一方的な愛情
夜の帳に変化が生じようとしていた。
重苦しくも眺める者に思慮を誘い感傷へ導く色合いが薄くなりつつある。葉を落とした木々の硬い肌は風に抗い、人間の往来とは無縁の大地から生えた名もなき草たちに於いては気怠そうに身を躍らせていた。
星の瞬きは垣間見れず、大気が湿り気を帯び始めている。荒天の前ぶれか、とユストは見上げていた空から彼の左横に佇むルケリヤへ視線を移し、音を立てずに立ち上がった。
「内側へ戻るのですか?」
ルケリヤの物静かでつれない言い様ににユストは頷いて見せた。今ある場所は長時間滞在するべき場所ではない。彼女の言葉を言い換えれば日常の世界へ戻るとも捉えられようか。
もし二人が逢瀬を堪能した男女であれば別れを惜しむあまり互いに手を取るなり、身体を摺り寄せるかもしれない。しかし第十三条による食事がもたらす血の効果が持続していようとも、ルケリヤのすげなさに満ちた口調といい、ユストの冷ややかな面持ちは既に他の事柄へ関心を向けていると物語っていた。
「エルスノアと…グスタフ・ヴェネシュ、でしたか。二人は起こさずに置いていくとでも?」
今度の頷きは先よりも素早く小さいものであったが、確固たる意思をエルスノアに思わせた。
「あなたがいないと二人が慌てふためくでしょうね。それにあの邪剣霊が再び姿を見せないから安心だとは言いきれないのでは?」
ユストにとって想定内の疑問であったのか、彼は何かを考え込む素振りを見せず、ただ右の人差し指を真上に向けた。
「髪がこの様になる以前の我は手に取る様に空模様の予測がついたものですが…。」
ルケリヤも乳白色のテント越しに空を見上げた。彼女の視覚は飾り程度までとはいかないものの、大幅に減退しているらしい。それでも空を見上げ、柴色の瞳を細くする。
「なるほど。早々に雨もしくは雪が降るから問題ないとあなたは考えている様ですね。」
剣霊は湿気を嫌い、水分に触れてはならないと荒天時の行動は極力避ける。この定説は剣霊の特異性を表していると思われがちだが、少々異なる。そもそも雨に濡れる事を喜ぶ生物がごく一部に限られ、それらによる脅威は皆無と判断出来よう。大半が降雨降雪から身を守りつつ晴れ渡る空を待つものである。つまりこの場に留まっていれば身の危険に晒される心配は無用とユストは言葉を使わずに説き、日頃から冷静であったであろうルケリヤは彼の意図を滞りなく理解していた。
「都合が良過ぎる見立てだと思いますが、まぁ好いでしょう。」
まるでユストを真似たかの如くルケリヤは鼻から溜め息を漏らした様な仕種を見せた。
「今のあなたはメアリー・メイイェルがマナエグナの巫女の剣霊を問題なく手入れを行っているか気になって仕方がないのでしょうから。」
この話は終わりだと右手で払い除ける動作を一回行った後、彼女は熟睡の域に脚を踏みいれてからかなりの時間が経過しているエルスノアの横で臥した。
他の剣霊の契約者の血を得たと言えども、一時的な体力を取り戻しただけに過ぎない。それも刀身が通常の頃と比べ、遥かに劣っている。あと一日程度の時間の経過で蓄えた体力は消滅するとルケリヤは計算していた。その様な彼女の淑やかな唇が動いた。
「愚かな人間は己が満たされている時にあまねく星々の輝きによる空の彩りを見ず、己が窮した時に空を見上げては暗く鬱々とした空に愁いを募らせる。」
粛々としたルケリヤの嘯きを耳にしたユストは返していた背を元へ戻す。
「陽光に温もりと落ち着きを感じ、時には渇きを覚える程の日差しを与えてくれる。対する月光はそれらを与えない。我々が強く望もうとも太陽は時として応えるが、月はただただ隠れようとする。」
