星雫の刃
メアリー・メイイェルが所有する幌馬車を見つけるのに、そう手間は掛からなかった。
それなりの規模を有しているメツァールント市街地であろうとも馬車を停泊させられる場所は限られている。市街地の中心地から離れ、物資の倉庫が立ち並ぶ地域にその様な場所が設けられていた。
ユストはさも知り得ている体で迷わずに足を運ぶ。彼が中央出身者である事はもとより、どの市街地に於ける常套に従ったに過ぎない。
彼女の幌馬車以外に四台が酷使を終えた車輪を休ませていた。木造の二台は日常点検の最中だろうか、工具を手にした作業着姿の男が所有者と思しき者と何やら会話をしている。何処に不具合があるのか、直すにあたっての費用は如何ほどか、と話を詰めているのであろう。残りの二台は鉄製の車体である。片方は華奢な装飾が映え、残る片方は武骨と言うべきか無表情と表現するべきか。共に車体の中央にけがいた跡がある。恐らく官製品の払い下げであろうとユストは汲んでいた。中央に坐していたのは国章と思われる。何時の国章と考える間もなく、ユストは腕を組むなりあらぬ方向へ顔を背けた。
雪が降る中、彼女の幌馬車の周囲に数名の男女が列を作っていた。巷ではメイイェルの研師による手入れを施した包丁は錆知らずの上に切れ味が落ちる事なく、刃こぼれとは無縁だと上々の評判である。費用はそれなりに高額ではあるが、数年に、いや十数年に一回その機会に恵まれるとなれば、わざわざ並ぶ者の気持ちも判らなくもない。故にユストは彼らの最後尾に並んだ。
「あら、あなたもメイイェルの研師に依頼に来たのね?」
ユストの前に並ぶ夫人がその様に話し掛けた。彼女の風貌は四十路の後半、それまでの人生の半分以上は家庭の台所を預かっては四苦八苦してきたと思われる。よそ行きの上下に丁寧に扱ってきたと思われる淡い青色をしたコートを羽織り、頭は派手な色彩のスカーフで包み込んでいた。防寒と降雪対策の装いはユストに己の母親の面影を重ねさせたのだろうか。ユストは柔らかだが、後ろめたさが見え隠れする表情を自然と零していた。
一方、その様な夫人はにこやかな笑顔の中に怪訝な様子を垣間見せていた。単に頷いて応えたユストの素振りのつれなさに対してではない。彼が料理とは無縁そうな男と見えたのであろう。
料理以外にも刃物を必要とする職はある事を夫人は存じていた。猟師だろうか、と決めつけたいが、実際にその職で生計を立てている彼女の従兄弟と見比べて、素人の勘ではあるが何処となく従兄弟と匂いが異なる。
あぁ、この方は奥方の言い付けに従って足を運んでいるのだろう。きっとそうに違いない。なんとも仲睦まじい事で、と夫人は根拠なき勘繰りを用いて無理やり納得を得んとする。緩やかに腕を組み、特に難しい顔をしている様子ではないが、近寄り難い雰囲気が何処となく滲み出ている青年は無駄に口を動かさないのであろうと肌で理解していた事もある。
降る雪が肩を彩ればそれを払い退けるという動作を繰り返しているうちに依頼者の列が短くなった。ユストの後ろに並ぶ者は今のところ見当たらない。
メツァールント市街地の成立と共に歴史を歩み続ける正午を知らせる鐘が冷たい大気を震わせた。四季に関係なく天候にも左右されず、そして四ヶ国成立以前の混沌とした時代であってもメツァールントの正午の鐘は一日たりとも欠いた事はないと言い伝えがある。今日もその言い伝えが無事に終えんとする中、夫人の前に並んでいた男が幌馬車の中から姿を現した。
自分は調理人だ。今日は普段愛用している包丁の中の二本を依頼しに持ってきたと彼は語っていた。布で包んでいたのであろう愛用の二本は所持していない。その場で手入れをする訳ではなく、後日受け取る手順なのだろう。
「あらやだ、どうしよう。うちにはこの包丁しかないのに。」
