対峙の時
膝から下に温かな感触が生じた。
なんだろう、とメアリー・メイイェルは朦朧とした意識の中、脳裏で温かな感触の正体を勘ぐる。そもそもあたいは何をしていたんだっけ、とも自問する。
確かメツァールントの外壁の外側まで出向いてルケリヤを見舞おうとしたんだ。そうしたら肝心のルケリヤと手入れしたばかりのイルサーシャが共に剣体の状態で転がっていたんだ。ユスト・バレンタインまでもが土の上で気を失っていて、紆余曲折の末に左手を温めてくれとお願いされたんだっけね。
その後は確か、と彼女の中で物語の進み具合が滞ると同時に閉じていた双眸を開く。
ベッドの上で睡魔に身を預けていた事実を知るなりメアリー・メイイェルは縮めたバネが元に戻るかの如く上半身を起こした。足許に身を寄せてるシュンカが左右に束ねた砂色の髪の踊る様子を狼らしい凛々しさに満ちた眼差しで見守っていた。温かな感触の正体は苦楽を共にする友であったか。彼女は友の小さな頭をおもむろに撫でた。
身体には厚手の毛布が掛けられていた。ルケリヤの剣体に被せていたものとは異なる。誰がその様にしたのか。その答えは自ずと判り、頬が少々火照っている事もメアリー・メイイェルは自覚していた。
答えは左手を温める様にお願いした依頼主に違いない。彼は何処にいるのだろうか、と目覚めたばかりの眼差しが動く。彼はメアリー・メイイェルから少し離れた場所、仮設テントの支柱に背中を預けていた。その左斜め前では薄闇の中で彼に契約を結ばせた剣霊の白銀の長い髪が妖しい煌めきを放っていた。
「お目覚めか。相変わらず呆けた寝顔だったな。」
やや低めの落ち着いた、と表現するよりも肌で感じさせるほどの冷徹さを匂わせる声の主の薄紫色の唇が動く。血の通っていない眼差しを伴いながら毒づかれては流石のメアリー・メイイェルとて反論する言葉は無論、抗う意思すら湧かなかった。
恐らく世間の目からすれば彼女の言葉通りなのかもしれない。剣霊使いが一緒とは言えども少し気が緩んでいた。メアリー・メイイェルは胸許を覆う様に厚手の毛布をたくし上げ、両肩の力を抜いた。
「あたい、いつから寝ていたの?」
「我が霊体に戻された時には既にそなたは涎をすすっていたが。」
「時間にしてどれくらい?」
「三時間と少しだな。」
「そっか。その間、二人は何をしていたの?」
「さぁな。」
「どうせあたいが熟睡している横で食事でもしていたんでしょ?」
感が鋭いな、と言いたげな面持ちをイルサーシャは晒し、ユストは新たな煙草の先端に火を点す。
「そなたの手入れが終えてから最初の食事だ。なんせ久しぶりだからな。」
「ふうん。」
「ただ、シュンカが目の前にいられては我とて気になる。故に必要最低限の分の食事を済ませた。」
「あとはユスト・バレンタインの横でうずうずしながらあたいの寝顔を鑑賞していた、と。」
「おい、うずうずとはなんだ。そなたと我を一緒にするな。」
「なんだ、図星だったんだね。」
「実力を遺憾なく発揮するには必要不可欠だからな。そなたの様なちゃちな衝動とは訳が違う。」
「そのちゃちな衝動も明日への立派な糧なんだよ、人間だって。」
「ふぅん、なるほどなぁ?」
気まずい雰囲気に覆われようとしている。ユストの感情の起伏が感じられない眼差しがイルサーシャに向けられた。彼女はやれやれと言わんばかりにぎこちない微笑を零した。
「まぁ、呆けてはいたが見方を変えれば素直な寝顔だったぞ。」
剣霊は眠らないと聞かされている。イルサーシャのこの言葉は一種の憧憬が混ざっているのだろうとメアリー・メイイェルは感じ取っていた。
「ほら、ひと仕事終えて日々の疲れから開放されたから、かな?」
「だろうな。その間、我とユストはそなたのいびきや寝言を存分に楽しませて貰ったが。」
「あたい、何か言っていたの?」
「今この場で我が再現してやろうか?」
ユストの左の人差し指がイルサーシャの二の腕を弾く。適当なでまかせも程々にしろ、と苦言を呈したのであろう。現に二の腕を弾くまでユストとイルサーシャの身体が触れていなかった。触れていなければ彼の言葉を伝える方法はない。
「ところでルケリヤは?まだ剣体のままにしておくの?」
メアリー・メイイェルは手を伸ばし、己の横で毛布に覆われたルケリヤの剣体をさする。その手は親しみと労わりを持ち合わせ、安堵を求めてもいる様にユストには映った。
「我たちには彼女を霊体に戻す権利も義務もない。強いて言うなれば、霊体に戻した者がそなたか協会長殿なら彼女も納得するというのが我とユストの見解だ。」
