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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第四章 ゲルハルステン望郷編
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盲点

 時の流れにただただ身を任せる。人間であれ、人間以外であれ、誰であろうともやがては暇を弄び、退屈という言葉に苛み、感情の赴くままの行動に駆られてしまう。

 メツァールント郊外の小高い丘に辿り着いてからどれ程の時間が経過したのか。天窮は分厚い雨雲で覆われていた。つまり星々の軌跡を追って時間を測る事は不可能である。唯一手掛かりとも言えた燭台の蝋燭はその身を全て失ってから久しい。

 ムルドがわざとらしい欠伸をする。その横の邪剣霊ルケリヤは静かにしていた。剣霊である彼女にとって欠伸は無縁である。ただ、気持ちの上ではもう既に何回も行っていた。暇もしくは退屈という言葉がのし掛かっている事実に心身を晒して耐え続けるのは生身の人間ではない彼女とて辛い。

 その様な彼女の特徴の一つである世の変遷を見届けたと語るセピア色の瞳が躍動感を伴った。正面に見据えるユストの行動に興味を持ったからに他ならない。

 ユストは右手に嵌めている子鹿の皮を用いた手袋を外し、その甲を己が手にする鍔無しの直剣の刃に当てた。闇夜の深さが頂点に達してから久しいだけに流れる鮮血の赤が妖しい彩りを添えている。何故(なにゆえ)の自傷行為なのか。睡魔に抗う為としか思えない。

 そもそも人間には様々な生理現象がある。加えて己が発した条件、もしくは意図に反するのが生理現象の常でもある。鳥の囀りが聞こえるまで、とは意外と安直な考えによるものと邪剣霊ルケリヤは思い直した。やはり体力の消耗戦に持ち込む策略と捉える。

「ちょっと、あなた…」

 この上なく暇にしているムルドに邪剣霊ルケリヤは手招きをした。無論、彼も睡魔との戦いの最中である。緩慢そのものな動きで彼女の背後に立った。

 今度は顔を近付けろと華奢な人差し指を上にして動かす。新たな妙案が浮かんだのかとムルドは不信感を抱かずに指示に従う。

「あなた、眠いでしょ?」

「あぁ眠いね。」

 ムルドのこの言葉が彼女の剣霊障を伴ったものなのかは判らない。ただ、その様なものはどうでもよいと言いたげな邪剣霊ルケリヤの流麗な目尻は妖しい曲線を描いている。

 華奢な人差し指がついと動き、無精髭に覆われた頬をなぞる。普段なら脂ぎっている頬が、深夜の寒気に晒されてかさついているのが判る。

 人差し指の気まぐれが終わり、うっすらと血が滲んだ。幹となる動脈が走っていない部位だけに流れる鮮血の量は僅かではあるが、裂傷を負った事には変わりない。

「痛い?」

 申し訳なさそうに頬をつたる鮮血を舐め取った後に邪剣霊ルケリヤはそう尋ねた。

「痛いね、とても。だがおかげで眠気もすっかり消え失せた。」

 余裕綽々な表情の奥でムルドの獣じみた眼差しが邪剣霊ルケリヤの頭からつま先まで舐める様に視界に入れる。

「お前、やはり腹が減ったんだろう?」

「全然?」

「強がるなよ。」

 ムルドは寒気に満ちた中で口を使って右側の手袋を外した。左手を使わなかったのは肩の傷により思う様に動かないのか、或いは単なる不精なのか。ユストの手袋より大雑把な動きしか出来ないが防寒性能は勝っているであろう厚手の革製の手袋に覆われていた肌は常人とは異なる。直視するには耐え難い腫瘍が晒された。見る者が見ればそれ剣霊の食痕だと判る。己の左首筋に同じ腫瘍を持つ故にユストも例外ではない。

 無感情と言う表現がしっくり当て嵌る様なユストの視線を他所にムルドは大気に晒した右の甲を邪剣霊ルケリヤの程好い厚みを有した唇へ近付ける。彼女は些か不機嫌そうに顔を逸らした。

「事が終わった後に頂くわ。」

「空きっ腹で獰猛貪欲になるのは好いが、体力負けしては話にならん。」

 邪剣霊ルケリヤの逸らした顔に右の甲が更に近付く。彼女は己の食痕に対して嫌悪を思わせる一瞥を投げ、組んでいた脚を入れ替える。裾の長いスカートの端が彼女の心の内に生じたざわつきを具現化したのか、短い畝を作り上げてはすぐに消えた。