単なる独り言にしては内容が仰々しい。くどい。ルケリヤが生きた時代の呪いだろうか。もう少し内容を聞いてみるか、とユストは臥したルケリヤの許に足先を向けた。
「隠れる月の代わりに星々は我々の願いに応えた。我々だけが常に星々の輝きを求めては愛し、その煌めきを親しんでは敬ったからだ。ここに我々は星雫の刃に安寧を託し、炯々とした姿に永劫の約束を交わす。」
星雫の刃とは如何なるものか。隠語の一種だろうか。あてなき想像にユストは眉間に皺を寄せる。一方のルケリヤは己の視界にユストの輪郭を認めるとゆっくりと双眸に闇を与え、一呼吸おいて語った。
「これはマナエグナの民たちの祈りの一部。何故我が知っているのか、とお思いでしょうが無理もないですね。」
ユストの思惑をさも理解しているかの如く、ルケリヤは短い微笑を零す。そこには荒寥とした回顧が滲んでいた。
ルケリヤは一家の中で末子であったという。上に兄が二人おり、長兄は家業を継ぐ覚悟に己の全てを投じた大変真面目な人物であり、言葉の端々は理論的で時として冷酷な物言いをする。背も高く、見映えも良い。誰もが羨む兄ではあったが、言い換えれば妹としては面白味のない男に映った。次兄は長兄とは異なり、自由奔放な性格の持ち主であり、少々疎放なところもあった。つまり人間味に溢れた人物ととも言える。年齢がそう離れていない事も手伝ってルケリヤからしてみれば、彼の方が親近感があり、遊びに勉強はもとより家事の手伝いと、共に過ごす時間が多かった。
時勢は小国か生まれては大国に滅ぼされ、大国が自壊の道を辿れば新たな小国が勃興するという騒乱の時代に大陸中の者たちが辟易を覚え始めていた頃である。
若かりし頃は全てにおいて前途洋々に思えてしまう。ルケリヤも例外ではなかった。街一番の美人と褒めてくれる老夫婦という稀有な存在もいたが、気恥ずかしさだけが募る言葉に過ぎない。大半の者は笑顔の素敵なお嬢さんという扱いをしてくれた。この扱いに不服は感じられず、むしろ気楽でいられた。気楽であればうら若き脳裏を様々な想いが席捲する。
恋。誰もが年頃になれば立ち止まらなければならない通過点にルケリヤも到達した。誰に対してなのかは言えなかった。両親はもとより、仲の良い友達にも彼女は言葉を噤んだ。
「捻れた愛情、とあなたはお思いですか?」
ユストは二本の指で顎をゆったりとした動作で詰りながら首を傾げている。ルケリヤには体の良い回答を模索しているとしか見えなかった。
「今となってみればその意見に真っ向から否定する気はありませんし、そもそも出来ません。やはり捻れに捻れた恋には変わりありませんから。」
過去を懐かしむ者の表情とは、経過した時間が多ければ多いほど静寂を纏う。遥か彼方を思い描く眼差しに笑みは不要であり、ルケリヤも剣霊になろうともその法則に従っていた。
「我にとって誰にも触れさせず、踏み荒らされない秘密の聖域。そこに心身を浸すのが我の日課でした。」
実体のない恋は結果の形成を許されず、唯一残すのは深い悲しみに身を打ち拉がれる事実である。そしてその到来の時は予測不可能であるとルケリヤは知っていたのだろうか。いくら彼女が聡明であろうとも、恋という感情は適切な判断力を鈍らせていたのであろう。
その日の朝は今と同じく大気に湿り気が含まれていたという。跳ねようとする髪を綺麗に整えようと何度も何度も、丁寧とも執拗とも思えるほどに櫛入れをしていた事をルケリヤは覚えていた。妹だから、と少しだらしないところがあっても許されるかもしれないが、女として見て貰いたい願望が優り、その衝動は様々な空想を思い描かせる。