言葉に違わず夫人の動揺ははっきりと見て取れた。眉を下げる夫人に対してユストはその様な顔をされても、と顔を僅かに倒しつつ左右の口角を上げて応える。
「この場でささっとやってくれないか、とメイイェルの研師にお願いしてみても御主人、あんた、時間が取られたなんて怒らないかい?」
安易な発案ではあるが、下がりに下がっていた夫人の眉が元に戻りつつあった。なるほどな、と言いたげなユストが羽織る黒いコートの内ポケットに手を入れて筆記具を取り出す。特に迷うことなくすらりと文字を認めるユストの手許を夫人は物珍しそうに覗き込んでいた。
「えぇと…すぐ後ろに並んでいる無口な男が構わないと言っていた。この紙をメイイェルの研師に見せるように、て事は…あんた優しい男だねぇ。奥さんにも相当大事にされているに違いないだろうね?」
さてそれはどうだか、とユストが短い苦笑を漏らすものの、その音は夫人の耳には届かない。
「でもあんた、よくよく思えばメツァールントでは見かけない顔の様な…。」
ユストを頭の上から爪先まで一通り見た後に夫人は一抹の不安を抱えた様な面持ちで幌馬車の中へ姿を消した。
ユストの後ろに並ぶ者は未だ現れていない。ならば暇つぶしに使っても構わないだろう、とユストは煙草を咥えた。グスタフ・ヴェネシュに公共の場での喫煙は罰金対象だと窘められたばかりではあるが、周囲に人影は見当たらない。目くじらを立てる者は皆無だと信じたい。ここまでの道中に購入したマッチ箱を取り出し、慣れた手付きで軽い音を立てる。
深く重い一口と共に煙をくゆらせれば幌馬車の中で行われている女同士の会話が否応にも聞こえてくる。夫人はユストが咄嗟に記した内容を一字一句違わずにメアリー・メイイェルに伝えていると思われる。
煙草の先端がじりじりと燃える音を聞き入りながら心穏やかに三口目を終えた頃、シュンカが幌馬車から顔を覗かせた。君にはばれたか、とユストが口角を僅かに上げて応える。
「入りなよ。煙草を吸ったままなのは少し嫌だけどさ。」
シュンカの頭を撫でながらメアリー・メイイェルも幌馬車の中から姿を現した。昨日の日暮過ぎに見た時よりも明らかに顔が暗い。疲労によるものだろうか。不眠不休でイルサーシャの手入れをしていたと思われる。ユストは立て続けに煙草を二口吸った後にもみ消し、幌馬車の持ち主の言葉に従った。
「なんだい、あんた、メイイェルの研師とはつうかあの仲っだったのかい?通りで見かけない顔だと思った訳だね。」
夫人は自己満足げな様子で言葉を続けた。
「そこの賢そうなワンちゃんもあんたに懐いている。動物ってのは他人の前であろうと何であろうと嘘を吐かないからね。本当はあたしもそうやって頭を撫でてあげたいけど、うちには猫が三匹いるんだ。あの子たち、とりわけ犬の匂いには敏感でねぇ。」
実は犬ではなく狼なのだが、と言いたげなメアリー・メイイェルの表情を察する事なく夫人は彼女に身体の向きを合わせた。
「それで…さっき話した通り、今ここで研いで貰えるのかい?」
「直ぐは無理だよ。彼と話をしなければならない。」
「話って…そんなに長いのかい?それにあたしの方が先に並んでいたんだよ?」
「彼も依頼主だ。昨日の昼過ぎに引き受けたんだ。」
毅然とした態度をとるメアリー・メイイェルが一点を指差した。雑多な布ではあるが見るからに生地は厚く、大事な物を包んでいると誰もが思うであろう。その長さから推し量れる内容はただ一つ。
メイイェルの研師が街から街へと流れる理由を夫人は思い返していた。一か所に留まらず流転の身を信条とする剣霊使いが契約を交わした剣霊の手入れの為と聞かされた覚えがある。決して世俗の為ではない。あくまでも世俗はたまたまその場に居合わせただけであり、その肖りに過ぎない。
