苦肉の策
メツァールント市街地の往来が先日と比べて少々賑やかになったのは気のせいではなかろう。
何気なく歩いていれば誰かしらと肩が触れた。かたじけない、と革の帽子を軽く浮かせては口許の不精髭がわさわさと動くのを感じつつ笑顔を作る。午後を迎えて既に五回も同じ動作を繰り返したとグスタフ・ヴェネシュは指折り数えていた。
先日の降雪の影響で足許が大まかに白と茶と黒の三色で彩られている。朝から歩きっぱなしだと己の行動に気付いたグスタフ・ヴェネシュは役目を終えたかがり火に片肘を乗せて楽な姿勢を摂った。
往来が増えた要因は直ぐに判明した。街道封鎖を解除したからに他ならない。恐らく中央行政府としては他国に対する面目を保つ為と考えるべきか。通常とは異なる行動が些細な混乱を生み、その混乱が独り歩きして広く遍く偏った印象を植え付けてしまう事はざらにある。
視点を少し変えてみる。エルスノアという存在が浮きあがる。剣霊協会を取り纏める筆頭であり、剣霊帝に唯一具申可能な人物と世間では評されている。その様な彼女がメツァールントの現状を眺めてどの様な心象を描くのか、この市街地を任された管理官たちは気になって仕方がないはずである。
ましてや先代の協会長の出生地であるメツァールントは祝福の地と言われ、数多から羨望の眼差しを受ける存在でもある。邪剣霊に対する脅威とは無縁でいられる祝福の地ではあるが、先代の死と共にその恩恵は解消されてしまうのだろうか。新たに先の見えない不安に苛まなければならないのであれば、それを阻止すべき手段を講じる。祝福の地としての期限の延長を諮る、というのが妥当であろうか。ただその見返りについては考えれば考える程、闇の中へ引きずり込まれそうになる。政治的な勘繰りという慣れない事をした為か、グスタフ・ヴェネシュは被る帽子をそのままに己の頭上を仰いだ。
そんな事よりも、と両手で己の頬を挟み込む様に叩く。気を引き締める為の一発ではないが、重い腰を上げるにはそれなりの意気込みが必要であった。
未だに放棄した荷馬車の代わりが見つかっていない。流石にそろそろ目星をつけておかないとエルスノアの小言を延々と聞かされる羽目に陥るのは明白である。さて、どう動くべきか。グスタフ・ヴェネシュは顎に右手を添え、不精髭の具合を確かめた。野性的な風貌と自らは思うものの、他からすれば野暮ったく思われているのは重々承知している。次に顎の肉を摘まむ。ここ数日の間で親しくなった剣霊使いが同じ様な仕種をしていたな、と気付いた。
ここはひとつ、暇を弄ばしているであろう男の意見に耳を傾けるのも悪くはない。剣の扱い、強いて言うなれば剣霊の扱いはお手のものであろうとも、運送に関してはいろはのいの字も知らないであろう。煮詰まった考えに対して素人特有の一石を投じてくれる意見の可能性を大いに期待したい。
幸いな事に昼食時でもある。メイイェルの研師の許にいるであろう彼を誘い出す口実にもなる。そうと決まれば後は行動するのみ。グスタフ・ヴェネシュはメアリー・メイイェルの幌馬車が停留している街外れへ足先を向けた。
それまで足止めを余儀なくされていた者たちが疲労困憊の中、列を成してぞろぞろと正門を潜る姿が目に映った。中にはメツァールントに立ち寄らず、目的地まで向かった者もいよう。それは如何ほどの数だろうか。少なくともグスタフ・ヴェネシュと同じ生業の者であれば、無駄にした時間を取り戻そうと試みるであろう。
「おぉ兄弟、やはりここにいたか。」
ユストの存在そのものよりも、己の勘が的中した喜びを表現しているかの様な笑みを見せながらグスタフ・ヴェネシュが近寄る。ユストはメアリー・メイイェルの幌馬車の支柱に背中を預け、普段と変わらずに煙草の煙をくゆらせていた。
「ちぃと昼飯に付き合えよ、兄弟。」
持ち前の大股で歩み寄るなり親指を横にしてあらぬ方向を示すグスタフ・ヴェネシュに対してユストの面持ちは難色を示した。
「つれないなぁ。こちとら色々と話を聞いて欲しかったのだが…。」
グスタフ・ヴェネシュが言葉に違わず眉尻を下げ、今度は咥え煙草のユストが親指を横にしてある一点を示した。背後のメアリー・メイイェルの幌馬車である。
「研師の嬢ちゃんの許可が必要だって言いたそうだな。」
そうだ、とゆっくり頷いたユストは鼻から煙を吐いた。
「大陸を闊歩する剣霊使いとて研師の嬢ちゃんの指示を仰がなければならんとは。協会長様が御覧に入れたらどんな顔をするか見ものだ。」
悪態をつくのもほどほどに、とユストは音なき苦笑を漏らし、そのまま唇を動かした。
「手入れの最中はここを離れる訳にはいかん、か。なるほど。そう言われては無理強いも出来んよ。」
