夢の奥底
婦女の会話を男たちは遠巻きに眺める。いつの世でもどの時間でも、ごくありふれた状況の一つにユストとグスタフ・ヴェネシュはその身を置いていた。強いて異なると言うなれば、深夜の光景と対峙した敵を退けた憔悴に心身を浸していた事だろうか。
エルスノアが嬉々とした表情を晒している。普段であれば拝む機会にそう巡り合えない。グスタフ・ヴェネシュは手頃な木箱の上に腰を下ろしてその様な彼女を堪能していた。
昔話に花を咲かせていると思われる。その証拠として時折ルケリヤも微笑を零していた。生ある尽くを切り裂くと恐れられている剣霊にしては優しい笑い方だな、と思わず見とれてしまう。会話の最中にルケリヤの柴色の瞳が遠巻きに眺める男の姿を一瞥する。なにも会話に没頭しているのではないと示唆している様な素振りである。常人にとって剣霊の眼差しとは魅力的でありながらも背中に寒気を覚えずにはいられないあやかしとは誰の言葉だろうか。グスタフ・ヴェネシュは被る革製の帽子の鍔を押し下げては首の角度を少し浅くする。
しかし、この動作を何度か繰り返すうちに慣れが生じるのは時間の問題であり、やがては飽きる。グスタフ・ヴェネシュは手持ち無沙汰さながらに空を見上げた。目が闇に慣れようとも夜の帳は深く重い。そして冬を実感させる風が気の向くままに頬を撫で、鼻孔に煙草の香りを届ける。
グスタフ・ヴェネシュから数メートル離れた場所でユストは外壁に背をもたれ掛けながら煙草を咥えていた。彼の足許に目をやる。果たして何本目なのか既に数えていない様子が覗えた。時折、先の戦いで負傷した右腕を押さえながらも彼は普段と変わらずの涼しい顔を保っていた。
「なぁ、兄弟。」
グスタフ・ヴェネシュの唐突の中に疲労感を滲ませた声はユストを咥え煙草のまま顔をそちらへ向けさせた。
「さっき、薬かなにかを水もなしで飲んでいただろう?」
期待はしていないが、やはり返事はなかった。
「残念ながら水ではないが、気付けの酒なら常時携帯しているよ、自分は。言ってくれれば一口ぐらいお裾分けしても良かったんだがなぁ。いや待てよ、そうなると薬の効能が落ちるかもしれん。」
今度は静かに一回頷いて見せた。
「あれは…眠くならない薬、或いは怪我が一瞬で治る魔法の治癒薬ってところか?」
咥えていた煙草を二本の指で挟み込んで唇から離したユストは僅かに口角を上げた。
「そんな都合の良い薬があるものかね?あったら今の世の皆が寿命をまっとうしているよな。」
そうかもしれないな、と言いたげな眼差しでユストは応えた。
「こうして言葉を交わさなくても意思の疎通が出来るんだから不思議なものだ、人間ってのは。」
己の吐いた言葉に反して呆れた様子を不精髭面に浮かべたグスタフ・ヴェネシュはユストを真似て二本の指を差し出して見せた。
「気付けの酒をまだお裾分けしていないが、自分にも煙草を貰えんかね?こうも匂いを嗅がされちゃあ吸わなければならない気分だ。それに時間潰しにもってこいの代物だろ?」
最後の一言は蛇足であったか、ユストに些か不服そうな表情を作らせた。だが彼はグスタフ・ヴェネシュの要求を呑んだらしい。胸ポケットから煙草とマッチを共に箱ごと取り出すと運送屋の足許に投げた。
ちと機嫌を損ねさせてしまったのか、とグスタフ・ヴェネシュは勘繰った。だが三度の食事よりも喫煙を選ぶであろう男が差し出したのだ。手渡しではなく投げたのは体を必要以上に動かしたくないのであろう。右肩の傷を配慮してとも受け止められる。
「では遠慮なく。」
大儀そうにグスタフ・ヴェネシュは前屈みになり腕を伸ばした。中央で生産されている盾の図柄が印象深い紙箱の煙草と北部の文字で表面になにやら記されているマッチ箱を拾い上げる。中身はそれぞれ五本とその倍に満たない程度である。
コツコツと硬質で小さな音が耳に届く。グスタフ・ヴェネシュの気を引く為にユストはメツァールントの外壁を手に持つ羽根ペンの先端で弾いていた。
「兄弟は心配性だな。流石にこの中身全部は貰わんよ?」
和やかな口調と笑みを零すグスタフ・ヴェネシュの足許に今度は丸めた紙片が投げ込まれた。羽根ペンを手にしたのは何かを伝えたく文字に起こしたのであろう。グスタフ・ヴェネシュはまだ火を点けていない煙草を咥えながら紙片を顔の高さまで持ち上げて広げた。
『一本では時間潰しにはなるまい。数本持っていけ。』
暗がりの中でも明確に読めた。さて、これには何と答えるべきか。グスタフ・ヴェネシュはユストの様子を覗おうと紙片を広げたまま視線を送る。頼れる兄弟は羽織る黒いコートの右ポケットから新たな煙草とマッチを取り出していた。慣れた手付きでマッチに火が灯り、鼻から煙が漏れると共に視線が合わさる。
「ここは兄弟の好意に甘えさせて貰うよ。」
そうだな、とユストは軽く頷いて見せた。首を覆う協会支給のスカーフに二本の指を入れて顎先を覆う。深夜を迎えてから冷え込みが増し続けていた。
グスタフ・ヴェネシュも煙草を咥えてマッチを擦った。すぐに火は消えてしまい、すかさず二本目を擦り、顔を近付ける。喫煙という嗜みを止めてかれこれ数年が経過していた。久々の一服は喉に辛く感じられ、咽たのは通過儀礼というところか。
「なかなか強い煙草だな。」
照れ隠しの言葉にユストはそうかな、と疑問の眼差しを見せた。
「だが嫌いじゃない。良い趣味しているよ、兄弟。」
今度は浅く吸い込む。じわりと喉に来る。薄い煙を吐いた後に色濃い息を漏らす。どうだ少しは様になっているか、と言いたげなグスタフ・ヴェネシュの様相にユストは肩をすぼめて見せた。
一本を吸い終わり、暫くして二本目を指に挟む時には携帯している気付けの酒の栓を抜いていた。未だに女たちは会話に夢中である。よくもまぁ飽き足らずに次から次へと話題を変えながら会話が弾むものだな、と思いつつ一口吸い込んで吐いては一口流し込むを交互に繰り返す。
自分ばかり酒を喰らっていては申し訳ないと思ったのか、ユストにも一杯どうだと勧める。彼は左の掌をグスタフ・ヴェネシュに見せて断った。出会ってから間もないが、先のレストランにて彼が酒好きではないとは薄々気付いていた。ならば強要する必要はなかろう。むしろ残る全てが己の自由である。本来は非常時に用いる酒だが、深夜の寒空の下でろくに身体を動かさずに座り込んでいる。
グスタフ・ヴェネシュは革製のコートの襟を立て、背中を少し丸めた。喉の具合はともかく、臓腑は酒のおかげで温まっている。ついでに瞼が重い。時計の針が正確に時を刻み、星々が他の意を介せずに瞬くのと同じく、抗おうとも刻々と重く圧し掛かる。寝てはならないと立ち上がる気力はとう消え失せていた。