「分かった。そうするよ。でも、なんで二人して剣体になっていたのさ?」
「さぁな。後でルケリヤに聞けば判るかもしれん。」
「どうせ殴り合いでもしたんでしょ?」
「その一歩手前までは覚えているが、まぁ、恐らくそうであろうな。」
「恐らくって…。ユスト・バレンタインは一部始終を見ていたんじゃないの?」
「そこから先は正直なところ、我たちの記憶には残っていない。」
「へぇ。そもそも殴り合いをしようと思ったは何が原因なのさ?」
「見ず知らずの、しかも同じ剣種の剣霊同士が顔を合わせたのだ。お互いにどちらが上か知りたいものだろうに。」
イルサーシャが己の言葉の信憑性を確かめたのか、白銀の長い髪に救う様に手櫛を入れた。絹を連想させるその輝きは生ある全てを切り刻む刀身の象徴でもある。しなやかという言葉はこの為にある、と誰もが納得する程の優雅な弧が描かれては元に戻った。
やはりイルサーシャの刀身は手入れを終えた時と比べて何かが違う、とメアリー・メイイェルは研師の面持ちと共に眺めていた。
仮に剣霊同士が対峙して更に磨かれた、と捉えるべきなのだろうか。その様ないきあたりばったりで均等かつ精緻に磨くことが可能なのか。直情的なイルサーシャと弱ってはいるものの剛直な一面を持つルケリヤが短時間で打ち解け合い、イルサーシャが磨き足したい部位を狙ってルケリヤが斬撃を繰り出す。いやまさか。滑稽にも程がある。だが、どうしても疑問が拭いきれない。メアリー・メイイェルが己の中で膨らむ蟠りを紛らそうと身を寄せたままのシュンカの頭を撫でる中、さて、とイルサーシャが声を発した。
「そろそろ我たちは邪剣霊のルケリヤに言われた場所へ向かう。達者でな。」
「言われた場所って?」
「我は知らんが、ここメツァールントの東側にある小高い丘らしい。」
もうそんな時間になってしまったのかとメアリー・メイイェルは思うものの、ただ平然と見送るしか出来ない事も気付いていた。
ユストが脚を動かせば僅かに遅れてイルサーシャも同じ行動をとる。メアリー・メイイェルはシュンカを抱き寄せた。
「どうかご無事で。」
「それは杞憂に過ぎんよ。」
「ユスト・バレンタインに言っているんだよ。」
ユストは脚を止めた。メアリー・メイイェルに顔を向けつつ今度はイルサーシャの手首を掴んだ。
「数年後になるとは思うが、また我の手入れを頼む、だそうだ。」
なんともつれない別れの挨拶だが、無事に生きて戻る意思が汲み取れなくもない。あぁそうだ、この剣霊使いは不愛想で不器用な男だった、とメアリー・メイイェルは改めて思い直し、緩やかな溜め息を漏らした。
「その頃は報酬が今より高くなっているかもだよ?」
返事はない。ユストは煙草に火を灯し、鼻から煙を緩やかに漏らした後に再び脚が動かす。これから戦いに挑む剣霊使いの足取りは確固として機械的であり、迷いが感じられない。その様な者の邪魔はしてはならないとメアリー・メイイェルは更に掛ける言葉を呑み込んだ。羽織る黒いコートの裾の揺れ具合を見届ける中、イルサーシャが振り返った。それは女が女を気遣った結果だったのかは判らない。
シュンカが鼻を鳴らした。そうだね、夜がふける前に帰ろうか、と嘯いたメアリー・メイイェルは友の端正な顔に頬を寄せ、ルケリヤの剣体を毛布の上から握り締めた。
目的地まで然程遠くはない。常人であれば呼吸の際に肩の上下が多少強くなる程度の距離である。無論、呼吸とは無縁の剣霊はもとより、死との境界を数多すり抜けてきた剣霊使いにとっては朝駆けの駄賃にも満たないと言えようか。
夜の帳が落ち始めると共に周囲は静寂に包まれる準備を始める。葉を失った木々は風が吹こうとも幹や枝を軋ませまいと努め、岩の間から湧き出る水滴は滴らずにただ横に広がって滑らかな潤いを添える。人間の足が草々踏みしめる事が年に数回程度しかないと思われる山道をユストは煙草の煙をくゆらせながら進んでいた。彼の前ではイルサーシャが身に纏う幾何学模様が走るスカートの裾に躍動感を与えている。普段と異なる点は左斜めではなく真正面に位置し、ユストが彼女の肩に手を添えたままにしている事か。
剣霊の視力は明暗に関係なく機能する。咄嗟に手で覆いたくなるほどの閃光であろうとも、恐怖と不安に打ちひしがれんばかりの漆黒の闇であろうとも、彼女たちの視界は正確に目前の状況を把握する。
生なき剣であるが故に、と言ってしまえばそれまでだが、人間はもとより野生生物の能力を遥かに凌駕したそれを有効手段として常々活用しているだけに過ぎない。
(ところでそなた、あの邪剣霊と行き当たりばったりで対峙するつもりではないよな?)