「そうね。それも一理有るわね。」

「だろう?目の前の奴をぶちのめす為には必要な事だ。」

「ならばほんの少しだけ。今ここで満足は覚えたくないわ。」

「あぁ。終わったら好きなだけくれてやる。」

 ムルドの言葉を遮るかの様に邪剣霊ルケリヤは自ら右の甲を両手で持ち、己の口に近付けた。

「ねぇ。あなたの気が強そうなお嬢さんもこんな風に食事をするのかしら?」

 言わずもがな、ユストに対する問い掛けである。無論、ユストには答える(すべ)もなく、そもそも答える義理もない。

「この変な邪魔な囲いが消えると同時に()は横薙ぎの一撃をあなたに放つつもりよ。左右どちらからまでは教えないけど。」

 まさかこの時点で手の内を赤裸々に晒すとは。平静を装うユストの眉がぴくりと動く様子を邪剣霊ルケリヤは見逃さなかった。

「かわすか受けるかはあなた次第。でも、かわすのはまず現実的に無理な話だと()は思うわ。剣霊の速さにあなたの身体が対応しきれるのか疑問が拭えないもの。」

 邪剣霊ルケリヤの(げん)は正鵠を射ていた。人間と剣霊の身体能力の違いについては今を生きる誰もが知るところである。肯定とも否定とも取れる浅い頷きをユストは見せた。

「かわせないなら受けるしかないわね。そうしたらあなたの大事な大事な気が強そうなお嬢さん、元に戻せない傷を負うわ。あの()と同じ名前の剣霊みたいに何も出来ずに朽ちるのを待つか、それとも生き恥を晒すものかと自らを()()か。あなたはどちらだと思う?」

 ユストの鼻腔から白い息が大きく漏れる。羽織る黒いコートの中から右手が差し出された。手首から先を二三回払う様に振る。お喋りは飽きたから早く摂るものを摂れ、と言わんばかりの仕草は邪剣霊ルケリヤの嬉々とした笑みに水を差した。

 ムルドの楽にしている右手にか細い指の幾つかが触れ、己の食痕を口許へ近付ける。

「あなた、食事中の女性を眺めるのは好き?」

 邪剣霊ルケリヤは上目遣いで回答を待つ。対するユストの鼻腔から漏れる白い息は僅かな乱れすら生じさせる事なく、大気に広がっては溶け込んでいる。

 つまらないわ、と目尻と眉で表現した邪剣霊ルケリヤは己の食痕に青ざめた色以外は女の魅惑を有した唇を密着させた。

 双眸に闇を与えた女の喉が鳴る。その貪りの音色は慎ましやかとは程遠い。ユストは男らしい尖った顎を僅かに上へ傾ける。彼は右手首に巻いた剣霊協会支給のスカーフを強く締め直し始めていた。


 吹く風がユストの頬を撫でた。冷たさが先程よりも増している。明らかに日の出前の兆候である。雨は降り続き、その覆う雲により星の位置で時間を知る事は不可能ではあるが、大自然とは嘘を吐かない。人間と違って奇を衒わない。そう信じているユストは鼻から白い息を緩やかに漏らしつつ立ち上がった。

 無為な時間が終わろうとしていた。彼の身体の前に姿を現した唾無しの直剣は僅かな光をも吸収するかの如く不気味な煌めきを刀身に湛えている。寒さに晒さまいと温めてきた利き手たる左手は握り慣れた柄に添えられ、自ら傷付けた右手は血抜きが施された部位の中頃を掴んでいた。

 構えにしては不自然である。邪剣霊ルケリヤは怪訝な様子を露わにし、我流の剣でこれまで生き延びてきたムルドも眉根を寄せた。その時になれば改めて構え直すつもりなのか。それでは遅過ぎる。邪剣霊とは言えど、斬撃の速度や威力は人間と比較が可能な域を遥かに凌駕している。ユストの瞬発力及び動体視力を以て彼女の欲望に満ち溢れた斬撃を回避するのは不可能に近いと判断するべきだ。ユストを目の当たりにする誰もがその様に思う中、弱々しい声がその場にいる三名の耳殻を撫でた。

 心地好い雨音に紛れて名の知れない鳥の囀りであった。

 ようやくこの時が来たか、と実感する間を与えずに、ふと空気の色に変化が生じたかの様な錯覚を知る。同時に邪剣霊ルケリヤが纏うスカートの裾が華麗な畝の層をあるだけ作り出す。イルサーシャの従者たちのえもいえない気配は氷が溶けきったかの様に消えていた。赤銅色の髪は獲物に対して歓喜の広がりを見せ、世の変遷を見届けたと語るセピア色の瞳はこれから手に入るであろう剣霊の使い手を正確に捉えていた。飛び掛かりつつ横薙ぎの一閃が放たれる。邪剣霊ルケリヤが狙うのはユストの利き手である左の手首であった。

 鈍く惨たらしい音が周囲の大気に短く混ざる。左手首の骨による断末魔を思わせる響きだが、ユストは苦痛の表情を浮かべていない。彼は平静を保っている。鍔無しの直剣の柄で邪剣霊ルケリヤの斬撃を受け止めていた。

 斬撃を回避した左手が邪剣霊ルケリヤの腕を服の上から掴む。振り払って逃げようにも剣霊の力では人間のそれには叶わない。剣霊の唯一の弱点を知る剣霊使いは血抜きを握ったままの右手を下から上へ振り上げた。絡み合う黒蛇の鋭い尾の先端が整った顎を襲う。再び大気を震わした音は先程よりも大きく、金属同士がぶつかり合う凄惨な響きであった。