更にメツァールント市街地の外では邪剣霊に乗っ取られたと噂されているリストメクの住人たちが大挙して押し寄せている。彼らを街の外壁から中へ入れない理由は邪剣霊が紛れ込んでいる可能性を疑っての事でもあった。
夫人は改めてユストの様相を覗った。羽織る黒いコートの下に得物を所持している様子は見当たらなかろうとも、多少の事ではびくともしそうにない落ち着いた物腰、そして何処となく近寄り難い雰囲気を持ち合わせている。確かに料理とは無縁の男の訳である。
「あんた、もしや剣霊の…。」
夫人は言い掛けた途中で言葉を飲んだ。ユストが己の唇に人差し指を当てて見せた為である。剣霊使いの機嫌を損ねる勇気を端から持ち合わせている者などそうそういない。夫人は喉を上下させ、男に勝るとも劣らない程の音を奏でさせた。
「取り敢えず今は無理だけど、夕食を用意し始める時間までには仕上げておくから…そうだね、三時間後にまた来てよ。」
無造作に置かれた包みを両手で丁寧に拾い上げ、メアリー・メイイェルは幌馬車の出入口に顔を向ける。左右に分けた砂色の髪が微かに揺れた。
「そうだね。そうさせて貰うよ。」
切羽詰まった様子を惜しみなく晒している夫人はユストと目を合わせまいとあらぬ方向に顔を固定している。
「あ、剣霊使いであろうとなかろうと、手入れのお代は先に頂くのがメイイェルの研師のしきたりなんだ。そうだね…。」
メアリー・メイイェルは己の柔らかそうな顎の先端に親指の腹を押し付けてユストを一瞥した。
「彼の事を口外しないと約束してくれるなら銀貨を一枚だけで引き受けるけど。」
その他の選択を選んだ場合について、冴える刃と咽び返るほどの血の匂いとは無縁の夫人であろうとも、その脳裏は揺るぎない結末を予測したのであろう。適当で生ぬるい予測ではない。これでもかと、考えうる限りの悲惨な結末が沸点に達した湯の如く次々と浮かび上がり、己の内側に激しい揺らめきを覚えたのであろう。彼女は小刻みに震える手で財布からメアリー・メイイェルが申し出た金額を支払うなり足早に幌馬車を後にした。
夫人の姿が消え、なんとも言えない沈黙が鎮座しようとする中、メアリー・メイイェルは軽い溜め息と共に身体の正面をユストへ向けるなり一歩近付けた。
「あの夫人、ひっきりなしにお喋りが止まらない典型的な中年だったけど、大丈夫かな?」
大丈夫とはユストの素性についてである。幾ばくかの憂慮を含んだ見上げる眼差しに対して、心配なかろうと頷いて応える。
「あたいも歳を重ねるとあぁなるのかもしれないね?」
それはだいぶ先の話であろう、とユストは短い微笑を零した。同時にメアリー・メイイェルは更に一歩、ユストに近付いた。何かを察したのか、シュンカが二人を見上げる。メアリー・メイイェルはユストの右袖を掴んでいた。
「ユスト・バレンタイン、喋れないあんたの代わりにあたいが夫人を丸め込んだんだ。」
掴んだ右袖をそのままにメアリー・メイイェルは反対側の手で持つ包みを己の顔の高さまで持ち上げる。砂色の髪と包みのくすんだ色合いは妙に同調し、冬の昼下がりを改めて実感させられた。
「この包丁の手入れで足りない分はあんたに払って貰うよ。」
一時の沈黙を置いてユストは頷く。シュンカは幌馬車の隅にゆっくりと歩むと、下顎を床に付けて楽な姿勢を摂り始めた。
幌馬車の中は整然とは程遠い。研師としての必需品が半分、残りは一か所に留まる事を知らない者の生活用品とみるべきか。その点に関しては剣霊使いであるユストも同じである。故に難癖をつける気はない。ただ一つ欲を言えば椅子が欲しい。メツァールント市街地に於いてメアリー・メイイェルの幌馬車の内側が休息の場であると考えてはいないが、腰を下ろして脚を伸ばしても誰も文句は言うまい。
