第96話:【処理競合】私は帰る、女王は帰さない。施設が困り始めました
最後の隔壁が動いた。左右から、上下から、分厚い白い壁が重なりながら、俺たちの前を塞ごうとしてくる。
【最優先保護対象への接近を制限します】
「操!」
「分かってる!」
氷青の光が走り、一番下の可動部が凍りついた。ガガガガ――と音を立てて、隔壁の動きが鈍る。
「海斗!」
「後ろは任せろ!」
振り返らなくても、赤い結界が広がったのが分かった。俺たちを押し戻そうと、背後から別の保護壁が迫っている。
【安全区画への退避を推奨します】
「しつこい!」
海斗が叫ぶ。
「玲司! 前だけ見ろ!」
「ああ!」
隔壁は何重にも重なっている。壊せないわけじゃない。だが力任せに壊せば、この先にいる姉貴まで巻き込むかもしれない。
「操。左上」
「これね」
「その下も」
「了解」
剣が二度走り、氷が術式に食い込む。壁の一部だけが停止して、隙間ができた。狭い。だが。
「通れる」
「一人ならね」
操の言う通り、今の幅では三人同時は無理だ。
【個別通行は許可されていません】
「一人でも駄目らしいぞ」
「だったら何の隙間だよ」
「希望?」
「施設が一番嫌いそうな単語だな」
海斗が後ろで笑った。その直後、キィィィン――と、隔壁の奥で何かが揺れた。
「玲司?」
「ああ」
魔力の流れが変わった。俺たちを押し返そうとしていた力が、一瞬だけ奥へ引っ張られたのだ。
【処理競合】
三人とも表示を見る。
「競合?」
操が眉を寄せた。
【最優先保護対象に関する処理を再確認します】
「姉貴だ」
「何かやってる?」
「たぶん」
「遥香さん、じっと助けを待つタイプじゃないもんな」
「むしろ今まで待ってた方が珍しいわね」
「否定できない」
壁の向こうで、もう一度魔力が揺れた。俺は隔壁に手を当てる。
「……姉貴」
何してる。
◇ ◇ ◇
「ありました!」
「ありません!」
「あります!」
「見間違いですわ!」
「こんなに大きく書いてあるのに!?」
走りながら叫ぶ遥香の視線の先、廊下の壁に表示が浮かんでいた。
【最優先保護対象管理】
遥香はそこへ一直線に向かう。
「姫君! 止まりなさい!」
「嫌です!」
「走ってはいけません!」
「今そこ!?」
後ろからエレオノーラが追ってくる。もう何度目か分からない。さっきまで世界中の人を完全保護しようとしていた最後の女王が、今は遥香一人を追いかけるので手一杯だった。
その時、壁に新しい表示が浮かんだ。
【外部からの接近を確認】
【危険行動を継続する三名を確認】
遥香の足が止まりかけた。
「……三人?」
「姫君」
三人。玲司と、操ちゃんと、海斗くん。たぶん――いや、絶対。
「来た!」
遥香はさらに速度を上げた。
「何が嬉しいのです!?」
「迎えが来ました!」
「危険ですわ!」
「知ってます!」
「でしたら――」
「でも来てくれました!」
角を曲がった先に端末がある。遥香は飛びついた。
【現代の姫君】
【限定管理権限を確認】
「開いて!」
「姫君!」
表示が展開する。
【保護状態】
【最優先】
【完全保護継続中】
「継続しなくていいです!」
【操作権限を確認中】
エレオノーラが追いついた。
「そこを触らないでくださいませ!」
「じゃあエレオノーラさんが帰してください!」
「それはできません」
「じゃあ触ります!」
「なぜそうなりますの!?」
遥香は項目を流していく。生活支援、保護強度、移動制限、外部接触制限。その下に。
「あった!」
【本人意思による保護終了】
「姫君!」
「やっぱりあるじゃないですか!」
押す。
【最優先保護対象本人による操作を確認】
【保護終了には本人意思の確認が必要です】
「します!」
エレオノーラが端末に手を伸ばす。遥香は身体ごと画面の前へ割り込んだ。
「危ないですわ!」
「押してません!」
「退きなさい!」
「嫌です!」
「転びます!」
「転びません!」
端末が光った。
【確認】
【現在の保護を終了した場合、安全は保証されません】
遥香は迷わなかった。
「はい」
【危険区域への移動が可能となります】
「はい」
【負傷・事故・災害・敵性存在との遭遇可能性があります】
「長い!」
「ほら! 危険ですわ!」
「知ってます!」
