第91話:【全人類保護】姉を保護した女王、どうやら世界規模で話が通じない
「たぶんこの人、過去最高に話が通じないかもしれない」
「失礼ですわね」
「あ、聞こえてました?」
「目の前で言われましたもの」
そうだった。遥香は気まずそうに笑って、小さく咳払いをする。
「じゃあ、もう一回だけ確認させてください。私、家に帰りたいんです」
「駄目です」
「うーん。やっぱりそこは即答なんですね」
エレオノーラは本当に不思議そうな顔をしていた。遥香が帰りたがっていることは理解している。理解したうえで、帰す気がない。
「せめて理由をちゃんと聞いてもいいですか? 危険だからっていうのは聞きましたけど、それだけだと納得できなくて」
「もちろんですわ。まずはお掛けになって」
「立ったままで大丈夫ですよ?」
「駄目です。転倒なさったら危険ですもの」
「私、普通に立てますよ?」
「ですが、人は立っていれば転ぶ可能性がありますでしょう?」
「それを言ったら、座ってても椅子から落ちる時はあるんじゃないですか?」
エレオノーラは数秒、本気で考え込んだ。
「……そうですわね」
「あ、そこは納得してくれるんだ」
「では横になりましょう」
「どうして悪化するんですか!?」
遥香の後ろへ、椅子が音もなく滑ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。でも三歩くらいなら自分で歩けますよ?」
「歩けば転倒の危険がありますもの」
「三歩で転ぶ前提なの、私への評価が低すぎません?」
抵抗しても話が進まなそうなので、遥香は結局、椅子に腰を下ろした。
「玲司でもそこまでは言わないですよ……たぶん」
「玲司?」
「弟です。さっきから何回も名前を呼んでたと思うんですけど」
「ああ。あなたを守っている方ですわね?」
「守ってくれてはいますけど、本人に言うと『危機管理だ』って訂正されると思います」
遥香はポケットのスマートフォンに触れた。
「今頃、協会のみなさんと一緒に私を探してるはずです。ものすごく怖い顔をしながら」
「でしたら、もうその必要はありませんわ」
「ありますよ。私がここにいる限り、玲司は絶対に諦めませんから」
「ありません」
「ありますって」
「ありませんわ」
「そこ、張り合うところなんですか?」
遥香はスマートフォンを取り出して画面を見せたが、相変わらず通信できない表示のままだった。
「本人に聞けば早いんですけど……電話も繋がらないんですよね。これ、やっぱりそっちのせいですか?」
「あなたを危険から隔離した結果ですわ」
「連絡まで危険扱いなんですか? 普通に弟へ『無事だよ』って伝えたいだけなんですけど」
「外部から予期せぬ干渉が入る可能性がありますもの」
「玲司との電話で何が起きる想定なんです?」
「音量が大きすぎれば、耳へ負担がかかるかもしれませんわ」
「そっち!?」
追跡とか、位置の特定とか、もっとそういう話だと思っていた。
「じゃあ、音量を下げればいいだけじゃないですか?」
「通信設備の安全性をすべて確認してから許可いたしましょう」
「それ、いつ終わります?」
「すべての危険要素を排除できましたら」
「たぶん永遠に終わらないやつですよね、それ」
「安全に終わりはありませんもの」
「立派な言葉っぽく言ってますけど、全然ありがたく聞こえないです」
エレオノーラは気にした様子もなく微笑んだ。遥香はスマートフォンをポケットへ戻す。
「それで、私がそんなに危険な環境にいるって、具体的には何を見て判断したんですか?」
「あなたについては、しばらく調べさせていただきました」
「やっぱり前から見てたんですね。本人に黙って調べるのも、こっちでは結構怖いやつなんですけど」
「文化の違いですわね」
「たぶん文化だけの問題じゃないかなあ……」
エレオノーラは頬に指を当てた。
「ですが、おかげでよく分かりましたわ。あなたは魔獣のおります場所へ赴き、過去には古代施設へ何度も囚われています」