ちらりと横を見る。睡魔と格闘の最中であるグスタフ・ヴェネシュに気を掛けず、ユストは相変わらず澄ました顔をして煙を吐いていた。彼とて先程の戦いで心身共に打ちひしがられてしまった男が次なる強敵と真っ向から対峙している様子は把握しているであろう。言葉が発せられなくとも何かしらの行動で手助けは可能である。だが、その傾向は見られず感じられない。
むしろ見て見ぬふりをしているのかもしれない。恐らくそうであろう。既にグスタフ・ヴェネシュは疑問を感じる事すら億劫になっていた。少し離れてはいるが、横に立つ剣霊使いはこの大陸において一流と謳われている。剣霊の柄を握る権利を許された彼に異論がないのであれば、それは是と酌むべきである、と一介の運送屋は己に都合よく解釈した。
「それじゃあ自分は一眠りさせて貰うよ。」
ユストの是非を待たずにグスタフ・ヴェネシュは腕組みをすると更に背を丸める。一分も経過しないうちに彼は心地良さげな寝息を真夜中の吹く風に乗せていた。
それから数分後にユストは預けていた身体を外壁から離した。仄かに広がる百年香の爽やかな香りがグスタフ・ヴェネシュの鼻孔を撫でようとも彼は既に熟睡していて気付かない。仮に気付いたとしても鼻を数回ひくつかせただけで閉じた瞼が動く事はなかろう。
右肩を押さえつつユストが歩む先はルケリヤの許である。彼女との会話を楽しんでいたエルスノアは毛布に両肩を包み込んで楽な姿勢をとっていた。人間にとって夢の世界を迎合する時間の訪れをユストは待ち続けていたのである。
ルケリヤの前に立ったユストは首を覆う協会支給のスカーフを解き始めた。ルケリヤが眉間に数本の皺を寄せて怪訝な表情を露にしたのは他の剣霊使いの想定外の行動に対してなのか、それとも己と異なる剣霊の食痕を目の当たりにした第一印象がそうしたのかは判らない。
赤黒く腫れ上がっている食痕を頼りないかがり火が更なる陰影を与えて痛々しさを助長している。ユストは左の二本の指で食痕を軽く叩いて見せ、僅かに腰を落とした。
「我に食事をしろ、とでも?」
ルケリヤは表情と変わらずの口調でユストを見上げて言葉を続けた。
「我も落ちぶれたものですね、他の剣霊の契約者に情を掛けられるとは…よりによってマナエグナの巫女の契約者であるあなたにですか。」
ルケリヤなりに悪態を吐いたのであろうが、萎縮や動揺を見せるユストではない。むしろ確証が掴めない仮説が定かになった。マナエグナという言葉はルケリヤとイルサーシャが多少の前後は有ろうとも同世代であると導いた。しかし巫女とは如何なる存在であったのかユストは知らない。新たな単語である。鼻から白い息を漏らしながらユストは食痕を軽く叩いた二本の指でルケリヤのすぐ脇に文字を綴った。
「協会規定の第十三条…勿論存じていますが…。」
人間であれば深い溜め息を漏らさんばかりの呆然とした表情を見せたルケリヤは改めてユストを見上げる。
「それはあくまでも非常時に我が求めた時にあなたは応じなければならないと解釈するべきです。つまり既に非常時という事態から遠くかけ離れている。」
ルケリヤはわざとらしく首を捻ってはユストへ憫笑とも苦笑とも捉えられる笑みを見せた。
「我の髪をご覧なさい。もう死期がすぐそこに迫っているのが判りませんか?」
言葉一つ一つは鋭利で攻撃的であるが、語勢が全く感じられない。憐れむつもりはないが、これまで出会った剣霊たちと異なるルケリヤの状況はユストの双眸を細めさせた。
「我はあなたの血を摂ろうとは思いません。あなたが今やろうとしている事は少々利口ぶった羊が自分を食べてくれと死期が迫って食欲が失せた肉嫌いの人間に迫っている様なものでしょうね。」
相当な嫌われ様である。彼女にとってマナエグナとは腸が煮えくり返らんばかりに嫌悪の対象でしかないのであろうか。しかし更なる悪態の中にユストは新たな発見に気付いた。イルサーシャと違ってルケリヤは今の文字が読める。ならば、と更に文字を綴り、一つの文章を作り上げた。
『君の意見に反論はしない。しかしその意見を押し通すのであれば、エルスノア協会長に深い悲しみを負わせてしまう責任、いや過ちを君は背負いながら旅立つ事となる。君は契約者を失い、残された者の他にぶつけようない悲しみを味わいながらも、君を気の置けない間柄と扱う者に同等の思いをさせるのは如何なものか。』
一旦指の動きを止め、ルケリヤに視線を向けて動向を覗う。彼女の特徴である柴色の瞳は認められた文字を読み取り、咀嚼している最中と思われた。いびつになろうとも剣霊の髪は彫刻の様な品のある横顔に端正な表情を夜の帳の中でも明確に与えていた。
『愚生は協会に所属する者としてエルスノア協会長をお守りしなければならない立場にある。守るとは身体の無事はもとより、平穏な心境の維持も含まれていると考えている。君の契約者アウルス・ボーンも協会にその生涯を捧げた者として愚生の意見に否を唱えなかったであろう。ならば君も彼の意思を重んじるべきだ。改めて言うが、第十三条を適応して欲しい。』
ユストの指がルケリヤの近くから離れた。思慮の世界に身を置いていたルケリヤの横でエルスノアが一定の間隔で身体を前後させながら上品な寝息を立てている。見た目の年齢に反してその表情はえも言えぬ疲労感が滲んでいた。
「エルスノアが肩に掛けた毛布がずり落ちそうです。我は彼女に触れられないのであなたが掛け直してあげなさい。その後にあなたの血を頂きましょう。」
ユストはルケリヤの言葉に従う。肩に掛けた毛布の先端同士を軽く結んだ。そしてルケリヤの横、エルスノアとは対になる様な形で腰を下ろす。顔を倒し、伸びきった首の皮膚の上で食痕が改めてルケリヤの面前に晒された。どす黒い赤と生々しく赤い黒が入り混じったイルサーシャの食痕に向けてルケリヤの乾いた唇が近付く。
「エルスノアの名を出すのは卑怯ですよ。彼女はこう見えてもあなたよりも長い年月を知っている。長い年月を知るとは自ずと己の身の置き方を得るものです。彼女が何歳なのかあなたはご存知で?」
ユストは頷いた。思慮の時間を設けず、確固とした即答に適当や嘘ではないとルケリヤは判断した。
「歳を重ねようとも剣霊の様に姿は変わらずとも怪我を負えば血が流れ出る。彼女は普通の人間とはかけ離れ、剣霊には及ばない中途半端な存在だと我に語りました。そしてここ最近になって気付いた事が一つあるそうです。時の流れに肉体が感化されなくとも心は老いると。果たして剣霊もそうなのかと彼女は我に疑問を投げました。あなたなら何と答えますか?」
エルスノアが小さく唸る。見る夢の善し悪しは別として、一方的な話声で深い眠りを妨げられると抗議しているのか。ユストが顎の角度に変化を与えて食痕を突き出した。早く食事を摂れと促している。少し喋り過ぎたか、と後悔の念を僅かに顔に表した後にルケリヤは虚ろげに口を広げると食事を始めた。
