少し高い所
雪か。
ミゼレレはそう短い言葉を放つなり、深い緑色の瞳に闇を与えた。
「その昔、雪舞う空を見上げては年端のいかぬ子供たちは喜び、大人たちは暫く猟が行えなくなると眉根を寄せたものだ。」
彼女の耳に柔らかな声は聞く者に景色を容易く描かせる。加えて過去を懐かしむミゼレレのしとやかな横顔は誰もが見入り、心を奪われても無理はない。大気すら風を吹かすのを忘れ、時の流れは微塵にも感じられない。ただ雪が頬に落ちては跡形もなく溶けていた。
「異教の男よ、マナエグナの民が滅んだ今も雪とはその様なものか?」
ユストの喉に触れているミゼレレの指が顎へ向けてなぞり始めた。常人は剣霊の肌に触れてはならず、剣霊も契約者以外の人間の肌に触れてはならない。傷を負い、血は流れ、命が絶たれる。
言うまでもなくユストにとってミゼレレは契約を結んだ相手ではない。過去に己の血を与えていようともその効力は既に喪失している。剣霊協会支給のスカーフに覆われている喉許はともかく、長い年月を掛けて丁寧に磨き込まれた彫刻の様な指先が剥き出しの顎に触れればどうなるのかは言うまでもなかろう。
たった一本の指で身体の動きを封じ込まれ、言わば生殺与奪の権利を握られてしまったユストは思考を巡らす事しか出来ない。この状況から逃れられる手段についてではない。目の前の神剣霊についてである。記憶を失った者とはこうも変わるのか。人間には到底得られないであろう万物を包み込む雰囲気はそのままではあるが、核となる何かが異なっている気がしてならない。
彼女はマナエグナの民と親しみを込めて語り、異教の男と明確な線引きをした物言いをした。慈愛の化身と表現しても過言ではないミゼレレの姿を借りた者の名が脳裏を過る。まさか目の前に姿を現したのは、とユストは双眸を見開いた。
あらゆる生命を切り裂く指が剣霊協会支給のスカーフの端に達した時、動きが止まる。ミゼレレはイルサーシャとは異なる趣の深い緑色の瞳に再び光を与えた。
「その様子からして汝は此方の名を存じているな?音がなかろうとも構わん、己の声で語ってみよ。」
ユストは唾を呑み込んだ後に口を動かした。顔を上に向けている唇に雪がはらりと舞い落ちる。その様子を見届けた後にミゼレレは答えた。
「如何にも。」
動きを止めていた指が男らしさの一端を担う顎を素早くなぞる。見るからに剣霊の、契約はおろか血を与えていないミゼレレの指そのものだが、皮膚を割く事もなければ血が滲む事もなかった。
「汝に会うにあたり、誰の姿を借りるべきか此方は考えた。汝が感情に左右されず素直に言葉を受け入れ、畏れ敬う者でなければならない。汝の父母では些か役不足、汝が契約を結んだ剣霊では説得力に欠ける。では、汝自身の姿ではどうだろうか。恐らく驚くだけで此方の言葉に疑問を抱くだけであろう。そこで此方の一部たちに問うたところ、口を揃えてサリシオンの妹の名を語ってな。」
顎に触れていた指は既に離れていた。
「なるほど、此方の一部たちにしては上出来だ。」
一難去ったと知った肌が不意に汗ばみ、その様子を知ったミゼレレが左右の口角を上げる。それは女の欲望を匂わせる形を見え隠れさせていた。
「何故そうなのか詮索はしないが、汝はサリシオンの妹には頭が上がらない様だな。それこそ蛇に見込まれた蛙とは汝の為の言葉かと思う程だ。」
くすりと控えめに嘲笑を放つとミゼレレは言葉を続けた。
「こうして此方が出張ってきたのだ。色々と訊きたい事があろう?今であればいくらでも答えよう。」
尊大な中にも寛容さを具えているらしい。だがユストの声帯は剣霊障の影響により震えず、その音は新月の日まで封じ込まれている。異端の崇拝対象であろうとも剣霊障について知らないとは思えない。常日頃からユストとイルサーシャの行動を、強いて言うなればイルサーシャが剣霊となる以前から誰に憚れる事なくこれまでの一部始終を眺めていた筈である。単に意地悪をして愉しんでいるのか、若しくはひねくれた性格の持ち主なのか。
ユストは筆記具を取り出そうとコートの内ポケットに向けて手を動かした。イルサーシャの行動からしてマナエグナの民に文字を使用する文化はないと思い込んでいたが、イルダの話を聞いてその仮定が覆されたばかりでもある。
だが、相手は人間にあらず。異端の崇拝対象に今の文字が通用するかどうか判らないが、と思いつつも僅かにも期待が芽生えつつある。尤も今のユストに相手との意思の疎通が図れる手段は文字しかないのだが。