今日はどんな話をしようか、手を繋いでくれるだろうか、後ろから抱きついても変な顔をされないだろうか、少々大胆な事をしても普段通りに優しく接してくれるだろうか、と次々に沸き起こる都合の良い空想に胸を躍らせながら兄の部屋の扉を叩いた。
返事がない。返事の代わりにごそごそと寝起きの物音が聞こえてくるのは度々であったが、それもない。もう一度扉を叩く。やはり結果は同じである。
寝坊をする様な兄ではないと思っていたが、たまには怠惰な朝を過ごしたいだけかもしれない。だが、素直にそうと受け止められない己もいる。ルケリヤは擦れに擦れた扉の取っ手に背徳に浸した可憐な指を掛けた。
胸の内に蟠る一抹の不安を払拭するかの如く、思い切りよく扉を開けた。眩い日差しがルケリヤを出迎える。母の御手製による遮光性のあるカーテンは綺麗にタッセルに巻かれ、ベッドのシーツに皺の一つもない。部屋の主の姿も見当たらない。それまで雑然としていた部屋が小綺麗に片付けられている。その清々しい光景はルケリヤに酷い動揺を与えた。
「机の上に二通の手紙が置いてありました。一通は父母へ、残りは我に宛てたものでした。各国の情勢が日に日に変わる中、見聞を広めたく旅に出る勝手を許して欲しいという内容です。そして我への手紙にはもう一言添えられていました。旅立つ兄の事は忘れ、いい女になれ、と。」
ルケリヤは剣霊らしさが辛うじて保たれている唇を噤み、ユストを一瞥した。
「男とはどうしてこうも身勝手なのでしょうね?」
自らに憫笑を送るルケリヤにどの様な眼差しを向けるべきかユストはその術を見つけられなかった。音なき深い溜息を鼻孔から漏らして煙草に火を灯す。吐く息と同化した煙が薄れつつある夜の帳の色を更に淡くした。
「無論、実の兄の一挙一動にときめきを覚えた我も身勝手でしょうけれども。」
ルケリヤは再び自らに憫笑を送る。先よりも少し弱く、哀愁を匂わせているのは自己愛の一端によるものか。広がっては消えゆく煙草の煙を一瞥した後にユストは顎をしゃくり、話を続けろと促した。
兄と共にする日常を失ったルケリヤに残されたのは落胆と苦悩に身悶えする日々であった。時の流れが心身を、心の傷を癒してくれるとルケリヤは信じてはいたが、完治するには程遠い。ならば兄の事を脳裏から消し去ろうと家業の手伝いに精を出した。やがて気立ての良い優艶な娘と評判になり、縁談の話が次から次へと舞い込み始めた。選り好みをした訳ではないが、相手が名家の子息であろうと資産家であろうと軍隊の出世頭であろうと、ルケリヤが首を縦に振る事はなかった。
断った縁談が指折り数えてちょうど十に達した時、頑ななルケリヤに対して父母が苦言を呈した。
「今でも食卓に並んで座る両親の神妙な面持ちが忘れられません。好い話を断り続けて肩身が狭くなってしまったのでしょうね。家業の取引先にも影響が出かねないと聞かされた時、そろそろ覚悟を決めなくてはと思いました。」
次に舞い込んだ縁談は前向きに考えようと己に言い聞かせ、気分転換に爽やかな風に当たるべく外に出る。その頃は夏が終わりを迎え、日が暮れれば少し肌寒い風が吹く頃であったという。
草花が枯れる前に手入れを行い、こざっぱりとした庭先に立った時、ルケリヤは懐かしい面影を目撃した。言わずもがな旅に出た兄が戻ってきたのである。運命の悪戯とは思いたくないが、心の何処かで兄の帰還を待ち望んでいた己が正しかったのだ、とルケリヤは歓喜しては惜しみなく涙を流し、一回り逞しい見栄えとなった兄の許に駆け寄ろうとした。