眉尻を下げたままのグスタフ・ヴェネシュはユストの横に並び、幌馬車の車輪にもたれ掛かりながらしゃがみ込んだ。
「実は教会長様をお乗せする荷馬車を探しているのだか、これがてんで見つからなくてな。」
昼食を共にという口実で愚痴を零しに来たのか、と察したユストは短くなった煙草を地面に落とし、腕を組む。話の続きを聞こうではないか、と彼は顔を僅かに斜めに傾けた。
「まずは馬具を扱う店を訪れたよ。鞍だの鐙は言えば奥から出してくれるが、荷馬車となると受注生産だからな。設計図をこしらえて、調達した材木を切って、泥汚れや雨雪で痛まない様に塗装を施して、ようやく完成するには早く見積もっても一ヶ月半は掛かるそうだ。それじゃあ間に合わない。そこまでメツァールントで悠長にしていられる時間はない。出来合いの物がないのか聞いてみたが、そんなものを保管しておく場所がないとけんもほろろさ。」
そうだろうな、と言わんばかりの面持ちを晒したユストをグスタフ・ヴェネシュは横目で眺めていた。
「思い返すだけでも残念なだけに、口にすれば今度は苛立たしくなってくるものだな。折角だ兄弟、最後まで話に付き合って貰うよ。」
そう言い終えるとグスタフ・ヴェネシュのいかにも男らしい手がユストに向けて、ずいと伸びた。煙草をふかしながら話すつもりか。昨晩与えた物は全て嗜んでしまったのであろう。暇つぶしの駄賃代わりと思いつつユストは煙草を三本取り出し、差し出された手に握らせた。
「いやはや気の利く兄弟で。確かヒスローって銘柄だったかな。次は自分で買って恵んで貰った分はきちんと返すよ。協会長様には怒られるかもしれんがね。」
期待していないで待っている、とユストが音なき苦笑を零し、マッチを擦る音が耳殻を撫でた。昨晩煙草と共に与えたマッチはまだ残っていたようである。
果たして煙草の煙なのか冬の外気による白い息なのか、或いはその両方なのか、グスタフ・ヴェネシュはユストに相槌を打たせる間を与えずに話を続けた。
馬具屋の次に木工所に駆け込んだらしい。そこでも同じ様な対応をされ、終いには追い出されたとグスタフ・ヴェネシュは地団駄を踏んで見せた。どの様な生業であれ、生活の為に懸命に働いては報酬を得る。報酬を得る事によって自他ともに一流となる。その様な相手に設計図を用意する時間はないから適当にこさえてくれ、という安直な考えを思わず口走ってしまったグスタフ・ヴェネシュが悪いのではないか、と思いながらユストは次なる展開に耳を傾けた。
一から作成を依頼するのが絶望的と判断したグスタフ・ヴェネシュは次なる手段を思い付いた。現在使用している荷馬車を譲り受けるしかない。彼は体力が許す限りメツァールント市街地内を歩き、荷馬車の所有者に直談判した。
「どう見ても既に現役から引退しているじい様にお願いしても首を縦に振らんのだよ。例のリストメクの件が気になっていると言ってな。もしここも邪剣霊に襲われたら荷馬車なしに家財道具をどうやって持ち運ぶのか、なんて悠長な屁理屈をこねる。しかも相手は高齢で考えが凝り固まって聞く耳持たず、となっては誰とて空を仰ぎたくなるものさ。」
己が吐露した言葉に倣ってなのか、グスタフ・ヴェネシュは顔を上に向けて遠い目をした後に二本目の煙草の先端に火を灯した。彼が言うには直談判をした相手は五名。いずれも良い返事は得られず今に至るという。
北の玄関とも言われるメツァールント市街地は交易都市として認知されてはいるものの、その実態はたとえ隣接している北部と友好関係にあろうとも軍都の色合いが濃い。荷馬車の所有者の数は他の市街地より遥かに少ないと見るべきである。ユストは言うまでもなく、グスタフ・ヴェネシュ自身もその点を理解していた。つまり駄目で元々の精神で挑んだが結果が振るわなかった、と解するべきか。
「剣霊使いたる兄弟が荷馬車の持ち主を知っている訳ないよ、な…?」
一縷の望みを掛けた一瞥であった。申し訳ないが、という音なき言葉を発しながらユストは頭を横に振る。いや気にしないでくれ、と言いたげなグスタフ・ヴェネシュは愚問を零したと己に憫笑を与えた。
「さて、これからどうするかだ。協会長様の前で地面に額を擦り付けるしかないのかね…。」
既に聞かせる話から独り言に変化しつつあるグスタフ・ヴェネシュの声は抑揚を失い、弱々しい。
次なる言葉が見つからない二人の男の耳に幌馬車の一部がめくれる軽やかな音が割り込んだ。何かしらの用があって姿を現したメアリー・メイイェルはユストの名を口にしようとし、その横に佇む男を知るなり記憶の糸を手繰り寄せている様な表情を作った。
「確か、教会長様のお付きの…。」
「しがない運送屋だよ、研師の嬢ちゃん。」
「あたいはこう見えてもメイイェルの名と技を受け継いだ一人前の職人だ。嬢ちゃんは余計だよ。」