顔の位置はそのままに筆記具を物色するユストの有様を眺めていたミゼレレは頭を横に振り、双眸を柔らかに細めた。
「実は蛇も声を出せなくてな。そもそも声帯という組織がない。汝は存じていたか?」
今度はユストが頭を横に振る。
「だが、声帯がなかろうとも蛇は相手の内側…何を想い、何を望むのかが判る。ないが故に判るのかもしれん。手に取って様々な角度でじっくりと吟味するほどにな。」
柔らかにした双眸に変化を与えずにミゼレレは僅かに首を角度を変えた。
「さぁ、早く汝の中で音なき声で語ってみよ。」
俄かに信じ難い話であるが、目の前の存在が法螺を吹いているとも思えない。ならば、とユストはある言葉を己の中で口ずさむ。果たしてミゼレレはどう答えるのか。そう来たか、と嘯くなり注視しか出来ないユストを前にミゼレレは麗しい唇を動かした。
「マナエグナの民は此方の創造ではない。全て逆だ。此方がマナエグナの民によって想念の拠り所として存在を明らかにした。故に彼らの起源については存じ得ぬ。何故彼らが滅んだのかについては簡単だ。時勢に呑まれてしまった。生ある者たちの淘汰という摂理に従ったまでに過ぎん。」
可憐な指が朝靄の先を指差した。そこには石造りの家屋がごく平然と並んでいる。物憂げであり、侘しさを伴っているのは朝靄の影響で映り具合が霞んでいるからなのか。
「木と違って石で出来ているとて日々の手入れを怠れば所々に不具合が生じ、やがては使用に耐えられんと判断されて取り壊しとなる。マナエグナの民も同様だ。此方に対する敬虔は素晴らしかった。だが、彼らは時代の潮流に乗ろうとする努めを怠った。むしろその潮流に抗えずにその尽くを呑み込まれてしまったと語るべきだろうな。それに、そなたたち人間からしてみればマナエグナの民の滅亡とあの家屋の取り壊し、気に掛ける者の数は大して変わらんよ。」
ミゼレレの言葉の終わりを知るなり、ユストは新たな言葉を彼女にぶつけた。
「形あるもの全てはやがて無に帰る。此方がその理に抗えるのは、そもそも形がないからだ。それにしても異教の男よ、汝はなかなか鋭い質問をする。マナエグナの民が滅んだ今、彼らの想念の拠り所たる此方の存在は確かに無用だ。だがな…。」
ミゼレレは手を伸ばし、ユストの頬を一撫でした。
「少し高い場所から景色を眺める立場とは…なかなかどうして捨て難いのだよ。」
生ある全ての視線を奪う艶やかな、そして妖しげな微笑を見せたのは意図によるものなのか、或いは自然と零れたものなのか。更にその判断を鈍らせる為か、ミゼレレの両腕はユストの肩に廻っていた。
心の襞を具現化したかの如くうねるミゼレレの薄緑色の髪を挟んで頬と頬が触れる。温かくないのは言うまでもなく、剣霊の様に冷たくもない。実体がないとは温度という概念を端から持ち合わせていないのだろう。崇められる者とは何処となく淋しい存在なのか、とユストが思えばミゼレレは満足げな吐息を漏らして頬を密着せんとする。雪が舞う中、ミゼレレを模した存在はユストという人肌の温もりを堪能しているのであろう。
「さて、このままでいたいがそうもいかんのでな。」
時間にして僅か十秒にすら満たないうちに彼女はわざとらしく囁いた。
「本題に入るが…汝はあれの手入れが終わったらルケリヤという邪剣霊と刃を交えるのか?」
あれとは何を指してだろうか。手入れという言葉からしてイルサーシャについて語っていると思われるが、何故その様な遠回しな表現をするのかユストは理解しかねていた。しかし返事はしなければならない。相手は是か否か単純明快な回答を望み、場の雰囲気が既にその様に働きかけている。ユストは己の中で何も語らず、黙って頷いた。しなやかな薄緑色の髪が頬と擦れる。薄暗い静寂に混じるその響きは不穏という二文字を思い起こさせた。
「そうか。」
単調な返事に対して短い言葉は恐ろしく落ち着きを払い、不気味さを匂わせる。
「意志は立派だが、身体がついていかぬのではないのか?」
ミゼレレはユストの肩に廻していた腕に力を込めた。傷を負った肩に激痛が走る。まるで蛇に巻き付かれた獲物を連想させる苦痛にユストは顔をその様な形相に歪める。骨同士が擦れて軋む音を奏でさせているのは剣霊のか細い腕であるが、男の力をもってしても解けそうにない。しかも彼女は力を込めている訳でもなく平静を保っている様子が視界から外れていようとも判る。
骨の内側、つまり臓器が圧迫され、尋常ではない息苦しさに口を開く。音のない咳を数回した後にユストは膝から崩れ落ちた。