だが、一歩を踏み込んだところでそれは出来なくなってしまった。兄の後ろに女が一人、付き添っていた。黒く長い髪を結わかずに垂らした女の顔立ちは異境の者と思われる。そして特徴的な白地に黒い線が数本走る見慣れない装いにルケリヤは眉をひそめた。
異境の女は不慣れな発音でこんにちは、とルケリヤに挨拶をした。言葉は不自然だが、彼女の笑顔は素朴な柔らかさを有している。恐らく初めて発した異境の言葉であったのだろう。唖然としているルケリヤを目の当たりにした彼女は不安そうに兄を見上げては頼れる腕に縋り寄る。突然襲い掛かった激しい嫉妬にルケリヤは目眩を覚えた。
異境の女の名前はイルダという。彼女はマナエグナの民だと兄が物静かに口を開いたのは異境の女と契りを結んだ事実を冷静に受け止めて欲しいという願望が込められていたのかもしれない。
まずは旅路の疲れを癒すのが先だと父母は二人を迎え入れ、晩餐会と表現するには程遠いが、普段よりも少々見栄えの良い料理を振舞った。言うまでもなくルケリヤも調理に携わったが、手にする包丁が全く動いておらず母に小言を貰う場面が多々であった。
「道に迷った兄がマナエグナの山に入り込んでしまい、山菜や木の実を採りにきていたイルダと偶然出会ったそうです。たいした食料を携行していなかった兄にイルダは食料を分け与え、その優しさは兄の琴線に触れる一方、外の世界に憧れていたイルダにとって兄は眩い存在として映ったのでしょう。二人は適当な洞穴を見つけて共に過ごす時間を費やしたのです。最初はお互いの言葉を理解できなかったものの、やがては意思の疎通が楽に図れる様になり、契りを結ぶ。陳腐な物語よりも陳腐な馴れ初めに我は寂寥感に苛まれました。ただそれよりもマナエグナの教えに傾倒した兄の変わりようは我を孤独の奈落へ突き落したと言っても過言ではないと今も思っています。」
日の出と共に一番鶏が声を挙げるよりも早くに兄とイルダは祈りをマナエグナの神に捧げていた。マナエグナの神とは信奉する者の心身を蝕む悲愴と苦痛を取り除く。その姿は白銀の大蛇で左右に二匹の黒蛇を従えている。またマナエグナの神には対となる邪な神もいる。赤黒き龍を象るその邪神は人間の妬みや争いを喰らう。マナエグナ以外の外の国の者はこの邪神を崇め、やがて大地は荒涼と死滅に覆われる。兄はルケリヤにそう力説してはイルダの手を取った。無味乾燥の風が心の中を吹き荒れる中、イルダとの出会い、そしてマナエグナの教えは彼にとって探し求めていた至宝だったのか。その価値は兄にとっては至宝であろうとも、ルケリヤには違う。暇つぶしにもならない。むしろ耳に入れるのが煩わしい。それでも兄はルケリヤの心情を知らずに仕入れて間もない知識をひけらかす。
マナエグナの女の衣装はその位によって着用する衣装が異なる。白地に描かれる黒い線が多いほど位が高くなる。最高位であるマナエグナの神に仕える者は巫女と呼ばれ、その者が召す衣装は無数の黒い線が走っている。巫女は過去の事例から白銀の髪を持って生まれるた者が選ばれる。巫女は代々同じ名を受け継ぐ。その名はマナエグナの女で最も長い名前であり、これより長い名前は神に対する冒涜に値する為、絶対に名付けてはならない。そして巫女は生まれた日から七千七百回目の夜に神へ命を捧げる。永遠と続くまじないの文句と見まごう程の音の羅列にルケリヤは耐え忍ぶ日々を送った。
「ユスト・バレンタイン、あなたが契約を交わした剣霊を一目見た時に我の兄が語った内容に今更ながら信憑性が高まりました。今更ですが通訳士の素質があるとは兄自身も気付いていなかったでしょうね。」