ユストの心境など気に掛けず、メアリー・メイイェルはシュンカに干し肉を与えていた。さしずめ狼の昼食というところだろう。二本の指を用いてぶら下げた干し肉を鋭い犬歯を剥き出しにして奪う様に口に咥え込む。
「少しの間、外で一休みしてきなよ。」
人間の言葉を理解しているのか、シュンカはメアリー・メイイェルを見上げていた視線をよそにやると、幌馬車の出入口へ足を進めた。言葉のみならず、その先の意図も汲んでいるのかもしれない。
毛並みの良い背中が視界から消えるのを待ち、メアリー・メイイェルは敷物の上に胡坐をかいた。彼女にとってその場は作業に取り掛かる所定の位置なのであろう。左右には砥石が幾つかと水を張った木桶がある。
「イルサーシャならそこだよ。まずは手に取ってじっくり見てよ。」
指ではなく視線で剣体となったままのイルサーシャの位置を示す。ユストは頷きもせずに雑多な布を捲った。薄暗い幌馬車の下、二匹の黒蛇が絡みつく鍔無しの直剣は幾重にも重ねられた布の上で静かにしている。まるで寝ている我が子を抱き上げるかの様にユストは柄の下に左手を滑り込ませた。
手を返す。顔の角度を変える。その両方を繰り返しながらユストはイルサーシャの剣体の吟味を始めた。二匹の黒蛇たちの彫刻とは思えない睥睨は相変わらずであり、握り具合についても違和感を抱く必要はない。黒蛇が頭をもたげた血抜きは適度に抉られ、その表面のざらつきに変化は見られない。白銀の刀身は細すぎず太過ぎず、僅かな光を拾えば重く鈍い輝きを放つ。鋭い切先を頂点として、左右に流れ落ちるかの如く走る刃はあらゆる抵抗を受け付けないであろう。
「何か感想はある?」
イルサーシャの剣体を吟味するユストを眺めていたメアリー・メイイェルが頃合いを見計らったかの様に口を開いた。その眼差しは仕事を成し遂げた研師としてだろうか、ユストには憔悴の色が濃く思えた。
感想を述べろと言われたもののユストは思い留まった。声を音で発せないからではない。イルサーシャの剣体が以前と全く変わっていないのではないのか、と疑問が生じていたからである。
「目は口ほどに物を言うってのは本当だね。実はあんたが思っている通りだよ。」
肩の荷が下りたのか、メアリー・メイイェルは両手を後ろに突いて天を仰いだ。
「イルサーシャが剣体になった後に早速手入れに取り掛かったんだけど、駄目だった。無駄に削られてしまった。あたいが持っている研ぎ石の殆どが無意味でしかなかった。」
無駄に削られたとは研ぎ石がイルサーシャの剣体に対して役目を果たさずに崩れてしまったという事か。今、彼女の脇にある研ぎ石は恐らく予備もしくは崩れた物の名残であろう。他と比べて厚みが明らかに薄い。
「こんな事は初めてだよ。マーヤ大お師様からミランダお師様まで誰一人依頼を仕損じた事がないのに。このままだと、あたいが歴代のメイイェルの研師の中で唯一の存在になってしまうのかもしれないよ。」
メアリー・メイイェルが憔悴を匂わせていた理由は自尊心を傷付けられてしまったからなのであろう。深く重たい後悔の溜め息を漏らす彼女に憐憫の情に誘われた訳ではないが、ユストは短い溜め息を鼻から漏らし、手にしているイルサーシャの剣体を元の位置へ戻した。そしてメアリー・メイイェルの許へ近付き、投げ出された彼女の手に己のそれを重ねた。
「同情ならいらないよ。」
咄嗟に吐き出された言葉は彼女の心情を如実に表していた。嘘偽りのない吐露は気持ちを昂らせる作用が働く。げんにメアリー・メイイェルの目頭は熱くなっていた。
「あたいだって本当は…ユスト・バレンタイン、あんたみたいな男の胸板に顔を当てて泣きじゃくりたいさ。でも、メツァールントの人々の依頼がまだ残っている。立ち止まっている場合じゃないんだよ。」