「安心しろ、骨が折れるまでは締め上げておらん。だが、これで頭はもとより身体でも理解した筈だ。」
ミゼレレは膝を折り、彼女が纏うスカートが軟らかな衣擦れを奏でては髪の先端が石畳に触れる。不規則で儚げな文様が幾つも出来上がった。
「今の汝ではあの剣霊には勝てん。それでも汝は刃を交えるのか?」
ユストの左手が伸び、ミゼレレのスカートの裾を掴んだ。その確固たる掴みようをミゼレレは双眸を細めて見下ろしていた。
「汝は冷静沈着な男と見ていたが、実のところはあれと変わらず分別を失うと事が収まるまで意地を通そうとする。美辞で語れば不屈の闘志、平たく言えば闇雲この上ないというところだな。」
スカートの裾を掴む左手に冷たくも温かくもない右手が添えられた。それは無情の化身だとユストは時を移さず察した。
「先に語った通り、此方はもう少しこの世とやらを眺めていたい。その為には汝のつまらぬ意地であれを折られて失う訳にはいかん。実は汝の命の灯火を絶やさんと出張ったつもりであったが…ここは一先ず左手だけを貰うとしよう。」
ミゼレレはそう語ると無情の右手でイルサーシャの剣体を唯一握る事が可能な左手を包み込んだ。今度こそ骨を砕いて再起不能にさせる算段か。左手を貰うとは剣霊使いであるユストにとって絶命と同様である。無理に引き抜こうとすれば躊躇いもなく力を加えて目的を達成させるに違いない。肌に纏わりつく様な重苦しい空気と不安を助長させる緩やかな時の流れがユストの音なき呼吸を荒くさせる。想念の拠り所と語る存在の意思に甘んじるしか選択肢は残されていないのか。
ユストはミゼレレを見上げた。疑問と救済を織り交ぜた眼差しに応えたのは悲哀に染まりきった奥深い緑色の瞳であった。本物のミゼレレでも不可能と思わせるほどの達眼は秒を数える間すら与えずにユストの抵抗心を霧散させた。
「最後に聞くが、汝はあれをどう思う?」
舞う雪がミゼレレの睫毛を彩った。
「あれは大事か?」
無論だ、とユストは己の中で答えた。
「何故に大事か?」
彼女と共にあるのが愚生の生涯だ、と確固として己の中で説いた。
「ならば何故にあれの身に危険が及ぶ戦いに挑む?汝とあれの共倒れが判っていようともだ。」
改めて理由を問われると回答を述べる事に対して些かの躊躇いが生じる。果たしてその言葉はミゼレレが望むものと合致しているのか、という不安に駆られた。だが言葉をこねくり回す余裕はなく、彼女もその様な時間を与えてくれはしまい。
無情の右手の人差し指がとんとんと時計の秒針とほぼ同じ速さで拍子を打ち始めた。回答を催促している。五回、十回と調子に寸分の狂いすら生じさせずに打ち、十一回目を終えると人差し指は静かになった。代わりに親指と小指のそれぞれの先端が外側へ開く。ユストの左手と触れている面が増えつつある。
一か八か。ユストはミゼレレのスカートの裾を掴む左手に力を込め、本音をぶつけた。
ほぉ、とミゼレレが感嘆の意思を漏らした。
「不器用な者同士が意地を通して何が悪い、とはな。」
無論、彼女が息を吐こうが大気の一部が白く彩られない。
「説得力に乏しい事この上ないが…此方の可愛い巫女も全く同じ台詞を吐いてな。汝たちの言うところの五百年ほど前の話だ。懐かしいではないか。」
言葉に違えず遠い眼差しを晒すミゼレレは無情の右手を楽にさせた。ほぼ同じくしてユストも左手の力を抜いた。
「不器用な者たちを今少し眺めるのも一興かもしれん。」
立ち上がったミゼレレは豊かな畝を持つ薄緑色の長い髪に緩やかな弧を描かせながら踵を返した。
「ただ、だいぶ危なっかしい。此方が少々てこ入れをしてやろう。」
ユストはミゼレレの後ろ姿を見上げていた。助かったのか。安堵の息が自ずと緩やかに漏れる。依然として朝靄の濃さに変化は見られなかった。
庇程度で構わない。雪が凌げれば良いだけである。先程ミゼレレが指差した石造りの家屋がその条件に当て嵌まった。歩けるか、と気遣う言葉を掛けずにミゼレレは粛々と脚を動かし、ゆらりと立ち上がったユストは歩む振動で痛む肩を押さえながらその場に辿り着いた。
石造りの壁面にユストは全体重を預け、口で音なき呼吸をする。
「脱げ。傷を見せろ。」
どうやらてこ入れとは治療の事らしい。この場合、ユストの右肩を指してであるのは明確である。
薄緑色の髪に付着した雪の結晶が形を留め、薄暗い世界の中で典艶とした唯一の存在として際立っているミゼレレではあるが、その仕草や口調はユストが知る彼女ではない。げんに彼女は腕を組み、板についたと誰をも言わしめる程の尊大な様子が覗えた。
