Ⅳ 運命 -34
「翁」
遠慮がちな声が、翁と呼ばれた老人の耳朶を不快になぜた。
「なんだ」
そのあからさまな声音に、声をかけた方は震えあがる。この老人にかかっては、使用人の命など一瞬で消える。
「あの……千様が」
勇気を振り絞って告げた名前に、翁は「ああ」と応えたので、使用人は心から安堵した。
「通せ」
翁が投げるように言うと、転げるように走り去っていった。
崑の館が立ち並ぶ右岸においても、一段と広大な館の奥まった一室に、その老人は坐していた。縮んだような体とは正反対に、その威圧感は対峙する者を押しつぶした。
それはこの老人が、ガザ全土に散らばる崑一族の頂点にあるからであり、その命令は、ガザ王より早く、国の端まで届くと言われている。
「怖いなぁ、翁は。あの人可哀そう」
クスクスという忍び笑いと共に、女の声が降ってきて、翁は苦い顔でため息をついた。
「もう入り込んでいるのなら、他の者を寄こさなくても良かろう、千」
うんざりしたように言うと、わざとかしこまったような声が聞こえた。
「一応、手順はふまないと、と思いまして」
今頃、あの男は真っ青な顔で千を探し回っているだろう。自分の命どころか、家族の行く末まで案じているかもしれない。
「いけない子だ」
翁がどうでもよさそうに呟くと、目の前に女が現れた。
浅黒い体は、隠密の装束に包まれている。
動きやすさに重きを置いたその服装からは、豊満な体ははちきれんばかりで、見るものが生唾を呑み込むほど妖艶だった。その身体と長い睫毛に縁どられた大きな目からは、荒々しい命が溢れ出ている。
「お褒めに預かりまして」
千は片膝をついて、臣下の礼を取りながら、ニコリと笑った。並みの男は、その笑顔だけで虜になる。
「で?」
翁はもちろん並みの男ではない。眉一つ動かさず、報告を促した。
「王城に入っていった少年は、アウローラ大公の落胤かもしれません。一つは凛王妃の姉の子らしいこと」
凛王妃の姉が、アウローラ公国の元王妃だったことは、ガザ国の上の方の者たちの間では常識だ。
翁は顎から伸びる長すぎる髭を触った。
「それにやはり、あの金髪。あれが偶然だとするには、少し無理があります」
「うむ」
千の報告を聞きながら、翁は髭を指に絡め始めた。熟考に入った証拠だ。千は黙った。こうなったら、邪魔をしてはいけない。
翁は隣国に足掛かりをつける為、一つの計画を進めていた。それには大公の落胤など、邪魔なだけだ。だが、少し前に聞いた、もう一つの報告も気になっていた。
その少年は蒼碇で、崑一族の獏という者にちょっかいを出された。それを王女が助けたというのだ。しかもその前に、ガザ王がカランの撲滅を翁に打診している。カランが資金源になることから、獏の悪行に目を瞑っていた翁は驚いた。王がそこまで氏族に踏み込むことは珍しかったからだ。
翁は王の顔を立てて、獏の排除に踏み切った。
大公の落胤は、もう全一族と深くつながっている。簡単に消せないだろうし、そうするべきかも考えるべきだ。
生かしておいた方が利用できるのか、それとも計画を進めるために、殺してしまう方がいいのか。
翁は髭を弄んでいた手を止めた。
少し気分転換をしよう。
「おいで」
翁は千に手を伸ばした。
千が勝手に翁の部屋に入り込んでも咎められなかったのは、何も隠密だからではない。翁の女でもあるからだ。翁は、気力、精力ともに、まだまだ現役だ。
千は嬉しそうにほほ笑むと、翁の側にすり寄った。