冬の夜空に晒されようとも人肌とは剣霊にとって安らぎを与えてくれる。熱い寒いとは無縁の存在であろうとも心望む温度に変わりない。食痕を通して口内を満たす他の剣霊使いの血を吟味する。やはりグスタフ・ヴェネシュのそれとは満足感が異なる。同時にこの血の提供者の過去を垣間見る、いや、知りたくなくても知ってしまうものだが、物凄く朧げにしか情報が伝わらない。
理由は一つ。剣霊協会支給の造血剤による副作用と剣霊たちの間では言われている現象であった。急ごしらえの血はその者がこれまで歩んだ道程を刻み込めないらしい。その事も踏まえて第十三条を適応しろとこの男は思い付いたのだろうか、とルケリヤは貪欲に喉を鳴らす。恐らく偶然であろうと思いたい。それよりも未だに剣霊として今の世に留まろうとする本能が残っていたとは。
三度目の喉が鳴ると同時に剣霊らしいか細い手首を掴まれた。
(剣が老いてどうする。斬れるものも斬れなくなる。これが先程の答えだ。)
身体に伝わる男の声は彼のものであろう。その通りとルケリヤは頷き、再び喉を上下に動かした。
(質問の回答と食事の見返りではないが、君が知るマナエグナについて話して貰いたいのだが。)
それが真意か。食事と共に闇を与えられていたルケリヤの柴色の瞳が開かれた。
(やはりあなた、卑怯よ。)
ユストは答えない。掴んでいたルケリヤの手首を離しただけである。
これから手入れが行われる。剣体をユスト以外に晒す恥じらいを脳裏の片隅から追いやろうとイルサーシャは試みているのか、幌馬車内の景色に飽くなき視線を合わしていた。
ユストと共にしていた時は気に留めていなかったが、ところどころに女が所有している物らしい空間がイルサーシャの深い緑色の瞳に映った。高価ではなさそうなものの、気の利いた趣向を凝らした簡易食器が整然と並び、床の片隅には小ぶりな敷物が一つ。これには細かな花柄模様が施されている。メアリー・メイイェルの趣向はイルサーシャに幾許かの安堵を感じさせてくれた。
小ぶりな敷物の上に腰を下ろし、己の白銀の長い髪に手櫛を数回入れる。やはり通り具合に納得が出来ない。メアリー・メイイェルはこれに満足を与えてくれるというのか。歳もまだ若く、あんな細っこい腕で我を上手く研げるのか、と疑問と不安がイルサーシャの中で膨れ上がりつつある。
幌馬車の揺れが止まり、黒鹿毛の牝馬が鼻を鳴らした。彼女も街中の深夜は住まう者たちの眠りの時間と理解しているのか、これまでより控え目な音で奏でた。目的地に到着したのであろう。外の景色は幌馬車の中からは覗い知れない。明り取り用に透明な素材を用いていれば話は別だが、容赦ない風雨に堪える為に異素材を組み合わせずにソノイの樹脂を塗りたくった幌生地で頑丈に作られている。
取り敢えず何処にいるのか把握はしておくべきか、とイルサーシャは腰を上げる為に両手を身体の脇について前屈みになる。さらさらと音を奏でないものの、白銀の長い髪が豊かな広がりを見せては床の上に様々な弧を描く。その様な中、メアリー・メイイェルがシュンカと共に姿を現した。
あっ、とメアリー・メイイェルが声を発するよりも早く、シュンカがイルサーシャを目掛けて四股を動かす。屈んだ姿勢のまま鼻面を突き付けられた。鼻先が湿り気を帯び、垂らした舌の表面は触れずともざらついている事が判る。そして数滴の涎が幌馬車の床に落ちた。
「シュンカ、ここはそなたの場所であったか?そうとは知らずに我座り込んでしまった。かたじけなかったな。」
口角を持ち上げたイルサーシャの意図を汲み取ろうとしているのか。シュンカは狼特有の鋭い目許をそのままに鼻をひくつかせた後に幾何学模様が走るスカートの裾を咥えた。
「解った解った、早々に退くから引っ張るな。破けてしまったら後でユストに小言を言われるのは我だ。それともそなたが我の代わりに怒られてくれるのか?」
動物との馴れあいを楽しむイルサーシャが立ち上がろうともシュンカは未だに咥えた裾を離さない。怒りの抗議にしては執拗に思える。イルサーシャは眉をひそめた。
「そなた、これが見えるか?」
イルサーシャが左の横髪を耳に掛けた。黒蛇を象ったピアスの凄まじき睥睨を視界に入れてしまったシュンカは恐怖を覚えたのか、咥えていた裾を離すとイルサーシャを見上げながらその周りを一定の歩調で周り始めた。
その敷物から離れろ、と一部始終を眺めていたメアリー・メイイェルの言葉にイルサーシャは従い、腕を組んで幌を張った骨柱に寄り掛かる。自重が軽い剣霊ならではの行動である。
「狼というやつはこうも縄張りやら物欲が強い生き物なのか?」
「多分、シュンカはイルサーシャが寂しいと思ったんだろうね。」
「寂しいときたか。まぁ、そなたの前で剣体にならなければならんと思うと気が滅入っているのは事実だが。」
「いや、そうじゃなくてさ…。」
「では何だと言うのだ?」
「この敷物はあたいがシュンカに癒して貰う時に使うんだ。つまりイルサーシャもそうして欲しいのかとシュンカは勘違いしたんだよ。」
もうこれ以上言わせるな、と顔を背けたメアリー・メイイェルは敷物に近付くと無造作に丸めて幌馬車の隅に投げた。一連の動作を目で追っていたシュンカの頭を撫で、改めてイルサーシャに顔を向ける。
「支度が終わったら始めるよ。」
年頃の女の双眸が剣霊の手入れが唯一可能な研師のそれに変化していた。ならばこちらもそれ相応の対応をしなければならない、とイルサーシャは幌馬車の骨柱から預けていた背を離した。
「宜しく頼む。」
短く頷いて応えたメアリー・メイイェルは以前汲んだ湧水を彼女の胴まわりを倍にした程度の大きさの木桶に満たす。道具箱の中から新たにくたびれた感が否めない質素な敷物を取り出して広げた。その上に砥石を並べる。五種類ある砥石はそれぞれ粗さが異なるのであろう。
次にブリキの缶に入れた固形燃料に水を掛ける。そうすると固形燃料は発熱し、半日は効果が持続する。何時の時代に発明されたのかは知らないが、狭く風通しの悪い室内に於いて火を使わず煙を出さずに暖が取れる優れものである。十五センチほどの踏み台らしき木工品を質素な敷物の中央に置くとメアリー・メイイェルはその上に腰を下ろして右の膝を折り、左側は立てた。
「手入れが終わるまで剣体のままでいて貰うけど、何か言っておきたい事でもある?」
これまで要した時間は五分と掛かっていない。手際の良い準備を何気なく眺めていたイルサーシャは頭を振って見せた。
「特にないな。」
「ならば早速剣体になって欲しい。」
「シュンカもこの場にいるのか?」
「冬なのに空気が少し湿っている。雨か雪が降るかもしれないからね。」
「そなたの馬は雨曝しか?」
「ここは市営厩舎のすぐ脇なんだ。既に屋根の下で寛いでいるよ。」
「そうか。」