彼女の言葉に抗わずにユストはコートを脱ぎ、シャツのボタンを外した。乾いた血糊が付着したシャツの、のっぺりとした色合いと対比して黒蝶貝を用いたボタンの煌めきが薄暗い世界に華を添えている。その有様にミゼレレは僅かながらにも関心を抱いたのであろう。組んでいる腕はそのままだが、首の角度に変化を与えていた。
傷口を見せる為にその場に座り込む。直立状態に疲労を覚えていた事もある。夢を思わせる薄暗い世界でも石畳の表面は現実と変わらずに固く冷たい。
「腱に損傷は見当たらず、単なる裂傷か。だが動けば動くほど傷口の癒着に支障が生じる。汝、針と糸は所持しているか?」
縫合する旨を伝えている。実体を持たぬ崇拝の対象となる者が自ら施術すると語っている。過程や結果について疑問が付き纏うがユストは首を縦に振った。既に体力の消耗が著しい。意識を保持し続ける時間は長くないと認めざるをえない状況でもあった。
ユストは糸を取り出し、針を煙草の様に口に咥えた。手際良くマッチを擦り、針の先端を炙った後に糸を通す。その場凌ぎではあるが消毒済みの施術の道具を用意する。一連の動作を眺めていたミゼレレは差し出された品を前に苦虫を潰した様な面持ちを晒していた。それは本物の彼女であればそうそうお目に掛れないであろうとユストは気付いただろうか。
「そのマッチとやらは此方が預かろう。」
突拍子もない言葉と共にユストには理由を訊ねる時間すら与えずにミゼレレはマッチ箱を奪う様に己の掌に収めていた。
「どうも火というやつは眺めていて気持ちが良いものではないのでな。」
そう零すとミゼレレはユストの前で膝を折り、傷口に顔を近付けた。
「マナエグナの男たちは傷を負う度に縫合しては武勇を示したものだ。果たしてそれは己の名誉の証なのか、単に生への執着に対する瘡痕なのか。汝はどう思う?」
生きる者は生への執着を忘れない様にあらかじめ心の奥底に刻まれている。そして生きる為には名誉も必要なのかもしれない。ただ、誰にどの様に思われようとも生きていれば道は自ずと開けるものだ、とユストは己の中で語った。
「如何にも。マナエグナの民は滅びようにも彼らの全てが全て、万事に於いて耐えがたい苦痛や絶望の生涯を味わった訳ではない。時には愛と喜びに満ち溢れた時間を多くの者が過ごした。だが同時にこの考えは此方の意志を認める事でもあるのだがな。」
ミゼレレが短い微笑を洩らした音をユストの聴覚は捉えていた。
「異教の男よ、汝がそうであって此方は嬉しいよ。」
可憐な指が傷口をなぞる。上から下へ、下から上へと数回往復させている。見た目に反して硬い指は生ある全てを切り裂く刃とは異なる。やはり温かくも冷たくもない。肌と肉が異物に触れていると悲鳴を上げる代わりに痛覚を最大限に働かせている。
「傷口が騒いている、か。少し大人しくさせてやろう。そのまま動くな。」
医術の心得がある者の様な口調で語った後にミゼレレは可憐な指を傷口から離した。そして奥歯を噛み締めて激痛に堪えていたユストは一息吐く間もなく指とは異なる新たな感触を知った。ミゼレレの唇が傷口に密着している。剣霊で言うところの食事と同等の行為とみるべきか。だが彼女の喉は食事中の剣霊たちの様に貪欲な音を立てていない。その逆である。傷口を通して何かが体内に注がれている。痛覚が麻痺し始めてしまったのか、そもそもこれは夢であり現実とは掛け離れているのか、身体が鉛の如く重く感じられた。あらゆる筋肉が弛緩した錯覚を感じられずにはいられない。
ミゼレレが唇を離した。虚ろに開いたままであろうそれをユストに見せる事もなく、彼女は縫合に取り掛かる。針が刺さり、肉を貫き、糸が通される。鈍化した身体が辛うじてそう教えてくれる。
どれくらいの時間が経過したのだろうか、とユストは思考を巡らせた。舞う雪は止みそうになく、朧げな視界を形成する朝靄は依然として掛ったままである。未だに往来はなく、鳥の囀りも聞こえなければ野良犬がうろつく姿すら確認できていない。痛覚を失いつつある身体も相まって意識が朦朧としつつある。
「退屈しのぎではないが、一つ昔話を聞かせてやろう。」
手を休めずにミゼレレはそう語り、言葉を続けた。