同意を得たいのか、ルケリヤは柴色の瞳を初めて名前を口ずさんだ男へ向ける。そこには遥か彼方へ追いやられた儚く一方的な愛情を思い返していた痕跡が鮮明に見て取れた。
通訳士という単語が出た。マナエグナの民たちはそれ以外の者とは異なる言語を使用していたと思われる。ユストは沸き上がる興味を抑制している様な面持ちで再びルケリヤの隣に腰を下ろした。懐から剣を咥えた鳩の紋章の透かしが施された紙片を取り出すなり、愛用する羽根ペンを走らせた。
殴り書きに近い筆跡を見つめたルケリヤは数秒の沈黙を置いた。二人の頭上にある乳白色のテントがはためいている。
「えぇ。イルダは文字が書けます。恐らくあれは日記だったのでしょうか。」
それまで不明瞭であった疑問は素朴な回答により光明を得た。マナエグナの民は文盲ではないと判明した。ルケリヤが発した恐らく、とはどの様な意味なのか。探求心に身を置いた己を落ち着かせるつもりか、ユストは脚を組むなり新たな煙草に火を灯す。ルケリヤの言葉の一句一句を聞き逃さんとユストは顎に煙草を持っていない側の二本の指を添えた。
「ある日、我は彼女と兄が留守の際に二人の部屋に足を踏み入れました。母に家の掃除をするよう言われた為でしたが、半開きになった机の引き出しが視界に入った時、疚しい衝動が一気に膨れ上がった。それを押さえ付けるのは到底無理なものです。引き出しの中には牛なのか山羊なのかは判りませんが、革の装丁が施された書籍がありました。見るべきではないと判っていながらも我はその書籍を手にしました。革の所々は手の脂が沁み込んで変色している。日々触れているものだと容易に察せる程にです。表紙を捲ればその先は兄の筆跡とは明らかに異なり、初めて見る文字の羅列。線と点の組み合わせとは言え、こんなにも異なるのかと驚いたものです。」
煙草の煙を吐いたユストは眉間に数本の皺を浮かべていた。マナエグナの民が独自の文字を使用していたとして、最高位であったであろうイルサーシャが文字を記せず、彼女よりも下位であったイルダが記せる理由が判らない。どの様な組織であろうとも教養とは位が高い者ほど必要不可欠となる。例えマナエグナの民が異境の蛮族と揶揄されようとも、この真理が侵される事はなかろう。或いは教養という定義の根本が我々とは異なるのか、ともユストは考えた。しかし仮説を立てようにも材料が乏し過ぎる。
困惑の色を携えた煙草の煙が立ち上っては宙に消える様子を眺めていたルケリヤはユストの虚をついたかの様に羽根ペンを奪った。はっとしたものの、ユストはルケリヤの次なる行動に期待を抱かずにはいられなかった。羽根ペンを手にした者が行うのはただ一つの行動だけである。彼女はマナエグナの民が用いた文字を記すのか。
実体である剣の重量しかない剣霊にとって筆記具を用いて文字を記すのは難儀である。しかも刀身の大半を失い、満身創痍という言葉を具現化した様なルケリヤにとって、苦行の一つと表現しても過言ではなかろう。
羽根ペンの先端を不安定に揺らしながらルケリヤが文字を認め始めた。まるで幼児が初めて行うかの如くゆっくりと、必要以上に大きな文字が出来上がりつつある。時間にして二分程度を要したか、ルケリヤは文字を記し終えると羽根ペンを静かに文字の横に置いた。
剣霊が認めた文字の羅列をを見つめるユストの表情に感情の起伏は見られない。普段と変わらずに物静かな彼は役目を終えた羽根ペンを懐にしまい込む。そして新たな品を羽根ペンの代わりに置く。ソノイの樹脂製による小瓶である。中身は剣霊協会に提出が義務付けられているユスト自身の血で満たされていた。
