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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第四章 ゲルハルステン望郷編
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黄金の指輪

 張り詰めた空気が勢い余って爆発する。或いは跡形も残さずに砕け散る。

 剣霊同士の一閃が交わった際の表現として、その場に居合わせた者なら誰もがその様に錯覚すると言われている。己の剣霊であるイルサーシャの戦いぶりを五年余り目の当たりにしてきたユストですら、この表現に異論を唱えるつもりはなかった。

 つまり、これまでの認識が覆されてしまった。ラファエラと邪剣霊ルケリヤの激突は他の剣霊が繰り出す様な鮮やかさや洗練さは欠くに欠き、僅かな気の緩みや躊躇が勝敗の分水嶺となる。目の当たりにした者は壮絶という文字が否応にも脳裏に焼き付けられてしまう。ユストも例外ではない。

 新月の日が終わると同時に邪剣霊ルケリヤはラファエラの首を掴まんと右手を伸ばした。斬撃を繰り出さずに力で捻じ伏せる算段であろう。獲物を目掛けて生ある全てを切り裂く剣霊の腕がぬるりと動く。まるであらかじめ道が用意されていたかのように大気の抗いをものとせずに、不気味な斬撃音を立てずに、である。

 対するラファエラは顔を僅かに動かしただけであった。先読みを得意とする彼女はそれで充分と判断したのか。

 凶暴の権化と化した邪剣霊の虎口がうら若き剣霊の白き喉笛に襲い掛かる。更にラファエラが首を捻ると共に金属同士の相克をユストの聴覚は捉えた。

 それは甲高く耳をつんざく響きではなかった。刀身の長短関係なしに互いの戦意と矜持が真正面からぶつかり合った音は不快なほど鈍く、とても小さい。赤銅色の髪が大胆になびき、薄紫色の髪が細やかに揺れた。

「まさかそんな手を使うとはね。」

 世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳に感嘆を浮かべた後に邪剣霊ルケリヤは口許を邪悪な形に歪めた。

「何時までその態勢が持つか試してみようかしら。」

 相手の挑発にラファエラは答えない。いや、彼女が僅かに首を動かすと共に不快な鈍い音が幾許か大きくなったのは真っ向から受けて立とうという返事であったのか。ラファエラは己を滅せんとする邪剣霊ルケリヤの虎口から先のか細い指の数本を咥え込んでいた。

 人間同士であれば指を噛みちぎられてしまうと恐怖が脳裏を過り、動揺を覚えるであろう。しかしこれは剣霊同士の戦いである。流血は皆無であり、禍々しき刃と不倒の精神が相克の真っ只中にある。勝利と敗北、刀身が折れるか折れないかまで続くのか。

 邪剣霊ルケリヤは眉間に力を込め、そのままラファエラの口内を突き破ろうと試みる。ラファエラも顎の角度を深くして歯を食い縛る力を強めた。

 初撃で決着がつかなければ次の一手を用いる。ラファエラは己の目許を覆うユストの手を除ける為に彼が羽織る黒いコートの袖を素早く払った。そのまま勢いに任せて邪剣霊ルケリヤの胸部を突くべく手刀による刺突撃を繰り出す。だが、届かない。刀身の長短以前に身長差による腕の長さで不利が生じてしまった。

 邪剣霊ルケリヤは歪めていた口許を元に戻し、左腕を振りかざした。大振りなそれは雌雄を決する一撃を喰らわせる為の動作とも言える。描くであろう軌跡から判断して狙うはラファエラの首から上であろう。

 ラファエラの垂らしている左の人差し指がもぞもぞと動いている。彼女が防御の姿勢を執らないのは先読みの能力により己が攻撃対象ではないと判明したからなのか。

『背後』

 左の人差し指はその様にくうに文字をしたためていた。中央の文字であったからこそユストは理解したが、意味を咀嚼するよりも早く、邪剣霊ルケリヤが振りかざした左腕はまさに弧を描き始めんとしている。