「ダンジョンへ行く時は、安全管理も護衛もしっかりしてもらってますよ? 弟なんてSランクですし」
「それでも危険です」
「まあ、古代施設に捕まる方は反論できないですけど……」
「さらに、外へ出れば事故に遭う可能性があります」
「そこまで日常に入ってくるんですか?」
「食事をすれば喉へ詰まらせる可能性もありますし、熱い飲み物では火傷も――」
「待ってください。まさか紅茶まで禁止しませんよね?」
「まさか。適温にいたしますわ」
「そこは禁止じゃないんですね。よかった」
ちょうどその時、部屋の奥から小さな台が静かに運ばれてきた。ティーポットとカップ、焼き菓子まで載っている。
「どうぞ。菓子も喉へ詰まりにくい大きさにしております」
「そこまでやったんですか?」
遥香は焼き菓子をまじまじと眺めた。どれも一口より少し小さく、同じ大きさに揃えられている。
「セバスが見たら、どんな顔するかなあ」
「セバス?」
「うちにいる執事です。紅茶にはものすごく詳しいんですよ」
「まあ。それはぜひ一度お話ししてみたいですわね」
「じゃあ、一緒に会いに行きません? 私を帰してくれれば、すぐ紹介できますよ」
「それとこれとは別ですわ」
「やっぱり駄目かあ」
遥香がカップへ手を伸ばすと、すかさず声が飛んだ。
「お待ちになって」
「今度は何です?」
「温度を再確認いたします」
「さっき調整したばっかりですよね?」
「時間が経ちましたもの」
「十秒くらいしか経ってないですよ?」
「変化は変化ですわ」
遥香はゆっくり手を引っ込めた。
「玲司の過保護がだいぶ可愛く見えてきました……」
弟も相当だとは思っていた。出かけると言えば目的地を聞かれるし、スマートフォンの充電を確認されるし、知らない場所なら経路まで確認される。でも玲司は、最後には遥香自身に選ばせてくれる。心配して、文句を言って、何かあったら連絡しろと念を押して、それでも行くなとは言わない。
エレオノーラは違う。危険があるなら、その選択肢そのものを消してしまう。
「エレオノーラさん。もしかして……私がここでずっと暮らしていれば、それで全部解決だと思ってます?」
「ええ」
「外へ出ないで?」
「必要ありませんわ」
「でも、私には仕事がありますよ。配信もしたいし、友達にも家族にも会いたいです」
「こちらへお招きすればよろしいでしょう」
「じゃあ、私から会いに行くのは?」
「危険です」
遥香は少し黙った。
「結局、何をするにしても、ここから出ちゃ駄目なんですね」
「ここは安全ですもの」
迷いのない答えだった。
「私、安全なのは好きですよ。でも、安全なら何でもいいってわけじゃないんです」
エレオノーラが口を閉じる。
「別に危ないことをしたいわけじゃないですよ? 事故にも遭いたくないし、魔獣にも襲われたくないです。玲司が心配するようなことだって、なるべくしたくないですし」
遥香は少し笑って、続けた。
「でも、家には帰りたいし、お仕事もしたいし、友達にも会いたいんです。今日はどこへ行こうとか、明日は家でのんびりしようとか、そういうのを自分で決めたいんですよね」
「なぜ?」
「なぜって言われると難しいですけど……安全でいることだけが、毎日の目的じゃないからじゃないですか?」
エレオノーラが瞬きをした。
「よく分かりませんわ」
「そうですよね。今すぐ分かってもらえるとは思ってません」
遥香は苦笑した。
「私も、エレオノーラさんがどうしてそこまで安全にこだわるのか、まだ全然分かってないですし」
ほんの一瞬、エレオノーラの表情が止まった。遥香は気づいたが、今は追及しなかった。
「ただ、一つだけ分かりました。エレオノーラさん、本当に私を傷つけたいわけじゃないんですね」
「当然です! そのようなこと、するはずがないでしょう!」
「うん。そこは信じます。やってることには全然納得してないですけど、私を傷つけたい人じゃないっていうのは分かりました」
