第18話:【口裏コーヒー】高級豆でチーフを買収する無職仮と、査察犬の嗅覚
※リメイク版として第1話から投稿中です。
翌朝。
俺――黒瀬玲司は、いつもより一時間早くステラライブ事務所へ出社していた。
理由は三つ。誘導核の解析資料を誰が読んでも理解できる形へ整えるため。昨日の喉元の手形について、チーフマネージャーへ口裏を合わせてもらうため。
そして、俺の顔写真を持っている探索者協会査察部の犬飼猛が、朝一番でここへ来るからだ。
帰りたい。まだ出社して三分だが、もう帰りたい。
だが、逃げれば怪しまれる。出社しても怪しまれる。なぜ二択が両方とも地雷なのか。
「チーフ。おはようございます」
「おはよう、黒瀬くん。今日は早いね」
「こちら、例の高級豆で淹れたコーヒーです」
「おお」
チーフマネージャーの顔が露骨に明るくなった。気の利く新人スタッフの朝の挨拶。実際は、家庭内査察を乗り切るために虚偽証言への協力を依頼しようとしている。
大人になるとは、たぶんこういうことではない。
「それで、昨日の首の痕の件なのですが」
「ああ。星宮さんが気にしていたね」
チーフはコーヒーを一口飲み、目を細めた。
「美味しいね、これ。高かった?」
「そこは聞かないでください」
「黒瀬くん。何を頼む気?」
鋭い。コーヒーで思考力が上がってしまったらしい。選ぶ豆を間違えた。
「もし姉貴に聞かれたら」
俺は声を落とす。
「撤収作業中、落下した結晶板から俺を助けるため、チーフが後ろから襟首を引っ張ったことにしてください」
チーフの動きが止まる。そして、感極まった顔になった。
「つまり、僕が黒瀬くんの命を救ったことに?」
「はい」
「星宮さんにも、僕の頼もしさが伝わる?」
「かなり」
「任せてくれ」
即落ちだった。
人としては最高だが、査察対象としては穴だらけである。俺にとってはありがたい。社会にとっては少し心配だ。
「念のため確認します。話は盛らないでください。ゴリラ級の握力とかも不要です」
「言おうと思っていたのに」
「言わないでください。握力は一般成人男性程度で」
「わかった。一般成人男性程度の握力で、僕が勇気を振り絞って黒瀬くんを救ったんだね」
「勇気も不要です」
「でも、星宮さんが安心するならいいよ」
その一言に、俺は口を閉じた。この人は本当にいい人だ。買収されるのが早い点だけは不安だが。
家庭内の安全確認、ひとまず完了。社会的にはかなり灰色だが、正体が十万人の前で確定するよりは白い。
「ところで、本当はどうして手形が?」
「乾燥です」
「乾燥では手形にならないよ」
「心が」
「心でもならないよ」
ごまかせなかった。俺は聞こえなかったことにして、自分の仮デスクへ戻る。
画面には、昨夜まとめた資料が並んでいる。製造シグナル。出荷履歴。保守契約。購入部署。企画予算。そしてライジング・プロモーション、赤城レオン担当マネジメントチーム。
黒に近い。というか、全身黒タイツで夜道に立っているくらい黒い。あとは、この黒さを専門知識のない人間にも見える形へ整える。
「やり方が雑なんだよ、ライジング」
キーボードを叩く。相手が雑なほど、証拠は綺麗に残る。時系列を一本にして、点と点をつなぐ。
感情はいらない。怒りは燃料。資料は冷静に。相手へ逃げ道を与えないためだ。
強いだけではAランクは続かない。書類が書けない探索者は、現場より先に事務処理で死ぬ。七年生き残った結果、今、企業犯罪の告発資料を作る無職仮が完成している。
人生の伏線回収が予想外すぎる。
「一次資料、完成。ステラライブ向け、完成。協会提出版、九割」
背後から声がした。
「黒瀬くん、今何してるの?」
スタッフの一人が、画面を覗き込もうとしている。俺は即座にウィンドウを切り替えた。
「資料整理です」
「その速度で?」
「無職仮は時間があるので」
「時間があると書類作成が爆速になるの?」
「なります」
「無職仮、すごいな……」
押し通せた。無職仮への期待値が妙な方向へ上がっている気がする。履歴書に書けない。
スタッフが離れたあと、最後の資料を開く。協会提出用。犬飼が確実に見るやつだ。