メアリー・メイイェルはユストの重ねた手を払い除けた後に己を奮い立たせる為か、目頭を二本の指で押さえ、落ち着いた声色で嘯いた。
「メイイェルの研師の技よ、星雫の刃の如く炯々たる輝きを。」
短い悲鳴を上げたと思えばの瞬間、メアリー・メイイェルはユストの顔を見上げていた。両肩から押さえ付けられ、そのまま倒れ込んでしまったからである。ユストの面持ちは興奮冷めやらぬ男のそれとしか言い様がなく、女であれば身の危険を覚えるのに十分なほどの気迫がひしひしと伝わる。
少々邪険な扱いをした事に腹を立てているのか、結果を得られなかった事に対して返金を要求しているのか。メアリー・メイイェルは見開いた双眸をそのままにユストの衝動に駆られた行動について理由を探していた。何かされてしまうのだろうか、と想像したくない結果が脳裏を過る。シュンカに助けを求めるべきかと思うものの、今は昼下がりである。狼が活動する時間にはまだ早い。言いつけを守って幌馬車の下で寝込んでいる最中であろう。仮にこちらの様子に気付こうとも野生の厳しさを知らないシュンカにとって人間同士がじゃれ合っている姿にしか思われない可能性が色濃い。身体が自ずと熱を帯びては強張り、あらゆる感覚が敏感になろうとしていた。
「え、何?」
僅かな変化すら捉えんと働く視力が見上げているユストの唇の動きを知らせてくれた。
「もう一度?今の…言葉をもう一度言えって?」
適度な速さで、確固として頷くユストの眼差しは剣士のそれであり、淫欲に溺れた男のものではなかった。もう一度同じ言葉を言えば解放してくれるの、と喉元まで出掛けたがすぐに呑み込んだ。問答の時間は許されないであろう。両肩を押さえられようとも手と腕は動く。メアリー・メイイェルははだけてなかろうとも胸許を隠す様に手を置くと顔を背け、再び嘯いた。
「言ったよ…。」
返事の動作はない。何かを得たと言わんばかりに押さえていた両肩を一回掴まれた後にメアリー・メイイェルは解放された。彼女は起き上がるなり、左右に束ねた砂色の髪の先端に手櫛を数回入れ始める。
女が髪を触るのは身だしなみを整える時と動揺した心を落ち着かせる時の二つがある。今回はその両方を兼ねていた。故にユストが己の意思を伝えるべく筆記具を取り出していた事にメアリー・メイイェルは気付かなかった。
手櫛を入れる手がやがて緩慢になると共にユストは簡素な手記をメアリー・メイイェルの前に差し出す。驚かして申し訳ない、だが愚生としても耳を疑うばかりの内容に君という女性を軽んずる行動を執るしか選択肢がなかった、と冒頭に記されていた。
警戒心がまだ解けていない面持ちのメアリー・メイイェルは手記を一通り目で追い、表情を変えずに手記を記した人物に視線を合わせた。
「あの言葉は単なるお呪いだよ。ミランダお師様から教えて貰った。仕事に取り掛かる時はいつも口に出して精神集中を図るんだ。ミランダお師様もそうしていたし、その前のお師様も同じだったらしいね。ただマーヤ大お師様から始まったのかどうかは判らないよ。」
想定いたよりもあっさりとした回答であったのか、或いは見当違いの回答であったのか、ユストは己の顎に二本の指を添えて俄かに考え込む姿を晒す。そして次の質問に答えて欲しいと添えた指をそのままに顎をしゃくった。
「星雫の刃とは如何なるものか、と訊かれても…あたいからしてみれば単に言葉の一節にしか過ぎない。言われるまで考えた事もなかったけど、ユスト・バレンタインにとって星雫の刃って何なのさ?」
メアリー・メイイェルが疑問に思うのも無理ない。師から受け継いだ言葉が目の前の男に想定外の行動をさせたのだ。ここは包み隠さずに語るべきか。ユストは新たな紙片に筆記具を走らせようとしたものの、思い留まった。まずはマナエグナの民について説明をしなければならない。しかし彼らについては謎が多く、ユスト自身も正確には知り得ていない。誤った情報を教え、それがいつのまにか定説になる可能性も十分に考えられる。ユストは鼻から音なき溜め息を漏らすとメアリー・メイイェルに見える様に唇を動かした。
