Ⅴ 神の血 -10
「あー、ここだね」
川師の莢が、水路の綻びを見つけて、指さした。確かに、そこから水が地面に染み出していた。先日の大雨の時、勢いを増した水の力に、石で作られた水路にひびが入ったのだ。
決壊しなくて良かった。
信はほっと息をついた。
都で見た水道が忘れられなくて、村に帰って川師であった姉の莢に相談し、水路を作り始めたのは十年以上前だ。とりあえず、まかない所に引き、毎朝の水くみがなくなった子供たちは、大喜びした。だが、それも今では当たり前だ。水路は分岐していき、各仕事場まで、水が届くようになった。
この水路を整備するのは、石師と川師の仕事だ。というか、川師と石師が姉弟だったから、この村に水路が通ったといってもいいかもしれない。
莢は村の川師の頭だ。水路を造るような大工事には、生業の者だけでは到底足らない。村の者総出の協力が必要だが、その協力を得られたのも、二人の両親のおかげはもちろんであるが、当時川師の頭になったばかりの莢の力も大きかった。
村を飛び出し、村に厄災を呼び込んで、のこのこ帰って来た自分だけでは、誰の賛同も得られなかっただろう。しかも、水路を完成させることができたおかげで、自分はやっと村に居場所を得られることができた。
信は切り出してきた石で、破損個所を修繕し始めた。
最初にその気配に気が付いたのは莢だった。莢が警戒したのに気づいて、信も顔を上げた。
「なるほど、ここがお前が育った村か。納得した」
勝手に納得した男を、信は懐かしい気持ちで見上げていた。
「信、知り合いかい?」
何も言わない弟に、莢は警戒したまま尋ねる。
「ああ、家出中に世話になった人」
信は口を歪めて、笑った。莢はまだ警戒を解かない。信が家出中、村が災害に見舞われた時、もちろん莢もいたからだ。なぜそれがもたらされたのかも、大体のことは聞き知っている。
「莢、この人は大丈夫だよ」
信が重ねてそう言うと、莢はしぶしぶ去っていった。
「で、今を煌く国軍大将殿が、こんな田舎に何の用でしょう」
信がおどけて言ったが、男は動かなかった。信はあきらめて、ため息をついた。
「相手に言わせようとする癖は、まだ治っていないんですか」
一国の大将が嘆かわしい。
そう言って、アウローラ公国国軍大将コルニクスに近づいた。その真っすぐ見てくる目を受け止めて、コルニクスは懐かしく感じた。
「あんた自らがここに来たってことは、よっぽどの事なんでしょう?」
大将御自らだ。大抵のものは、手下の者に任せる。誰にも漏らせない事を探りに来たということだ。
コルニクスは息を吐いた。もとより元部下のこの男のことはよく分かっている。ここまで来て、隠せるとは思っていない。
だが、まだ迷っていた。聞くべき相手が、この男なのか、コルニクスは自信がなかった。本当は、本人に一番聞きたい。
「ラン……さ」
「蘭は死んだんだろ?」
コルニクスの言葉を遮るように、信は言った。その声は大きくはなかったが、コルニクスを押さえつけるだけの力はあった。その目は笑っていたが、怒りも含まれているように見えた。その目でコルニクスの中まで切り込んでくる。
「蘭がどんな気持ちでここに戻ってきたか分かるか。蘭はあれから、一歩も村を出ていない。死ぬまで出ないと決めている。だから、あんたとも会わない。死んだ大公妃とは会えない。そうだろ?」
コルニクスは信から、一歩身を引いた。
分かっていた。分かっていたから、蘭ではなく、信を探したのだ。死んだはずの元大公妃に、公国の人間が会ってはならない。
肩を落としたコルニクスの様子を見て、信も身を離した。
「座りましょうか」
水路の為に重ねられた石が、ちょうど腰掛けられるようになっている箇所がある。信が先に腰を下ろすと、コルニクスも大きな体を曲げて腰掛けた。
川から引いている水は、勢いよく飛沫をあげて先を急ぐように流れている。周りには人もおらず、水音だけが二人の沈黙の間に響いていた。
「蘭との間には、三人子どもがいます」
コルニクスが弾かれたように顔を上げた。
信は光る水面を見つめたまま、淡々と続ける。
「一番上の息子は十六歳、次が十四歳の息子、一番下が十二歳の娘」
「……十六歳」
呟いたコルニクスの顔に、信は目を向けた。
「三人とも、この村で、俺と蘭の間に生まれた子どもです。それは拾い子である蘭が、この村の青と柳の子どもであることに違いないのと同じです」
信の目は少しも揺れていなかった。
「ただ、蘭が元王妃であったことは、俺も認めていないわけじゃない。あの三年間は実際にあった。俺だって、一時とはいえ、太陽神国の兵士だった身です。元王妃の村で、十六年前に金髪の子が生まれたと知られれば、誰かが探りに来ることは、予想していました」
あまりに淡々と信が話すので、コルニクスは一瞬聞き流してしまった。
「金髪?その子は金色の髪なのか?」
上ずった声で、コルニクスが問いただした。
一度、様子見にやった隠密は帰ってこなかった。
先日現れた、クウという男が脳裏をよぎる。
「それじゃあ……」
声を震わせるコルニクスの肩を、信が押さえた。
「そうだ、俺の一番上の息子は、金髪だ。人の為に尽くしてしまう性分は蘭に似て、頑固で譲らないところは」
信の目は揺るがない。
「俺にそっくりだ」
コルニクスは目を見開き、その後ため息をつきながら、肩を落とした。そしてもう一度信を見た。
「ガザ国の王女が我が国を訪れる。彼女に、針森出身の少年と少女が同行してくるらしい。その少年が、アラン様の息子だという書簡が届いた」
一瞬で、信の目に幕がかかった。冷たい目。コルニクスは遠い昔に帰った気がした。まだ、太陽神国だった頃、馬を駆って駆け付けた信の、怒りに満ちた冷たい目。
「誰がそんなことを」
感情を抑えた低い声は、コルニクスの背中を冷たく撫でた。
「分からん。署名がなかった。ただ、ターシャ公女の婚約者の使いの者が持ってきた。だが、恐らくユースティス殿が書いたのではない」
「……なるほど」
無表情なまま、信が頷く。
コルニクスはつばを飲み込んだ。
「真偽を確かめたい。公国に一緒に来てくれないか」
信はコルニクスを見て、ニコリと微笑んだ。その微笑みに、蘭やキースが名前を付けていたのを、国軍大将は戦慄と共に思い出した。悪魔の微笑み。
信は立ち上がり、水路の修繕した箇所に手をかけた。力を入れても動かないことを確認すると、コルニクスを振り返った。
「いいですよ、隊長。いつ出発しますか?」




