口の中
咥え煙草のユストは変わらぬ歩調で進んでいた。
ところどころに経年劣化が伺える石畳の上で落ち着いた靴音が生み出される。それらは煙草の煙と同じく、生み出した者の気を引く事なく大気の中に消え去った。
普段であれば彼の左斜め前に立つイルサーシャであったが、メツァールントの外壁付近に辿り着く頃には横に並んで歩んでいた。その足取りは明らかに重い。
剣霊に疲労は無縁、とはいかないまでも、その有り様を晒す事は稀と言えた。しかしイルサーシャの今の面持ちが誰の目からしてもその様に映る。理由は聴覚を封じ込まれたからに他ならない。左右の耳孔に詰められたコーヒーに浸した黒パンの欠片が時間の経過と共に、冬の乾燥した大気の影響で徐々に水分を失い、もとの形に戻ろうと膨張する。まるで端から存在していたかの様にイルサーシャの耳孔を塞ぎつつあった。
聴覚に支障をきたした影響により周囲の状況判断が鈍化したのか。或いは平衡感覚に異常が生じたのだろうか。彼女の足取りもそうだが、両肩から先がだるそうに、ただぶら下がっている様子が窺えた。
「おい、少しゆっくり歩け。」
ユストは返事をしない。本当に少しで良いのだろうか、それにしても普段よりも大きな声量だな、と思いつつ煙草の煙を変わらずにくゆらせていた。
「そなたの妙な案に我は異論を唱えず抵抗すらせずに粛々と従っているのだ。」
だからどうした、とユストは一瞥をくれる。
「肌であらゆる変化を察しようとも耳が駄目なら目で追うしかない。そうなると目に意識を持っていかれて自ずと足取りが緩やかになる。だからそなたも歩く速度を緩めろ。」
なるほど、彼女なりの警戒心の結果だと主張しているのであろう。己の役割を全うしようという誠意なのか、単に慣れない状況を可能な限り己の負担を軽減させたいのか、普段よりも事細かに説明してくれる。
実のところ、ユスト自身としても些かやりすぎた感が芽生えてもいた。彼は己の剣霊に見せる訳でもなく、独り頷くと彼女の言葉に従った。その証拠に靴音の間隔が先程よりも緩やかになっている。
道を進むにつれて石畳の表面は使い込まれて掠れに掠れてはいるものの、その上を行きかう往来の数が徐々に減りつつあった。人間の手が加えられた道の上から誰も歩いていない景色になるまで、そう時間を要さないであろう。その先はメツァールント市街地の正門手前の検問所がある。
検問所を任された者は軍属である。リストメクの出来事について当事者たちから聞かされ、時を同じくして内政を任された者たちが総出で出迎えたのは剣霊協会を統べる人物ときた。つまり剣霊使いがこのメツァールントに滞在している、と既に彼らは把握していると捉えるべきか。
過去の素性はどうあれ、剣霊使いは常人にとっては薄気味の悪い存在と広く知れ渡っていた。剣霊に見初められ、人知を超えた剣術を会得した代償として一生を剣霊の為に尽くさなければならない。求められるがままに己の血を与え続け、時には女としての充足感を覚えさせ続けるうちに人間としての情を失い、殺戮に躊躇を感じなくなる。その様な風評の対象者に誰が好意的な態度を見せるのか。
今回も剣霊協会発行による剣霊使いたる免状を見せれば何の咎めもなく検問所を通過出来るであろう。むしろ剣霊然としたイルサーシャの姿を見ればその様な手間は省ける可能性が極めて高い。
鳥のさえずりすら聞こえず、風が吹こうと揺れる草木そのものが見当たらない視界に正門が姿を現した。どの市街地に於いても正門とは鋼鉄製であれ木製であれ、月並みな表現ではあるが、厳かなものである。所属する国家の法に庇護された世界とそれ以外を隔てている実質的な存在と断言出来よう。その前を片手よりも明らかに多い数の兵が職務を全うしていた。
ユストは歩みを止めずに眉間の皺を深くさせた。想像していたよりも数が若干多い。そして騒がしい。すかさずイルサーシャがユストのコートの袖を掴んだ。恐怖や不安を感じた女が頼れる男にすがる行動に酷似しているが、この二人の場合は異なる。涼やかな目許の剣霊が契約者に指示を仰がんとするそれであった。
(数は判るか?)