「そうだった。そう怒るなよ、お嬢さん。」
「んん、お嬢さんか。まぁ悪くない響きだね。」
語尾の違いだけで不機嫌極まりない表情に幾許か立ち入る隙が生まれる。グスタフ・ヴェネシュの歳の功か、若年たるメアリー・メイイェルの甘さか。静観の態を守っているユストを知るなりメアリー・メイイェルは本来の目的を思い出したのであろう。左右に束ねた砂色の髪の先端を揺らしながら依頼主に近付いた。
「出来たよ。」
短い言葉の中に膨大な時間と技巧、期待と不安が隙間なく詰まっている。頷いて応えるユストの雰囲気からグスタフ・ヴェネシュはその様に読み取っていた。
どうやらここから先は剣霊使いと研師だけが立ち入る事が可能な領域の話となるのであろう。部外者は早々に立ち去るべきとグスタフ・ヴェネシュは咳払いを一つ発して踵を返した。話す内容に行き詰っていた最中でもある。一方的に愚痴をこぼす非生産的な時間に終わりを告げなければならない。現実を直視するか、と一歩を踏み出す。少し寂し気な左肩にユストの鹿の手袋越しの右手が置かれた。
「すまなかったな兄弟、付き合わせてしまって。あとは自分でなんとかするさね。」
振り向かずにその様に答えたグスタフ・ヴェネシュの左肩に三本の指が食い込んだ。猛禽類の爪の如く深く抉り悲鳴を上げさせる、とはいかないものの、グスタフ・ヴェネシュに鼻息を強く漏らさせた。
如何なるつもりか、と振り返ったグスタフ・ヴェネシュの前でユストは唇を動かした。
「まだここにいろ、と?いや、でもなぁ。」
意を決した矢先にいきなり横槍が入ったとグスタフ・ヴェネシュの面持ちは語っていた。
「そう時間は取らせないし、決して損はさせない、か。」
掴んでいた右手から力が抜け、そうしろと促しているかの様に擦る。こうされては下手な勘繰りはするべきではないとグスタフ・ヴェネシュは思い込むしかない。
「今更ながら何が損得なのか自分には判らんが、兄弟がそこまで言うのなら従わせて貰うよ。」
ユストは右手を離した。その掌を広げてグスタフ・ヴェネシュに見せながらメアリー・メイイェルと共に幌馬車の中へ姿を消した。
のどかな冬の午後は再び訪れた。暇を弄ぶしか出来ないグスタフ・ヴェネシュはこうすれは時の経過が幾分早くなると良いのだが、と詮なき願望を添えながらユストを真似て幌馬車の柱に背を預けて腕を組んだ。
「剣霊使いの右手か。」
そう嘯きながら己の左肩に目をやる。あの広げた掌はすぐに戻るという仕草であった事をグスタフ・ヴェネシュは理解していた。そしてユストが諸手で掴まなかった理由がしこりとして残っている。ものは試しで組んだ腕をそのままに二の腕を三本の指で掴む。残りの二本も一緒に動く。やや浮かせた状態なら三本の指のみでも力を込められる。だが、あの時は咄嗟の出来事でもあったためか、しっかりと左肩に掌を密着させていた。
まさか残りの二本は失われているのか、と不確かな予測を立てるのとほぼ同じくして幌馬車の出入り口に再びユストが立っていた。先程と異なるのは横に己の剣霊を従えている。彼女が歩みを始めれば腰より下まである白銀の長い髪がしとやかに揺れ、それが生ある全てを切り裂く刃の象徴であろと知ろうともグスタフ・ヴェネシュの視線はその揺れ具合から離れずにいた。
「あぁ、確かそなたは…何故そこに立っている?」
イルサーシャは横髪を耳に掛けながら眠りから覚めたかの様子の声で語る。人間であろうと剣霊であろうと女とは自分に関心を抱かない存在なのだ、と一介の運送屋は肩を落とした。
「グスタフ・ヴェネシュだよ。そんなに難しい名前ではないのだけれどもね。兄弟にここに居ろと言われてな。」
「ふうん。…ほぉ、なるほど。」
さして気にも留めていなかった口ぶりのイルサーシャであったがユストの腕に手を添えると何かしらの合点がいったのか、血の気とは無縁の色をした唇の両端を僅かに持ち上げて納得した素振りを見せた。
「ユスト、そなたの言う通り好都合かもしれん。」
言葉を交わさずとも二人の間では会話が成り立つのかとグスタフ・ヴェネシュが疑問に思う暇を与えずにイルサーシャがついと身体を前に進める。流れる水の如く抵抗を知らずに、周囲を呑み込むかの様に滑らかな動きと共にイルサーシャはグスタフ・ヴェネシュの前に立っていた。
殺気を放っていなかろうとも剣霊を目の当たりにした者は周囲の空気が凍結したかの様な緊張感を覚える。剣霊の都と呼ばれるコノリギス出身のグスタフ・ヴェネシュとて例外ではない。
「早速だが試し斬りを行うぞ。」
グスタフ・ヴェネシュは己の耳を疑った。仄かに漂う百年香の爽やかな匂いが無情の言葉に彩りを添えている。拒もうにも受け入れざるをえない絶命に対する餞とも思えた。