証拠を出せば黒瀬レイの調査能力を疑われる。隠せばライジングに逃げられる。決まっている。姉貴を狙った証拠を優先する。
提出者欄は空白にした。提供経路も伏せる。それでも、犬飼なら嗅ぎつくだろう。名前通りに。
「……来るなら来い」
小さく呟いた直後。事務所の入口から、冷えた声が響いた。
「失礼します」
来た。
「探索者協会本部、査察部から参りました。犬飼と申します」
早い。心の準備に一秒もくれない。
俺の指がキーボードの上で止まる。顔を上げた。
仕立ての良い黒いスーツ。三十歳前後。細身。薄いフレームの眼鏡。一見すれば冷静なエリート職員。だが眼鏡の奥の瞳は、獲物の足跡を一つずつ拾う肉食獣の目だった。
探索者協会査察部、犬飼猛。黒瀬レイとして活動していた頃、何度か現場で会っている。当時から勘が鋭く、こちらが隠したい部分だけを正確に踏んでくる男だった。
しかも木村の情報が正しければ、俺の顔写真を持っている。
チーフマネージャーが対応へ向かう。
「犬飼様。本日は、昨日の再検証配信についてのヒアリングでしょうか?」
「ええ」
犬飼は小さく笑った。
「それもあります」
その一言で、俺の胃が痛くなる。それも。つまり本命は別にある。
犬飼は事務所内を見渡した。一人。また一人。スタッフの顔を確認していく。
そして、事務所の隅。ジッパーを顎まで上げた俺の上で止まった。
目が合う。やめろ。そこに止まるな。
犬飼は一瞬だけ俺の顔と手元の書類を見て、すぐにチーフへ視線を戻した。
「今回のダイヤモンド・ゴーレム襲撃について、不可解な点がありまして。現場の戦闘痕跡です」
犬飼がタブレットを取り出す。画面へ、昨日の現場写真が表示された。粉塵化したゴーレム。無傷の退避ルート。破片がほとんど飛んでいない壁面。
「通常、高硬度の結晶魔獣を高火力で破壊すれば、周囲へ鋭利な破片が飛散します。ですが今回は外側への飛散が極端に少ない。衝撃は内部へ集中し、構造だけが精密に崩されている。加えて、落下した結晶板も人がいない方向へ正確に弾かれている」
俺は無言で画面を見る。
安全第一。やるべきことをやった。選択は間違っていない。だが、痕跡が専門家に刺さりすぎている。
「この戦い方は、単なる高出力能力者のものではありません」
俺の背中に、冷たい汗が流れた。
「救助対象の位置。退避ルート。破片の軌道。崩壊後の二次被害。その全てを攻撃前に計算している。長年、救助を優先する実戦を経験した者の癖です」
来た。能力ではない。スーツでもない。戦い方。黒瀬レイとして身につけた癖だ。
「つまり、この周辺に、能力と経歴を隠しているAランク相当の探索者がいる可能性が高い」
事務所の空気が凍る。チーフが一瞬だけ、俺を見た。
見るな。今は本当に見るな。
犬飼の視線が、その動きを追う。最悪だ。チーフ、善人すぎて嘘が下手である。
「何か心当たりが?」
犬飼が聞く。
「い、いえ」
チーフは眼鏡を押し上げる。
「ただ、黒瀬くんが朝から高級コーヒーを――」
「チーフ」
「はい」
「その話は今いりません」
「そうだね」
犬飼の眉がわずかに動く。余計な情報を追加するな。俺の口裏合わせと未登録能力者疑惑を、同じ皿へ載せるな。
「そこの方」
犬飼が言った。聞こえないふりをしたかった。
「黒いスタッフジャンパーの方です」
それは他にもいる。俺だけではない。
「帽子とマスクを着けて、パーカーのジッパーを顎まで上げている方」
俺だけだった。服装が個性的すぎた。
「……はい」
俺は帽子を深く被り直す。覇気を消し、背中を丸め、目線を下げ、声を細くする。
無職仮としての社会的擬態。戦闘能力ではなく、社会性そのものを低く見せる。悲しいが、半分くらい普段どおりだ。
犬飼が俺のデスク前で止まった。
「黒瀬玲司さんですね」
名前を知っている。顔写真もある。確認から入らなかった。完全に把握されている。
「はい」
「昨日、現場の最前線にいたそうですね」
「端の方です」
「配信映像では、かなり前方に見えました。ドローンを避けながら最前線を移動していたようにも見える」
「陰キャなので」
「陰キャは、ダンジョン内で配信ドローン三台の死角を同時に把握するのですか?」