(見えるだけで八、更に屋内に三だ。)
(やっこさんたち、何があった?少々騒がしい様子だが。)
(さぁな。これがなければ多少の会話も聴き取れたのだがな。)
イルサーシャはユストの腕を掴んでいない側の手で己の耳を指差す。汚れを知らないか細い人差し指は戦いを前にした刃の如く物静かであり、妖しげな雰囲気を纏っていた。
(理由はともかく、動揺している隙につけ込んで外に出るとしようか。)
(そうだな。我としても無益な殺生は気が引ける。)
ある程度の距離、ここでは障害物とは無縁の景色の中で人間が目視にて確認できる距離と表現するべきであろう。イルサーシャが掴んでいるユストの袖を掴み直した。その眼差しは普段と変わらず冷たく険しさを備えてはいるものの、疑問を色を差していた。
(彼らは動揺しているどころか、狼狽していると我には見えるが。)
(狼狽?)
(あぁ。各々の気力が委縮して呼吸が荒い様子が窺える。おそらく鼓動も暴れに暴れ、我たちを見たら腰を抜かす者もいるかもしれ んな。)
無論、こちらから見えればあちらも同じ、と捉えるべきである。ユストに返事はおろか、次なる指示を考えさせる間を与えずに検問所の兵士の一人が駆け寄った。こちらが行動を起こす前に見つかってしまったか。軽く舌打ちを打つと共にイルサーシャがユストの前面に立つ。
まるで藁にもすがる様な勢いを思わせる駆け寄り様にユストとイルサーシャのそれぞれはある懸念を抱かずにはいられなかった。加えて、その答え合わせをする必要はないとも理解していた。
「あんたは剣霊使いだな?」
両手を膝に当て、息を切らしながらそう発する者をこれまでどれくらい目の当たりにしただろうか。助けを求める姿と雰囲気は兵士であろうと一般の市民であろうと、男女関係なしに同じである。
「いかにも我は剣霊だが。」
剣霊の血が通っていない声に初めのうちは誰もが背筋が凍る思いをする。検問所の兵士も例外に漏れず、上下に揺らしていた肩をぴたりと止めて恐る恐る顔を上げた。人間ではない存在に遅れをとるまいと唸る様に鼻から息を出す。見下ろす眼光は鋭くとも丹念に磨き上げられた彫刻を彷彿させる女の容貌を間近で見る者は死の覚悟と淡い憧憬を同時に覚える。その様な表情を前にイルサーシャが再び口を開いた。
「そなたら軍属の者であろうとも我と我の契約者を頼らんとするのは些かならずな内容であろうな。」
救いの手を差し伸べているのか侮辱をぶつけているのか判らない。時が流れるのを止め、同時に大気の流れも消え失せたかの様に重々しい雰囲気の中、検問所の兵士は見上げる眼差しを細くするしか出来ない。
「何があったのか、手短に語れ。」
検問所の兵士は喉仏を上下に動かした後にイルサーシャの言葉に従った。
彼が言うには邪剣霊が出現したらしい。三十分ほど前に外壁の向こう側にて避難生活を強いられているリストメクの住民たちの前に、である。
「なるほどな。」
イルサーシャの返事も手短であった。そこに至る以前に彼女が検問所の兵士の腰を一瞥した結果でもある。
鞘は有ろうとも納まるべき剣は存在していない。理由は簡単だ。邪剣霊ルケリヤの仕業であろう。彼らの狼狽を植え付けたのも他ならぬ彼女によるものと見て間違いない、とユストとイルサーシャは言葉を交わさず、頷いて見せる事なく、互いにそう捉えていた。
「様子を見てこよう。そなた達は上に報告するなり、腰の物を新調するなり好きにしろ。」
ついと一歩を踏み出したイルサーシャの腰にユストの手が添えられた。
「暫くしたらメイイェルの研師が我たちを追ってこの場を通過を願い出る。その際、妨げになるような事は遠慮して頂こう。」
腰に添えられた手の先がとんとんと二回打つ。まるで言葉を選んでいるかの様な仕草の後にイルサーシャが言葉を続けた。
「暴力を履行せずに秩序と規律を守るのがそなたらの役目と思っている。無駄に命を落とすものではない。荒事は我たちに任せておけ。」
剣霊の鋭い眼差しに情の欠片を見出そうとするのは愚かな願望と言えた。また、剣霊の意図にただただ従うしかないのか、などと疑問を抱く時間と余裕も持ち合わせている者がどれだけいようか。だが、目の前の剣霊の言葉を咀嚼すれば、大衆の思惑とは必ずしも合致していない、と疑問が芽生える。