「グスタフ・なんとかと言ったな。そなたは時間がないと我の契約者から聞いている。すぐに終わらせるから案ずる必要はない。」
汚れとは無縁の人差し指が伸び、革製の帽子の鍔を押し上げた。とくとその眼で見届けろと示唆しているのか。
試し斬りを行うと宣言した剣霊の後ろではその契約者が普段と変わらずに物静かな表情を保っている。さらに奥では彼女の手入れを行った若きメイイェルの研師が神妙な面持ちを晒し、連れの狼は何が起きるのかと期待の眼差しをこちらに向けていた。
「お、おい…。」
枯れに枯れた音でグスタフ・ヴェネシュが声を掛けた相手は誰であったのか。彼を視界に入れている者は眉一つ動かしていない。ただイルサーシャだけが切れ長の目尻に変化を与えていた。
脚が棒の様に動かなくなり、体内を巡る全ての血液が凝固してしまった。そう思えるほど、グスタフ・ヴェネシュが息苦しさを覚えると同時に目の前の剣霊が再び口を開いた。
「終わったぞ。見てこい。」
女のものとしてはやや低く温かみの薄い声を耳にするなり、グスタフ・ヴェネシュは体内の循環機能が正常に戻ったと知った。真冬であろうとも背中では汗がいくつもの条を作り出し、乾きに乾いた喉を潤そうと唾液が口内に溜まり始めている。
見てこい、とは如何なる意味か。先程まで自然と垂れていたイルサーシャの右腕が水平に伸びている。やっとの思いで一歩を踏み出したグスタフ・ヴェネシュはイルサーシャの右腕の先へ歩み寄った。
官製の客馬車の正面である。厳かな黒塗りの中央には何かしらの紋章が嵌め込まれていたであろう台座が鎮座していた。車体とは異なり石による象嵌で出来たそれこそ剣霊のか細い指が示す目的地と思われる。
さしあたり異常な点は見当たらない。怪訝な表情と不安な気持ちと共に台座に近付く。中心に穿った痕跡が見られる。そこから放射状に無数の亀裂が生じている。特に気に掛けるまでもなく遠目で見ていた為に気付かなかったのか。それとも剣霊の言うところの試し斬りによるものなのか。
「軽く叩いてみろ。そうだな、扉を叩く要領だ。」
イルサーシャの言われた通りにグスタフ・ヴェネシュは行動に移した。一回、二回と中指の第二間接で叩く。軽くもなければ鈍くもない、何処となく詰まった音がする。更に叩こうとした最中、台座は音を立てる間もなく崩れ落ちた。
グスタフ・ヴェネシュは足許に散らかる台座の破片を静かに見下ろしていた。視線を元の位置に戻す。台座が嵌められていた部分も綺麗に塗装が施してあったが、風雨に晒されてきた周囲とは色合いが少々異なっていた。
「兄弟、まさか自分に試し斬りを見せる為に引き留めたのか?」
いかにも、と頷いたユストが歩む。その左斜め前をイルサーシャが従っていた。命が縮まる思いをした上に無駄な時間を費やしてしまったと思わざるをえないグスタフ・ヴェネシュは腕を組んでいかめしさを醸し出している。
「先程の一撃で砕いた台座には過去の王族の紋章が嵌め込まれていた、と我の契約者は語っている。」
「それが自分を引き留める理由とどう関係があると?」
「国家の情勢が変化した際、この客馬車は無用となった。王族が使用していたものを誰もが再利用に難色を示した。しかも廃棄や解体するにしても同様だ。触れれば滅ぼされた王族の呪いが掛けられてしまうといった迷信が独り歩きしているそうだ。」
「つまりその迷信とやらを断ち切ろうとでもしたのかい?」
「それだけではない。今からこの客馬車は単なる中古品となった。そなたが貰い受ければよかろう。しかも初めて乗せるのは協会長殿だ。初めての利用者に不足はあるあい。如何ほどの道のりなのかは知らんが、少なくとも荷馬車より寛げると思うぞ。その後はこのまま使用するか荷馬車へ改造するかはグスタフ・なんとか、そなた次第だ。」
ヴェネシュだと二度も注釈する気にはなれなかった。むしろ、想定外の展開となる要因が目の前で佇んでいた事に意識の全てを持っていかれた状態であった。分厚い塗装が施された車体の下に視線をやる。頑丈そうな車輪から多少の事では曲がらないであろう車軸が伸び、緩急装置として板バネ式を採用していた。
「イルサーシャさん、ついでではないが、この辺りから一直線にズバーンっとあなたの物凄い一撃で斬り飛ばして貰えたら嬉しいのだが。」
グスタフ・ヴェネシュは客馬車の中程を指で示した。今ここで荷馬車に仕立てようという魂胆であろう。
「無理だな。我はそこまで斬撃は得意ではない。」
「では何が得意なので?」
「これ以上先を知ったらそなた、我の契約者に口封じを命じられても文句は言えんぞ?」