「マナエグナの民は山の中で暮らしていた。そう、数にして二千程度か。五つの山を生活の場とし、獣を狩り、木の実を採っては日々を過ごしていた。最後となった此方の可愛い巫女がまだ幼子であった頃、彼女は外の世界が知りたいと、ふと思い付いた。彼女は周りの者にその旨を伝えたかったが、一方的に反対される事も判っていた。そこで彼女は己の立場を利用したのだ。彼女が何をしたのか汝は判るか?」
ミゼレレの言葉が一旦止み、ユストは頭を振る。傷口が少々突っ張った。
「外国の様子を見るべしと此方のお告げがあった、と彼女は嬉々として触れ回ってな。言うまでもなくそれは彼女の思い付きだ。全く以って出鱈目も好いところだが、マナエグナの民からすれば巫女の言に変わりない。巫女様御冗談を、と面と向かって宥める者は皆無であった。先代、先々代と無理矢理仕立て上げられた巫女とは違って彼女は生まれつき白銀の髪を持っていたからな。巫女になるべくして産まれた存在の言葉に周りは訝しさを抱きつつも、それを表に出せずに首を縦に振ったのだよ。」
その一部始終をあなたはどの様に眺めていたのか、とユストは訊ねた。
「なかなか賢い子供だと感心したよ。向こう見ずと言えばそれまでかもしれんが、度胸も見上げたものだ。これから先、教えに従って短い一生をマナエグナの地で終えなければならないその身を彼女は理解し、受け入れていたのであろう。故に生に対する些細な渇望を、ちょっとした我儘を言ってみたかったのだと此方は捉えている。」
話が少しずれたな、とミゼレレは語りながら苦笑を間に入れた。
「幸いな事にマナエグナは周辺の外国とは付かず離れずの関係を保っていた。言うなればお互いに干渉せずと表現するべきかもしれん。山の奥で細々と暮らす閉鎖的な単一民族に外国の者たちはさして関心を示さず、マナエグナの民たちも他では理解されないであろう此方に対する敬虔を穢され、平穏な日々を脅かされまいと拒んでいたというのが実情だ。その様な中、マナエグナの巫女という立場の者が山を下りるという話題がすぐさま広まった。さてさてマナエグナの巫女とは如何なるものか、と外国の者たちは老いも若いも揃って彼女の姿を一目見んと外に出ては街を賑やかにさせていた。彼らにとってマナエグナの巫女とは成人を迎えた女で神秘的な容姿を想像していたのかもしれん。だが、実際はどうだ、年端のいかぬ小娘に誰もが憂慮の目と好奇の眼差しで歓迎する事となった。一方、此方の可愛い巫女はどう思ったのか。外国の者たちとは姿形は似ていようとも、話す言葉と身に纏う物が異なる。食料も多様性に富み、これまで口に入れていた単調なものとは雲泥の差と言えよう。外国の方が遥かに文明が発達していると彼女はすぐさま肌で受け止めたのも無理ない。幼気なだけに敏感で己に嘘は吐けんのだろう。結果として恥ずかしくなったのか、ものの数時間でマナエグナの山に帰りたいと駄々をこね始めた。これには取り巻きの連中も呆れたのか困ったのか、だが邪険な扱いも出来ん。今から帰っても山越えの途中で陽が暮れて危ないから、という尤もらしい言葉で彼女を説得し、その日はかねてからの予定通り宿を取る事となってな。」
ミゼレレの耳に優しい響きは当時の景色と様子を容易く描かせる。傷口を縫う針が肌を貫き、糸が遠慮なしに通ろうともユストは幾分柔らかな面持ちを保っていた。
「使い慣れた寝具とは異なるが、寝心地が良さそうなそれの上で彼女は毛布に包まりながら此方に語り掛けた。己の行動は過ちだった、機嫌を損ねていないか、と。いつの頃からかマナエグナの民は外国は此方と対なる者が幅を利かせている邪悪な世界だと信じ、彼らは自我の覚醒と共に年長者からその様に教え込まれ、命の灯火が尽きるまで遵守させられていた。そして巫女たる者が此方の名を笠に着て掟を冒した。彼女にしてみれば後悔後に立たずという心境だ。だが、そもそも此方が不機嫌になる要因はひとつもない。むしろ興味と憂慮の間を抱きながら眺めていたよ。彼女はこれから先、マナエグナの地を出る事なく此方に対する信仰と共に短い生涯を終える。今回の件で此方の名を使った思いつきは二度と使えまい。雁字搦めになった教えや掟に立ち向かう事も出来ず、打破する機会も与えられないであろう。一度錆び付いた歯車は内側からどうこうしようと元の様にはならん。外から壊すぐらいの衝撃で動けば御の字、だが大半は実際に分解しなければ結果は望めないのと同じだ。彼女はこのまま内側の者になってしまうのは明らかだった。ならばせめてもの慰めではないが、今のうちに外の空気を吸っておくべきだと此方は思った。」
針を傷口に刺したままにしてミゼレレの右の人差し指がユストの顔の脇を通り、一点を指した。