「気持ちの問題です」
「気持ちで光学追尾を回避できると?」
「強い気持ちで」
会話が苦しい。俺の心も苦しい。だが押し通す。
犬飼が顔を近づけてきた。圧が強い。査察部は他人との適切な距離を査察しないのか。
「黒銀の能力者が現れた瞬間」
低い声。
「あなたは配信映像から消えている」
「物陰にいました」
「戦闘終了後、予備のジャンパーを着て戻ってきた」
「現場は寒かったので」
「帽子とマスクが乱れていた」
「かなり混乱していたので」
「個性が非常時すぎますね」
チーフと同じツッコミをされた。社会人の常識は共通らしい。
犬飼の視線が、俺の喉元へ落ちる。
「その首の痕は?」
来た。
昨日、姉貴へついた嘘。今朝、チーフに頼んだ口裏合わせ。ここで役に立つ。
「撤収作業中に結晶板が落ちてきて、チーフが俺の襟首を掴んで助けてくれました」
犬飼がチーフを見る。チーフは胸を張った。
「はい。私が救いました。落下する結晶板を目にした私は、咄嗟に黒瀬くんへ飛びつき――」
「チーフ。短めで」
「私が襟首を引きました」
「握力は?」
「一般成人男性程度です」
そこまで答えなくていい。打ち合わせの成果を全部披露しようとするな。
犬飼の目は完全に疑っていた。当たり前だ。俺でも疑う。むしろチーフの口裏合わせが、真実を隠すどころか新しい謎を生んでいる。
犬飼が、わずかに魔力圧を放った。事務所の空気が重くなる。スタッフの一人が息を呑む。
普通なら恐怖で身体が固まる場面だ。だが俺にとっては、やや強い換気扇程度だった。Sランク魔獣の威嚇に比べれば、朝の風である。
問題は、平気な顔をしたら終わることだ。
「……ひっ」
俺は肩を大きく震わせた。演技開始。
「す、すみません!」
机の端へ手をぶつける。書類の束を床へ落とす。
バサバサバサッ!
事務所に紙が舞った。
「僕、ただの短期スタッフで……!」
床へ膝をつく。手を震わせる。背中を丸める。
「無職の期間が長くて、姉にも心配されてて、心が乾燥してて、昨日も怖くて物陰で震えてただけで……! 黒銀ヒーローとか見参未遂ニキとか、あんなすごい人と僕が関係あるわけないじゃないですか」
犬飼が黙る。
「僕、機材ケースを運んでただけです。運びすぎて歩くフォークリフトって呼ばれて、職業・筋肉とも言われて、ちょっと傷ついてて……」
言っていて悲しくなる。演技なのに、半分くらい事実だ。誰が考えた、職業・筋肉。
犬飼の魔力圧が、少し弱まる。俺は床の書類を拾いながら、手を震わせ続けた。
限界陰キャ演技。無職仮の情けなさが、今、防御スキルとして開花している。
「……失礼。少し、圧をかけすぎました」
犬飼がわずかに身体を引く。
「確かに、冷徹なまでに精密な戦闘を行った黒銀の能力者と、あなたのような……」
止まった。言え。どうせ情けないと言うつもりだろ。
「一般的な短期スタッフを結びつけるには、根拠が足りない」
今、絶対に別の単語を飲み込んだ。心の中で抗議する。だが、顔には出さない。
「ご迷惑をおかけしました」
俺は深く頭を下げた。乗り切った。
そう思った瞬間、犬飼の視線が床へ落ちた書類の一枚で止まる。
まずい。昨夜作った告発資料の下書きだ。
【人工魔力誘導核】
その文字が見えかけている。俺は別の紙を上へ重ねた。姉貴の配信機材搬入リスト。
・3D配信ドローン
・魔力シールド
・予備ケーブル
・照明機材
・ポテチ禁止
最後は俺が勝手に追加した。
犬飼の視線が、その項目で止まる。
「ポテチ禁止?」
「安全管理です」
「ポテトチップスが?」
「姉貴……星宮さんは、食べると床へ袋を置くので」
「転倒防止?」
「危機管理です」
犬飼は数秒、紙を見た。そして。
「重要ですね」
「分かっていただけますか」
「ええ」
初めて意見が一致した。姉貴のポテチ禁止令が、告発資料を守ったのである。
人生で初めてポテチに感謝した。いや、禁止令に感謝した。ポテチそのものは敵である。
犬飼は立ち上がった。
「本題へ戻りましょう」
空気が変わる。俺も書類を拾いながら、耳だけを向けた。
「ライジング・プロモーションは、本日午後に記者会見を行います。今回の再検証配信でAランク級の魔獣が出現した件について、ステラライブ側の安全管理不足を主張する予定です」