「ルケリヤに聞け、か。判った。そうするよ。」
メアリー・メイイェル自身も話が長くなると予測していたと思われる。故にユストの端的な回答に対してあっさりとした返事をしたと言えよう。彼女もユストを真似て鼻で溜め息を吐く。女の汚れを知らない鼻孔の震える音が物静かな幌馬車内に小さく響いた。
手櫛を入れ終えたメアリー・メイイェルの手が次なる行動を、触れるべき場所を模索している。横座りの彼女は左手を後ろに突き、右手を膝を折っているユストの太腿に添えた。
「これはあたいの想像だけど、星雫って名前からして空のお星さまの様に輝いているとか。あとは空から降ってきたとか。でも刃って言うぐらいだから剣だとして…誰が空から落とすんだろうね?」
己が発端とは言えどもメアリー・メイイェルの空想夢想に付き合うべきなのか、とユストはしゃくって間もない顎の角度を深くした。
空から剣が降る。実のところ、ユストはその光景を一度だけ目の当たりにしていた。ミゼレレによる雷の剣がそれである。神剣霊たる彼女ならではの凄まじい技が脳裏で蘇る。だがあれは実際の剣ではなく、超常現象の一つと捉えるべきか。
剣を降らせる事が可能な場所はあるのか、とこれまでの見識から探す。この大陸に於ける最西端の地、ノエミリオ諸島のとある一か所に至天の園と呼ばれる、今の世の常識とは尽く掛け離れた塔が存在した。
流れる雲より遥か上を臨む至天の園から剣を投げ落とす。誰が如何なる理由でそうしたのか。そもそもあの場所に剣という武器は不似合いと言えた。その様な物を必要としない超越的な雰囲気に満ち溢れていた。そして彼の地でミゼレレは過ちを犯しては深い傷を負い、記憶を失ってしまった。
「なにか思い当たったの?」
メアリー・メイイェルのそれほど期待を寄せていない問い掛けにユストは思慮の世界から連れ戻され、頭を振って応えた。
「ともあれ、片付けられる事は先にこなせ、と教わったからさ…。」
ユストと視線が交差するなりメアリー・メイイェルはその様に語り、夫人に託された包みを解き始めた。
彼女は手にした包丁を様々な角度から見据えた。木製の握りはかすれた色合いとなり、刃は欠けてはいないものの、細かい傷が見て取れた。誰が見ても年季の入った、数多の仕事に使われた道具である。
「こいつは見違えるほどよく切れる包丁になるよ。」
腕に自信があるのか、想定内の状態であったのか、メアリー・メイイェルは持ち主が聞いたらさぞ喜ぶ内容を嘯いた。作業に取り掛かるべく所定の位置に腰を下ろし直す。湧水を張った桶に浸け込んでおいた研ぎ石を掴み、己の前に置く。一定の間隔を保ちながら包丁と砥石が擦れる音が幌馬車内の空気を縫う様に震わせる。乾き過ぎず、濡れ過ぎずの響きはメアリー・メイイェルの絶妙な力加減によるところが大きいのだろうか。耳にして心地良い。
メアリー・メイイェルの真摯な横顔を眺めつつユストは改めてミゼレレの姿を思い浮かべていた。
彼女の象徴である幾重にもうねる薄緑色の髪は心の襞を具現化したかと言わんばかりに豊かであり、誰もが一度見ては忘れられない艶やかさを具えていた。その髪の奥に佇む様相はどうだろうか。稀代の彫刻家が生涯を掛けて丹念に磨き込もうとも表現不可能なほどに麗らかな、何人たりとも踏み入る事が出来ない芯の強い女の相好を有していた。
その様な彼女が笑みを零した。ユストの記憶にはない不敵で尊大な微笑である。脳裏に描かれていたミゼレレはユストの意思とは関係なしに一歩を踏み出し、顔を近付けた。
ノエミリオで汝は何を拾ったか覚えているか?