結局ユストの帰りを待たずに手入れが始まるのか、と残念そうな様子を僅かに見せたイルサーシャはメアリー・メイイェルの後方へと歩む。
「剣霊は剣体になっている間、自己の意識が消滅しているらしいね?これまで手入れした剣霊たちからそう聞いているよ。不安であっても心配はしないで。」
「あぁ。繰り返しになるが宜しく頼む。」
そう言葉を残したイルサーシャは右の人差し指を胸の高さで何かを弾く様な動作を数回行った。後ろを向け、と示唆しているのであろうと汲んだメアリー・メイイェルは億劫そうに身体を返す。左右に束ねた砂色の髪が描く弧も気だるげであった。
「今更恥じらう事もないだろうに。」
メアリー・メイイェルの独り言とも小言とも捉えらる台詞にイルサーシャは反論を述べない。女同士の遣り取りを傍観していたシュンカは少し離れた場所で前脚を綺麗に伸ばして座り込んでいる。
「なんだったら霊体のまま手入れを始めてもあたいは構わないよ?その場合、まずは顔に一番粗い砥石を擦り付ける事になるけど。」
少し煽り過ぎたかと思えど直情的な剣霊は無言を貫いている。座り込んでいたシュンカがメアリー・メイイェルの奥を覗き込む様に首を伸ばしている姿が映る。既に剣体に戻ったのかとメアリー・メイイェルは身体を元の向きに戻した。
一振りの剣が転がっていた。白銀の長い刀身を持つ鍔無しの直剣を守るかの如く二匹の黒蛇を模した造形が柄に巻き付き、血抜きに頭を添わせている。まるで生きているかの様な二匹の黒蛇の凄惨な睥睨はメアリー・メイイェルが手を伸ばすまでに数分の時間を要させた。
全身の筋肉が硬直したかと錯覚するほどの恐怖を覚えたのは否めない。ただそれよりもあまりにも精緻な造りと合わせて鈍く重い輝きを放つ刀身をゆっくりと鑑賞していたい欲求に身を委ねた結果でもあった。
素朴ではないが、豪奢とはまた異なる。これまで剣霊が宿る剣を幾つも見てきたが、目の前に佇む鍔無しの直剣は何かが違う。研ぎ師としての直感がメアリー・メイイェルの内側が囁いていた。
その何かを追求せんと思慮を巡らせる。剣霊とは人間の意志を宿した剣であると広く知れ渡り、それに異論を述べるつもりはないが、この直剣はそこにもう一つの何かが加わっている様な気がしてならない。
「考え過ぎ…だよね。」
己の予測を否定したのは直ぐに作業に取り掛かりたい為である。限られた僅かな時間で手入れを終わらせなければならない中、余計な雑念は作業効率に弊害をもたらす。
神妙な面持ちの飼い主を心配したのか、座り込んでいたシュンカが腰を上げて彼女の傍に歩み寄る。豊かな毛皮で覆われた触り心地の良い胴を撫でた後にメアリー・メイイェルはイルサーシャの剣体を握り締めた。
漆黒の闇で自我を覚える。そしてまばゆい光の世界へ誘われる。それが自発的であろうと能動的であろうと、眠りから覚める直前の行動に何ら変わりはない。
ここは何処だ、とイルサーシャの開いた瞼の中央を飾る緑色の瞳があらゆる存在に問う。大気すら流れるのを忘れてしまったかと思われるほどの静寂の成れ果てに於いて彼女を導く者がいようか。
石造りの壁が一枚、正面に佇んでいた。それ以外の物体は目をこらそうとも見て取れない。斑模様の表面に線画が無数に刻まれている。もしその場に鏡があれば、己が纏う服と同様の幾何学模様と酷似していると気付けたであろうが、彼女にそこまで気を回す余裕は皆無に等しかった。
恐る恐るではあるが、いたたまれない衝動と共に壁に近付く。ゆっくりと動かした人差し指で壁の表面をなぞり、これまでの出来事やここに至る経緯を思い返そうと試みる。やはり脳裏が深い靄に覆われているかの如く何も見い出せない。ただ何処となく懐かしく思い、限りを知らない動揺が僅かに弱まったと感じた。
人差し指が次なる箇所へ移る。イルサーシャは己の喉に向けて壁に触れていた時と同じ仕種をした。柔らかな肌触りから僅かな汚れすらないのであろうと窺い知れた。しかし何故喉を詰るのかは判らない。身体が本能がそうしろと僅かな疑問や抗いを拒んでいる。一本の指から二本三本と加わり、左右の五指全てで喉許を締め上げるかの如く覆っていた。
「そんなに喉が気になるのかしら?」
「仕方ないだろう、あぁも無惨に死に追いやられたのだからな。」
石造りの壁の両端から顔を覗かせた中年の男女が間髪入れずに呼吸を合わせて語った。図ったのではなく、ごく自然に、まるで長年そうしてきたかの様に合わせて語る。イルサーシャはそれぞれの顔を一瞥しては嫌悪の様相を満面に浮かべて身を縮込ませる。そこに剣霊としての尊大で居丈夫な様は何処かに置き去りにしてしまったかの如く皆無であった。
「何もそこまで怖がらなくても。今更呑み込んだりしようとは思わないから安心しなさいな。」
「もしや言葉が聞こえないのか?お前は喉をやられたが耳は無事だった筈だが。」
「聞こえないではなくて、そもそも判らないのだと思うわ。今の世と彼女が生きていた時代では言葉がだいぶ変わりましたから。」
「なるほど。ではお前の知識見識倫理道徳に合わせて会話をしてやろう、ただのイルサーシャ。」
「あらあなた。彼女にとって倫理道徳はわたしたちがその一端を担っているのよ?」
「我とした事が失言をするとは。」
「大丈夫よ。彼女、言葉の意味を理解出来ていないって言ったでしょう?」
「ならば今の失言はお前との秘密だ。」
「今度この子がわたしたちの息子から栄養を摂った時、三分の二をわたしが貰う事でも構わないわよね?」
「厳しいな。人間の女というのはそうもがめついものなのか?」
「どうかしら?」
「一万分の五千一にしろよ。」
「五百分の二百五十七。だいぶ譲歩したわ。」
「仕方ない。その条件で手を打とう。」
「そうと決まればさっさとこの子の相手を終わらせましょうよ?」
「おぉ、そうだったな。」
唖然と左右を交互に見比べていたイルサーシャが後退りをした。中年の男女は壁の両端から同時に姿を現し、遠慮や躊躇、警戒や慎重といった言葉を知らないかの如く近付く。逃げなければとイルサーシャは強張らせていた身体を捩じった。襲われる。もしかしたら、いや、必ず命を奪われる気がしてならない。二人が何を語っていたのか判らないが、目の前に現れたのは人間の形を借りた何かだ、と視力ではなく肌で感じ取っていたからである。
『夢の奥底はどんな居心地?ただのイルサーシャ?』
脚を動かすよりも早く、中年の女はイルサーシャの前に立っていた。束ねた黒髪を左前に垂らし、彼女なりの柔らかな笑みを湛えながら古代の言葉で話し掛ける。見慣れない格好の者を見上げていたイルサーシャがゆっくりと化粧とは無縁に等しい唇を動かした。
『イルサーシャ?それは己の事?』
『お前は芽吹いた苗が大木となり青々とした葉を茂らせて数多の実を結んではやがて朽ち果てるまでと同等の歳月を意識を封じ込めていたのだ。そう、自らの名を忘れる程の長い年月を、だ。』