グスタフ・ヴェネシュの困惑した視線がユストを捉える。彼は腕を組んでこちらを静観していた。兄弟と親しげに呼んではいるものの、その実態はたった数日前に知り合った剣霊使いである。首を縦にも横にも振ろうとする素振りは見当たらない。イルサーシャの言葉は脅しではないと悟ったグスタフ・ヴェネシュはわざと大きめに咳払いをして被る革製の帽子の鍔を押し下げた。
「あぁ、これは自分とした事がちとまともではない要望を口走ってしまった。ただ、この客馬車は恐らく国が管理しているのだろう?これから自分の所有物になりますよって誰に申請したら良いのやら…。」
尤もな意見である。今度はイルサーシャがさてどうしたものか、と振り向きざまにユストを見上げた。この件については既に答えがあったと思われるユストは特に考える素振りを見せずにイルサーシャの腕を掴んだ。
「協会長殿の口添えで全て解決する。先に言った通り、厄介ないわく付きで場所を取る品をそれなりの身分の者が欲している。メツァールントの執政官の裁量で委ねられる案件だと我の契約者は断言しているぞ。」
「本当に大丈夫かね、兄弟?」
「駄目でも勝手に持ち帰れ。それぐらいの意気込みがなくてどうする。」
「そ、そうだな。では早速協会長様に口添えのお願いに行くとするかね。」
「あぁ。そうするべきだな。」
「兄弟、この恩は一生ものだ。まずは後程一杯奢らせて貰うよ。」
光明を見出した者の足取りとは軽く、にこやかな面持ちとなる。グスタフ・ヴェネシュもその例に漏れずに朝から歩きっぱなしであった己を忘れたかの様に来た道を戻る。途中数回ほど振り返っては被る革製の帽子を持ち上げては謝意を示していた。
対するユストは組んでいた腕を解き、手を小さく上げて応えただけであった。
グスタフ・ヴェネシュの嬉々とした姿が視界から消えた。特に呆れた様子を見せるまでなく、イルサーシャは顔を左右に倒した後に白銀の長い髪に手櫛を入れる。その表情を読むよりも早く、メアリー・メイイェルが口を開いた。
「どう?」
不安と期待が入り交じった短い問い掛けにイルサーシャは何と答えるのか。ユストは新たな煙草の先端に火を灯しながら己の剣霊の回答を待った。
「上出来だ。だが…。」
「だが?」
「艶が消えた気がしてならない。」
イルサーシャは抑揚のない声でその様に語った。二三度ほど手櫛を入れた後に彼女は己の言葉を確かめるつもりか、毛先を顔に近付ける。生ある全てを斬り裂く刃の化身たる毛先は詰る指に抗わず、見降ろす眼差しは温かくも冷たくもない。
彼女が気にしていた引っ掛かりの問題が解消した事に対しては上出来なのであろう。しかしここで新たな問題、いや要望が生じたと捉えるべきか。
「手入れをした直後は皆そう言うよ。」
想定していた内容であったのか、メアリー・メイイェルはさも左右の腰にそれぞれの手の甲を当てながら語る際の面持ちを晒した。
「ほぉ?皆とはな。」
「剣霊は我が強く、言いたい事は遠慮なく口に出すからね。」
「なるほど。そう言われては反論出来んよ。」
イルサーシャは自嘲めいた笑みを短く零し、言葉を続けた。
「ともかく我の髪の艶を取り戻すにはどうすべきか、だ。そなた、答えはあるんだろう?」
「まぁ、あるにはあるけどさ…。」
メアリー・メイイェルは彼女の横に座るシュンカの小さな頭に手を添え、視線を落とした。
「契約者の血で解決か?」
「それでは不十分だよ。」
「さては…もう一つの食事か?」
「それで済むのなら、あたいはさっさと姿を消しているよ。イルサーシャの猫撫で声なんて聞きたくないからね。」
「ではどうしたら良いのだ?」
メアリー・メイイェルは答えない。シュンカの頭を撫でているだけである。じれったさがイルサーシャを包み込む。切れの長い目尻に鋭さを与えた彼女の奥深い緑色の瞳は傍観者たるユストを捉えていた。何かしら助言をしろと訴えているのは明白である。
いた仕方ない、とユストは指に挟んでいる煙草を口へ移すと己の剣霊に向けて手招きをした。音を立てずに、だが艶が無いと言う白銀の長い髪の先端を普段よりも暴れさせながらイルサーシャはユストに近寄るなり手招きをしていた側の手首を掴んだ。
(まさかとは思うが…。)
新月の日以外に於いて音なき声はユストとイルサーシャが意思の疎通を図る唯一の手段である。他に読み取られる心配は無用だが、イルサーシャはあからさまな表情を作り上げていた。
(そなたが我の髪の艶を取り戻す手段を知っている、とはあるまいな?)
手首に握力のない女の冷ややかな感触が走っている。一両日ぶりとは言えども、懐かしさを覚えたユストは煙草の煙を鼻から吐きながら双眸を細めた。
(正解は知らないが、予測は出来る。)
(相変わらず悠長な考え方をする男だな、そなたは。その予測とやらが見当違いも甚だしかったらどうする?)