その気付きの刹那と共に剣霊使いが脚を動かせば、ほんの僅かな遅れで剣霊もその動作に倣う。
検問所の兵士は両腕を垂らしたままだった。他の者も通り過ぎる剣霊とその使い手に畏怖の一瞥を与える。黒いコートの裾が風に靡き、白銀の長い髪が緩やかに躍る。進まんとする道を遮る者はいない。
彼らの前にそびえる鋼鉄製の門は固く冷たく、なによりも乾いた色彩の世界を作り出している。冬の空よりも重々しく、無情を思わずにいられない。
鳥の囀りが耳に届く。何という名の鳥なのか、どの方角から届いているのかは判らない。ただ、ユストは幼少期から幾度となくこの囀りを耳にしていた。祖国に戻ってきたと細やかながらにも実感させてくれる。
これまでの雑踏の一部であった時間とその空間、その心境をを忘れさせてくれる瞬間でもある。ただ、それと同時に敗北という名の死への手招きを甘受しなければならない場面に遭遇する確率が飛躍的に増したと自覚する機会でもある。
空は相変わらず分厚い暗い雲に覆われていた。外壁の内側であろうと外側であろうと同じなのは言うまでもない。異なるのは流れる空気の匂いと感触か。雑踏とは無縁の、人間の生活を思わせない清々しさ。肌を刺すには程遠いものの、爽やかな気分にさせる事はないであろう乾いた風がユストの剣士たる頬をいたずらに撫でる。そしてイルサーシャの白銀の長い髪を何かに誘い出しているかの様に掬う。
リストメクの住人たちに仮住まいを許可された区域に二人は足を踏み入れた。躊躇いなどない。乳白色のテントが連なる中、普段と変わらずの歩調と共に目的地を目指す。赤心の剣霊ルケリヤの許である。
恐怖という湖の中心に唐突と浮かび上がった嫌悪。その様なリストメクの住人たちの眼差しを常人であれば一歩進む度に浴びては心の襞に突き刺さる様な思いをさせられる。しかし剣霊とその契約者は既に慣れているか、もしくは麻痺しているのか、一片の感情の起伏すら表情に刻まずに前へ進む。
メツァールントの正門から最も離れた外壁の地点でイルサーシャが脚を止めた。いや、ユストが先に止めたのか。そこが何であるか知る者と肌で察知した者の違いではあるものの、ほぼ同時にぴたりと動きを止めた。
粗末な即席の簡易ベッドに一振りの剣霊が横臥していた。虚ろな柴色の双眸は天を仰ぎ、脱力した両腕の先は覆う毛布からでも判る引き締まった腹の上で組まれていた。
いびつな先端の短い髪が赤心の剣霊の今の姿と認めた時、ユストはやり場のない視線をあらぬ方向へ投げた。初めて見る姿ではないが、痛々しい様相を正視するのは気が引ける。その傍らでイルサーシャは訝し気に首を捻った。
「今日はどの様な御用で?」
覇気とは無縁の囁く響きの後にルケリヤの柴色の瞳が予期せぬ訪問客を視界に入れようと動いた。無論、剣霊たる彼女にしてみれば一組の剣霊とその使い手の来訪を既に肌で感じ取っていた可能性は十分に考えられる。故に力無い声であろうとも、その意志は頑ななものが伺えた。
流麗な目尻に向けて動いた柴色の瞳に振り絞りんばかりの力が漲り、膨張した殺気が爆発する。
瞬きをする時間よりも短い出来事であった。
腹の上で組まれていたであろうルケリヤの手が水平に伸び、イルサーシャの大腿部を薙ぐ。しかし同じく左の虎口でイルサーシャはルケリヤの手首を押さえ込んでいた。
「我と同じ種の剣か。ならば斬撃の軌跡が読めなくもない。」
見下ろす緑色の瞳に感情は込められていなかった。なによりも涼しく、鋭利な刃を思わせる一歩手前の眼差しと共にイルサーシャは言葉を続けた。
「それにしてもたいそうなご挨拶だな。」
金属同士が競り合う鈍い音は静寂を汚そうとしない。競り合いとなれば姿勢、体調共に明らかにイルサーシャに分がある。
「力で我を屈させようとも、あの邪剣霊と組んだら最後。マナエグナの巫女の悲痛な顔がいとも容易く想像出来ようというもの。」
イルサーシャは涼しげな目許をそのままに答えようとしない。ルケリヤの言葉が聞こえていないのは確かであろう。
「我にとってマナエグナの巫女が苦悶の境地に立たされる姿を見届けて、我の契約者と実の兄がいる次なる世界に旅立てると思えば何も思い残す事はありません。あなたのその粗暴な性格で邪剣霊ルケリヤとどこまで刃を交わせるか見物ですね。」