華奢な肩に置いた手から音なき言葉がユストの脳を刺激する。咥えた煙草の先が耳に心地良くもなく、だが不快を催す程でもない音を立て、明るくなる。
(多少は考えているよ。)
果たして本当かどうか、と表情ではなく緑色の瞳でイルサーシャは応えていた。しかしその様相はユストの位置からは見えない。
今年の夏に落ちたのであろう小枝を踏む。乾燥した棒状の物質が折れる音が小さく響いた。
(ならばユスト、そなたの考えを我に教えろ。その時になって急に言われても対処しきれない場合もあるからな。)
尤もな主張ではあるが、ユストは躊躇いを見せていた。煙草の先端が明るくなり、ゆっくりと煙を吐き出す。暗かろうとも独特な匂いが不規則な広がりを見せる煙の有り様を教えてくれた。
(今回は予め君の従者たちの力を借りたい。)
(予めという事はその後があるんだな?)
(あぁ。)
(その後は?)
(愚生が始末をつける。)
(そうか。そこに至るまで我は何を?)
(君の出番はない。)
ユストは手を置くイルサーシャの華奢な肩が強ばるのを感じ取っていた。ただでさえ骨ばっている肩が固くなる。同時に憤りという感情任せの殺気が全身から漏れ始めてもいた。仕方がない、敵を目前にした剣に静かにしていろ、と指示を出したのだから。
(女同士の取っ組み合いをさせる訳にはいかない。何故なら君が負ける。相手は君と同じ剣種のルケリヤを既に負かしている。仮に負けなくても刃に傷を付けられてしまう可能性は充分に高い。)
(なるほど。確かにそうかもしれんな。)
発した言葉と内なる感情が必ずしも一致しているとは限らない。まさにその模範例を示さんとばかりにイルサーシャの流麗な目尻は鋭さを湛え、暇を弄ばしているか細い五指はまだ見ぬ獲物を一撃で仕留めんばかりに揃えられていた。
(君のぶつけようのない怒りは十分に理解している。だが今回だけは何も言わずに愚生の考えに従ってくれないか?)
