泉の精霊の助け
どこをどう走ったのかわからなかったが、気が付いた時には小さな泉がある開けた空間に辿り着いていた。
荒い呼吸を整えながら辺りを見渡すと、先ほどの戦闘など感じさせないほどの静けさがそこにはあった。
敵が追いかけてきている様子もない。
ほっとしたティアナは泉の淵まで歩くと、その場に座り込んだ。途端に疲労が全身に伸し掛かるのを感じる。
「助かった、のかな」
キースとクロードはどうしているだろう。2人を置いてきたことが心配だが、あの場に自分がいてもきっと役に立たなかっただろう。
「どうか、無事で」
祈ることしかできないことが悔やまれる。
泉を覗くと、戦闘に巻き込まれたことと、走ったせいで髪も服も乱れていることに気が付いた。一つ息を吐くと手櫛で髪を整える。土埃を被ってざらざらとした感覚が指に伝わってきた。
髪を整えると、今度は立ち上がって服の埃を払う。それが終わると再び座り込んだ。
この後どうしたらいいのかわからない。
クロード達の所に戻ることもできないし、屋敷に戻ろうにもどちらの方向に行けばいいのかもわからなかった。
前に泉に来た時は、クロードが泉に行くための石を持って導かれるようにここまで来た。帰りも石の力を借りていたので、何も持っていないティアナでは帰り方もわからないのだ。ここに来られたのは、クロードが言っていたように泉の精霊が護ってくれた証拠なのだろう。
「どうしよう」
何もできないことが情けない。泉を覗けば、弱り切った自分の顔が映るだけだった。
ピチャン
泉に何も変化がなかったが、水の跳ねる音だけが聞こえた。
はっとして顔を上げると、泉の水面に一人の女性が立っていた。背丈よりも長い青色の髪が水面の中に沈んでいる。透き通った肌に青いワンピースを纏った女性だ。目鼻立ちのはっきりとした顔が、優しくティアナに微笑みかけていた。
初めて見る相手だったが、ティアナは目の前の女性が泉の精霊だとわかった。前に会ったときは小さな子供の姿だった。それでも、目の前の女性が同じ精霊だと確信できた。
「助けていただいて、ありがとうございます」
精霊だと気づくと、まずは礼を言うべきだと思った。この場所に導いてくれたのは目の前の精霊なのだから。
女性の精霊はにこやかな笑顔のまま1つ頷くだけだった。だがすぐにティアナの後ろに視線を向ける。
後ろの草木がガサガサと音をたてたので振り返ると、木々の間からキースが姿を現した。
「キース」
ティアナはすぐに彼に駆け寄る。土埃をかぶったような姿で、少しよろけるように歩いていたキースは、ティアナの姿を見つけると安心したように笑みを浮かべた。
「お嬢様。ご無事でしたか」
「私は大丈夫。それよりもキースの方が怪我をしているんじゃない」
「大丈夫です。大きな怪我はしていませんから」
吹き飛ばされて木に身体を叩きつけられたりはしているが、出血をするような怪我はしていなかった。無理をしているのではないかと、全身を見渡してみたが、これといって不安を煽るような怪我は見つからなかった。
「とにかく休んだ方がいいわ。クロードは?」
キースに気を取られて、もう一人の護衛がいないことに気が付いた。
「彼なら」
キースが説明しようとすると、別の方向でガサガサと音がした。
2人がそちらを見れば、茂みをかき分けてクロードが姿を見せた。
「クロード」
少し離れたところからやって来た彼は、2人に気が付くとゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「無事か?」
「うん」
クロードの方は怪我もしていないようだし、疲れも見られなかった。
「敵は?」
「撒いてきた」
キースが茂みの方を見つめながら確認すると、クロードは首を横に振った。
「あれを相手にするには、こちらも相応の準備をしておかないと」
ティアナはすぐに逃げたので、相手の戦力はわからなかったが、2人とも逃げてきたのであれば、相当な力を持っていたのかもしれない。
「大丈夫なの?」
逃げなければいけない相手ならば、こっちに追いかけてくるのではないかと思い確認すると、クロードは泉の方を見た。そこにはさっきまで女性がいたのだが、いつの間には姿を消していた。
「ここは泉の精霊の領域だ。許可なくこの場所に立ち入ることはまずできない。俺たちは泉の精霊に助けてもらってここにいられるだけだ」