「あれが何だか判るか?」
朝靄の先に見えるのは厩舎であった。
「近くの厩舎で一番体格が良い馬に協力して貰い、彼女の部屋の窓辺に立たせた。気付かせるために風を吹かせて窓を数回震わせる。何事かと驚いた彼女が窓辺に近付き、馬が背中に乗れと鼻を震わせる。鞍や鐙、手綱がなかろうとも幼い彼女にとって躊躇いはなかった。マナエグナの民は山奥で暮らす為に大半は馬を知らん。知っている野生の四つ足といえば鹿か山クジラ程度だ。勇気や覚悟、そんな畏まった想いは無用の長物だ。立派な体躯と豊かなたてがみ、艶々とした長い尾の持ち主にすっかり魅了された彼女は長い首に腕を廻し、全身を逞しい背中に預けた。始めはゆっくりと、揺れ具合に体を慣らし、徐々に速度を上げる。好奇心の塊と化していた彼女にとって恐怖や不安は皆無、むしろ喜びがとめどなく湧き上がる様子が一目瞭然であった。」
施術の手が再び止まる。ミゼレレは顔を傷口に近付け、犬歯を用いて糸を切断した。彼女の豊かな髪の一部がユストの背中を何気なしに撫でてはすぐに離れた。
「月が大きく、照らされた景色は青白く儚く、そして美しかった。想念の拠り所たる此方を感傷に浸らせた要因はもう一つ。此方の可愛い巫女の屈託のない笑顔だよ。彼女が同じ表情を見せたのはそれからだいぶ先の事だ。」
一呼吸を置いて終わりだ、とミゼレレが零した。清流の如く滑らかな声色と落ち着きのある響きは己が語った回想の余韻を味わっているのか。
施術を終えたのであれば肩を晒したままである必要はない。ユストは脱いだシャツに袖を通し直した。傷については治療とは言い切れないものの、縫合した事により心理的な不安は取り除かれた点は自ずと認識している。
それよりもイルサーシャが馬の気持ちを読める謂れを知る機会に恵まれた。なるほど、幼き頃の奇跡が原因なのか、と思いながらユストは己のシャツのボタンを詰っていた。メアリー・メイイェルによる手入れが終了した際、イルサーシャは多少の動揺を見え隠れさせるであろう。その様な彼女を幾許かでも落ち着かせられるのであれば馬に乗せる機会を設けるべきかもしれない。幸いな事にグスタフ・ヴェネシュという知己を得た。彼に頼み込めば喜びはしないまでも、そう渋らずに馬を貸して貰えるであろう。
「いや、その必要はない。」
背後にいるミゼレレの右手がユストの額に触れ、そのまま彼女の胸許へ押し倒される。左手は巻き付く様に肩に廻っていた。その有様は母が我が子を慈しむ姿、女が最愛の男に安らぎを求める姿、そして蛇が獲物を締め付けて喰らう間近の姿と言えようか。
「そもそもあれは姿かたちは似てようとも此方の可愛い巫女ではない。」
抵抗を試みようにも額を抑え込まれては動きが封じられたも同然である。ミゼレレの胸許に後頭部を沈ませつつユストの聴覚は事の真意を捉えんと否応にも敏感になっていた。
「人間には核となる魂が一つ。その周りにはいくつもの感情がひしめき合っている。彼女が剣霊になる際、その感情の一つが魂よりも先に自我を掴み取ってしまった。気は強く、強情だが勇ましく、弱音を吐かない荒々しいだけの感情が剣霊となってしまった。これには此方とて流石に驚いたものだ。同時に人間とはなんとも不確定な生物なものかと痛感したよ。」
額に触れる手が何かを探しているのか、もぞもぞと這う様に動く。眉間から頭髪の生え際を四本の指が一直線に並ぶ。ミゼレレはこれから何をしようというのか。
「時間だ。有意義な一時だったよ。」
四本の指に力が込められる事はなかった。軽く穿っただけである。同時にユストは糸が切れた操り人形の如く脱力し、ミゼレレに身体を預けた。意識を失った男の弛緩した四股を彼女はびくともせずに支えている。
頭が自ずと右に倒れた。剣霊協会支給のスカーフで隠されているものの、イルサーシャの食痕が刻まれた位置が上を向く。何気なく見下ろしている慈愛に満ちた淀みを知らない緑色の瞳はその有様を数秒間見つめた後に闇を与えられた。
「此方の可愛い巫女が死ぬ間際にある男について此方に語ってな。その時だ、再び笑顔を見せたのは。五百年余り過ぎた今、彼女にとってその男の容貌は既に朧気であろうが…彼女は己の腹に気を遣っていたぞ。死しても尚だ。今こうして汝と共にしているとあの頃が、彼女が発した一句一句が此方の中で蘇るよ。」
朝靄は晴れずとも雪は舞う事を止めてしんしんと降り始めている。仕上げとするか、とミゼレレは嘯くなりユストの身体から両手を離した。