遥香は画面を叩いた。
「次!」
【それでも保護を終了しますか?】
「終了します!」
金色の光が広がる。
【最優先保護対象本人による保護終了要求を確認】
エレオノーラの顔から、初めて完全に笑みが消えた。
「姫君」
「はい」
「取り消しなさい」
「嫌です」
「外は危険です」
「知ってます」
「傷つくかもしれません」
「はい」
「あなたの弟も」
遥香の指が、少しだけ止まった。
「あなたを迎えに来た者たちも。危険な場所へ入れば、帰れなくなる可能性があります」
遥香は端末から手を離し、エレオノーラを見た。
「……それは」
怖い。ものすごく怖い。玲司が危険な場所へ行くたび、毎回大丈夫だと思って送り出しているわけじゃない。帰ってきて、怪我しないで、無茶しないで。そう何度思ったか分からない。
「嫌ですよ」
遥香は言った。
「玲司が帰ってこないのなんて、絶対に嫌です」
「でしたら」
「でも」
遥香は一歩、エレオノーラに近づいた。
「だからって、玲司をずっと家の中に閉じ込めておきたいとは思わないです」
「それとこれは――」
「同じですよ」
エレオノーラが言葉を止めた。
「玲司は探索者です。操ちゃんも、海斗くんも」
遥香は端末の向こう、三人がいるはずの方向を見た。
「危ない場所に行く仕事です。やめてほしいって思う時だってあります。でも、それを決めるのは私じゃないです」
「……」
「玲司が決めることです」
遥香は自分の胸に手を置いた。
「だから、私がどこにいるかも、私が決めます」
【保護終了要求を受理】
端末が強く光った。
【本人意思を優先】
【保護終了処理を開始します】
「よし!」
「なりません!」
エレオノーラが端末に手を触れる。
【最上位保護権限を確認】
【保護継続命令】
光が止まった。
「またそれ!」
【本人意思による保護終了要求】
【最上位保護権限による保護継続命令】
【処理競合】
「姫君」
「嫌です!」
遥香は画面に手を置いた。
「私のことですよ!?」
「だからこそです!」
「じゃあ私の希望を聞いてください!」
「聞いております!」
「聞くだけじゃなくて!」
遥香はエレオノーラをまっすぐに見た。
「尊重してください!」
端末全体が明滅する。
【保護対象本人意思】
【最上位保護権限】
【優先順位を再判定】
施設が揺れた。
「わっ!」
遥香が端末を掴むより早く、エレオノーラが反射的に腕を伸ばし、遥香の肩を支えていた。
「……ありがとうございます」
「ほら、危険ですわ!」
「今の原因、たぶん私たちです!」
「でしたら操作をやめなさい!」
「嫌です!」
遥香はすぐに端末へ戻った。
【保護終了要求を継続しますか?】
「します!」
「姫君!」
今度はしっかりと、自分の指で押した。
「私、安全じゃなくていいなんて言ってません」
遥香はエレオノーラを見る。
「安全な方がいいです。怪我もしたくないし、玲司にもしてほしくないです」
「でしたら、ここに」
「でも、ここにずっといるのは嫌です」
遥香は首を振った。仕事がある。配信がある。友達がいる。セバスが淹れる紅茶があって、ルナがいて、操ちゃんと海斗くんがいる。そして、玲司がいる。
「私の毎日は、ここじゃないです」
エレオノーラの瞳が揺れた。
「危険が一つもない場所より」
遥香は笑った。
「私は、みんなのいる場所へ帰ります」
【本人意思を再確認】
【保護終了要求を最優先処理へ移行】
「――っ」
エレオノーラが端末に手を伸ばす。
【最上位保護権限】
【保護継続命令】
二つの命令がぶつかった。今度は、さっきよりも大きく。
◇ ◇ ◇
隔壁が跳ねた。
「何だ!?」
海斗が叫ぶ。目の前の白い壁が閉じて、開いて、また閉じる。
【処理競合】
【保護終了】
【保護継続】
「……姉貴」
間違いない。
「何で分かるの?」
操が訊く。
「こんな面倒なことするの、姉貴しかいない」
「ひどい信頼だな!」
「褒めてる」
「そうは聞こえねえ!」
でも、笑いそうになった。姉貴は待っていない。自分で帰ろうとしている。
「なら、こっちも合わせるぞ」
拳を握る。
「どうする?」
操が前へ出た。
「壁が開く瞬間だけ、術式が弱くなる」
「何秒?」
「一秒ない」
「十分」
「操はそう言うと思った」
海斗が結界を広げる。