(その時はその時さ。)
そう言われてしまっては彼に従うしかない。イルサーシャはユストを見上げる視線に怪訝の色を差す。
メアリー・メイイェルにしてみれば目の前に立つ番が放つ沈黙は、ただでさえ冷たい冬の外気に重苦しさを加えている様に思えた。なぜ息苦しいのかは理解している。シュンカの頭を撫でる手の動きが鈍くなっていた。
「メアリー・メイイェル、君が言い難いのであれば愚生が直談判しても問題ないな、とユストは言っておるが。」
事の真意を把握しきれていない雰囲気を漂わせているイルサーシャの言葉ではあるが、メアリー・メイイェルの面持ちに動揺を露にさせるには充分な効果があった。
「直談判って誰になのさ?」
メアリー・メイイェルは腹積もりを探る様に語り、ユストが言わずも知れた事を、と顔を横に倒す。新たな煙草に火を灯すなり彼は羽織る黒いコートの裾に弧を描かせた。何処へ向かうのか。剣霊使いの行動に剣霊は従わなければならない。遅れてイルサーシャも白銀の長い髪に広がりを見せる。
「なぁ、おい。」
相変わらずの口調でイルサーシャが口を開いたのは市街地の中央広場付近まで足を運んだ頃であった。昼下がりの往来は市場が開く朝から衰えを見せてはいないものの、すれ違う皆の足取りが幾分軽やかに思えるのは用事を終えたからなのか、昼食にて腹が満たされて上機嫌になったからだろうか。
「いったい何処へ行こうとしているのか、我に教えても構わないだろうに。」
石畳の上をユストの踵が一定の歩調で音を刻む。落ち着きを含んだその響きはイルサーシャの言葉を受け入れるべきかどうか思い悩んでいる様にも聞こえた。
ユストの足が止まった。横に並んだイルサーシャの奥深い緑色の瞳にこじんまりとしたテラスを擁した喫茶店が映る。
「まさかあそこに寄ろうとでも?」
その通りだが、とユストはそっけなさげな一瞥をイルサーシャへくれた後に頷いた。
(今からルケリヤの許へ向かう。ただその前にいろいろと君に伝えておくべき事が有る。)
「ほう。あの折られた剣霊か。涼しい顔して従順そうに見せかけておいて、実は言いたい事を遠慮なく口にする女だな、あれは。」
(剣霊とは君も含めて大半がその様なものだと愚生は見ているが。)
「我は違うぞ。」
(あぁ。そうかもしれないね。)
何ともいい加減で適当な返事だろうか。しかしイルサーシャが目を剥く間もなく目的地に辿り着いた。
昼下がりとは言えども閑散とした喫茶店である。過去はそれなりに繁盛していたのかもしれない。木製の揃いのテーブルや椅子は所々が変色して掠れ、数多の者が利用した痕跡が窺えた。
通りを眺められる窓辺の席に腰を下ろす。六十は既に超えたであろう店の主らしきこざっぱりした身なりの人物が注文を取りに来た。
「コーヒーを二つだ。」
喫茶店での注文は毎回同じである。故にイルサーシャは特に迷うことなくその様に口にしたが、ユストの爪先がイルサーシャの脛を小突いた。無口な紳士は何か不満でもあるのだろうか。
「あ、あと黒パンを一つ。温めずに固いままで構わないらしいぞ。」
まるで自分の意思ではないかの様な言い回しであろうとも、店の主らしき人物は苦笑を漏らさずに軽い会釈と共に少々お待ちを、と言葉を残して奥へ消えた。落ち着いた足取りと誠実な後ろ姿を眺めていたユストが灰皿を手前に手繰り寄せる。銀製の小さいものである。たまたま視界に映り、そのまま足を運んだ店ではあるが、この喫茶店は当りだと彼は思っていた。
「さて。伝えておく事とやらを聞こうじゃないか。」
誠実な背中を見た後もあってなのか、目の前で腕を組んで座る己の剣霊が普段よりも尊大でふてぶてしさが増して見えた。
(まずは君の出自についてだが…。)
咥えた煙草の先端に火を灯すとマッチを銀製の灰皿に投げ、鼻からではなく口で煙を吐いた。そこには溜め息が混ざっていたとイルサーシャは気付いただろうか。
(マナエグナの民。この言葉に君は何か思う所は有るかい?)
イルサーシャは難しそうな顔を僅かに見せ、首を横に振った。
(いや何も。こやつらに聞いてもだんまりを決め込んでおる。)
組んでいる腕の片側を解いて左右の耳にぶら下がる黒蛇のピアスを憎らし気に弾く。どれだけ激しく揺れようともその睥睨は変わらない。
(そうか。そのマナエグナの民でも君はそれなりの地位を有していたらしい。)
(おい、何故その様な話を今する?)
一人と一振りの間にコーヒーが二つ並べられ、その中央に黒パンを乗せた皿が置かれた。茶色い釉薬による皿は黒パンに食欲をそそる陰影を与え、隅にはバターが添えられている。
(今から会うルケリヤがマナエグナの民について知っているからだ。)
(ならば彼女から聞けば済むであろう?)