 男が女を殴る。倫理や道徳では最も下劣とみなされる行動をユストは選んだ。だが、人間と邪剣霊による命と矜恃を懸けた戦いである。屈強や剛力とは無縁のユストが相手するのは生ある全てを斬る剣霊である。軽く触れただけで皮膚は裂け、鮮血を流す事となる。明らかに人間が不利な中、誰が彼を非難出来ようか。

 否応なしに顎先を蒼穹へ可能な限り向けた邪剣霊ルケリヤは意外な一撃に驚愕と苦痛を混ぜ合わせた表情を見せつつ、倒れまいと左右の踵に力を込める。仰け反った首を元に戻すと今度は横殴りの打撃が繰り出される。頬を打たれ、そのまま倒れ込みたいが彼女の袖の上から左手で腕を掴むユストがそれを許さない。一枚の布と子鹿の皮を用いた手袋が双方を直に触れさせないが為に、見るに耐えない撲打が絶えずに繰り返される。

 五回目の殴打を過ぎた頃、流石の邪剣霊ルケリヤとてたまらずに短い悲鳴を上げた。しかし、ユストの表情に変化を与えるには及ばない。

 彼は任務を遂行する者にとって感情は不要と心得ていた。それは今亡き国家の解体を経て剣霊使いとなる以前から身体に染み付いている。

 一方的な暴力に於いて歓喜を求める者がいる。そこまで至らなくとも、興奮を自覚せざるを得ない者がいる。或いは罪悪感に苛み嫌気に包み込まれる場合もある。

 しかし今のユストはそれらのいずれかにも当てはまらない。温かさは無論、冷たさすら帯びていない双眸に射抜かれた邪剣霊ルケリヤは恐怖を覚え、逃げようともがき始めた。

 赤銅色の髪が暴れ、その一本一本がユストの頬を打つ。傷を負い、血を流すには至らなかった。

 邪剣霊ルケリヤの剣体は斬り伏せるためではなく絡めて折るためのものである。他の剣霊の様に心胆を寒からしめるほどの切れ味は有していない。加えて邪剣霊となって以来、手入れを行っていないとユストは捉えていた。斬れば刃を擦り減らし、斬らなくとも大気に触れていれば痛む。それが剣というものである。他の剣とは異なる性質に狂気が混ざり合わさった結果、己を労るという基本を蔑ろにしてしまった。

 短く詰まり気味であった響きが一回り大きく、そして僅かながらにも残響を残した。邪剣霊ルケリヤの赤銅色の髪の一部が冷たい大地を打つ。荒天により湿った大地は何も奏でない。彼女のこれまでを否定して寡黙を通しているのか、或いはただ静かに次なる世界へ旅立てと示唆しているのか。

 無慈悲の打撃を受け続けた邪剣霊ルケリヤの苦痛に満ちた面持ちが現実を知るなり、驚愕のそれと変化する。己が最も秀で、他の追従を許さない技を封じ込まれ、己の目下で悔恨の念に苦悩する敗者たちと同じ結果を味わわせられた。生ある者の様に身体の一部を欠損した際の激痛に襲われる事はなかった。ただ、身体の自由を奪われた感覚と凡ゆる気概が霧散したかの如く、とてつもない倦怠感に包み込まれる。

 邪剣霊ルケリヤは膝から崩れ落ちた。抵抗の意思が霧散した彼女を掴んでいたユストの左手が離れる。これ以上は労力の無駄とばかりにユストは踵を返した。羽織る黒いコートの裾は滴る雨を含んで重たかろうとも緩やかな弧を描き、冷たい大地は規則的で味気ない足音を奏でる。

 煩雑な音が混ざった。一方的な殴打を呆然と眺めていたムルドが邪剣霊ルケリヤに駆け寄ったからに他ならない。ムルドは女を労り、優しい声を掛ける様な男ではなかった。戦意を喪失した邪剣霊ルケリヤに向けて軽く舌打ちを浴びせた後に己が今最も望んだもの、剣体となった邪剣霊の柄を握り締める。

「おぉ!」

 と発した声は枯れていた。それは邪剣霊ルケリヤの真の姿の成れ果てを言葉ですぐには表現しきれないとも物語っていた。

 怒りの絶頂とも興奮の極みとも思わせる鼻息を一つ漏らしたムルドは己が手にする剣を闇雲に振りかざす。粉塵が彼の周囲にまとわり付く。邪剣霊ルケリヤの剣体の一部に他ならない。陽光鮮やかな時間であれば鉄粉の煌めきが幻想的な雰囲気を醸し出していたであろう。だが、今は違う。重苦しい空気中に寂寥感を助長するだけである。

 己を鼓舞せんと再び大きな鼻息を漏らしたムルドが討つべき相手を睨め付けた。

「待て、七十二番!まだ終わっちゃあいない!」

 ユストは歩む脚を止めずに物静かな視線と共に首だけ捻った。冬の大気に晒された唇が動き、音なき声が発せられ、白い息が短く漏れる。

 もう終わりだ。

 ムルドはその様に読んだ。

「いや、まだだ!」

 猛々しさ顕にしているムルドをを他所にユストは脚の動きを止めていない。無関心な態度は時に挑発を生むものである。ムルドは勢いに任せて大地を蹴った。手にする邪剣霊ルケリヤの剣体を腰と同等の高さで構え、横薙ぎの体勢に据える。 それでもユストの歩調は変わらない。しかし、彼が垂らしていた右手を僅かに持ち上げていた事をムルドは気付いていなかった。