イルサーシャのすぐ右隣で片膝を突いて男は語る。頼れる雰囲気と気品のある横顔をイルサーシャは一瞥しては生まれつきの細面を僅かに傾けた。記憶の片隅で忘れてはならない存在の面影と似ている様な気がしてならない。
『不味そうなものばかり呑み込んでいるあなたがそんな詩的な言葉を並べられるとは思わなかったわ。とても素敵よ。』
『お前が単に悪食なだけだと思うが、その素敵という感情は美味いのか?』
『さぁ?でもこうしてただのイルサーシャが呆けているものだから、ちょっと感情を揺さぶるのも必要と思って言ったのよ。』
『女に素敵と言われた男は昂るのが常だったな。ただのイルサーシャよ、お前はその対象となる男の名を覚えているか?』
『覚えているもなにも。あれはただのイルサーシャとは違うのよ。』
『確かにあれは予期せぬ結果らしいが、姿かたちが一緒なら多少は通じ合う所があるものかと試しただけに過ぎんよ。』
二人の遣り取りを傍観していたイルサーシャは頭を振る。何を指して言っているのか、何を求めて言葉を紡ぎ出しているのか、彼女には皆目見当が付かない。
『それよりもここは何処なの?』
『夢の奥底だとさっき言ったばかりよ?長い眠りで記憶力も減退したのかしら?』
『なんで外つ国のあなたたちが己の前に現れたの?これ以上あなたたちと喋ったら心と身体が穢れてしまうわ。』
『ほう?穢れてしまうとは面白い。誰にそう教えられた?』
中年の男が顎に手を添えて意味深長な笑みを浮かべる。この仕種を見たイルサーシャは己の中で引っ掛かるものを感じたが、言葉で巧く表現できずにいた。
『判らない。思い出せない。凄く大事で偉大な御方の教えだと判っているのに名前が浮かんでこないのよ。』
『凄く大事で偉大な御方ねぇ?その御方とやらには左右それぞれを守る者がいるのだけれども…覚えていないかしら?』
『さぁ…余計に判らなくなったわ。』
満面に困惑を浮かべるイルサーシャの言葉に中年の男女は酷く落胆した表情を遠慮なく晒した。
『悠久たる時の流れは一人の人間の記憶を遥か彼方へ追いやってしまうものなのね。』
『人間とは無力で朧朧たる儚い生き物だ。そしてその儚い生き物の敬虔を糧とする存在は更なる儚さを背負わなければならん、とは言い得て妙としか思えん。』
『その言葉、誰の言葉?あなたたちは己の事を良く知っているみたいな言い方をするけど…いったい誰なの?』
『さぁ、誰でしょう?』
『少しずつでも良いから思い出して貰いたいものだな。』
『思い出せと言われても己に外つ国の知り合いなんていないわ。』
先程まで己の首許に触れていた左右の五指が中年の男女それぞれの腕を掴む。イルサーシャの中で知識の欲求が衝き動かされていた。会話を交わす事はもとより、触れるは以ての外である外つ国の者でも構わない、とイルサーシャの緑色の瞳は硬い意志を湛えている。
『意地っ張りで強情なのは変わらないのね?』
『おや、性格は年月に左右されないものなのか。これは新しい発見だな。』
『そんなの答えになっていない。ちゃんと答えてよ。』
イルサーシャは腕を掴むそれぞれの手に力を込めると共に怪訝に思った。肌触りが見た目と異なる。人肌とはこうも固くざらついたものなのか。例えるならば無数の小さな鱗に覆われている表面に遠慮なく触れている感触である。そして体温も感じられない。何のまやかしなのか、と左右に視線を送るイルサーシャに対して二人は一瞥を与えただけであった。
『気が短いのも以前のままだわ?』
『眉間に皺を寄せて難しそうな表情をするのも変わらずか。いや実に面白い発見だ。』
『でも…お腹が満たされないわ、発見なんて。』
『そうだな。確かにお前の言う通りだ。つまらん。』
二人は互いの意見が一致すると同時に気怠そうで重い溜め息を漏らした。
全く相手にされていない。込み上がる怒りといたたまれなさに身を任せるべくイルサーシャは立ち上がった。掴んでいた得体の知れない感触の腕を離し、踵を返す。何処へ行けばよいのか皆目見当がつかないが、少なくともこの薄気味悪い空間から逃れたい。訳の解らない事を延々と語る外つ国の者たちではなく、故国の者たちに会えば何か判るかもしれない。そして踏み出した一歩をそのままにイルサーシャは新たな疑問に直面した。
故国。それは如何なる名であったか思い出せない。その故国でどの様な立場で日々を過ごしていたのだろうか。容赦なく襲い掛かる自問と不安にイルサーシャは耐えきれず、次なる一歩を踏み出せなかった。
『何処へ行こうとしても無駄よ、ただのイルサーシャ。』
女の声に抗うかの如くイルサーシャは再び頭を振る。白銀の長い髪の先端は静寂の空間に音もなくしなやかな弧を描いた。
『ここは夢の奥底だと何度言えば解る?夢とは万物の干渉を避け、ただひたすら時の経過を貪る。お前の意思ではどうにも出来んのだよ、ただのイルサーシャ。』
男の声にイルサーシャはうなだれた。彼の言葉通り、新たな展開を望めそうもない。何も判らずじまいのまま夢から覚めるのを待つしかないのか。いや、覚めるという保証はない。むしろ覚める事なく永遠を過ごさなければならない絶望感がイルサーシャの心を蝕み始めていた。
『あらこの子、泣いてしまったわ。』
『これは一番厄介なやつだな。』
『そうかしら?』
『涙というやつだ。』
『人間は悲しいと涙を流すと聞いているわ。つまりわたしがこの子の感情を食べてあげれば全てが丸く収まると思わなくて?』
『昔、苦しくて泣いていると思ってその者の感情を喰らったらだな、実は嬉しくて泣いていたらしい。その後、酷い腹痛と嘔吐に苛まれたのは今でも忘れられん。』
『そんな事もあったわね。』
『あぁ。あんなのは二度とごめんだ。』
『ちょうどこの子が生まれる数か月前の出来事だったかしら?』
『いや、生まれて数か月後だったような覚えがあるが。』
『どちらが正解?』
『それよりもこの娘の涙を見極めなければな。』
『悲しくて泣いているのに決まっているわよ。』
『苦しくて泣いているかもしれんぞ?或いは我々とこうして会話が出来て感激のあまり涙を流しているとも考えられるな。』
『言われてみればあなたの考えも一理あるわね。この子、死んでからずっと孤独だったから。』
『これから先も、だがな。』
『ねぇ、もしわたしたちも離れ離れになってしまったら、あなたどう思う?』
『それはすこぶる困る。』
『どうして?』
『悲しくて湿った感情は喰らいたくない。』
『わたしも一緒。苦しそうで痛々しい感情は口に合わないわ。』
『互いの実と益が一致したな。』
『わたしとあなたはいつもそうじゃないの。』
『人間の男と女はこの様な言葉の遣り取りの後に自ずと互いの手を取り合うそうだ。』
『そして唇を重ねるの。』
『ほう。』
『そして身体の至る所を合わせるのよ。』