思いつく限りの悪態を吐くルケリヤではあるが、その語気は弱い。厳冬の北風が頬を掠めるよりも春先のそよ風が髪を撫でる様な勢いと言えようか。
イルサーシャは五指の力を緩めた。ルケリヤにとって五百余年前の人間であった頃の思いが僅かながらにも織り込まれていた渾身の手刀は既にその名残が見当たらない。だらりと力なく放り投げられたルケリヤの腕が時計の振り子の如き動きが止まるのを見届けた後にイルサーシャはユストにとって想定外の行動をとった。その際にルケリヤが怪訝な面持ちを晒していた事をユストは気付いていなかった。
左に顔を倒し、そちら側の耳からぶら下がる黒蛇のピアスを外す。続けて同じ様に右側も外した。
「さて…。」
イルサーシャはそう嘯くなり左側を自身とルケリヤの間に、右側をユストの頭上に向けて、硬貨を親指に乗せて弾く様な動作をそれぞれに行った。
音もなく空気が重くなる。まるで押しつぶされると錯覚するほどである。何をしたのか、とユストはイルサーシャに向けて一歩踏み出そうとしたが出来なかった。脚が動かない。正確には動かせられない。腕も然り、顔も言わずもがなである。
強力無比な何かによって動きを封じ込められた。イルサーシャの従者に身体を巻き付かれてしまったと捉えるべきであろう。そうとなれば抵抗しても無駄骨に終わるだけであるとユストは重々承知していた。
先程まで何気なく届いていた鳥の囀りや風の音が聞こえなくなり、肌で感じ取れていた冬の乾燥した空気が鈍化した味気ないものに変わっていた。視界も奪われている。身体を動かせられず、五感の幾つかの機能を奪われたとなれば思考が否応にも鋭くなる。
イルサーシャが彼女の従者に指示を与える場合、必ず言葉に出す。念じるよりも言葉に乗せれば意思の伝達が格段に向上すると聞いている。しかし今回は違った。事前に念じた、とも考えられるが、気難し屋という言葉が何処の誰よりも当て嵌まる彼女の従者たちが素直に従うとは思えない。つまりこれは本来の指示を間違った解釈の結果なのだろうか、とユストは勘繰るしか結論が見い出せなかった。
おい、とユストは音なき声で彼女の従者に語り掛ける。体に触れているのであれば聞こえる筈である。だが返事はない。君の主がこうしろと命じたのか、と続ける。身体の締め付けが更に強くなったのは気のせいか。
息苦しさが頂点に達すると共にユストは見開いていた双眸を無念さながらに閉じ、抗いを試みていた全身を脱力させた。
左右の従者を放り投げた後のイルサーシャは腕を組んでいた。視線で周囲の状況を確認した彼女は満足げな微笑を浮かべ、ルケリヤの顔を再び高い位置から見下ろしている。
対するルケリヤは身の危険を察したのか、身を捩じって双方の距離に開きを与えた。
「おや、先程の気丈な様はどうした?」
イルサーシャは微笑の度合いを強くする。手負いの獲物を追い詰める優越感よりも単なる不気味さが滲み出ている。ルケリヤを含め、目の当たりにした誰もがその様に思い込んでしまう程の微笑であった。
「あなたは誰?」
「さて?」
わざとらしくイルサーシャはゆっくりと言葉を発しては丸過ぎず尖り過ぎずの整った顎を上にした。彼女の腰よりも下にある白銀の長い髪の先端は音を奏でる事なく、大地に向けて更に伸びる。
「空気の流れが止むと同時にマナエグナの巫女、あなたがあなたではなくなった。」
「さてさて。思い過ごしだろうに。」
「あなたは誰?」
同じ質問をぶつけるとは求めていた回答ではないと暗に語っている。その様に気付いたのか、イルサーシャは僅かに眉根を寄せた。
「誰がどう見てもマナエグナの巫女に変わりないが?」
ルケリヤの柴色の瞳がイルサーシャを見据える。数秒後に彼女は頭を僅かに揺らした。
「雰囲気がまるで違う。」
「どのように?」
「これまでの剣霊特有の冷徹な雰囲気が全く感じられなくなった。代わりに底なしの沼に引き摺り込まれそうな錯覚を感じました。明らかに人格が、いや中身が変わったとしか思えない。あなたは誰なの?」
「なるほどな、流石は剣霊だけの事はある。死に体であっても洞察力は人間のそれ以上働くか。」
「死に体とは…言ってくれる!」