そうも言われてはさすがのイルサーシャも目を瞑るしかないのか。手入れをしたばかりで、その効果を早く確かめたい気持ちがイルサーシャの中で芽生えていたのも事実ではある。だが、己の気持ちを優先して敗北に甘んじてはならない。剣霊は刀身を砕かれ、契約者は命を奪われる。その姿を脳裏で描く。いや、想像よりも惨い結果かもしれない。やはりユストの考えを尊重するべきか、とイルサーシャは己の感情を胸の内にしまい込んだ。
(判った。勝つ為なら仕方がない。ただ終わったら食事だ。貰うものは貰うぞ。)
(あぁ、構わないよ。)
(今回は普段の倍、いや三倍だ。そなたの考えでこやつらを酷使するんだからな。)
イルサーシャの分、そして左右それぞれの従者の分で合わせて暗に三倍という計算であろう。食事とは首筋にある食痕から血を与える。報酬として多過ぎではないか、とユストは眉をひそめたが、ここで議論に発展して彼女の機嫌を損ねては全てが行き詰まる。結果、何も語らずにユストは頷いて応えた。
ユストの手が肩に置かれていない側の人差し指が左右の耳からぶら下がる黒蛇のピアスを交互に弾く。イルサーシャの人差し指と彼女の従者を具現化したピアスという極めて硬質な金属同士がぶつかる音は甲高い。それが闇の中で二回響く。まるで従者たちの声にも聞こえ、彼らから了解を得たとユストには思えた。
(こやつらも構わんそうだ。では、詳細を聞こうか。)
内なる声でイルサーシャはその様に呟き、ユストは煙草の煙を鼻から緩やかに漏らして応える。
脚の動きを止める事なく進む。残雪を踏み締める苦しげな音色が闇の中で奏でられ、その度に目的地に近付いているのだと知らしめられる。
イルサーシャが脚を止めた。ユストに身を寄せる。恐怖に慄く女の如く映る行動は、契約者を守る為、場合によっては剣体にさせる為に近付いたと言えよう。
(骨の軋む音が聞こえた。)
そう語ったイルサーシャは更にユストに身を寄せると共に汚れを知らない五指を揃える。
剣霊の超感覚が行く手を阻む障害を察知した。対峙すべき敵なのか。先手を打たんとイルサーシャが殺気を放つ。洗練されたと表現するよりも、荒々しさを前面に押し出したそれは相手を呑み込み、戦意を喪失させるのに然程の時間を要さなかった。
唸りに似た息遣いと共に相手は葉を落とした木々の間を縫う様に逃走する。その後ろ姿から察するに山羊の一種であった。
そもそも残雪に視線を落とせば、どの様な生物が活動しているのかが判る。暗かろうも人間の目とは慣れと共に視界を確保し始めるものである。
(我とした事が早とちりにも程があったな。)
ユストに指摘される前にイルサーシャが嘯き、揃えた五指を楽にする。
(いや、それでいい。彼が死に物狂いの突進を図る場合もあった。そうなれば我々でも対処が難しかったかもしれない。)
(対処、か。)
(人間が動物に勝るのは知性のみで、それ以外は明らかに劣る。死に物狂いの突進をこの状況で避け切れる自信はないね。)
(まぁ、そういう捉え方もあるな。)
流麗な目尻に幾ばくかの柔らかさを湛えたイルサーシャが歩みを始めた。
少々気が張り過ぎかもしれないが、とユストは思ったが敢えて言葉にはしない。剣霊の感情を制御するのは契約者の仕事であり、生死を分かつ要素の一つでもある。
歩み続けて数分後に人の手から離れて久しい山道の幅が広くなった。それまで不規則に枝を伸ばしていた木々が大人しく、まるで山道の街路樹の如く自重している。
ここが邪剣霊ルケリヤと対峙する場なのか、とイルサーシャは一通り周囲を眺めた。
遺棄されて如何程の年月が経過したのかは不明だが、風化した木造の建造物が端に一つ。既に屋根はその機能を望めそうにない。半分以上が失われていると闇の中でも判る。中央には切り出された石が積まれ、円を描いている。高さはユストの膝程度、円の直径は五メートル程か。
そして、ほぼ崩れ落ちているが、丘を覆う様に同素材の石で壁面を構成していたと思われる。かろうじて残っている部分に燭台が設置されていた。
「なぁユスト。そなた、ここが如何なる場所であったのか存じているか?」
イルサーシャは声を発し、燭台へ近付く。彼女の行動から判断するに、邪剣霊ルケリヤとムルドの気配をまだ察知するに至っていないのであろう。今のところこの場は安全という事か。