『すると子孫が残る。』
『そう。幾度となく見てきたけど不思議よね。』
『口から煙を吐くのが趣味で常日頃から仏頂面の我々の息子もそうして生まれた、という事か。』
『彼がこの光景を見ればあの仏頂面も少しはまともになるかもしれないわ?』
『それはどういう意味だ?』
『今までこの子が涙を流す姿を彼は見た事が…あら?』
一方向に視線を釘付けにした中年の女はそれまで休める間もなく動かしていた口を開いたままにした。中年の男も彼女に倣う。新たな気配を感じ取ったらしい。遅れて数秒後にこつりと革靴の踵が床を打つ音がイルサーシャの柔らかな耳朶を優しく撫でた。
誰かがこちらに来る。イルサーシャは涙で濡れた顔をそのままに靴音が聞こえる方向へ動かした。黒い影が近付いてくる。形からして男だ。黒く長い外つ国の外套を纏っている、とイルサーシャは知るなり逃げ出そうとするが両脚に力が入らない。腰が抜けた訳ではないが、冷たくも温かくもない床に両脚がへばり付いてしまった錯覚に抗えずにいた。
味気ない硬質な靴音が一定の間隔を保ちながら、その響きを増しつつイルサーシャに近付く。助けを求める訳ではないが、イルサーシャは左右の中年の男女を交互に見上げた。二人は押し黙っている。先程までのべつまくなしに動いていた口が一文字に結ばれ、言い換えればばつが悪そうな雰囲気を醸し出していた。
何故黙っているのだ、とイルサーシャが怪訝に思おうとも黒い影は彼女の思惑を無視して歩む速度を緩めない。そして靴音が止んだ。手を伸ばせば届く程度の距離を置いて黒く長い外つ国の外套を纏う男はイルサーシャの目の前に立った。
『久しぶりだな。本当のイルサーシャ』
黒く長い外つ国の外套を纏う男はそう語ると乱れたイルサーシャの横髪を耳に掛けてあげようとしているのか、手袋越しの手を伸ばす。久しぶりと言われてもイルサーシャの記憶の泉に彼の名はおろか、姿すら浮かび上がらない。ただその声は聴覚を通して全身に染み渡る感覚を抱かせた。己の名が判らなくてもこの声だけは常に聴いていた気がしてならない。だが目の前に立つ男は明らかに時代と文化が異なる立場の者である。伸ばした指先が触れる間際にイルサーシャはその手を払い除けた。
『触らないで、外つ国の男が。汚らわしい。』
可能な限りの鋭い視線を放つイルサーシャに対する応えは鼻から溜め息を漏らす音。重苦しさはない。軽やかで爽々としている。この響きも熟知しているとイルサーシャ自身の思考よりも肌が教えてくれた。
『此方の可愛い巫女よ、実は長い年月を経た為に汝は己の姿をこの世界で巧く再現出来ないかもしれんと危惧したが…それも無用の長物であったな。』
『さっきからあなたたちはただのイルサーシャと馬鹿にしていると思ったら今度は本当とか巫女だなんて持ち上げたりして…己は何なの?』
『やはり全く覚えていないのか?』
『何処の誰だか知らないあなたに可愛いなんて言われても騙されないわ。』
黒く長い外つ国の外套を纏う男はさも困った様子で男らしく尖った顎を左手で詰り、そのまま人差し指と中指を揃えて一点を示した。
『汝は背にある壁面を見ても何も思うところが無いのか?』
『はぐらかさないで。』
『ここは一つ、素直に此方の言葉に従った方が良い結果になると思うぞ?』
イルサーシャは首を捻った後に渋々と身体を石造りの壁面へ向けた。先程と何ら変わった様子は見受けられない。限りない静寂を思わせる不気味な空間の中で平然と語る黒く長い外つ国の外套を纏う男の言葉に従ってみるべきか。闇雲に動いても何かを得られるとは思えない中、この男が現れた。これが夢なのであれば、その物語は先へ進ませなければならないとイルサーシャは思った。彼は解決の糸口を知っているのに違いない。
『ほら、見たわよ。』
『この壁面は汝の同族が残した遺構だ。』
『己の同族…。』
『あぁ。外つ国の者たちはマナエグナの民と呼んでいた。』
イルサーシャの身体が反応を示した。後ろから両肩に手を置かれたからである。彼女は振り払おうとはせず、嫌がる素振りも見せなかった。
『マナエグナの民。確かそう言われていた様な気が…する。でも頭の中に霧が掛かったみたいな感じがして気持ち悪いのよ。』
『マナエグナの民は自らの在り方を如何に残すか苦心した。文字というものを用いて後世に伝える手段を唱えた者がいたが、それには問題があった。何故だか汝は判るか?』
『己は文字の全てが読める訳ではないわ。』
『如何にも。また文字は時の流れと共に形を変え、後を生きる者にとって難解なものとなり、やがては忘れ去られる。言葉も同様だ。ならば音ではなく形として残す手段を選ぶ者が現れた。』
『形とは?』
『絵画や彫刻などの表現手段だ。自らの心の形を具現化したものや魂魄迫るもの、マナエグナの民にとって素晴らしい出来栄えであったと此方は感心しているが、それはそれで哀れな末路を辿る事となった。これについても汝は判るか?』
考える素振りをイルサーシャは見せ、静かに頭を振った。
『汝が外つ国に嫌悪を示すのと同じく、外つ国の者たちはマナエグナの民に理解を示さなかった。故にマナエグナの民が亡びた後にそれらの品々は珍奇で禍々しい存在として扱われ、破壊のうめきにあってしまった。』
今度は深く重々しい溜め息が流れを止めている空気の間を縫ってイルサーシャの耳に届く。哀愁を思わせる響きは気の強いイルサーシャですら両肩に置かれた手に自らのそれを重ねさせた。
『折しも人間たちは争いに明け暮れていた。争いが育むのは一時の儚き満足と末永く根深い憎悪であると汝はその身を以て体験したのだが、覚えているか?』
問い掛けの内容を反芻しているかの様な表情を見せていたイルサーシャは左の横髪を耳に掛けてから頷いて応えた。無論、彼女の耳朶からぶら下がる存在は見当たらない。
『残念な事に時代の潮流は己と異なる者たちに歩み寄る余裕と優しさを霧散させてしまったのだろうな。老いも若いも男も女も関係なしにマナエグナの血は絶たれ、在りし日の痕跡はこの壁面以外は残って…いや、あとは汝がいたな。』
薄い苦笑を気に掛けるまでもなく、イルサーシャは改めて壁面を注視する。実際に身体を動かしてはいないが、どの角度から見ても線の集まりであろう。所々に点がある。人為的に作られたのか、雨風の悪戯なのかを判断するには薄暗さが邪魔している。
『見る聞くと触れるとでは大いに異なるとは汝ら人間の素直で素朴な、そして実直な意見だ。此方の可愛い巫女よ、汝ならどうする?』
黒く長い外つ国の外套を纏う男はイルサーシャの顔の真横に自らのそれを並べた。彼が鼻で大きく息を吸い込んで満足気に吐く有様をイルサーシャは横目で見ていた。何に満足を覚えているのか。女の柔肌特有の香り、もしくは長年染み込んだ香木の爽やかな匂いだろうか。