 距離を詰めると同時に怒号に似た声を張り上げて横薙ぎの一撃を繰り出す。対するユストも左手に鍔なしの直剣の柄を掴むと共に振り向きざまの一閃を放つ。

 負けを知らない巨躯による直線的な一撃と生死の境をかい潜ってきた巧者の遠心力を利用した一閃。どちらが相手を凌駕するのかは互いが手にする得物の状態が左右した。遠心力を利用したユストの一閃はがむしゃらに食らいつこうとするムルドの一撃を喰い破る。何ものをも受け付けない鍛え上げられた切先がムルドの右手の甲を薙いだ。革の手甲を嵌めていようとも剣霊の意思が宿る剣による一閃である。中指と薬指の間が手首付近まで裂け、僅かな間を置いて鮮血が溢れ始めた。ムルドは迸る激痛に耐えんと歯を食いしばり、負傷した右手を上げて反撃を試みる。

 だが、手の甲が裂けては握力を保持できない。邪剣霊ルケリヤの剣体は無情な音を立てて大地に落ちた。

 右が駄目なら左で。右が駄目でも左がある。ムルドがその様に思考を働かせていたのかは判らない。だが、左肩を相方の気紛れで負傷していては、やはり力を振り絞れない。それなりに年季の入った柄を掴むのがやっと、と言える状況をユストは涼しい眼差しで捉えていた。

 ムルドは勝利への執着よりも生への依存が勝った者の行動へ移ろうとしていた。

 このままでは()られてしまう。白み始めている空の下、ムルドは瞳孔を最大限に広げ、血走った眼差しでユストを捉える。彼は白銀の鍔なしの直剣を身体の前で新たに構えていた。柄頭には右手の掌が添えられている。直剣の最大の強みである刺突撃の構えであった。構えた時点で警戒される大技だが、破壊力は他の追従を許さない。そしてその大技で仕留めようという魂胆か。更に加えるならば、その大技をかわせないと判断されてしまったのか、とムルドは肝を冷やした。

 逃亡という言葉がムルドの脳裏を占める。同時に脚が動く。右手は使えないが、左手は辛うじて物を掴む程度ならば可能である。冷たい大地に転がる邪剣霊ルケリヤの剣体を奪う様に掴むなりユストの動向を窺う事なく逃亡を図る。ユストとは真反対の、その先は過去の遺物たる建屋の壁があろうと関係ない。そもそもその先に何があるのかも判らない。それでもムルドは振り返らずにユストの前から姿を消した。

 白み始めた東の空が戦いの跡へ淡い陽光を注いでいる。風は撫でる頬に辛く当たる。暫く人間の手から離れていた遺構は流血で汚れてしまった。

 戦いは終わった。

 ユストは鼻から大きく息を漏らした。白い息は流れに流れ、大気に掻き消える。彼は陽が昇るまで身体を預けていた箇所に戻り、再び腰を下ろす。

 雨は既に止み、分厚い雲が幾分薄くなっていた。


「ほぉ、なるほどな。」

 これは霊体に戻ったイルサーシャの第一声である。人間であれば身震いの一つでもする様な朝の寒気の中、剣霊である彼女は平然と辺りを見廻していた。

「何故仕留めなかった?」

 イルサーシャの疑問は尤もと言えた。ユストと対峙した者たちの亡骸が視界に映らない。剣霊との戦いは生命を賭して行われるのが常である。今回は偶然にもその条理に当て嵌らなかった、とは考え難い。涼しげな面持ちの中に怪訝な様子を浮かべているイルサーシャは己の契約者の回答を待った。

 当のユストは安堵の一服を愉しむべく煙草の先端に火を灯していた。俯き加減の中で眉を持ち上げつつ煙を吐く。それまでの疲労感が払拭した表情の中に語るべき内容を整理していたのであろうか。

 煙草を挟んでいる人差し指の先端で己の肩を二回突つく。ここに手を置けという指示にイルサーシャは素直に従った。

(遅効性の仕留め方さ。)

 初めて聞く言葉にイルサーシャは首を捻る。

(遅効性か。()には皆目見当がつかんが。)

(邪剣霊のルケリヤには二つ。まず彼女が最も得意とする分野で敗北を嫌というほど味わわせた。)

(あやつの得意とは?)

(打撃だよ。)

 音なき言葉の後にユストはどの様に、と表情で語るイルサーシャの白銀の長い髪の先端を掬い、人差し指に絡めた。

(さすがに手入れしたばかりの刀身を傷付ける訳にはいかない。ただ幸いに血抜きが施された部分は刃がない。そこを握って柄で…)

(ひたすら殴った、という事か?)