燭台は真鍮製であり、装飾は一切施されていない。無表情の中にも経年とは如何なるものなのかを体現したらしい。鈍い輝きと共にそれなりの存在感を漂わせ、申し訳ない程度の長さをした蝋燭が嵌っていた。
火を灯せ、とイルサーシャがか細い人差し指を使って示す。ユストは普段と変わらない歩調で彼女に近付き、羽織る黒いコートのポケットからマッチを取り出した。
心地好い音が鳴り止めば辺りは些か程度に照らされる。壁は連日の荒天に晒された為か、冬の大気に晒されようとも湿り気を帯びて黒ずんでいた。
ユストは空を見上げた。
「崩れるのか?」
今後の天候についてである。頼りない燭台の灯りは頷くユストを映し出していた。
観測所。
これはユストのこの遺構に対する知識である。彼が中央の軍属であった頃、初めてメツァールントの地を踏みしめた際に上官からその様に教えられたらしい。
何を観測していたのか、何を目的として、何時まで稼働していたのか、何故この様に放棄するに至ったのか、という質問に対して的確な回答が可能な見識はないと言う。事の始まりは四カ国の均衡が取れ始めた頃だろうか。それとも覇王による大陸統一の頃、それ以前の動乱の頃、もしくは更に前の記録がない頃。憶測は無限の広がりを与えてくれる。人間の活動が刻まれた遺構を前に時の流れを忘れる。しかし、今はその様な悠長な時間を楽しむ為にこの場を訪れたのではない。吹く風の湿り具合の中に不穏な色がうっすらと混ざり始めたのをイルサーシャは察知した。
「向こうもお出ましか。あと五分もしないうちにちょうど我たちの反対側から姿を現す見込みだ。」
頼りない灯りはイルサーシャの緑色の瞳がユストを見上げている事を教えてくれる。契約者に指示を仰ぐ剣霊の視線と男の安否を憂慮する女の眼差し、そのどちらにも捉えられた。
(そうか。ならば舞台の用意をしてくれ。)
ユストの右手が白銀の長い髪に触れ、人差し指に巻き付けては跳ね返る弾力を吟味し始めた。
(あぁ。すぐに終わらせるが…。)
女は左右の横髪を耳に掛けてそれぞれのピアスを外し、男は弄ぶ髪から腰へ右手を移した。そして軽く叩く。
(そう心配するな。)
ユストは対峙する者たちを出迎えんとばかりに姿を現すであろう位置から正面に移動した。手持ち無沙汰からなのか、落ち着きを払うためか、煙草に火を灯す。燭台の灯火より弱々しくも葉が焼ける音が耳殻を撫で、イルサーシャが従者たちに指示を与えている言葉に混じる。彼女は今の言葉ではなく、古代言語を用いていた。その場合、従者たちの行動に正確さが飛躍的に増すと以前聞いた覚えがある。今回、イルサーシャは剣体でいる事が殆どとなる。咄嗟の判断で新たな指示を与える状況は皆無だと言えた。
右を地に落とし、左も同じ動作をする。頼んだぞ、とイルサーシャは小声で呟き、視線をユストへ向けた。万事万端整えたのか判らないが、すべき事は成した、と語る視線にユストは頷いて応える。ユストは自らが吐いた煙草の煙の先を追っていた。数多の星の瞬きは見えず、新月を終えた月も姿を隠している。頬を撫でる風が先程より重い。湿気を帯びている。この分厚い雲が大地に恵みを与え始めるのも、間もなくであろう。
イルサーシャがユストの左斜め前に立った。邪剣霊ルケリヤとムルドが現れる頃合か。短くなった煙草を投げると同時に不穏な空気が肌にまとわり付く。ユストの聴覚が不敵な足音の中に不遜な骨の軋み音を捉える。ムルドのものであろう。邪剣霊たるルケリヤは足音の件は言うまでなく、殺気を漏らさず静かな面持ちでユストとイルサーシャの前に姿を現した。
「日付が変わる頃と伝えたはずだけど、あなたたち、気が早いのね。」
赤銅色のうねる様な髪の邪剣霊は生来からそうであったのであろう甘い声を吹く風に乗せた。
「そなたらと同じだ。なんせ暇だからな。」
対する白銀の長い髪の剣霊がばっさりと斬り捨てる様に答える。
「あなた、そんな声していたの。」
「ほぉ、人間の言葉を理解する邪剣霊がいるとはな。そなたの様な媚びた声とは違って意志の強い声だと褒められるが。」
「そうかしら?気が強いだけの不器用な女って自ら言い回っている感じがするわ。女としては下の下の下。でも、今まで相手した中で一番折り甲斐が有りそうよ。」
「さてどうだか。虚栄の権化の様なそなたに下の下の下たる我は折れんよ。」