そうだ、己は香木が焚かれた広間の中央で祈りを捧げていたのだ、とイルサーシャは在りし日の記憶を手繰り寄せていた。祈りとは切なる願いを思い描く行為であり、その内容はマナエグナの民が何事もなく無事に健やかに日々を過ごせる様にある存在に語り掛けていたとも思い出した。ただ、その対象が深い霧の中に隠れている。名前はおろか、姿かたちも判らない。
『不思議なものだ。夢の世界であろうとも汝はこの香りを運んできてくれた。歴代の巫女の中でもこれほどの敬虔な者は汝だけだよ。』
意味深長な言葉は横目で彼の動向を捉えていたイルサーシャの顔を動かした。明らかに生きた時代の異なる横顔の持ち主が祈りの対象であったとは思えない。外つ国の男にマナエグナの命運や帰趨を委ねる訳がない。しかし否定できない己が徐々に心身を占め始めている。イルサーシャは自らの平静を見失う前に、と横髪を程よい形の耳に掛けた。その手は胸の音を聞こうと下に降り、そのまま腹へ添えた。
『夢の奥底で腹痛とやらは無縁のはずだが?』
イルサーシャの動作と思考をさも判っていると言わんばかりに悠然としていた黒く長い外つ国の外套を纏う男の唇がそれまでよりも重たげに動く。全てを見透かしている様な眼差しや苦笑は零れていない。むし不可解と懸念が織り込まれた雰囲気を彼は纏っていた。
『判らない。ただ勝手に手が動いただけ。』
『勝手に、か?』
『なんでだろう。お腹が空いた訳でもないのに。』
『空腹という現象も夢の奥底では起きんよ。』
『もしかしたら、昔の己はここを押さえると安心していたのかな?』
イルサーシャが初めて笑みを零した。己に素直な女の柔らかで優しい口の綻びようは見る者も心穏やかにさせる効力が働くものである。しかし黒く長い外つ国の外套を纏う男の眼差しに変化は生じていなかった。
『どうであったかな?』
しらじらしさを乗せた響きにイルサーシャは気色ばんだ口調で答える。
『知らなくて当然よ。己は殆どを独りで過ごしてきたから。』
『ほう。そこまで思い出したか。』
口ぶりだけは感心を示す黒く長い外つ国の外套を纏う男は僅かに首を傾げてイルサーシャを見つめては言葉を続けた。
『此方の杞憂に過ぎなかったな。』
『杞憂?何の事?』
『それよりも早く触れてみたらどうだ、マナエグナの遺産に。』
またもやはぐらかされた。今度こそは問い詰めてやろうとイルサーシャは思ったものの、黒く長い外つ国の外套を纏う男が単にせかしているだけではない様子を彼女は感じ取っていた。
切望とは少々異なるが、何処となく似通った面持ちが否めない。この何を意味するのか解らない壁面に触れると何が起きるのか。またその結果を何故に望むのか。理由を問おうとも満足な回答は得られないであろうと肌で理解し、雰囲気がその様に語っている。
左右に立つ中年の男女は依然として黙ったままであり、イルサーシャの一挙一動を見逃さまいと双眸が見開いている。やはり外つ国の人間とは言えども、異なる生き物であると感じざるをえない不気味さが拭えない。
『分かったわよ。』
捨て台詞よりも諦めの色合いを強めにイルサーシャは言葉を発すると壁面の前に立った。
『触る前に一つ教えて。』
『此方が知る範囲であれば惜しまずに答えよう。』
覚悟を決めたかの様な落ち着いたイルサーシャの口調に黒く長い外つ国の外套を纏う男は平然と答えた。
『己は死んだんだよね?』
『あぁ。』
『でもこうして意思があるのはどうして?』
『肉体が滅んだだけだよ。』
『じゃあどうして肉体以外は滅ばないの?』
『汝は剣霊となったからだ。』
『剣霊?人間の意志が剣に入り込んだ、あの剣霊の事?』
『そうだ。』
『己がどうして剣霊に?』
『此方がそうする様に頼んだ。』
『己の知らないところでそんなお願いを誰にしたのよ?』
『絶望の剣霊サリシオンだ。剣霊帝と言えば汝でも判るだろうか。』
『何故、己でなければならなかったの?』
『その問いについてマナエグナの遺産が答えを導いてくれるだろう。』
問答の時間は終わりだと黒く長い外つ国の外套を纏う男はイルサーシャの腰を軽く叩いた。あとはいくらイルサーシャが問い掛けても彼は澄ました顔をそのままに口を開かず、男らしい顎先を壁面に向けてしゃくるだけである。
仕方がない。イルサーシャの中でその様な言葉が広がり、あとはその言葉がもたらす作用に身を任せるだけだ。躊躇いもなく右の二本の指先を壁面に触れさせる。見た目よりもざらついた具合は感じられなかった。
『触ったけど?』
期待外れと言わんばかりの表情のイルサーシャに黒く長い外つ国の外套を纏う男は不服そうに目尻を細めて答えた。
『触れるとは己の触覚を通して理解する事だ。今の行いはそれには遠く及ばないと汝自身も判っていると此方は思うが。』
『いつもそういった難しくてややこしい表現しかしないの?』
『此方は生来これで通してきている。』
『あなた、友達がいないでしょ?』
『無論だ。汝と一緒だよ。』
『仕方ないでしょ。物心ついた時から祈りを捧げる立場だったのだから。』
『あぁ。知っているよ。』
『で、どうすればいいのよ?』
『左右の掌の表面の全てを押し当ててみろ。』
最初からそう言いなさいよ、と小言を零しつつイルサーシャは再び躊躇いもなく広げた両手を壁面に密着させる。壁面の石造りによる冷たい表面は予測できたが、脳裏がみるみるうちに熱を帯び始めた。マナエグナの歴史とイルサーシャの記憶が止めどなく湧き出る泉の如く彼女の内側を満たしていく。
思い出したという表現とは些細な事象に対して用いる言葉なのかもしれない。イルサーシャにとって一個人の生涯を遥かに凌駕する圧倒的な情報量は彼女の意識を遠退かせるのに十分であった。
両脚で立っている事もままならない程に力が消え失せてしまえばあとはその場で崩れ落ちるしかない。
白銀の長い髪が堰を切ったかの如く広がり、その毛先は規則性もなく床の上で好き勝手にあらゆる方向を示している。深い緑色の瞳は霞む景色の中で一人の男の姿を探し求める。何故彼がこの場に現れたのか不思議に思っていたが、その謎が解けた。己は彼を知っていた。その旨を本人に伝えたくても既に手は木の枝の様に動かなくなり、唇も単なる装飾となってしまった。そもそも声が出せないかもしれないとも不安があった。喉を斬られて絶命を迎合した記憶が蘇ったからである。それでもいい。もう一度、彼の名を呼びたいと思いながらイルサーシャは双眸に闇を与えた。
気を失ったイルサーシャを三つの眼差しが見下ろしている。その場に居合わせた人間がもしいるとしたら、それぞれの思惑が如何なるものか、推し量れるだろうか。
黒く長い外つ国の外套を纏う男はイルサーシャの頬を撫で、白銀の長い髪に覆われた目許を晒した。
『この子、また涙を流しているわね。』