(あぁ。愚生自身が傷付かない様に手首を固定してだ。それに君の柄は見た目が厳ついだけに極めて頑丈だからな。)

 これは褒め言葉なのか。イルサーシャを一瞥したユストは苦笑を短く零し、音なき言葉を続けた。

(最後は()()()()と同じく刀身の一部を破砕する結果となった。)

「そうか。」

 短い返答であった。無論、その裏には様々な言葉がざわついていた。

 邪剣霊とは言えども女を殴る事に抵抗はなかったのか、とイルサーシャは問わない。いや、問おうとしたが飲み込んでいた。生命を賭した戦いに性別は関係ない。まして相手が邪剣霊であれば尚更である。一流の剣士であれ、肌に触れられてしまえば傷を負う。鮮血はとめどなく流れ、敗北が確定する。その様な事態を阻止する為に、また剣霊協会の任務を全うする為の手段に道徳を問うのは愚行だと彼女は判断した。

 一方のユストも己の剣霊の心境を理解しているのか、余計な言葉を慎み、煙草の煙をくゆらしている。空いている側の(たなごころ)で肩に置かれたか細い手を覆う。相変わらず冷たい剣霊の手はぴくりと反応を示し、すぐに静かになった。

(で、あとの一つとは?)

(彼女の食痕に大きな傷を付けた。)

(つまりあの契約者からはもう食事が出来ないという事か。)

(あぁ。加えて彼の右腕は剣を満足に握れない様にした。)

(右が駄目なら左というのがあるが?)

 イルサーシャの眉根が悔恨の表情を作った。ユストもそうだろう、と付け足そうとしたからである。無論、その様に思ったのみで言葉にはしない。彼と初めて出会った時に刻まれた指の欠損に未だ自責の念を拭いきれていないと改めて思い知らされた。

(彼は自らの邪剣霊に付けられた傷で左肩から先が既に使い物にならない状態になりつつあった。治療を怠った代償だな。)

(そうか。だが、あの邪剣霊が他の男を契約者にしたらどうなる?そなたの苦労も水の泡となるが。)

 想定内の質問であったのか、ユストは普段と変わらずに煙草の煙を鼻から緩やかに出していた。

(その仮説が現実になるのは極めて低い。君が彼女の立場ならどうする?)

(そなた、あの邪剣霊と()を同列にするのか?)

(剣霊としてではなく女としてだよ。)

 そうきたか。イルサーシャは少々考えている素振りを見せる。流麗な目尻から棘々しさが薄れ始めていた。

(それでも再び大衆の前で猛威を振るう様になれば、あの時に何故確実に仕留めなかったのかと協会から追及されるのではないのか?)

(その時はその場にいる剣霊使いに任務が下れば良い、と愚生は思っている。それに今回はエルスノア教会長に累が及ぶのを阻止するのが任務の目的だったからな。必ずしも生命を断てと言う訳でもない。)

(まぁ…そうだが。)

(ルケリヤの苦痛をあの邪剣霊に味わわせる為、アウルス・ボーンの苦悩をあの偽物に思い知らせる為にわざと命を奪わなかった。)

(なるほどな。)

(ただ…。)

 ユストは言葉を詰まらせ、既に吸えなくなった煙草を大地に落とす。そして深い溜め息を漏らした。

(愚生が自ら手を下したとは言え、後味が大変悪い。)

 イルサーシャの冷たい(たなごころ)が肩から首筋を経て反対側へ廻る。抱き寄せる様な体勢でもう一方の(たなごころ)を空いた肩に添え、寒空に晒された耳に血の気がない唇を近付けた。

「その後味の悪さはそなたが()の代わりに受けてくれたものだ。気にするな。」

 女の冷たい長い髪が男の冷えた肩の上でたおやかな曲線を描いていた。

 朝靄が視界を遮ろうとも大気は澄んでいる。心地良い沈黙に身を置く中、イルサーシャの指先が頼れる肩の上でもぞもぞと不規則な弧を描き始めていた。駆られた衝動を抑制せんとしても時既に遅し。耳に近付けていた血の気がない唇が僅かに躊躇いの色を滲ませた後に動く。

「食事がしたい。」

 イルサーシャの目許を彩る流麗な目尻が妖しく伸びる。深い緑色の瞳が剣霊協会支給のスカーフを捉え、生ある全てを斬り裂く手はユストの太腿の付け根まで降りていた。

 スカーフを覆う襟元に顔を近付けたイルサーシャの視線が動く。傍らの木造の小屋が映った。

「食事をする場としてうってつけ、とは言い難いが…寄り掛かる事ぐらい出来そうだな。」

 吹く風が彼女の白銀の長い髪を攫い、妖しい目許に彩りを添えた。

 そうだな、とユストは頷いて答えた。イルサーシャの細い腰へ頼れる(たなごころ)が伸びる。巻き込む様にして脇腹に触れ、もう一方は白地に黒の幾何学模様が走るスカート越しに膝裏へ潜らせた。

 剣霊の自重を成人女性と比べるべきではない。それを証明するかの如くユストは表情すら変えずに軽々とイルサーシャを抱き上げた。

 首に廻した両手が既に食痕を求めて剣霊協会支給のスカーフを解き始める。飢えによる渇望の要因は重々承知している、とイルサーシャは理解していた。ただ、理解していようとも動く指先は止まらない。安堵による衝動。そうとしか思えない。