(彼女はマナエグナの民を憎悪の対象としている。恐らく君に一方的に罵詈雑言を浴びせる可能性が極めて高い。)
(何故に憎悪を抱く?)
(ルケリヤが人間として生きていた時代は今の様な四ヶ国ではなく大小様々な国が乱立し、近隣と対立しては併呑されたり滅亡を繰り返していた。つまりその数ある歴史の一幕、としか愚生としては言い様がない。)
(その恨みで我と口でやり合おうと言うのか。面白い。刀身が欠けているのであればそれもいた仕方なしだろうがな。)
再びユストの爪先が勝気な剣霊の脛を小突いた。
(君の事だから恐らく水掛け論に発展すると思っているが…愚生としてはそれは大変困る。)
黒パンを乗せた皿と揃いのコーヒーカップの取っ手を摘まんだユストは一口飲んで頷いた。想像していた味と合致したのか、或いは音に出せない文句を一緒に飲み込んだ己に対しての行動なのか。
(何が困るか理由を話すとするならば、まず第一に誤った情報だ。感情に支配されたルケリヤの言葉に真実は有るかもしれないが、誇張も少なからず含まれるだろう。また言葉足らずという場合も考えられるね。)
(言葉足らずとはどういう意味だ?)
(例えば、君はブリスタンとそりが合わないだろう?まぁ愚生から見たら仲良しも好いところだが。)
(何を言う。考えただけでも反吐が出る。)
(どうしてそりが合わないのか。それは彼女が君を小馬鹿にするからそりが合わない、そうだろう?)
(いかにも。)
(だが、その事情を知らない者に、君と彼女が単にそりが合わないと吹き込んだらどうなるだろうか。豊かな金髪の長い髪に男を虜にせんとする彼女の立ち振る舞いに君が嫉妬していると思い込む者がいるかもしれない。つまり君は妬ましさを常に腹に抱えた度量の狭い存在、と言葉が足りないだけで誤解を生じさせてしまうという事だよ。)
(なるほどな。つまり我がルケリヤの言葉に対して間違った解釈をしてしまうという事態も否めないという事か。)
意外と聞き分けが良い。珍しい事もあるものだとユストは思いつつ、短くなった煙草を銀製の灰皿に押し付けると目の前のコーヒーを飲み干した。そしてイルサーシャの前に置かれたコーヒーカップに手を伸ばす。
(次に正しかろうと誤っていようと、それらの情報が君の中で引っ掛かってしまっては困る。)
これまた遠回しな表現をするが、その真意とは如何様なものだろうか。イルサーシャはユストを見つめる奥深い緑色の瞳を動かさずに顔を倒して見せた。
(簡単に言えば君の闘志に僅かにも隙が生じる可能性が考えられる。)
(ならばルケリヤの言葉など最初から聞き流せば済む話だと我は思うが?)
(言った方が何を語ったか忘れようとも言われた方はいくら時を経ようとも詳細に覚えている、というのはざらにある。人間よりも聴覚が優れている剣霊である君がそう簡単に聞き流せるとは思えないね。)
(なんだ、そなた。我を見くびっているのか?)
(いや。ただ、斬れる時に些細な躊躇いで斬れなくなってしまっては愚生の命が幾つあっても足りなくなる。)
(判った。我としてもそなたに倒れられたら元も子もない。ただ、そこまで言うのだから、そなた、何か対策は練っているのであろうな?)
ユストのコーヒーカップの取っ手を摘まんでいない側の指が一点を示した。黒パンである。
(君の為に用意した。)
「剣霊がパンを喰らう?おい、ユスト。我が手入れの際に暇を口実に変な本でも読んでこれまでの知識を置き去りにしてしまったのか?」
わざわざ音に出して文句を語るほどイルサーシャは呆れていた。
(食べろとは言っていない。まずは君の薬指の第一関節ほどの大きさのものを二つ斬って貰おうか。)
全く意図が読めないが、何を行おうとしているのか興味がある。イルサーシャはユストの言葉に従った。暇にしていた人差し指を使って黒パンの上を数回なぞる。注文の品が出来上がるまでに十秒と掛からなかった。
(これが白パンであったら、いくら君でも柔らかくて斬り難かっただろうね。)
(さぁな。たとえ小さくしようとも口の中にいれるつもりはさらさらないからな。)
役目を終えたイルサーシャの人差し指が左右の横髪を耳に掛けた。対となる黒蛇のピアスが姿を見せる。彼女の言葉を借りるとすれば、今回はだんまりを決め込んでいるらしい。それでも相変わらずの眼光を具えている。ユストは左右それぞれに一瞥をくれた後に銀製のスプーンを手にしてコーヒーを掬った。
茶色い釉薬の中と銀色の上とではコーヒーの彩りが異なる。深く濃く淀んだ色から浅く淡く澄んだ色へ変化した錯覚を覚える。ユストはイルサーシャが刻んだ黒パンの欠片を二つ同時に摘まむと銀製のスプーンの中に浸した。
(さてはそなた、我の知らないうちに歯を痛めたな?)