『少し話し疲れました。この話は次の機会にでも。』
周囲のあらゆるものが淡くぼやけた色彩へ移り変わりつつある中、色濃く重々しい生命の色合いが映えている。ルケリヤの反応を見るまでもなく、ユストは立ち上がった。交わす言葉はなく、その仕草すら見せずに彼は両手をズボンのポケットに突っ込んでその場を後にした。
遠のく背中を眺めているのか、黒いコートの揺れ具合を鑑賞しているのか、ルケリヤは虚ろな眼差しをそのままにソノイの樹脂製による小瓶に数本の指を触れさせた。
ユストは再びメツァールント市街地の正門の前に立った。既に空は白み、かがり火の必要性が薄れている。三角形の頂点に羽根を悠々と広げた三羽の鷹の意匠図を用いた市章旗が重苦しげにはためいていた。やはり空気が湿っている証拠である。薄い靄という化粧を施した正門は厳かな雰囲気を纏い、数百年の歴史を歩んだ建造物は一人の剣霊使いを悠然と見下ろしている。見下ろされた側も時の流れの一端に想いを馳せんと双眸を細めては、新造の建造物には不似合いな傷と掠れた石肌を見上げていた。
あれは確か、と詰所にいる門番の一人がユストの姿を覗く様に見た後に剣霊協会の協会長に随伴していた者の一人である、不審者ではないとその場にいる仲間へ向けて己の顔の前で手を振りながら語った。
剣霊協会という単語はその場にいた門番たちに苦い表情を作らせたのは言うまでもない。あまり関わり合いを持ちたくない対象に他ならないからである。しかし忽然と姿を現した男は独りであり、剣霊らしき存在を伴っていない。あのお偉いさんの単なる付き添いと思いたいが、もしやあの黒いコートの下に剣霊が宿る剣を隠しているのか、と不穏な想像が全員の脳裏を過らせては槍や棒といった得物を握り締める。
これまでに数えきれないほどの人馬の往来を知る石畳の上で黒いコートの裾をなびかせながらユストは詰所まで近付いた。正門の脇に設けられた通用門を潜るべく許可を得る為である。詰所の薄汚れた窓の表面を手袋越しの右手で二三回叩く。内部は何処となく張り詰めた空気を伴いながらも一人の男が気だるげに、さも誰が来たのだと言わんばかりの顔を覗かせた。その様な彼の前でユストは通用門を指差す。構わんからさっさと行け、とあしらう様に門番の一人が手首から先を振る。ぞんざいな扱いを受けようともユストは感情の起伏を表さずに通用門を潜った。剣霊協会に所属する者が衆生に畏怖を植え付け、忌み嫌われている事実を思えば厄介事は避けたい。普段であれば相手が複数である事に対して問題はないが、今は肝心のイルサーシャが手許にいない。そして何よりもユストは政治体制が変化した故国で己の素性を調べられるのを嫌ったからである。
正門から目抜き通りの最奥へ目を凝らす。市街地内も朝靄に包まれ、往来の姿はいくら目を凝らそうとも確認が出来ない。
メツァールント市街地は首都機能はなかろうとも、中央行政府では一二を争う地方都市である。早朝の往来が見受けられても良いのだが、とユストは訝しみながら脚を動かす。思えばこうして祖国の一部であるメツァールントの目抜き通りを歩くのは何回目だろうか。黒いコートの襟を立て、腕を組むユストは三十年前のとある日を思い起こしていた。
初めてこの地を訪れたのは少年と呼ばれるにはまだ少し早い年齢の頃と言えようか。見慣れない景色に心弾ませる幼きユストの手を引くのは母方の祖父である。白髪の中に黒髪が気持ち程度に数本残っているといった態の容貌の母方の祖父は退役軍人であり、繋いだ手はとても固く、骨ばっていた感触を未だに覚えている。そして愛煙家でもあった。孫の前では止めなさい、と叱咤する母の様相を見てはもう片方の祖父とは応対や言葉遣いがまるっきり違うのだな、と幼心ながらに疑問を感じた己の姿を思い浮かべてユストは苦笑を漏らした。
