Ⅴ 神の血 -26
かつて桂妃庭と呼ばれた王族の庭園には、今、前代の太陽王の正妃が住んでいる。今まだ王国であれば、太后と呼ばれていた人だ。今は桂宮と呼ばれ、もう表舞台には出ていなない。
老人は昂にそう説明した。
その桂宮と老人が、どんな関係にあるのか。昂はそれが知りたかったが、老人はむっつり黙って、馬だけ進めていた。
外でしゃべっていい内容ではないのかもしれない。昂はそう考えて、口を噤んで、馬の後ろを守るように、ついて歩いた。
桂妃庭らしき庭園につくと、老人は勝手知ったる庭のように、堂々と門をくぐり、敷地内に入って行った。自分は馬を下りたが、奏は乗せたままだ。奏はすっかり馬に体を預け、うつぶせて寝息をたてていた。
門の所には門番らしき兵士が立っていたが、昂たちを見ても、身動き一つしなかった。
置きものかと思ったくらいだ。これでは門番にはならない。何の為にここに立っているのか、昂は首を傾げた。
「儂の知り合いじゃ」
昂の疑問に気が付いて、老人はぼそりとそう言った。
庭の中は野趣あふれた草花が、勢を争っていた。
針森に似ていると、昂は一瞬思ったが、すぐに眉を顰めた。
いや、どこか違う。
さわさわと小川が流れ、川べりには小さな花が咲き乱れている。周りの木々は生い茂り、植物の生命力は肌で感じられた。
だが、静かすぎる。
視覚的には華やかなのに、生命の音が聞こえないのだ。小川のせせらぎですら、無機質に聞こえる気がした。
もう、陽が落ちかけている。薄暗くなっていく庭園の侘しさで、そんな気がするだけかもしれない。
「アウローラ?」
驚いたような声を横からかけられ、昂は立ち止まった。誰の事かと、辺りをきょろきょろと見回す。
アウローラ?どこかで聞いたような……
老人は声の主が誰か分かったらしい。動じることなく、手綱を持ったまま片膝をつき、頭を垂れた。
「宮様」
老人の声は、少し高くなり、どこか喜びに似た響きを滲ませた。
昂が声の主を見つけようと目を凝らすと、前方から真っ黒な長衣を着た女人が現れた。若くはない。老女と言って、差し支えないだろう。
色とりどりの草花の色彩の中で、その黒は異様な色だった。
老人が宮様と呼んだからには、この人がここの主であろう。つまり前国王のお后ということになる。
昂も老人にならって、礼をとろうとすると、近づいてきた桂宮が、ぐっと昂の顎を掴んだ。突然のことで、昂はただただ桂宮を見る。
桂宮もじっくりと舐めるように、昂の顔を見てくる。昂にも、桂宮の顔がはっきりと見えた。
蛇だ。
細い目。真っ赤な薄い唇。墨を刷いたような細い眉。
「なるほどな」
桂宮はそう言うと、細い目をさらに細めた。不思議なことに、細められた方がその眼光を感じる。
「お前がランの息子か」
質問というよりは、確認するような口ぶりだった。昂は驚いて目を見開いた。
なぜこの人が蘭を知っている?
桂宮は鼻で笑って、昂の顎を掴んでいた手を離した。
「まだ、何も知らんようだな」
桂宮は楽しそうにそう言うと、絡め捕るように昂を見た。もう一度手を伸ばすと、昂の頭の黒い布を取った。昂は何の抵抗も出来なかった。針森にいた頃よりは、少し伸びた金の髪が、露になった。桂宮はその髪を凝視したまま、唇だけ動かした。
「わたしはこんな老いぼれ故に、何の力もないよ。だが、そうだな……人を混乱させるのは好きだ」
そう言うと、クッと唇をゆがめて笑った。
「その戸惑った顔、ランそっくりだな」
懐かしそうに言うと、踵を返した。
「おいで、お前の疑問を解いてやる」
老人が立ち上がり、馬と共に歩き出した音で、昂は我に返った。
「いくぞ」
老人に促され、昂も歩き出した。
桂宮についていくと、庭の奥にはこじんまりした館が建っていた。粗末ではないが、狼公や崑獏、サボン公の館を見てきた昂は、前王妃の館にしては、小さすぎる気がした。
入り口では年老いた女性が、背筋を伸ばして主の帰りを出迎えた。その後ろについている一向に目をやると、昂の所で目が止まった。女性は何度か目を瞬かせると、深々とお辞儀をした。
「おかえりなさいませ、宮様」
桂宮は軽く頷くと、彼女の前を通り過ぎた。
「客だ。奥に通してくれ」
そう言うと、何か思い立ったかのように立ち止まると、昂を振り返った。
「ランの息子よ、名は何という?」
有無を言わせぬその口調に、昂は押されたように答えた。
「昂です」
桂宮は頷くと、出迎えた女性に目配せした。
その目が少し面白そうに輝いている。
「コウ、こちらはわたしの側近で、カナエという。お前の母親のことも知っているぞ」
「はぁ」
そう言われても、ピンと来ない。どうしてこの人たちと蘭が知り合いなのか。
カナエは黙って、頭を下げた。つられて昂も頭を下げる。
促されるまま、館に入ろうとして、昂は奏のことを思い出した。
「すみません、俺の連れが酷い目にあって。どこかで寝かせてもらえれば……」
そう言いながら振り返ると、老人も馬も奏の姿もなかった。
驚いて声も出ない昂に、桂宮は笑いを含んだ声で言った。
「案ずるな。ドナが連れて行った。介抱してくれるだろう」
「え、ドナ?」
「あれはわたしの厩番だ」
桂宮はそれだけ言うと奥に引っ込んでしまった。
戸惑っている昂の後ろで、カナエが咳払いをした。
振り返ると、早く入れと目が言っている。
昂は慌てて館に入った。何を聞かされるか怖くはあったが、奏をどうにかされるとか、自分たちの身の危険は感じなかった。
カナエに案内され、奥の部屋に通される。
長椅子に桂宮はゆったりと座っていた。
「なつかしいな」
入ってきた昂を見て、桂宮は微笑んだ。
「二十年前、お前の母親もそうやって、わたしの前に立ったのだよ。わたしの女官兼護衛としてね」