僅かながらの関心と共に中年の女はそれまで閉じていた口を開いた。
『よく泣く娘だ。以前もそうであったかどうか。』
中年の男は腕組みをした上半身を左右に揺らしてあらゆる角度からイルサーシャの闇を与えられた目許の潤い具合を眺め始めた。
『さて此方の一部たち…いや、違うな。』
黒く長い外つ国の外套を纏う男は腕組みをし、低く喉を鳴らした。
『親父殿とお袋殿は此方の可愛い巫女の涙はどう見る?』
『嫌ね。わたしたちの息子が無理難題を押し付ける捻くれた性格だなんて。』
『その様な男に育てた覚えはないのだがな。』
『答えになっとらんよ。』
組んだ腕をそのままに黒く長い外つ国の外套を纏う男は左右の口角を緩やかに上げる。
『ついさっきもそれについて議論したところなのよ。』
『どちらが正解なのか、どちらが間違っているのか皆目見当がつかないのだ。』
中年の男女は縋り寄る勢いの眼差しを黒く長い外つ国の外套を纏う男に向けていた。その光景は普通ならば立派な青年となった我が息子に助けを求める父母に見えなくもない。
『覚えておけ。これが虚ろな涙というやつだ。』
『虚ろな涙?初めて聞くわ?』
『喜怒哀楽のどれにも属さない涙という事か?』
『どうして自分だけわかるのかしら?同じ一部なのに。』
『不公平だと言いたいところだが、そうと判る要因を我々の息子は知っているのかもしれんな。』
『簡単だよ、親父殿とお袋殿。此方たちと違って人間には表情という心の表れがある。それで判断すれば済む。』
『言われてみれば確かにわたしたちは口を開いているか閉じているかの顔しかないわね。』
『こののっぺりとした表情の時が虚ろな涙という訳か。』
『己が如何なる者なのかを知り、心に安らぎを得たのであろうな。』
『安らぎねぇ?この子の生き様は他と比べて良い待遇ではないって以前言っていなかったかしら?』
『我々に対する敬虔を貫く事を強いられる生涯とやらだな。息子よ、その何処に安らぎを見いだせるのだ?』
『そう難しい話に持ち上げるな。まぁ勘だよ、勘。』
『敬虔の対象が勘なんかで物事を判断して良いのかしら?』
『すこぶる嘆かわしい。そんな息子に育てた覚えはない。』
『勘を無碍にしないのはこの異教の男の人生訓らしいが、これは使いどころを誤らなければ役に立つ。それに此方の可愛い巫女は女だ。女の心の内を推し量るのも男の務めだと思うのだがね?』
膝を折った黒く長い外つ国の外套を纏う男は気を失ったイルサーシャを軽々と抱き上げ、石造りの壁に視線を合わせた。その瞳は穏やかで遠い過去を思い起こしている様子であった。
『汝は覚えていないだろうが以前も同じ場面があった。あれから二百と数十年。生きていようといまいと汝ら人間の魂に刻まれた記憶が保たれるにも限界がある。そして今から同等の歳月が流れた時に再び相まみえよう。此方の可愛い巫女よ、汝の記憶から此方を消え失させない為にな。』
彼の言葉がイルサーシャに届いているのか判らない。イルサーシャの口許は半開きになる間際の安らぎを見せ、白銀の長い髪は抵抗もなくただ垂れている。
『ねぇ、あなた。次に会う時もわたしたちの息子の姿なのかしら?』
『つまり我々もこの姿を強いられるという事か。それにしてもマナエグナの巫女には結構嫌われていたな、外つ国の人間の姿というだけで。』
『そうね。いつも彼女の事を見守っていたのに酷い仕打ちだわ。』
『まったくだ。』
『ところで前回はどんな姿だったか覚えていて?』
『忘れたよ。そもそも腹の足しにもならん事に興味はない。』
『つまりあなたの記憶力も人間程度という事になるわね?』
『お前もそうだろう?忘れていないのであればわざわざその様なくだらない事を訊いてこないと思うが。』
『人間と一緒にしないで。彼らは何かしらの固形物を食べたらお尻からそれを出さなきゃならないのよ?わたしには到底真似出来ないわ。』
『まぁもし真似するなら付き合っても良いが?なんせ我々は夫婦というやつだからな。常々行動を共にしなければならないそうだ。』
佇み続けていたであろう空気が咳払いを運ぶ。黒く長い外つ国の外套を纏う男が発したに他ならない。苦々しい響き具合に、物静かな威圧を伴った息子の眼差しに中年の男女は口をつぐんだ。
さて、と一言零した後に黒く長い外つ国の外套を纏う男は踵を返した。この静寂が広かる世界で何処へ向かうというのか。その様な問い掛けをせずに中年の男女も彼の左右に並んで歩みを始める。
『残る問題はあと一つ。』
憂慮を含んだ言葉に答える者はいない。それほどの難問と察してなのであろう。
『親父殿とお袋殿。あの狼の小娘が巧く事を成し遂げると思うか?』
顔を左右に振らず、正面に向けたままの問い掛けは大方予想のつく回答しか得られないと予測してなのだろうか。また判りきった言葉を吐く側も思考を停止しているのであろう。彼ら親子の歩む速度はそのままであった。
『残念だけど…』
『時間の無駄、というやつだ』
『別れの言葉を探す日が来たのか。まだ早い気がするが、このまま折れるのを待つ訳にはいかない。』
『お別れという事は彼を食べても構わないという事ね?』
『契約者とやらの権利で散々こき使われてきたからな。食べるよりは全身の骨を砕いた方がせいせいすると思うが。』
『いや、その時は親父殿とお袋殿は黙っていて欲しい。此方自らが彼に話をするよ。』
『わざわざ出向くの?』
『滅多に姿を現さない出不精なのにな。』
『此方はこの姿といい、彼をそれなりに気に入っているつもりだよ。』
『あと、仮に彼とお別れになったとして、あれにはどう説明するつもり?』
『そうだな。あれは融通が利かん。』
あれか、と呟いた黒く長い外つ国の外套を纏う男は抱きかかえているイルサーシャに視線を落とした。
『剣霊になる際に此方の可愛い巫女の異なる人格が芽吹くとは思いもよらなかったが、結果を甘受するのは人間であろうと崇められる側の此方であろうと変わりない。』
『それでどうするの?感傷に浸ってもお腹が空くだけよ?』
『あれにもわざわざ出向いて事の経緯を説明するのか?』
『その際は親父殿とお袋殿に頼む。あれとは四六時中付き合っているのだからな。』
『どうしてそんな投げやりな事を言うのかしら。』
『両親に七面倒臭い事柄を押し付けるのは如何なものか。』
『先程から思っていたのだが親父殿とお袋殿、少しは人間らしさがさまになってきたな。今後はその姿のままでいるか?』
吹く風がないのだから黒く長い外つ国の外套を纏う男の短い苦笑が石造りの壁面に届く訳がない。
彼の言葉を借りるのであれば、二百五十と幾許かの年月を経て再び彼らはこの場に現れるのだろうか。その時が訪れようとも石造りの壁面は姿を変えず、純粋無垢なイルサーシャを見下ろすのか。
限りを知らない広がりを思わせる薄暗い空間に一行の姿は既に見当たらない。