 顕になった食痕は相変わらず目を背けたくなる様な色合いをしていた。そこに生気が感じられない唇が重なる頃には既に二人は目的地たる木造の小屋の中にいた。

 耳に優しい衣擦れと共に聞く者に横暴さすら思わせる喉の響きが狭い空間を占める。勢いに任せた食事を堪能する剣霊の双眸は闇を与えられ、吟味と満足の度に程よい長さの睫毛を震わせていた。

 ユストは愛おしい者を見つめる眼差しのままイルサーシャのか細い肩から胸に手を這わす。彼女は身を捩る。だが唇は決して離さない。恥じらいと歓喜の声が自ずと漏れた。腰から下が意思に反して緩やかにくねり始める。互いに片方の手は持てる握力の全てを出し切らんばかりに相手の身体を握り、もう片方の手は細心の注意を払うか如く柔らかに触れていた。

 外は朝靄が晴れ、冬の柔らかな日差しがようやく降り注ぐ頃である。風は勢いを失い、小屋を形成する木製の板の表面を撫でては時折、経年による建付けの劣化を知らせるべく、かたかたと鳴らす程度である。その響きを打ち消すかの様に雌の喘ぎが恥じらいもなく漏れ、雄の発する熱気が小屋の中を充満させる。

 イルサーシャの左右の(たなごころ)はユストの背中に廻り、交差した先で苦悩と悦楽が同居する爪を立てる。人間とは異なる硬さを有する十ある爪先のそれぞれが契約者の背中にくい込む。容易く皮膚を裂いては彼女にとって何よりも大事な鮮血が滲み始めた。爪の先端が魅惑の色に染め上がらんとする中、ユストの肌に染み付いた百年香の匂いが過度に温まる。従来の爽やかな香りに厚く重い甘さが加わった。その匂いに反応したかの様にイルサーシャは腰を反らして悶え、白銀の長い髪は放射状の広がる。悦楽の底なし沼から自我を守ろうと契約者の血で彩りを添えた五指は背中から頼れる腕を鷲掴みにする。

 ユストが動きを止めた。全身を脱力させ、イルサーシャにのし掛かった。彼女の頭を抱き込み、両手を添える。音はなかろうとも呼吸は荒く、高鳴る鼓動が触れ合う肌を通してイルサーシャに伝わる。彼女は剣霊らしからぬ虚ろな眼差しを湛え、結ぶ事を忘れてしまった唇を動かした。

「もう少しこのままでいたい。」

 ユストは肯定も否定もしない。荒い息のまま両手を添えている彼女の頭に顔を近付けた。左右の耳からぶら下がる黒蛇のピアスたちは重力に従って力なく垂れている。自慢の睨みも幾分弱々しく映るのは見る角度によるものか。

 安堵を思わせる微笑を零したイルサーシャは脱ぎ捨てられた黒いコートを手繰り寄せ、持ち主の肩に掛けた。そして双眸に闇を与えてユストの肌の温かさと百年香の匂いを堪能し始めた。

 こうして心身共に落ち着かせられる時間を過ごしたのは如何ほどだろうか、と彼女は振り返っていた。初めて実感したのはおよそ五年前。この年月が短いのか長いのかは判断しかねる。ただ、邪剣霊ルケリヤと対峙の際に剣霊である己の力を一切使用しないとユストに告げられた際、正直なところ不安でたまらなかった。相手を打ち負かすのが大前提とは言え、五体満足で負傷もなく生死の境界線を潜り抜けるのは困難であると予測していたからである。無論、考えなしな姑息な手段に乗じた訳でもなく、考え抜いた結果としてあの様な奇をてらった戦略を用いたと理解している。

 そもそも剣霊は契約者の思考を遍く理解し、指示に全幅の信頼を置くのが常である。だが、今回は一言で語るなら危なっかしく思えた。果たしてその様に思えた己は未熟なのか。否、と自信を持って言えないのは何故なのか。

 暇にしている両手が再びユストの背中に廻り、剣士らしい胸許の中央に横顔を密着させる。先程より落ち着きを取り戻した鼓動に自問による苦悩を中和されたのか、イルサーシャの表情が幾分柔らかくなった。ユストの鼓動は彼女にとって心地良さこの上ない。一定の調子で奏でられる力強さに生命の源を感じ、同時にユストの生命は永遠ではないと知る。

 ユストの温かな五指が白銀の長い髪の中程を(なじ)り、やがて上へ上へと移る。程よい大きさの頭を包み込む様に撫で始められたイルサーシャは深い緑色の瞳に闇を与えた。

 剣霊とその契約者という(つがい)はそれから一時間ほど言葉なき時間を過ごした。


 正午を過ぎて久しい頃、メツァールントの正門の前にメアリー・メイイェルは佇んでいた。暇を弄ばしているのか、狭い御者台の上で両足を伸ばし、頭を仰け反らせる。正門の脇を交互に並ぶ中央行政府の国章旗とメツァールントの市章旗が緩やかな風になびいている姿が視界に飛び込んでくる。退屈だな、と思うと共に欠伸をし、旅装の一部である頭に巻いていた布がはらりと解けた。