訝し気な表情を作らざるをえないユストをよそにメアリー・メイイェルは手を休めずに夫人の包丁を研いでいた。思い描いた人物が勝手に動き、勝手に喋るものだろうか、とたった今起きた事実に疑問を抱く。首を傾げ右肩に触れた。そこには包帯代わりに服を割いた端切れが巻き付けられている。やはり明け方にこのメツァールントに戻った際にミゼレレと接触したのは間違いなかろう。だが断片的はおろか、一片たりとも記憶が残っていない。
そして今度は想像の中で勝手に語った。イルサーシャの手入れが不可能であると宣告された事に対する動揺がこの様な形で表れてしまった、とユストは思いたいものの、何処か煮え切れないところがある。考えてもどうなる事でもない、とユストはいつもの様に鼻で音なき溜め息を漏らした。
ミゼレレならぬミゼレレの言葉を反芻する。ノエミリオで何を拾ったのか。古代文明の遺産といわれる金属片である。先の宿泊先では部屋の鍵に使われるほど大量に出土するという。その材質は鉄より硬く、錆びないと聞いている。そしてイルサーシャは実際に触れるなり簡単には斬れないほどの硬度だと語った。
ユストははたと膝を打った。羽織る黒いコートの内ポケットから金属片を取り出すなり、メアリー・メイイェルの面前に突き出す。
「それは?」
メアリー・メイイェルは手を休めずに一瞥を投げた。大陸中を移動するメイイェルの研師ではあるが西端の地に足を踏み入れる機会とは巡り合っていないのか、彼女は目許に変化を与えて湧き起こった興味を露にしていた。
幌馬車内の通気性はお世辞にも良いとは言えない。一か所に腰を下ろして黙々と作業を行っていれば冬であろうとも額に汗が浮く。メアリー・メイイェルはようやく手を止めて袖で汗を拭う際に古代遺産と言われる金属片を自らの手に取った。
「鉄じゃないね。」
関心を示す一言を放ち、同意を得るためか、ちらりと持ち主を一瞥する。いかにも、とユストは頷いて応えた。
「重さは似ているけど、肌触りはこちらの方が繊細な気がするよ。色合いも普通の鉄より重厚だ。」
夫人の包丁を手入れに取り掛かる際と同じく、メアリー・メイイェルは金属片をあらゆる角度から眺めていた。先程と異なるのは頭上にかざしている点と宝石の煌めきを楽しんでいるかの様な眼差しだろうか。
「何処でこれを手に入れたの?」
ノエミリオだ、とユストは正直に答えた。無論、音はないので唇を読むしかない。かざした金属片の向こう側にいるユストの唇が何を語ったのかメアリー・メイイェルは理解した。しかしその地が何処にあるのかまでは把握していなかった。西の果てだ、とユストは補足したが今回の唇の動きは読めなかったらしい。僅かではあるが、二人の間に沈黙が居座ったのがなによりの証拠であった。
「ノエミリオ、ねぇ。今度ミランダお師様に会ったら聞いてみるよ。こんなに硬そうな金属を知っているかって…。」
気分転換の時間は終わりだとメアリー・メイイェルは金属片を床に置いた。しかしその手が表面から離れないでいる。時として己が何気なく吐いた言葉に気付かされる場合がある。戸惑いと思慮の時間を経て、メアリー・メイイェルは意を決したかの様に金属片を握り直した。
「もしや、これでイルサーシャの手入れが出来ないかとあたいに見せたの?」
返事をする素振りを見せる事なく、ユストは立ち上がっていた。数歩の歩みでイルサーシャの剣体を覆う雑多な布の許へ近付く。
「何もしないで諦めるのは性に合わないから取り掛かってみるけど…ユスト・バレンタイン、あんたが思っている結果通りになる保証は出来ないよ。」
湧水を張った桶に金属片が投げ込まれた。どぼん、と物事の始まりを知らせるのに相応しい音を耳にした後にユストは身体の正面をメアリー・メイイェルへ向ける。右手の人差し指と中指の腹を彼女に見せる。明日の夜までには仕上がるか、とユストの唇が動く。
「判った。やってみるよ。」
飾り気のない返事に満足を覚えたのか、ユストは踵を返すと幌馬車の出入り口へ脚を進めた。
「何処へ行くのさ?」
先程見せていた右の人差し指と中指の側面を合わせてひらひらと振っている。それが喫煙の仕種であるとメアリー・メイイェルが知ったのは、暫くして煙草の香りが仄かに漂ってからであった。