やけに周りが騒がしい。あらゆる眼差しがこちらに向けられているのが視力を駆使しなくても肌を通して判る。懐かしくはないが、ここ最近になって頻繁に耳にする声が耳殻に纏わりついた。何やら喚いている。誰に向けてなのか詮索するのは面倒であり、野暮と思えた。そして遠慮なしに肩を揺すられ、終いには頬を軽く叩かれた。
まどろみから解放されたかの如くユストが目を開ける。目の前には神妙な面持ちのグスタフ・ヴェネシュと物珍しいものにでも遭遇したかの様な視線を送るエルスノアの姿があった。
「兄弟、いくらあんたが剣霊使いでも冬の寒さに挑むのは無謀ってもんだよ。ほら、こんな冷たくなって。」
ユストは今しがた頬を叩いたであろう掌を見せるグスタフ・ヴェネシュを一瞥した後に周囲を見渡した。メツァールント市街地の目抜き通りの片隅である。どうやら雪が降る中にも拘らず座り込んで睡魔に身を委ねてしまった、としか言い様のない状況であった。
なぜこの様な場所に好き好んで腰を下ろしたのだろうか。僅かながらにもひさしはあるが、しんしんと降り続ける雪を避ける為なら家屋の中に入れば事は済む。望郷の念に駆られて独りで物静かな景色を堪能したかった、とは到底思えない。いや待て、独りであったのかすら怪しい。髪の上に積もった雪が溶け、冷たいものが額を経て鼻筋の脇を通った。
ユストが記憶を手繰り寄せている中、傍観していた住人の一人が立ち去り、また一人とその場を後にし始めた。グスタフ・ヴェネシュが剣霊使いと口走った事が原因と言えよう。剣霊使いとは羨望と卑下が入り交じった眼差しを受けるものである。その様な対象と眼が合ってしまったらどうなるか。彼らに睨まれては命が幾つ有ろうとも足りなくなる、と衆生は信じて疑わない。
ユストを見つめる眼差しが二人分のみとなった時、彼の脳裏にある剣霊の姿が浮かび上がった。躊躇いとは無縁の、ぽろりと落ちるかの様にユストの唇が音なき言葉を象る。残る眼差しの一人は何の事やらとあからさまに首を傾げた。もう一人はユストの唇の動きを正確に読み取ったのであろう、双眸に憂慮という名の曇りを与えて応えた。
「彼女でしたら契約者と共に剣霊帝様のお傍におられます。あなたは恐らく…夢の中の話をしているのですよ。」
エルスノアの言葉に疑問を抱かず、それは虚言ではないと容易く理解できる。しかしユストの内面ではその事実は真実ではないと拒もうと働き掛けている己を否定出来ずにいた。
改めて周囲を見廻す。雪が降ろうとも往来は絶えず、雑多な足跡の中で遥か彼方まで続くかの様に馬車の轍が目に留まった。均等な間隔で弧と直線を描いている。視点を上へずらせば葉を落とした樹木の枝の上で鳥が囀り、せわしない人間たちに一時の憩いを与えようと試みている。メツァールントのごくありふれている日常の一部となっている己を知ったユストは普段と変わらずに鼻から音なき溜め息を零した。
夢とは時の経過と共に記憶から薄れる。いや、単に抹消されると言うべきか。今回もその類であるとユストは思いたいものの、やはり得も言えぬ違和感が拭えない。
思い出そうとすればするほど、その剣霊の表情や仕草が脳裏を覆い尽くそうとする。その代償ではないが、彼女が発したであろう言葉が深い霧の中に隠れてしまう。
そぞろな面持ちを遠慮なしに晒しているユストが無意識に煙草を咥える。すかさずグスタフ・ヴェネシュが捩じり込む様にユストの正面に身体を移動させた。
「ここじゃあ駄目だ、兄弟。剣霊使いでも罰金免除とはならんと自分は思うがね。」
メツァールント市街地では公共の場に於ける喫煙は禁止されている。そうだったな、とつまらなそうにユストは頷いて謝意を見せ、咥えた煙草を元の位置に戻す。そしてある事に気付いたのか、ぴたりと動きを止めた。
煙草と一緒に胸ポケットに入れているマッチ箱が見当たらなかった。何処かで落としたとは考え難い。考えられるのは誰かに渡してそのままにしてしまった、だろうか。イルサーシャは言うまでもなく、エルスノアやメアリー・メイイェルに渡した覚えはない。グスタフ・ヴェネシュに残り少ないマッチ箱を投げた際に新たなそれは確かに所持していた。未だに例の剣霊の横顔が脳裏を彷徨っている。彼女に渡したというのか。ただ、このメツァールントにいる筈もなく、火を必要としない彼女に渡したとは考え難い。