砂色の髪が垂れ下がり、虚ろな視線で手櫛を入れる。暫くはメツァールントを訪れる機会に恵まれる事は無いと理解している。この市街地での慌ただしい数日を思い返しているのか。

 彼女の足許で伏せている狼が豊かな尻尾を振る。左右に揺れるその調子は気怠げであり、飼い主の心境を具現化しているのかもしれない。

 年頃の女性が独り物憂げな雰囲気を醸し出している中、正門の守備を任された兵たちはどの様に振る舞うのだろうか。野次を飛ばす者はいない。十数名いる皆が静観を決め込んでいる。相手はいくら年頃の女性とは言えどもメイイェルの研師(とぎし)である。彼女の後ろ盾として剣霊協会が控えているのは周知の通りである。またこの数日間、彼女は希望する家庭の包丁にこの上ない切れ味を与えた事実もある。畏怖と敬意。この二つが織り成した結果が静観という姿勢を導いたと言えよう。

 緩やかな風が一頭立ての荷馬車を引く馬のたてがみを軽く撫でた。鼻から低い音と共に太い息を漏らす。前脚もその場で足踏みを数回する。

 だが、何かがその和ましい動作を遮った。げんに馬は天に届かんばかりに耳を立て、意識を集中している。狼は気怠げな尻尾ふりを止め、呼吸を深くする。四股の筋肉がいつでもしなやかに動ける様に隆起していた。

 人間はどうか。正門の守備を任された兵たちは背中に違和感を覚えていた。背筋が凍る、までとはいかないものの、少々張り詰めた感が否めない。

 メアリー・メイイェルはおや、と女性らしい細くもはっきりとした眉に動きを与えた。一般の者たちと彼女の感覚は異なる。仕事を始める際に毎回覚える背筋に走る緊張感。決して心地良いものではないが、かと言えどもその感覚に押しつぶされる訳にはいかない。やがてその感覚は違和感を通り越して既に日常の一部となっていた。

 急ぎつつも丁寧に手櫛を三回入れ、落ちた布を頭に覆わせる。緩やかに、品のある女性らしく、そして優雅に。この三拍子は普段のメアリー︎︎・メイイェルとは無縁の関係なのか、ものの数秒で崩れてしまう。だが当の本人は気にせずに郊外の小高い丘へ視線を向けていた。

 帰ってきた。それはどちらなのか。剣霊であれ邪剣霊であれ、人間が感じ取れる畏怖と嫌悪に大差はない。だが視覚で捉えるには遠い。

 正門の守備を任された兵の一人がメアリー︎︎ ︎︎・メイイェルの馬車に小走りで近付いた。

「どうも不穏な気配がする。まさかの事態の場合もある。ここは一旦正門の中に戻られよ。」

 メアリー・メイイェルの視線が言葉を掛けた兵に向けて動く。彼は四十路を過ぎてそれなりの時間を経てきた顔付きをしている。低く味わい深い声と実直さが滲み出ている響きにメアリー・メイイェルは静かに頷いて応えた。

「そうだね。わかったよ。ただ…兵隊さん、気配を感じて五分は経ったかな?」

 想定外の返答である。言葉を掛けた兵は平静な面持ちのまま首を捻って見せた。高名な研師(とぎし)である故の問い掛けだろうか。しかし、その真意を知ろうと知らまいと様々な角度から考察する余裕もない。呼吸が浅くなり、背筋が強ばっている。命の危険を身体が知らせている。興味深い事に大半の者は命の危険を感じると、まず視覚を頼りにする。正門の守備を任された兵たちも例外ではなかった。皆が落ち着かない様子と共に四方八方へ視線を投げている。

「あっちだよ。間違いない。」

 メアリー・メイイェルが小高い丘に向けて指差しをすればシュンカが犬とは異なる狼らしいしなやかな四股による俊敏な動きでそちらへ走りだした。

「帰ってきたんだよ。多分無事だと思うけど。」

 誰に聞かせる訳でもなく独りで語るメアリー・メイイェルは一抹の不安を抱えた面持ちと共に再び砂色の髪に手櫛を入れた。

「帰ってきた?」

 声を掛けた兵が訝しむ。額に冷たい汗を幾つも浮かべていた。

「七十二番の剣霊使いの事さ。」

 確かに剣霊協会の協会長なる人物が遥々このメツァールントを訪れていたのはつい先程まで、と知っている。だが剣霊使いも同行していたとは知らされていない。何処でその様な事を、と声を掛けた兵が尋ねるよりも早く、メアリー・メイイェルは御者台から飛び降りていた。

 左右に束ねた砂色の髪がしなやかに踊り、元に戻る。質素な外套が畝を作っては静かになる。期待に満ちた双眸が一匹の狼と二人の姿を捉えた。手を挙げて大きな声でこっちだ、と呼び掛ける必要はない。シュンカが導いてくれる。また二人もシュンカに進むべき行き先を委ねている様子であった。

 メアリー・メイイェルの前にイルサーシャが立ち、その左後ろにユストが佇む。女のメアリー・メイイェルですら下ろした白銀の長い髪が艶っぽく見えるのは冬の澄んだ大気による恩恵だろうか。思わず見とれてしまう中、その魅惑の髪の下で黒い物体が揺れ動く。造形物にしては生々しい睥睨を持つ黒蛇と視線が交わる。メアリー・メイイェルは乾いた喉に潤いを与えるべく唾を飲み込んでいた。