感情任せの平手打ちが女の様相の一つであるか細い肩へ飛ぶ。はらりと避けたイルサーシャの白銀の長い髪の一部をルケリヤの指先が掠めた。耳に心地好いとは言いきれない調べがひっそりと短く響く。
「うん、惜しい。もう少し腕が伸びていたら此方の悲鳴が聞けたぞ?」
「マナエグナの巫女の無様な姿を見届けられようものなら…」
「ほぉ、見られようものなら?」
意地悪な表情を満面に浮かべたイルサーシャがルケリヤに向けて顔を突き出した。
「我はまだ事切れる訳にはいかない!」
苦し紛れの一閃が再びイルサーシャを狙う。今度は顔である。よけるなりはね退けるなり、イルサーシャにしてみれば容易であったが、彼女はあえて抗わなかった。無き力を振り絞った手刀の端である華奢な小指の脇が磨き込まれた彫刻を思わせる剣霊然とした頬を打つ。物質同士が競り合う鈍い叫びと共にルケリヤは苦痛の相を晒した。
「汝の身は痛いか。汝の内側は苦しいか。異教の剣霊。」
さも当然の結果と言わんばかりのイルサーシャから微笑は消えていた。
「代々のマナエグナの巫女の血を啜り続けたこの刃が、どの様な謂れを持つのか知れぬ上に刀身の大半を失った鉄の塊如きに穿たれるものか。むしろ逆だ。剥き出しの素地を通して全身に激痛が走る。そうであろう?」
ルケリヤの反応を待たずにイルサーシャは渾身の一撃の末路を人差し指で弾く様に退け、一歩踏み出した。
勝者の見下ろすその容貌に敗者は何を感じたのか。今度こそ本当の最期を迎合させられてしまうのか。或いは何かしらの救いの手を差し伸べられるのか。いや、後者はありえない。相手は中身がどうであろうともその姿は無慈悲で冷酷な剣霊である。それは剣霊として他を凌駕する為の真理でもある。残る体力を振り絞るルケリヤは毅然とした柴色の瞳でイルサーシャの顔を正視するしか出来なかった。
「空気の流れが止んだ、と言ったな、異教の剣霊よ。いかにもその通り。」
謎掛けのつもりだろうか。今度はルケリヤが首を傾げる番であったが、彼女は眉間にうっすらと皺を浮かばせたのみで応えた。
「ここは此方の一部の口蓋の内側だ。解るか?」
ルケリヤは答えない。真っ直ぐな視線はそのままである。
「つまり異教の剣霊、汝と此方だけの空間だと言えば理解して貰えるだろうか。」
難解な内容を付け加えられた。普段の如く得意気ではなく平然と語るイルサーシャに向けてルケリヤは眉間の皺をそのままに口を開いた。
「あなたが先程投げた蛇の形をしたピアスが口を広げた、とでも?」
「あぁ。あれは扱いに難儀しているようだが、此方にとっては従順な奴らでな。」
「我とあなただけ、と言いましたが…。」
引き摺る様な言葉に違わず、ルケリヤの柴色の瞳は疑惑の色を差していた。
「あなたの契約者、ユスト・バレンタインはすぐそこに…。」
「異教の男は別の此方の一部の口蓋の中に閉じ込めた。」
ルケリヤを見下ろす顔に僅かな傾きを与えてイルサーシャは言葉を続けた。
「ただ向こうは口を閉じて身動きできない様にして目隠しをしろ、とも指示してな。」
「ようするに彼に見られたり聞かれたりでもしたら都合が悪いとでも?」
「異教の剣霊よ、そこまで理解している汝はなかなか聡明だ。此方と汝だけの空間だという事が呑み込めたか。」
イルサーシャは左右の横髪を素早く耳に掛けた。飾り気のない彼女の耳朶に違和感を覚える者は皆無であった。
「盗み聞きをしていた訳ではないが、汝は此方の可愛い巫女と同じ時代を生きたそうだな。あの頃の汝はその聡明さを持ち合わせて何をしていた?」
今度は顔に傾きを与えずにイルサーシャはルケリヤを見据えている。己の過去を躊躇いもなく明かす様な仲ではないが、ルケリヤは溜め息を漏らす様な仕草を見せた後に口を開いた。
「マナエグナの民を…憎んでいました。そう、我が剣霊になるまでずっと。」
「何故に憎んだ?」
「我の愛する兄を、手の届かない遠い所へ誘ってしまいました。」
臆せずに心の襞に触れんばかりの内容を口にするルケリヤに対し、そうであったな、とイルサーシャは短い嘯きと共に身を翻した。時の流れを止めた空間の中で百年香の爽やかな匂いが仄かに舞う。無論、普段は共に揺れる非対称の黒蛇のピアスは存在していなかった。
「男とは旅をせずにはいられない生き物だ。それが肉体による旅であれ精神による旅であれ、汝の許が帰する場所ではなかったという事だ。血を分けた兄と妹であれば尚更の事であろう。」