事務所がざわついた。
「待ってください」
チーフが一歩前へ出る。
「昨日の配信は協会立会いのもと、安全対策を――」
「承知しています。ですが、事実より先に世論へ印象を与えたいのでしょう」
犬飼の答えは冷静だった。
「再検証配信でも事故が起きた。ステラライブにはダンジョン企画を管理する能力がない。星宮ハルカさんの安全を守れない。その主張を軸にするようです。さらに」
まだあるのか。
「星宮さんの安全確保を名目として、今後のダンジョン企画における共同管理権を要求する動きがあります」
「共同管理……」
チーフの声が低くなる。
「実質的な囲い込みですか」
「企画内容次第では、ライジング所属探索者との常時共演を条件にする可能性もあります」
赤城レオン。逃げた男が、今度は姉貴を守る名目で、また近づこうとしている。
腹の底で怒りが静かに燃えた。だが、今は動かない。怒りは燃料。ハンドルではない。
「協会は中立です」
犬飼が事務所内を見渡す。
「ステラライブ側から、今回の出現が安全管理上の過失ではないと証明する資料が提出されなければ、ライジング側の提案を審査対象から外すことはできません」
「期限は?」
チーフが聞く。
「本日正午」
「正午!?」
現在、午前九時前。三時間。資料を一から作るなら間に合わない。普通なら。
「会見は午後一時です。その前に、協会として双方の主張を確認します」
チーフが唇を噛む。社長は別室で電話対応へ追われ、姉貴も配信後の問い合わせ対応中。
今、表向き、ステラライブには反論材料がない。
表向きには。
「最後に。黒銀の能力者についても、引き続き調査します」
犬飼が俺を見る。胃が痛い。
「未登録能力者であるだけなら、即座に処罰対象とは限りません。ですが、経歴や能力を意図的に隠しているAランク相当の探索者であれば、理由を確認する必要がある」
完全に俺へ言っている。名指ししていないだけだ。
「次に会う時は」
犬飼が小さく笑う。
「もう少し、互いに正直に話せるといいですね。黒瀬さん」
怖い。普通に怖い。俺の限界陰キャ演技を見た後でも、疑いを捨てていない。
犬飼は一礼する。
「資料をお待ちしています」
そのまま事務所を出ていく。扉が閉まった。
数秒、誰も動かなかった。やがてスタッフの一人が小さな声を出す。
「……どうしましょう」
「正午までに、事故がこちらの安全管理不足ではないと証明する資料……」
チーフも、すぐには答えられない。現場ログの解析。魔力波形の照合。ライジング側との関係。普通なら数日、早くても一日かかる。
だが、俺のPCには、すでにある。
「ありますよ」
俺は立ち上がった。事務所中の視線が集まる。やめろ。注目するな。
だが、今は逃げている場合ではない。姉貴の活動が奪われる。赤城レオンに、また近づく口実を与える。そんなものは認めない。
危機管理だ。シスコンではない。
俺はPCを大型モニターへ接続した。
【新宿第四ダンジョン再検証配信における人工魔力誘導核使用疑惑について】
チーフが目を見開いた。
「黒瀬くん……これは?」
「昨夜まとめた解析資料です」
「昨夜?」
「無職仮は夜に強いので」
「さっきは朝にも強いって言ってなかった?」
「成長しました」
「人間は一晩で昼夜両方に強くならないよ」
俺は資料の一ページ目を開いた。
「ダイヤモンド・ゴーレムの胸部に、人工的な誘導核が埋め込まれていました」
事務所が静まり返る。チーフの視線が、資料と俺の顔を往復した。
「待ってください。埋め込まれていたことは、どうやって?」
「現地で回収されました」
「誰が?」
「たまたまです」
「たまたま魔獣の胸部から、管理指定の誘導核が出てくることはないと思うけど?」
「ネットで見ました」
「現地で?」
「ネットは広いので」
チーフマネージャーは、何かを言おうと口を開いた。
だが、突っ込みたいことが多すぎたらしい。チーフはそのまま、静かに口を閉じた。
お読みいただきありがとうございます!
毎日7:10と19:40の2話更新です。
続きもお楽しみに!