「例の邪剣霊を退けたぞ。」

 メアリー・メイイェルは淡々と語るイルサーシャを見上げた。勝ったあるいは討った、と言わないんだ、と疑問が浮かぶ。つまり相手はまだ息の根を止められていない、と解釈するべきか。

「心配いらん。既に剣が剣たるに及ばない(てい)にまで貶めた。最も残酷な手段だ。」

 残酷と語る剣霊の双眸は冷たく鋭利であるが、どことなく温かな雰囲気を纏っていた。

「その及ばない(てい)ってのは、イルサーシャがしたの?」

「いや、()の契約者が自ら手を下した。」

 最も残酷な手段を行使した者はしゃがみ込んでシュンカの胴を撫でていた。

「この後はどうするの?」

 メアリー・メイイェルの視線はイルサーシャを僅かに捉えた後にユストへ向けられた。

「さぁな。ユストの指示で()は動いているからまだ分からん。」

 彼女が人間であれば鼻から強く息を漏らして腕を組んでいたであろう口調である。さて、これからどうするべきか、と尋ねにイルサーシャはしゃがみ込んでいるユストの肩に手を置いた。

「まず、協会長様は無事に出立したのか、と聞いておる。」

「今朝方、日が昇る前にこのメツァールントを発ったよ、あのお髭の運送屋の馬車に乗って。なんて名前だっけ、あのお髭の運送屋さん…」

「あぁ、ドなんとか・デなんとかだったかな?()としてもどうも覚えられん。」

 ユストがシュンカを撫でていない側の手を肩に置かれたイルサーシャのそれに重ねた。

「グスタフ・ヴェネシュだそうた。一行は特に寄り道をせずに目的地たるコノリギスへ向かったのか、と聞いているが。」

「そこまでは知らないよ。あたいは剣霊協会の人間じゃないから。」

「そうか。」

「で、二人はどうするのさ?向かう方向が一緒ならそこまで乗せていってあげても良いんだけど。」

 暫くの沈黙が置かれた。どうするべきか、とユストとイルサーシャは音なき会話を交わしていたのであろう。メアリー・メイイェルは身体の前で手の平を合わせたと思えば左右に分けた砂色の髪の先端を交互に詰る。この繰り返しをして二人の答えを待った。

「ゲルハルステン。故郷へ行かなければならないとユストは言っておる」

 メアリー・メイイェルの眼差しが一種の煌めきの様なものを湛えた。この国の首都の名を聞かされて心踊ったのであろう。

「四カ国の中でお金さえ払えばなんでも揃うと言われている一番都らしい都かぁ。」

「住んでいる者からすればなんとも空気が悪いところだ、と元住人は語っているが」

「そうかなぁ?まぁ、あたいは田舎者だからさ。あぁいう場所には憧れがあるんだよ。」

「ふうん。剣たる()にはさっぱりだな。」

「鈍いイルサーシャだって行けばあたいの言った意味が分かるよ」

 スカートの裾に綺麗な弧を描かせてメアリー・メイイェルは己の馬車の御者台に身を預けた。

続いてシュンカが荷台の中へ消える。メアリー・メイイェルが乗りなよ、と二人に向けて無言で女性らしい丸い顎をしゃくった。

「かたじけない」

「ゲルハルステンまでだからね。」

「解っている。」

「あと…」

「あと?」

「食事はしないでよ。気が散るから」

 ふと短い微笑を漏らしたイルサーシャがついとメアリー・メイイェルに近寄る。そして純朴な耳許に剣霊らしい鼻筋の通った顔を近付けた。

「既に済ませておる。下手な心配は無用だ。」

 やはり。、女の勘が当たったと言わんばかりにメアリー・メイイェルは下唇を噛む。

「少しは横にさせておいてやれ。眠れる時に眠るのが剣士の鉄則と聞いている。」

 今度はイルサーシャが御者台に片手をついて飛び乗った。軽やかな身のこなしに八方へ広がる白銀の長い髪。爽やかな百年香の爽やかな匂いの中に何処となく甘ったるいものが感じられた。人肌に温められた残り香か。

 メアリー・メイイェルはイルサーシャに一瞥をくれた後に鼻から深い溜め息を漏らした。

「道中は暇だから、どうやって邪剣霊を倒したのか話を聞かせてよ。」

 手綱を緩めて軽やか握る。数秒後には軽快な蹄の音が冷ややかな冬の大気に混ざり始めた。

「さぁな。()は剣体になっていただけだからな。」

「え?」

 メアリー・メイイェルは発し短いた言葉に違わず、想定外の返答に驚きを隠せない面持ちを零した。

「折角女二人の時間だ。男の落とし方を指南してやろうか?」

「いいよ、そんなの。あたいだって出来るから。」

 吹く風が二人の異なる風合いの髪を掬い、靡かせていた。

 中央の首都たるゲルハルステンまで三日を要する道程であった。


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