敵が森の中に侵入しても、この場所に辿り着くことはできないらしい。森自体も精霊の領域になるので、今は森の中を彷徨っている可能性の方が高いという。
「少し休んだら屋敷に戻ろう」
クロードは大きな音がしたことで助けに来てくれた。ログやシャイヤも同じ音を聞いているはずだ。彼らが来なかったのは足手まといになると考えてだ。今も心配しながら屋敷で待機しているだろう。
クロードが泉の淵に座り込む。
「この泉は癒しの泉だ。飲めば体力の回復も早くなる」
ティアナが怪我をした時に連れてきてもらったが、その時は泉に足を浸すだけだった。飲むことで体内からの回復も早く促してくれる。
泉をのぞき込んで手ですくってみると、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。その水で喉を潤すと、走ってきたため喉が渇いていたことに気が付いた。水はすんなりと喉を通り体の中に入っていった。
「美味しい」
柔らかい水が体に浸み込んでいくようだ。
キースも隣に腰を降ろすと水を飲む。戦いに疲れた体に癒しの水が回復を促す。
水を飲み終えると、キースは立ち上がって、近くの木の根元まで歩いていくと、木の幹を背もたれにして座り込んだ。どうやらそこで休むことにしたようだ。瞑想するように目を閉じるが、3人の中で彼が一番疲れているように思えた。
「ティアナも休んだほうがいい」
「うん、ありがとう」
自分も寄り掛かれる木を探そうとしたとき、耳元で水の跳ねる音がした。
はっとして泉を振り返れば、再び泉の精霊がそこに佇んでいた。隣のクロードも気が付いて、驚いた顔を向けている。精霊は何も言わずにこちらを見ているだけだった。
「さっき、助けてくれたな」
しばらくすると、クロードが呟くように言った。すると、精霊の笑みが深くなる。
「何の話?」
何のことかわからないティアナは首を傾げる。
「さっきの戦闘で、水属性の魔法を使った。いつも通りの魔法を使ったはずなのに、いつも以上の力が出たんだ」
剣を交えた時、水飛沫が男を襲った。いくつもの火球が飛んできたが、すべて斬り捨てることができたことを聞く。あそこまでの魔法を使って、クロードの魔封石は何の以上も見せていなかったのだ。
「魔封石は前よりも強化しているけど、あまり使いすぎるとまた壊れる可能性があるわ」
「その前に、精霊が補助してくれたようだ」
攻撃力を上げてくれただけでなく、クロードの魔法の補助もしてくれたようだ。彼の耳元で水の音がして、不思議とそれが精霊が力を貸してくれているのだとわかったそうだ。
「魔封石を見せて」
クロードに渡している石を確認する。石自体に傷はなく、中に刻まれた魔方陣も安定している。クロードの魔力に今のところ耐えている証拠だ。
違う属性の魔法の訓練もしたいと思っていたが、彼の魔力に耐えられるもっと強い魔方陣も組む必要があるのかもしれない。魔封石の中に描かれる魔方陣は1つだけという決まりはない。いくつかの魔方陣をバランスよく配置することで、お互いの相乗効果で魔法を生み出すこともできる。ただ、複数の魔方陣を描くのには、魔方陣のバランスと、そこに描くための高度な魔力操作が必要になる。そのため、ほとんどの魔封石は、1つの魔方陣で1つの効果を生み出す物ばかりだ。
クロードのための新しい魔封石はない。強化するには今の魔封石に新しく魔方陣を刻むしかないだろう。
どんな魔方陣ならバランスが取れて、より強度が増すだろうと考えていると、持っていた魔封石を取り上げられた。
「それを考えるのは屋敷に戻ってからにしてくれ」
「あっ」
魔封石を眺めながら無言になったことで、何を考えているのかわかったのだろう。呆れたように言われて、謝るとクロードが肩をすくめる。その光景を見ていた泉の精霊がくすくすと笑う声が聞こえた。
泉に視線を向けると、そこにはもう精霊はいなかった。
「精霊も呆れたんじゃないか」
返す言葉がない。
「とりあえず屋敷に戻ろう」
クロードが立ち上がり手を差し出してきた。その手を取って立ち上がると、キースに声を掛ける。彼は今精霊が姿を見せていたことに気が付くことなく休んでいたようだった。
ここは精霊の領域だ。気配を悟られることなく、ティアナとクロードにだけ姿を見せていたのだろう。
「精霊が協力してくれれば、屋敷にはすぐにたどり着くだろう」
石を持っていないが、精霊が屋敷まで導いてくれるという。3人で再び森の中に入っていくと、静かになった泉の水面に波紋が広がった。