「それでも我は兄に抱き締められるその時を夢見ては待ち続け、渇望しては心身が締め付けられる思いと共に日々を過ごさなければならなかった。」
ルケリヤは上半身を起こし、心の最奥を吐露した女の表情を晒していた。
「確か…イルダ、であったな。汝の憧憬を奪ったのは。」
ルケリヤの柴色の瞳に気力が漲った。兄が見初めたマナエグナの民の名を目の前の剣霊は知っていて当然と言わんばかりに、ぽろりと零したからに他ならない。その行き着く先は激昂。三度目の斬撃にイルサーシャは無抵抗であった。強いて言えば、身体の角度に変化を与えた程度と言えよう。
「何故…あなたが何故、その名を知っている?」
「まぁ、汝らの言うところの巫女様だから、かな。」
「ふざけるのも大概に…」
「いいや、此方は至って真面目だが?」
挑発の色を見え隠れさせている微笑はルケリヤの闘志に火を点けた。四度目は刺突であった。彼女の状態からしてイルサーシャのそれには及ばないが、剣霊の一撃に変わりない。しかし感情任せで目測を誤ったのか、絶妙な域で回避したのか、イルサーシャの鎖骨辺りの肌が窪み、元ある形に戻る。
「異教の剣霊よ、汝にとって好い機会だ。どうせなら力尽きるまで此方に打ち込んでみるか?」
妙案めいた口ぶりと共にイルサーシャはルケリヤの反応を待たずに己の背中に手を廻した。二本の指が琥珀のボタンを次々と器用に外す。
もし、彼女の行動をユストが眺めていたならば、彼は感心の眼差しを送るか、疑問の視線を投げ掛けていたであろう。普段のイルサーシャは背中のボタンを刃と化した人差し指一本を使って全て飛ばすからだ。外すという行為はしない。無論、その様な事情をルケリヤが知る由もない。イルサーシャを語る存在自身も微塵にすら気に掛けていなかったと言えよう。
「さぁ、此方は手出しもせんし、抗いもしない。」
イルサーシャは婦女の恥じらいを見せずに堂々と裸体を晒している。絶妙な曲線で形成された腰のくびれに手を当てて彼女は言葉を続けた。
「あとは汝の気力体力次第だ。好きに打ち込んでくるがいい。」
「まさかそれで罪滅ぼしとでも思っているのであれば…。」
「罪?罪か。此方には無縁の概念であり言葉だな。」
斬れないと判りつつ、こちらの意図通りに打たれる。金属と金属が、刀身と刀身のぶつかり合いに耳をつんざく様な鋭い摩擦音は生じない。ただ鈍く、気が滅入るほどの重い衝撃音が二人を包み込まんとしている。
打たれる側は結んだ口の両端を満足気に持ち上げ、打ち込む側は限りある力の全てを絞り出さんと食い縛る歯がすり潰れると思わせる程の様相を惜しみなく晒す。
白銀の長い髪が躍動感と共にしなやかに舞いに舞い、荒んだ柴色の歪な長さの髪が勢いに任せて、重力という自然の摂理に従いながらも暴れる。
そろそろか、とイルサーシャは呟いた。彼女が纏う衣服を脱ぎ捨ててから一時間が経過するかと思われる頃である。するりと伸びた右の人差し指の先端がルケリヤの額の中央を捉える。多少の誤差という思惑の追随を許さないほどに正確に一点を示していた。軽く弾く。比較的に高い響きがこの場で初めて奏でられた。ルケリヤは呆然とした面持ちと共に仰け反り、膝から落ちた。
「汝の身は苦痛に苛まれているままに変わりないが、その内側はつかえが些か取れたであろう?」
流麗な目尻に趣きを与えたイルサーシャの足許には剣体へ戻ったルケリヤが横たわっていた。
「汝のおかげでマナエグナの象徴たるこの星雫の刃も元ある姿を取り戻せた。」
イルサーシャは腰を折った。ルケリヤを拾い上げる為である。柄を握り締めるなり胸許まで持ち上げ、数回手首を返す。刀剣の品定めの様な仕種の中でイルサーシャは呟いた。
「身は更に削れたが、いびつさの度合いは少なくなったか。多少の体裁は整えられた、という具合だな。」
更に一回手首を返した後に見飽きたと言わんばかりにイルサーシャは手にしているルケリヤを簡易ベッドに向けておもむろに投げた。そしてその隣に腰を降ろす。腰より下にある白銀の長い髪の先端が自然なたわみを作り出し、白地に走る黒の幾何学模様が表情豊かな歪みを見せた。
「もういいぞ。」
