Ⅳ 運命 -33
「燦」
一息ついたのか、水場の方へ歩いていく燦の後を、昂は追いかけた。
そういえば、ここに来てからまともに話していない。
桶にためた冷たい水で顔を洗っていた燦は、濡れたままの顔を上げた。
「ああ、昂」
水を滴らせながら、眩しそうに昂を見た。
顔を布で拭いながら、燦はうらやましそうに言った。
「昂はすごいね。なんでもできちゃう」
「え?」
「ちゃんと訓練したことなんてなかったんでしょ? でも、すぐにできるようになってたじゃない。動きがとても綺麗だった」
褒められて、昂は何と言っていいか分からず、口ごもった。
そうだろう?と自慢しても、針森ではみんなこんなもんだよ、と謙遜してもよかったが、薄っぺらな言葉で、この会話を終わらせることが嫌だった。
「ありがとう」
結局、褒められた礼だけ言うと、燦は気恥ずかしそうにはにかんで頷いた。
こちらまで恥ずかしくなってしまう。
「燦は…どうして訓練しようと思ったの?」
今日の訓練を見ただけでも、燦は戦うことが好きなわけではなさそうだった。
王女なのだから、無理に剣術の腕を磨かなくてもいいはずだ。
そりゃ、自分の身を守れる方がいいかもしれないけど……
燦は少し俯くと、水場の横にある腰掛を指さした。
「座る?」
昂は頷きかけて、少し離れたところに佇む人物に目を向けた。
「あの人はずっとあそこにいるの?遠ざけられない?」
声を落とせば聞こえないかもしれないといった位置に、櫂が立っていた。しっかりこちらを向いている。
燦は困ったように笑った。
「うん、あの人は無理だと思う。二人にはしてくれないわ。まだ、見えるところにいてくれるだけ、ましな方よ」
昂は王族の不自由さに身震いしながら、大人しく座った。
燦も腰掛けると、ぽつぽつと話し始めた。櫂には届かず、昂にはしっかり聞こえる絶妙な音量だ。
「狼公の館で、わたし足手まといだったでしょう?それまでも、護身の訓練は受けてきたのに、わたし全然本気じゃなかったの。怒られるのが嫌だったから、やってただけ。身につくはずないよね。だから狼公の館で、追い詰められて、誰も助けられないと思った時、すごく後悔したし、嫌だと思ったの」
本気で訓練したところで、所詮自分の身を守る術だ。人を守って、追手を突破できたかどうかは分からない。
そう思いながらも、昂が黙って聞いていると、察したように燦は頷いた。
「分かってる。所詮、真似事だって。でも、だからと言って、手を抜いた言い訳にしたくはないの。努力はしなくちゃいけないと思うの」
きっとその手を抜けない性格が、燦を追い詰めているのだと思う。もっと、肩の力を抜ければ、もっと楽に生きられるのだろう。だが昂は、そんな燦が好きだった。必死に努力し、心を砕き、そして足りなかったと落ち込む真摯な燦が。
「燦……俺さ」
燦にかける言葉を探りながら、やっと手繰り寄せて、言葉にしようとした時、ちょうど燦も声を上げた。
「そうだ。昂、誰かの動きに似ているかと思ったら、空だ」
「え?」
思い出したことが嬉しくて、昂の言葉を遮ったことに、燦は気が付いていないようだった。
「誰かに似てると思ったの。やっぱり同郷だからかな?」
その無邪気な顔が、誰を想っているのかは、一目瞭然だった。
俺じゃない、遠い場所にいる誰か。
そうか、と昂は腑に落ちた。空に対する不自然な態度、凛への複雑な思い、自分に自信が持てないバケモノの被り物。
「燦は……」
急に喉が渇いていることに気が付いた。張り付く喉を、無理に動かして、かすれた声を出した。
「空が好きなんだね」
途端に、燦はすべての動きを止めた。みるみる顔が赤くなる。
昂は引きつった顔で、無理にほほ笑んだ。
燦の空への気持ちが憧れだったとしても、それが異性への憧れであるには違いない。
顔にはすっかり出ているくせに、燦は首を横に振った。
「空は幼いころから側にいてくれた人なの。守ってくれたし、いろんなことを教えてくれた。でもね……」
燦の顔が切なそうに歪んだ。その顔で、昂は燦の気持ちの深さを思い知らされた。
昂が初めて見る顔だ。
燦はより一層小さな、消えそうな声で言った。
「空が愛しているのは凛だけよ。空は凛の為に、わたしの側にいてくれたの」




