嫌が悪かった。
閉店まで客が来なかったせいかと思ったが、どうやら違うらしい。
「さっさと片付けて、可愛い彼女に会いに行ったら!?」
「はぁ? 彼女とかいねえし」
「だったら夕方来てた幸薄子はなんなのよ!」
「櫻子のことか?」
通じてしまったが、別に幸薄そうな奴だと思っているわけではない。ほんとに。マジで。
「櫻子は友達だよ」
「はあ? 友達から始めましょうってこと?」
「何をだよ」
「もういい! ハレと話してると頭痛が痛くなってくる!」
「意味重複してんぞ」
「男のくせにヒトの厚揚げばっかとってんじゃないわよ!」
「揚げ足な。なんだよその怖すぎる厚揚げ」
この店の看板娘、龍奈は、見た目こそ可愛らしいが、口より先に手が出るタイプの危ないやつである。
「……ここまでくると一周回って可愛いよ、お前」
その日は、手より先に灰皿が飛んできた。
* * *
「くっそ、思いっきり投げやがって……」
バイトを終え、肩をさすりながら家へ向かう。
二十二時を過ぎた旧都の道に、人影はない。
──が、五分ほど歩いたところで、声が聞こえた。
「──なんだこの女、マジで口がきけねえのかよ」
「最高じゃん。もうここでヤっちまうか?」
半ば崩れたビルの脇。狭い路地の奥からだ。
「おい、お前ら押さえとけよ」
「っ、うう、ううぁ!」
女の子の声。
俺はパーカーのフードを目深に被った。
「おい、お前ら。何してんだ?」
路地へ入ると、男が四人。
一人が、女の子を壁に押さえつけていた。
「ああ? 誰だてめぇ、死にたくなかったら消えろ」
「お前らこそ、その子を離して消えろ」
「なんだこの正義マン。おい、こいつやっちまうぞ」
「マサヨシ君、やっちゃってくださいよー」
三人がこちらへ向かってきた。
路地は、人が二人並べる程度の幅しかない。囲まれる心配はなかった。
「死ね、おらぁ!」
先頭の男が殴りかかってくる。
遅い。
拳を避け、すれ違いざまに背中を押す。
男は勢いのまま、顔面から地面に突っ込んだ。
「な、なんだこいつ!?」
二人目のアゴに一撃。
三人目は、崩れ落ちたそいつに足を取られ、俺の前で膝をついた。
「あ、ちょっとま──」
アゴがちょうどいい位置にあったので、蹴り上げた。
「で、お前で最後だけど?」
「す、すみませんでした! 殺さないでください!」
女の子を押さえていた男が、即座に土下座した。
最初のパンチより速かったんじゃないだろうか。
倒れたリーダー格の財布から、免許証を抜き出す。
「……正義と書いてマサヨシ君なんかい。名は体を表すってありゃ嘘だな」
名前と住所を確かめて、財布を戻した。
「顔と住所、覚えたからな。また悪さしてたら次はないぞ。マサヨシ君が」
「はい! もう二度としません! 神に誓います!」
「よし。じゃあ歯を食いしばれ」
「へっ、な、なんで!?」
「その子を壁に押し付けてたのお前だろ」
最後の一人にも一発お見舞いして、しゃがみ込んでいる少女へ向き直る。
綺麗な金色の髪が、腰まで伸びていた。
見慣れない服は、所々汚れている。
「大丈夫? 立てるか?」
「……ううぅ」
少女は俺の顔をじっと見つめ、それから差し出した手を握った。
遠くで、サイレンが鳴った。
「……また停学はごめんだな」
俺が駆けつけるよりも前に、誰かが通報していたらしい。この子は警察に任せよう。
そう思って踵を返しかけた俺の腕が、ぐっと引かれた。
「え、ちょっと。離してくれない?」
少女が、俺の手を握ったままだった。
「俺の言葉、通じてる?」
「……あうぅぅ」
だめだ。全然通じてないっぽい。
サイレンが近づいてくる。
「頼むから離して……ちょ、離せ!」
「……うぅぅ」
「うわ、すっごい力強いわこの子」
振りほどけない。
そうこうしている間に、路地の出口で車が止まった。
回転する赤い光が、路地を照らす。
「おい! 誰かいるのか!?」
「奥で人が倒れてるぞ!」
俺は少女の手を引き、反対側の出口へ駆け出した。
隣の道路へ抜け、足を止める。
少女もついてきた。というか、手を離さないから連れてきてしまった。
「……で、こいつはいったいどうすれば」
左手は、まだ握られたままだ。
少女は俺と目が合うと、ニコッと微笑んだ。