(いや。)
(ならばそんな細切れにしたものをふやかして口に含もうとする必要はなかろうに。)
(愚生も食べるつもりはないのだが。)
(パンを喰らわない我ではあるが、食料を粗末にするのは感心しないな。)
(そうだね。だが代用品が思いつかない。苦肉の策とはこの事だね。)
(代用品?何の事だ?)
まどろっこしい無音の遣り取りの最中、ユストは黒パンの欠片を左の親指と人差し指でこねくり回す。残りの三本がイルサーシャに顔を近付けろと動く。何か面白いものでも見せてくれるのか。特に警戒をせずにイルサーシャはユストの指示に従った。左手が汚れとは無縁な耳殻に触れ、鎌首をもたげている黒蛇のピアスが何か言いたげに揺れた。
「おい。」
流石のイルサーシャもユストの不可解な行動に声を上げた。対するユストは眉一つ動かさずに彼女の右の耳殻にも触れる。自らの尾を咥える黒蛇のピアスは興味深げに艶光りを発していた。
即席の耳栓を自らの剣霊に仕込み終えたユストは一仕事終えた面持ちでコーヒーカップの縁に唇を添える。コーヒーの味とは時の経過と共に落ち着きを生じ始めるものである。香りは言うまでもなく、酸味と苦みがユストの嗜好に会ったのであろう。彼は組んでいた脚を入れ替え、満足げに新たな煙草に火を灯した。
「おい。いい加減、何故こんな事をしたのか説明をしろ。」
脚を入れ替えた為にくるぶし同士が離れていた。しかしながら耳を塞がれたイルサーシャが普段よりも大きな声量で喋る理由は明らかである。剣霊とは言えども人間臭いものだな、とユストは短い微笑を零した。
不機嫌この上ないイルサーシャは両肘をテーブルの端に着けている。経年と数多の摩擦によりニスが剥がれ、地の色が露になっていた。薄く掠れた色の上を白銀の長い髪の先端がたおやかな弧を描く。細い線傷が刻まれた。不機嫌を通り越して怒り心頭に達しつつあるのか。ユストは左手を伸ばし、彼女の髪を人差し指に巻き付けた。
(説明なら先程したのだが。)
(うそつけ。我は聞いておらん。)
(ならば実践して理解して貰うしかないね。)
人差し指に巻き付けていたイルサーシャの髪を解いたユストは残りのコーヒーを飲み干した。黒字に金の刺繍が施されたスカーフがぴんと張られては元通りに皺を作る。彼は立ち上がるなり殆ど手を付けていない黒パンをコートの内側に仕舞い込み、代わりに北部で流通している銀貨を五枚取り出した。それらをテーブルの中央に無造作に置く。コーヒー二杯と黒パン一つの代金としては十分過ぎる金額である。
「代金はここに置いていくぞ。」
ユストの指示を受けてイルサーシャがその様に口を開く。やはり声が大きい。店の主と思しき老人が伝票を片手に近寄る。テーブルの上の金額を見た彼は落ち着いた面持ちに変化を与えた。
「これはだいぶ頂き過ぎなのですが。」
構わないとユストは頭を振り、煙草を灰皿に押し付けた。
「ところで…お客様は以前、この店に足を運んだ事はございますかな?」
ユストを見つめる眼差しは己の記憶と事実を天秤に掛けている様相を携えていた。歳を重ねると共に時間の流れに浸された男の視線に力を感じられずにはいられない。降参だ、とユストは男らしい顎を僅かに上に向けて弟なき溜め息を鼻から漏らした。
懐から筆記具を取り出す。店の主と思しき老人が差し出した伝票に風切り羽根のペンを滑らせた。
『あの頃は声が出ましたが今はそうもいかないので。美味しく頂戴しました。』
文字を書き慣れた、いや必要以上に認めなければならない身の上を彷彿させる筆跡を残して男は羽織る黒いコートの裾に緩やかな弧を描かせた。
「邪魔したな。」
目付きの鋭い女も淑女らしからぬ声量でその様に言い放つと彼の後に続く。
不思議な番であった、と店の主と思しき老人が真っ先に思うのも無理もない。男の方はともかく、女が真横を通り過ぎた時、全身の毛穴が開いた錯覚に陥った。いや、事実であったのであろう。少々肌寒い室内に於いて運動をしている訳でもないのに背中に汗が流れていた。人間離れした整った容姿と冷徹を具現化した眼差し、そして血の気の失せた唇の色から判断するに、あれが剣霊なのか。
隣町であるリストメクでは邪剣霊により住民がこのメツァールントに助けを求めて避難していると聞いている。ならばあの番は剣霊協会から邪剣霊討伐の命を受けて遣わされた、と見るべきであろう。そして対価を遥かに超える金額は自分たちが立ち寄った事を口外するな、と暗に示したに違いない。
店の主と思しき老人は窓の外を眺めてはこれまで多くを眺めてきた目を細めた。このメツァールントで無用な血が流れるのか、と思う。それは最悪の事態であって欲しいとも願う。
冬の空はいつになく重く圧し掛かっていた。