先程までルケリヤの柄を握っていた手を広げて空へ向ける。どこからともなく一対の黒蛇のピアスが降ってきてはその中に納まった。ふんと鼻を鳴らしたかと思えば黒蛇のピアスをあるべき場所へ着ける。首を左側へ傾け、続いて右側へ倒す。まるで外出の際の身支度を思わせる様子である。
「本当は右からが先?知らんよ、そんな事。」
ぶら下がる黒蛇のピアスを不機嫌そうに親指で弾く。必要以上に揺れようとも彼らの睥睨が動揺を見せることはない。
「さて、お膳立ては整え終えたぞ、異教の男よ。」
イルサーシャから僅かに離れた場所ではユストがうつ伏せに倒れ込んでいる。
「あれの耳を塞ぐのはなかなか妙案であった。だがマナエグナの想念たる此方からすれば小細工にも及ばん。」
イルサーシャのか細い指先が己の耳に詰め込まれた黒パンの欠片をほじくり出す。粉末状と化した黒パンの成れ果ては誰の気を留める事なく簡易ベッドの上に、冷たい大地に零れ落ちた。
ユストは未だに意識を取り戻していない。彼に向けた細めた眼差しに愛情は湛えられていなかった。だが憎しみも滲んでいない。
髪の先端が顔に触れた。
明らかに女のそれである。だが、イルサーシャのものではない。百年香の爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる様子は皆無であったからだ。その代わりではないが、剣霊には無縁の生温い吐息が頬を撫でる。命を奪う者に男なのか女であるのかは無関係と言える。身の危険を肌で読み取ったユストは脱力していた右手を伸ばした。刮目と同時に相手の喉許へ目掛けてである。
左右に束ねた砂色の髪が苦しげに踊る。メアリー・メイイェルは咳き込んだ。
しまった、という感情がユストの中で溢れ返っていた。一つは目の前の状況について。そしてもう一つは目の前の状況に至るまでの出来事について。
年頃の女特有の柔らかな喉許を掴む剣士の虎口から力が消え失せる。すまない、と唇が動こうともメアリー・メイイェルはユストの後悔の念を受け止める余裕はない。彼女は自らの手で喉許を大事そうに押さえながら再び咳き込むと剣霊に劣らんばかりの眼差しでユストを睨んだ。
「あたいが何をしたって言うのさ?」
さも苦しそうな枯れた声色のままメアリー・メイイェルが口を動かす。
「イルサーシャとルケリヤを剣体のままにして倒れているから、まさかと思って息をしているのか確認しようとしただけじゃないか。」
彼女の言葉は尤もかもしれない。ベッドがあるにも関わらず、冷たい大地の上で無造作に横たわっていた現状をユストは身を起こした際に初めて理解していた。何故、という疑問に苛む。イルサーシャに向けてルケリヤが一撃を繰り出したのは覚えているが、その先が思い出せない。思い出そうとすると、まるで脳が汗をかいている様な感覚を覚える。えも言われぬ面持ちのユストを見かねたのか、メアリー・メイイェルが己の喉を労わる様に五指で押さえながら口を動かす。
「何があったのか知らないけど、イルサーシャはともかく、ルケリヤまで剣体のままと言うのは…余程の事だろうね?」
ユストはメアリー・メイイェルを見据えたままゆっくりと頭を振って見せた。記憶の糸を手繰り寄せようとも、やはりルケリヤの一撃の先からが解らない。思い出そうとしても眉間に寄る皺が深くなるだけである。
「まさかとは思うけど、ふたりは殴り合いの喧嘩をしたのかも?」
自らが至上と謳う者同士が顔を突合せたのだから、否定は出来ない。しかしユストの難しい面持ちを和らげるには至らなかった。
「それを黙って眺めていた、という訳でもなさそうだけど…?」
暇にしている口が煙草を咥え、マッチのする音が二人と二振りの間を縫う様にひっそりと響く。鼻から漏れた煙が大気の一部に混ざり合うまで要する時間は普段と何ら変わらない。記憶と今ある状況の二つが変則的であり、それ以外は何ら変わっていないと言えるのか。
メアリー・メイイェルは視線をユストから別へ向けた。僅かに遅れてユストも追う。ベッドの上に鍔無しの直剣が無造作に転がり、柄に絡みつく二匹の黒蛇がユストとメアリー・メイイェルに冷たい睥睨を撒き散らしていた。その横ではルケリヤの剣体が毛布に覆われているのであろう。それらしき隆起をユストは認めていた。研師であるメアリー・メイイェルは例外として、契約者ではないユストに剣体を晒す事の無いように配慮した結果と思われる。