「ついでに強がりもヘタクソ。よくそんなので今まで剣霊をやってこれたと感心するわ。」
「我は事実を述べたに過ぎん。その程度も見抜けないそなたこそ剣霊として大した事ないと言いふらしている様なものだがな。」
「あら、それじゃあ早速やってみる?ものの数秒でケリをつけてあげるわ。」
舌戦をいつの間にか始めていた。剣霊同士であれば殆どの場合がその様な流れになる。己が至上と謳う者が同じ毛色の者を挑発し、揺さぶりを掛ける。常套手段の一つではあるが、イルサーシャが得意とする分野ではない。その点をユストは五年の連れ合いで知り得ている。だが、今回は野放しにしていた。これもユストが思い描いた策略の過程の一つなのであろう。
「いい加減にしたらどうだ、不細工。」
姦しさに嫌気がさしたのか、ムルドがずいと踏み出した。
「そこの銀髪のいも臭い嬢ちゃんは某が貰い受ける。とっとと片を付けろ。」
邪剣霊ルケリヤの剣霊障は所々に虚言、具体的には己の思う事と反対の言葉を口に出してしまう。ムルドは邪剣霊ルケリヤと契約を結んだのか、一般的な剣霊よろしく、新月の日以外は剣霊障が生じていた。頼りない灯りの中でも勇む男の鼻から白い息が漏れている様子が窺える。先日の左肩の負傷はそのままなのであろう。着る服が黒く硬化している様子が獣の毛皮の下から窺えた。
「そう焦らなくても。なんだったらあなたが自分で方を付けたらどう?」
呆れた視線の根本では世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳が興醒めの雰囲気を滲ませている。その様な邪剣霊ルケリヤを一瞥する事もなくムルドは更に一歩進む。彼の双眸はイルサーシャの頭から爪先までを舐める様に動いていた。
「おい。いも臭いとは我の事か?」
容姿にけちを付けられようとも、卑猥な視線を浴びようともイルサーシャの目尻は言葉と違って鋭い様相を纏っていなかった。先にユストから彼の剣霊障について聞いていたからに他ならない。
「他に誰がいる?」
「天地がひっくり返ろうともそなたの様な醜男は我に触れられんよ。寝言は寝てから言え。まぁ、夢の世界でも叶わぬ哀れな願望だがな。」
イルサーシャの憫笑を匂わせた口許を捉えたムルドは眉間に力を込めた。
「ならば夢なのか現実なのか、早速味わってみるか?」
ムルドが右手の関節をこれみよがしに鳴らす。そして身体の正面をユストに向けた。流石に剣霊に対して素手で勝負を挑むのは愚行であるとムルドも理解している。ならばその契約者たるユストを力でねじ伏せようという魂胆か。
「我は構わんが、日付が変わる時に刃を交えるとそなたの不細工から聞いている。条件を出したそなたらが自らそれを違えるつもりか?」
牽制するイルサーシャへ一瞥をくれたムルドの鼻孔は狂気を思わせる広がりを湛えていた。
「両腕に剣霊を抱えて横になる権利がいとも容易く転がり込もうとしているんだ。鉄は熱いうちに打てと言うだろう?」
「違うな。」
「何だと?」
「そなたには我という鉄は熱過ぎだ。後悔の火傷を負うのが目に見えているが?」
「無駄よ。彼、獲物を見つけたら、あとは一直線に向かうだけだから。」
邪剣霊ルケリヤの甘い声色が間を割った。既にムルドはユストに向けて脚を進めている。契約を結んだであろう邪剣霊の言葉通りにイルサーシャの気の利いた嫌味は届いていない。大股でユストという獲物に近寄るムルドは右の拳に力を込める。対するユストは煙草に火を点け、落ち着いた動作で羽織る黒いコートの裾を翻した。
「早々に敵に背を向ける剣霊使いとは情けないものだ!」
ムルドは距離を詰め、飛びかかれる距離に差し掛かると動きを止めた。正確には何かに遮られた。硬質とは言いきれず、軟らかさとは程遠い感触である。露出した皮膚が知らせたのはざらついた触覚。大気の悪戯にしては出来過ぎである。
ムルドの中で警戒心と目視では捉えられない恐怖が同時に湧き上がっていた。何かが目前にいる。息をせず匂いもせず、敵意を表さずに、ただ横たわっているかの様に思える。
背を向けたユストは遺構の名残と思われる手頃な大きさの瓦礫に腰を下ろし、煙草を楽しんでいる様相であった。殺気を漏らさず、また漏らさまいと平静を装っている様子でもない。