 残忍無比な手刀が描いた軌跡は大地に対してほぼ垂直であった。振り切ると同時に剣同士が相克した凄惨な響きが耳孔に飛び込んでくる。一方は真空の刃を大地に叩きつけて反射させる力技に対し、対するは満身創痍ながらもその称号に恥じぬ気迫の一撃で迎え撃った。背後とは赤心の剣霊ルケリヤを指してであった。

「後ろからズドン、なんて御免被りたいわね。」

 一安心したかの様な口調で邪剣霊ルケリヤは振り向きもせずに語る。

「剣霊の戦いに前も後ろもないわ。は出来る事をしようとしたまでよ。」

 か細くとも確固とした意志で言葉を発するルケリヤに短い憫笑が送られた。

「この折れ損ないが。もう一度痛い目に遭いたいらしいわね?」

 殺意を剥き出しにした邪剣霊ルケリヤは再び左腕を振り上げようとする。すかさずラファエラの右手が獲物を正確に狙うか細い手首を掴んだ。二撃目は今のルケリヤでは耐えられないと彼女は判断したのであろう。

 ふん、と邪剣霊ルケリヤは鼻を鳴らした。

と力比べとは見上げた度胸ね、野蛮なお嬢さん?」

 ラファエラは動かせられない口の代わりに目尻に鋭さを如実に現して応える。

 上から押し潰すのか、下から跳ね上げるのか。冬の夜らしい凍てつく大気の中で、ある訳もない熱気が立ち上っては闘志を剥き出しにした二振りの剣霊たちを包み込んだかの様にユストには映った。

 たとえ()()()()であろうとも、実際に二振りの剣霊からしてみれば正にその通りである。げんに趣は異なるが、双方の眼差しから剣霊らしい涼しげなものはとうに消え失せていた。

 その見つめる先に馳せる思いは如何に相手を凌駕するか、と渾身の力を込めるだけ。誰がこの重苦しい空気に水を差せよう。

「見苦しい。相手の挑発に乗るな。」

 凛々しくも端麗な声が変化を与えた。外壁の上からである。一同の視線がそちらへ動くよりも早く、声の主ユラン・エレエは軽やかに着地する。脳天近くで一つに纏めた濃淡のある赤い髪が薄闇の中で大鳥の羽の如く広がりを見せては元に戻る間に彼女はラファエラの後ろに立った。

「わたしはそこで何も出来ずに突っ立っている優男とは違うぞ?邪剣霊、覚悟しろ。」

 数多の死線を潜り抜けた者のみが会得可能な敵を睨め付ける傲慢不敵な眼差しと言葉の後にユラン・エレエはラファエラのか細い右手首を掴んだ。

 刃の切れ味における優劣は拮抗しようとも、剣霊にとってそれほど重視されない、そもそも必要としない膂力の差が段違いに跳ね上がる。例えるならば猫同士の力比べが猫と獅子のそれへと変化したと言えよう。

 流石に不利を悟ったであろう邪剣霊ルケリヤの片足が半歩引かれた。彼女が慄いた訳ではないと、その場にいる戦いを知る者の誰もが理解している。ラファエラは己の顎に更なる力を込め、ユラン・エレエも僅かに腰を落とす。

「ここは引き分けにしましょうよ。お互いに倒す目的も意義もないのだから。」

 余裕の微笑を湛えながら邪剣霊ルケリヤはそう提案する。対するユラン・エレエは清々しい眉間に皺を寄せた。

「目的や意義がなくても、一度煌めかせた刃をどう収めるのか、他の(すべ)を我々は知らないのでな。」

 己の剣霊の手首を掴む手に力を漲らせる。邪剣霊ルケリヤの余裕の微笑が心なしか薄くなった。

「どうしても()を倒すつもり?」

「くどいぞ、邪剣霊。」

「そう、仕方ないわね。」

 指先の一つ二つくれてやるわ、と吐き捨てるなり邪剣霊ルケリヤは腰を捻った。

 ラファエラにはまず不可能であろう起死回生の一撃が繰り出されようとしていた。長い髪を遠心力に任せて叩きつける、長剣を剣体とする剣霊ならではの一撃であり、イルサーシャも得意とする一手でもある。