「まぁ、祖国を離れているうちにいろいろ変わったのだな、と嘆くのも尤も。自分とて荷物を積んで行って帰ってみれば税率が悪い方向へ変わっていたり、水の値段が倍近くに跳ね上がっていたり、向こう三件隣りの坊ちゃん嬢ちゃんがめでたく結婚していたりってものだよ。」
グスタフ・ヴェネシュが持ち前のにんまりとした笑みを見せる。気休めには程遠い言葉だが、彼なりに気を遣っている心意気は充分汲み取れた。
お喋りの時間はそこまで、と前置きと共に今度はエルスノアがついと二人の間に割り込んだ。
「いつまでこんな場所に腰を下ろしているつもりですか、ユスト・バレンタイン。目を覚ましたのなら早々に肩の傷を診て貰える所へ向かうなり、メアリー・メイイェルに依頼の進捗を尋ねに行くべきではありませんか?」
「流石は我らがきょ、いやエルスノア様。的確な御指示を仰いだら大陸一ですな。」
「なに馬鹿な事を言っているのです。グスタフ、あなたも帰路の馬車を調達しなければならない仕事があるでしょう?こうしているうちに時間が過ぎてしまいますよ。」
「えぇ、まぁ、そうですが…それがなんともかんとも。」
「まさか帰りはずっと単騎掛けのつもりではありませんよね?」
「あの、最悪の場合は…。」
「なりません。何が何でも調達するのです。」
判りました、と意気消沈な返事をしたグスタフ・ヴェネシュはユストの横顔に己のそれを並べて囁いた。
「協会長様はてこの原理ですら真っ向から否定を証明してしまうほど頑固な性格の持ち主でね。こうなってしまったらどうにもならない。特大の雷が落ちる前にお互いのやるべき事を素直にさっさと済ませようや。兄弟の場合、まずは立ち上がってこの場所を後にする事だ。傷に響くだろうが、自分が肩を貸すから痛くても我慢してくれよ。」
人間であれ剣霊であれ、女とは下手に頑固なものだ、とユストは常々思っている。だが、今は討論する場でもなければその様な時間を費やす余裕はないと理解している。グスタフ・ヴェネシュの情けに従って彼の肩に腕を置くために脇の角度を広げた。想定していたよりも痛みは走らない。むしろ無痛である。
「シャツのボタンが幾つか掛かっていないよ、兄弟。自分で掛けられるかい?」
己の胸許を覗き込む。外した覚えはないのだが、と疑問に思いつつ少々違和感が否めない。ユストは空いている手を胸許へ潜り込ませた。己の肌とは異なる何かに触れる。
包帯代わりに服を割いた端切れが用いられていた。緑色の肌触りが滑らかなそれは誰によるものなのか、と特段考える必要はなかった。ユストは端切れに掌を当て、巻いた者の温情を確かめているかの様に上下に数回動かす。
やはり夢ではなかった。彼女と何を話したのか、そして彼女がどの様な目的で接触を図ったのかについては未だに霧の中である。だが構わない。遭逢の刻を経て得たものは相手が知っているのであればそれで構わない。
ユストは立ち上がるとシャツのボタンを掛け、何事もなかったと言わんばかりに歩み始めた。
「あ、兄弟。独りで大丈夫かい?無理はいけないよ。」
後方で聞こえたグスタフ・ヴェネシュの声にユストは歩みを止めずに包帯代わりの端切れが巻かれている側の右手を挙げて応えた。痩せ我慢にも程があると言わんばかりにグスタフ・ヴェネシュがユストを追おうと大股な一歩を踏み出そうとする。すかさずエルスノアが制止の声を発した。
「彼は何をやるべきか理解したのでしょう。邪魔してはなりません。」
身体の前で両手を重ねているエルスノアが静かにそう語り、天を仰ぐ。限りなく降り注ぐ雪と彼女の立ち襟の奥から覗く喉は同じ柔らかさと儚さを具えた色合いであった。
「ミゼレレ、何故あなたがここにいるのですか。」
思わず漏れた声をグスタフ・ヴェネシュが捉えていたのかは判らない。ただ彼もエルスノアを真似たのか、天を仰いだ後に革製の帽子の鐔を押し下げた。
「自分もちょっくらやるべき事をしますかね。まずは馬たちに飯を食わせて機嫌を取らないと。」
「えぇ。そうなさい。」
「ところで協会長様…。」
グスタフ・ヴェネシュは敢えて慣れ親しんだ呼称を選んだのであろう。彼は押し下げた帽子をそのままにズボンのポケットに両手を捻り込んだ。
「この先、何事もなければ良いですなぁ。」
「さて…それはどうでしょう。」
「なんかこう、胸騒ぎってやつですかね?何処か違う場所から自分たちを悠々と眺めている何かがいるんじゃないかって錯覚に陥った気分に駆られまして…。」
エルスノアは何も答えず、ただ彼に一瞥を僅かに送っただけであった。
雪は止みそうにない。それでも往来は途絶えずに日常の一片を映し出している。