目の前の剣霊使いは不意打ちを仕掛けはしまいと判断したムルドは後方へ振り返った。己の邪剣霊に助言を仰ぐ為である。焦りを伴った眼差しを受けた邪剣霊ルケリヤは何も言わずに斜め上を見上げた。垂らしていた右手が視線の先を目掛けて空を斬る。僅かに遅れて双方の中間地点付近の大地が何かに跳ね返されたかの如く穿たれた。
「正面と上が駄目なら後方も恐らく同じ。囲まれるなんて、まんまと嵌められたわね。」
落ち着いた口調で語る邪剣霊ルケリヤはイルサーシャを注視する。
「この囲んでいるのはあなたの耳からぶら下がっていたものかしら?」
「いかにも。よく判ったな。」
「リストメクで初めてあなたを目の当たりにした時、悪趣味なピアスが気持ち悪い眼差しをしていたから。」
邪剣霊ルケリヤは腕を身体の前で組み、剣霊らしい形の整った顎先を上に傾けた。女の豊かな膨らみが強調される様を一瞥したイルサーシャはふんと短く鼻を鳴らした。
「その気持ち悪い眼差しをした我の従者たちがそなたらと我たちのそれぞれを取り囲む様にとぐろを巻いておる。」
「とぐろ、ね。本当にそれぞれなのかしら?」
邪剣霊ルケリヤの疑問も尤もである。彼女の妖しげな眉間に数本の波が走る。
「つまらんハッタリをかます術を我は持ち合わせておらん。」
イルサーシャがユストへ向けて剣霊らしい顎をしゃくる。ユストは足下に転がる小石を手に取るとおもむろに己の正面に投げた。ムルドがいる位置よりもかなり手前で小石は跳ね返り、地へ落ちる。その有様を眺めていた邪剣霊ルケリヤは少なからずとも納得した様子であった。
「そのまま絞め殺すか丸呑みするつもり?」
「そなたらを仕留めるのは我の契約者が自ら行う。それに我の従者たちは美食家らしくてな。」
「その美食家さんたちが何と?」
「そなたらは見るからに口に合わないそうだ。」
「そう。安心したわ。得体の知れない何かのせいで実力を発揮する間もなく倒されるのはなんとも寂しいものよ?」
「我はその様な場面に遭遇した覚えがない。無論、以後もないと確信している。」
「大した自信家ね。」
「剣霊だからな。まぁ、邪剣霊はどうだか知らんが。」
イルサーシャが不敵な微笑を零す。対する邪剣霊ルケリヤは一笑に付す眼差しの後に再び一閃を放った。赤銅色の髪が僅かに表情を与えられては元に戻る。如何なる剣をもへし折ると自負する者の重苦しい斬撃はユストへ向けてであった。無論、彼は些細な動揺すら見せずに、ただ確固とした眼差しでルケリヤとムルドを捉えている。
「で、あなたが望む条件は?」
言葉を投げ掛けた邪剣霊ルケリヤのすぐ脇を斬撃が通り過ぎる。自ら放ったそれは先程と変わらずに反射の対象となっていた。硬質が軟質を侵す鈍く重い耳障りな音が彼女の後方で響く。
「夜明け前まで。鳥のさえずりと共に我の従者たちは消える。」
イルサーシャの言葉を待っていたかの如く邪剣霊ルケリヤの後方で遺構が崩れ落ちる。その一部始終から彼女の斬撃の破壊力を推し量ったのか、イルサーシャが再び微笑を零した。
「なんとも雑な斬撃だ。」
「雑で結構。綺麗にあなたをへし折るつもりは毛頭無いから。」
「そう出来ると良いのだがな。あとは時が来るまで好きにしていろ。」
そう言い放ったイルサーシャはユストの許へ近寄る。彼女は剣体となった。
頼りない灯りの中で白銀の刀身は煌めいていない。だが、対峙の時を待つその汚れなき威厳は普段よりも増していた。
降るのは雪なのか、雨なのか。
ユストは手頃な切り出された石の上に腰を下ろしたままである。その様な彼の頬を掠める存在を彼は視力で追おうとはしない。静かに双眸に闇を与えて鼻から緩やかに息を漏らしていた。その息は深過ぎず浅過ぎす、まるでまどろみの世界に浸かりきっている様相を見る者に思わせる。
ただ、彼が夢の世界へ旅立っていない証として、右手で鍔なしの直剣の柄を確固として握り締めていた。戦う為の左手は懐に隠し、開いては閉じて、と血流を巡らせていた。寒さによる握力及び敏捷性の低下を回避する為に他ならない。
一方の邪剣霊ルケリヤも相対するユストを真似て倒木の幹の上に座り込んでいた。両脚を揃えて邪剣霊さながらの眼差しで相対するユストを捉えている。