「オレは?」
「この区画を固定してくれ。処理競合で床まで不安定になってる」
「簡単に言うな!」
「できるだろ」
「できるけど!」
「じゃあ頼む」
「最近それで全部押し切るよな!」
赤い光が床に広がり、揺れが止まった。
「玲司」
操が剣を構える。
「合図して」
「ああ」
壁を見る。閉鎖、継続、終了。閉鎖、継続、終了。魔力の波が寄せては返す。その中で、姉貴側の命令が通る一瞬だけ、壁の術式が消える。
「今!」
操が踏み込んだ。氷青の剣閃が狙ったのは壁ではなく、左右の可動部だ。保護継続に切り替わる前に一気に凍らせる。ガンッと音を立てて、隔壁が途中で止まった。
「玲司!」
「行く!」
隙間へ飛び込む。
【侵入を確認】
【保護対象本人が接触を希望しています】
「……!」
【最上位保護権限により接触を制限します】
「邪魔すんな!」
拳を叩き込み、術式を揺らす。壊すんじゃない。接触制限の部分だけ、魔力の流れを剥がす。
「海斗!」
「後ろ来てる!」
赤い結界が衝撃を受け止める。
「何枚!?」
「数えてる余裕ねえ!」
操が横へ回った。
「右、もう一枚!」
「任せた!」
「任された!」
氷が走る。俺は中央で術式を読む。接触制限、本人意思、最上位権限。全部がぐちゃぐちゃにぶつかり合っていた。
【処理競合】
【保護対象本人による接触希望】
【外部三名による接近】
【最上位保護権限による隔離命令】
「外部三名って俺たちか?」
「今さらそこ気にする!?」
「姉貴側は接触希望だ」
「だったら!」
海斗が叫ぶ。
「行くしかねえだろ!」
「ああ!」
もう一枚、隔壁が開いた。三人で駆け抜ける。
◇ ◇ ◇
【外部三名の侵入継続】
「来てる!」
遥香は端末を見て声を上げた。
「姫君!」
「もう近いですよね!?」
「近づけさせません!」
エレオノーラが別の端末を操作する。
【隔離区画を追加】
「増やした!」
「安全のためです!」
「こっちは帰るためです!」
遥香も自分の端末を押す。
【本人意思による接触許可】
【許可】
「よし!」
【最上位権限による接触制限】
【制限】
「また!」
許可と制限。二つの表示が交互に切り替わる。施設全体が困っているようだった。
【処理競合】
【優先順位を確定できません】
「頑張って!」
「どちらを応援していますの!?」
「私!」
「施設に自分を応援させないでくださいませ!」
床が揺れ、奥の壁が一瞬だけ透明になった。
「……え」
向こう側は遠く、何枚も隔壁が重なっている。それでも見えた。黒銀、氷青、赤。三つの光が。
「玲司!」
遥香は叫んだ。
◇ ◇ ◇
声がした。
「――姉貴?」
隔壁の向こうから、微かに。それでも、聞き間違えるはずがない。
「玲司ーっ!」
「姉貴!」
白い壁が一瞬、透明になった。遠く、その向こうに姉貴がいる。端末の前で、こっちに手を振っている。
……元気そうだ。
「何であの状況で手振ってんだよ!」
「遥香さんだからじゃない?」
「遥香さんだなあ……」
「お前ら納得するな!」
文句を言いながら、俺も手を上げた。その瞬間。
【接触を確認】
【最優先保護対象を再隔離します】
「おい!」
白い壁が元に戻った。
「玲司!」
姉貴の声が遠ざかる。
【帰還経路を閉鎖】
【保護障壁を最大展開】
ドンッ!
俺たちと姉貴の間に、何重もの壁がせり上がった。床も天井も、全部が動き始める。
「せっかく見えたのに!」
海斗が構える。
「玲司!」
操が俺を見た。
「ああ」
姉貴は見つけた。意思も確認した。帰りたい、こっちへ来たいと言っている。それなら、あとは一つだけだ。
「迎えに行くぞ」
何重もの保護障壁の向こうから、姉貴の声がした。
「こっちも行くからーっ!」
「待ってろ!」
「待たないよーっ!」
「知ってる!」
操が吹き出し、海斗も笑った。
「姉弟だなあ!」
「今それ言うな!」
【最優先保護対象の移動を検知】
【外部三名の侵入を検知】
【完全隔離処理を開始します】
施設全体が大きく揺れた。俺たちも進む。姉貴も進む。向こうがどれだけ安全に閉じ込めようとしても、どこへ行きたいかは、もうお互いに決まっていた。
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