刷り込みではないが、ユストが煙草に手を出したきっかけが母方の祖父の影響である点は否めない。とても旨そうに煙をくゆらしている母方の祖父の姿は今でも脳裏に焼き付いている。あの頃と比べて石造りが主だった建造物はその様相に僅かにも変化を与えていない。依然として朝靄が晴れる事なく、未だに往来の一つにも出くわしていない。
何かが変である。ユストの手が空を掴んだ。身の危険を感じて無意識にイルサーシャの腕を掴もうとした為である。だが、彼女はここにあらず。前方から巨大な威圧感が押し寄せていた。剣霊のそれと比べて少々異なる。死線を潜り抜けた肌は冷たい刃を思わせる剣霊独特の殺気を感じ取ってはいない。荒々しい濁流に呑み込まれてしまう様な錯覚を覚えつつある。ならば逃走を図るべきかと思うものの、前方に相対する敵の得物が不明のまま背中を見せるのは危険である。
動きを止めるのも否となればこのまま歩むしかないのか。声が発せるのであれば騒いで近隣の者の注意を惹く事も出来よう。無論、ユストには不可能である。しかし仮に声が出せようにも単なる徒労に終わってしまう気がしてならなかった。己が今いる場所は日常とはかけ離れた別世界なのかもしれない、とユストは心の片隅で感じていたからである。別世界とは何か。誰かの夢或いは誰かの意思の上で躍らされているのだろうか。
ユストの思考に水を差すかの如く、不気味さを彷彿させる別世界の中でするりと心地良い衣擦れが奏でられた。こちらから確認するのではなく、向こうから姿を現してくれるらしい。
足音を立てていないのはイルサーシャと同じく剣霊だろうか。人間であればいくら静かに歩く訓練を積もうとも骨の軋み音だけは消せない。最大限に敏感になっているユストの耳に届く衣擦れが大きくなるにつれて、目抜き通りの中央に深い朝靄の中から相手の輪郭が明らかになり始めた。
長い髪を揺らしている。背丈からして女であろう。上品な中にもの悲しさを匂わせているその揺れ具合は見る者を虜にする。それはあらゆる心の襞を具現化した様なうねる薄緑色の長い髪と知った時、ユストは細めていた双眸を見開いた。
大地の意思たる神剣霊の末妹、天恵の剣霊ミゼレレは唖然とするユストを深い緑色の瞳に映すなり、あらゆる剣霊の中で最も魅力的な唇を笑みの形にした。何故彼女がメツァールントにいるのか、と視覚で捉えた事実を受け入れられないユストは思わず一歩後ずさりする。ほぼ同時にミゼレレがついと前に出たのも束の間、彼女はユストの目の前に立っていた。移動した距離は目測で十メートルは下らない。急制動により彼女が纏う緑色のスカートの裾が波を打ち、豊かな髪の先端が捕食するかの如くユストの黒いコートに触れては静かになる。恐るべき速さにユストが自ずと喉仏を上下させようとした時、可憐な指先が首許を巻く剣霊協会支給のスカーフに触れた。虚の更なる虚を突くミゼレレの行動にユストは必要以上に強く打つ己の鼓動を全身で聞かされていた。
「初めまして。異教の男よ。」
ミゼレレの慈愛に満ちた面立ちを始め、聞く者の心を和やかにさせる柔らかな声はユストが知る以前のままである。だがその言葉は己の耳を疑わざるを得なかった。
白く儚いものがユストの頬に触れ、ミゼレレの趣深い睫毛に彩りを加える。
深い朝靄の中、遂に雪が舞い始めた。