その後ろをムルドが落ち着きもなくうろついていた。左右の折り返しの際に静寂を纏うユストを横目で見ては悪態を吐く。その繰り返しである。イルサーシャの従者という、得体の知れない見えない壁に囲まれている不安が彼をその様にさせているのか、滾る闘志をいかんなく発揮する場をくじかれた結果なのか。
やはりユストは静寂に身を置いている。鼻孔から漏れる白い息を除けば、置物を思わせるほどである。
「時間稼ぎ、てところかしら?」
邪剣霊ルケリヤの甘い声が闇夜の風に乗り、ユストの聴覚をくすぐった。
「具体的には体力の消耗を狙っている。名案かもしれないけど、同じ舞台に立つあなたはどうなの?我は寒さに耐性があるけど、生身の人間がそうもじっとしていたら…指先は動かしている様子だけど、その他が固まって上手く剣を振るには時間が必要なはず。斬れるものも斬れなくなるわ。」
無論、ユストの返事はない。闇を与えていた双眸を開き、邪剣霊ルケリヤの姿を十秒にも満たない程度に凝視した後、すぐに瞼を閉じた程度か。
吹く風が雨なのか雪なのか判らない冷たい存在を弄び、ユストの額と頬を濡らす。閉じられた双眸に端整さを与えている程よい長さの睫毛の先端から雫が一滴落ちた。
「体力の消耗戦か。面白い事を考え付いたな。」
暇を弄ばしているムルドが邪剣霊ルケリヤの肩に後ろから手を添えつつ口を開いた。
「七十二番がそう企むなら対抗策を実践するか。」
ムルドは右側の腰からぶら下げている革製の袋から保存食を取り出した。四つ足の干し肉である。おもむろに噛みちぎる。決して上品ではない咀嚼音が闇夜に混ざった。
「不細工、お前も食事にするか?もう一つの食事ってやつでも某は構わんぞ?どうせならあの世へ旅立つ七十二番に手向け代わりに見せ付けるのも一興だと思わないか?」
干し肉を貪る動きに連動しているかの様に邪剣霊ルケリヤの細い肩に置かれた手がもぞもぞと獲物を捕らえた蜘蛛の如くうごめいていた。
「いやよ、こんな所でなんて。」
うごめく蜘蛛を数本のか細い指が覆った。慈しみや愛情には程遠い動きを見せる。骨同士が無理矢理に擦られ、惨たらしい軋み音と共にムルドは苦痛の呻き声を上げた。
「我の体力なら明日の昼まで持つわ。それに腹を空かせている獣ほど凶暴で残忍なものよ?」
数本のか細い指に仕置きを喰らった箇所を擦りながらムルドは邪剣霊ルケリヤとユストを交互に捉える。
「お前一人で七十二番を倒すつもりか?」
「そう、六十九番の時と同じ。だからあなたは黙って見ていればいいのよ。食事はその後にでもゆっくり頂くわ。」
そうか、そうなのか、と満足とも不満とも言い切れない面持ちではあるがムルドは納得した様子である。そしてその様な彼の知らないところで邪剣霊ルケリヤは左右の口角を不自然に持ち上げていた。
白銀の長い髪の剣霊をへし折り、追剥ぎくずれも切り伏せ、七十二番の剣霊使いを我が物にする。都合の良い話ではあるが、それを実現させるのは容易いと邪剣霊ルケリヤは信じて止まなかった。
ただ、懸念はある。何故七十二番の剣霊使いはこちらと同じく剣霊を当ててこないのか。人間と剣霊。血が通う知能に頼る動物と冷徹で硬質な物質。魂魄を込めて腕を振る男と何気なく軽く指先を動かす女。どちらの一閃が秀でているかは自明の理と言える。そうと重々理解している立場の者が敢えて不利な選択を行使する。
邪剣霊ルケリヤは揃えている脚の向きを逆にした。やはり疑問が拭えない。ならば相手の立場で推測するべきか。恐らく唯一の存在であり、生涯を共にする大事な剣霊の敗北する姿を目の当たりにしたくないのであろう、と結論付けた。男ならば女を庇う。己も女であるからそうと判る。実より情を優先したか。なんとも情けない。だが、これも女だからこそ理解出来る。
目の前の剣霊使いは情に厚い男なのだ。その情が我がものとなれば、ぬるま湯に浸かる様に心地好い時間を迎え入れられる。邪剣霊ルケリヤはユストを見つめる世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳を細めた。着る服の上からでも絶妙な弧を描いていると判るくびれた腰を二三度ざわつかせ、組む脚を入れ替えた。虚ろに開いた彼女の口から白い息は零れない。剣霊は呼吸をせず、寒さにも耐性がある。
対するユストは口の両端を険しそうに結び、瞳に闇を与えたまま鼻から白い息を緩やかに漏らしていた。