「手に取ってみなよ。あたいの言った事が少し解かるかもしれないから。」
メアリー・メイイェルの言葉に従い、ユストは己の剣霊の剣体に左手を伸ばした。握り具合に変化は感じられない。重量も以前のままである。ただ刃の輝きが以前と比べて澄んでいた。薄暗い冬の空の下でも明確に判る。
「実はルケリヤの剣体も折れたままは変わらないけど、それ以外は磨きに磨いた様に冴え渡っているんだ。こんな出来栄えはメイイェルの研師と言われるあたいでもそう簡単には、いやむしろ出来ないとはっきりと判るよ。じゃあ誰が行ったのさ?ユスト・バレンタイン、あんたがあたいを真似て手入れをしたとは考えられない。そもそも、あの頑固なルケリヤはそう簡単に首を縦に振らないだろうし、剣体を晒す行為を甘んじるとは到底思えない。」
深い溜め息が漏れた。メアリー・メイイェルによるものである。想定外の出来事であると共に、これまで己が一心不乱に会得した研師としての技術を否定されたと、それは遠回しに表現していた。
「折角だから、ちょっとさ…。」
メアリー・メイイェルはユストの横に座り、数秒の間を置いてにじり寄った。
「肩貸してよ?」
ユストに可否の時間を与える間もなく、メアリー・メイイェルが今は呆然としている剣士の肩に寂しげな横顔をもたれ掛けさせる。片方は想像よりも温かいと知り、もう片方は見た目よりも硬いと感じていた。そしてその間に熱い湿り気が混ざる。押し殺した嗚咽が耳に届く。この肩はメアリー・メイイェルにとって安堵を与える場所ではないが、一時だけならばいた仕方ない、とユストは思った。まだ吸える煙草を揉み消したのはその心遣いを具現したものだろう。
もたれ掛けた横顔が脱力し、体を支えようと研師としてではなく、女の手が剣士の太腿に添えられた。
「こういう時、普通の男ならさ、何かしら優しい言葉を掛けてくれるけど…。」
双眸を潤わせ、幾ばくかのあざとさを滲ませた上目遣いをするメアリー・メイイェルが捉えたのは顔を背けたユストであった。
「今のあんたじゃ、それも出来なかったんだね。」
返事をする素振りすら見せない。代わりに太腿に置いた手を払い落とされた。研師は女を演じたが、剣士は男を演じるつもりはさらさらないとあしらわれてしまった。
変に真面目で、つれない男だと思った。それほど剣霊が良いのか、剣霊が怖いのか。妬けるという感情がメアリー・メイイェルの心を占めきらんとする中、ユストの左手がすうっと目の前に差し出された。
なんの真似なの、と眼差しで疑問を投げ、ユストを覗き込む。背けた顔のから僅かに見える唇の端が音なき声を発していた。
温めてくれ、と短い言葉の為に唇が動いていた。
今更気が変わったのか、とメアリー・メイイェルは歓喜の表情を隠しつつ訝しむ。背けていた顔が元に戻り、メアリー・メイイェルの孤独な肩に右手が置かれた。
数時間後に愚生は邪剣霊と対峙しなければならない。だからこの左手を温めてくれ、と中央の綴りそのままの発音をメアリー・メイイェルは無音の唇から読み取った。
その理由は理解している。冷えた手では剣を握れない。焚いた火にかざしても表面だけが異様に温まり、奥底たる芯には届かない。やはり人肌で時間を掛けて温めたいのであろう。男である己よりも体温が高い女の両手に包み込まれ、時間が許す限り温める。剣士の生死を分かつ要素の一つでもある。
「解った。いいよ。」
メアリー・メイイェルは差し出された左手が嵌めている仔鹿の手袋を外し、ユストが望む様にした。感謝の言葉は無論のこと、素振りすら見せない。ただ、鼻から無音の溜め息を漏らしていたのをメアリー・メイイェルは見逃していなかった。筋の通った男らしい鼻の両端が僅かに膨らんで元に戻る。それだけで充分だと思い、包む両手をもぞもぞと動かしてはユストを真似て小鼻を膨らませた。
鍔なしの直剣に絡み付いている黒蛇たちの眼光がいやに気になる。造形物だと判っていようともである。心の内側を見透かす眼差しから逃れたい。メアリー・メイイェルは本能の赴くままに視線を斜め上に投げた。
星の瞬きを感じられない夜は始ったばかりである。