「あなたは現代の姫君ですもの。守らなければなりません」
そこだけは絶対に譲れない。そう思わせる強さが、声にあった。
「私が姫君だから、そこまで守りたいんですか?」
「それもありますわ」
「それも?」
遥香が首を傾げると、エレオノーラは柔らかく微笑んだ。
「あなたは特に優先すべき存在です」
「ちょっと待ってください。『特に』ってことは、私以外にもいるんですか?」
「もちろんですわ」
「同じように保護したい人が?」
「ええ」
嫌な予感がした。
「えっと……何人くらい?」
「数を数える必要がありますの?」
「ありますよ。そこ、ものすごく大事です」
「そうですの?」
「大事です」
エレオノーラは少し考えてから、遥香を見た。
「でしたら――全員ですわ」
「……全員?」
「すべての人間を保護いたします」
遥香の動きが止まった。
「えっと、ちょっと待ってくださいね。今の『すべて』って、どの範囲の話です? 日本?」
「いいえ」
「探索者とか、危険なお仕事をしている人たち?」
「いいえ」
「……まさか、本当に世界中?」
エレオノーラが立ち上がる。
「現代に生きる、すべての人間ですわ」
焼き菓子にも紅茶にも、もう視線は向いていなかった。
「世界には、あまりにも危険が多すぎます」
ゆっくりと歩きながら、エレオノーラは続ける。
「魔獣。ダンジョン。災害。事故。そして、人自身が選んでしまう危険な道」
さっきまでの妙な過保護とは違う。これは本気だ。
「ですが、危険へ近づかなければ傷つきません」
足を止める。
「危険な場所へ行けなければ、帰ってこない者も出ません」
一瞬、その声がほんの少しだけ変わった。遥香は気づいた。けれどエレオノーラは、すぐに元の微笑みへ戻っていた。
「ですから、すべての人間を、完全に安全な環境へ移します」
「……本人が嫌だって言ってもですか?」
「もちろん、最初は戸惑う方もいらっしゃるでしょう」
「戸惑うっていうか……かなり嫌がる人もいると思いますよ?」
「安全だと分かれば、きっと理解してくださいますわ」
遥香は頭の中で想像してみた。世界中の人が、仕事へ行くことも、学校へ行くことも、好きな場所へ遊びに行くことも、誰かに会いに行くこともできなくなる。危険だからという、その理由だけで。
「つまり……世界中の人を、ここみたいな安全な場所に入れて、危ないことは何もできないようにするってことですか?」
「その通りですわ」
「本人が外に出たいって言っても?」
「危険ですもの」
「自分で行き先を決めたいって言っても?」
「危険な選択であれば止めますわ」
遥香はもう笑わなかった。
「それって、私から見ると……みんなを閉じ込めるのとかなり近いんですけど」
「閉じ込める?」
「はい。本人が出たいのに出られなかったら、そう感じる人は多いと思います」
「違いますわ」
迷いのない否定だった。遥香は小さく息を吐く。
「やっぱり、そこなんですね」
「何がです?」
「エレオノーラさんは……その人がどうしたいかより、とにかく安全でいることの方が大事なんですね」
「当然でしょう?」
その答えは、とても優しかった。だからこそ、怖かった。
「誰一人、危険な目に遭わせない」
声に迷いはない。
「誰一人、傷つけさせない」
本気でそれが正しいと信じている声だった。
「危険な選択そのものを、できないようにする」
そして、世界で一番優しいことを語るように、エレオノーラは言った。
「わたくしが、全人類を完全に保護いたしますわ」
遥香はしばらく何も言えなかった。悪意はない。全部、本気だ。本気で、世界中の人を守ろうとしている。
やがて、遥香は額に手を当てた。
「……玲司」
また弟の名前が口からこぼれる。
「これ、私を迎えに来るだけじゃ終わらないみたいだよ」
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