 邪剣霊ルケリヤが捻った腰を勢いよく元に戻すと共に赤銅色の長い髪が狂猛な弧を描いた。先読みをおの天稟てんぴんとするラファエラは身の危険を察したのか、指を咥え込んでいる顎の力を抜き、掴むか細い腕を離す。同時に爪先を上に向けてユラン・エレエの懐に倒れ込む。

 獲物を切り裂くしなやかで妖しい赤銅色の長い髪は空を割き、静かになった。

「流石のとて、なかなか痛かったわ。あなた、歯が丈夫なのね?」

 か細い二本の指を擦る仕種を邪剣霊ルケリヤは見せた。見方を変えれば次なる一撃の為に爪を研いでいるかの様でもある。役目を終えた赤銅色の長い髪の枝分かれした先端が夜風に晒されて僅かになびいていた。

「幼い頃に歯は財産だと両親から習った。剣霊になった今、こうして親に感謝する機会に恵まれるとは思わなかった。」

「素敵なご両親ね。その自慢の歯での指を喰いちぎらずに離したのは何故?そのまま喉奥を突かれていたかもしれないわよ?」

 ラファエラは身を預けているユラン・エレエの左の頬に手を伸ばした。先の赤銅色の長い髪の一撃による風圧を受けて血を滲ませている。可憐な指先に付着した契約者による魅惑の赤をしゃぶる様に舐め取った後に彼女は答えは簡単だ、と言い放った。

「剣霊の霊体は人間と同じ関節を持っている。髪を振り回す動作をする最中に腕を更に伸ばす事はまず出来まい。弧を描く髪の遠心力に身体が持っていかれるからだ。」

「そうも容易く言い切れるなんて感心したわ。でも、そう理屈っぽい性格だと男の子に嫌われるわよ?あなた、口調もぶっきらぼうだしね。」

 年長者の嘲笑めいた笑みを見せられようともラファエラは平静を保っている。

「嫌われて結構だ。むしろその方がは有難く感じる。」

 暫しの沈黙の後に邪剣霊ルケリヤは、あぁなるほど、と言いたげな視線を相対する女たちに投げた。

「あなたとは気が合いそうね?契約者の血を奪い合う必要もなさそうだし。」

「いや、それは断じてありえないな。貴様の様な薄汚い邪剣霊と与するほど我々は愚か者でもなければ落ちぶれるつもりもない。」

 毅然と語るユラン・エレエはラファエラの薄紫色の髪を詰りながら美貌の一端を担う顎に不敵な角度を与え、剣霊に負けず劣らずの睨め付ける眼差しと共に言葉を続けた。

「兎も角、御託を並べずにさっさと決着をつけないか?」

 邪剣霊ルケリヤは答えない。相手の挑発に乗る様な短慮な性格の持ち主ではないと、彼女のこれまでの言葉尻から窺い知れる。指を擦る動作はそのままに思慮に耽ているのか。いや、ユラン・エレエとは反対の物静かな視線は何かしらの様子を覗っているのでは、とユストは勘付いた。

「決着?それならそろそろじゃない?」

 さもしてやったりな微笑を晒す邪剣霊ルケリヤの意図を読み取ったユストは振り返りたいがそうも出来ない。敵前である。ルケリヤに易々と背を見せて不意打ちを喰らう可能性がないとは言い切れない。戦いに正義や信念があろうとも、手段はそれらに準じないのが常である。

「おい優男、わたしと背中を合わせろ。」

 ユラン・エレエの言葉は邪剣霊ルケリヤの言葉の意図を正確に読み取った上で最良の提案と言えた。前方の敵は己に任せて背後の敵に対処しろ、という意味である。

「勘違いするな。この場で貴様の無様なむくろなんぞ見たくないからだ。」

 普段のユストであればこの様な悪態に音なき溜め息と共にさらりと聞き流すが今は違う。誰に見せる訳もなく確固として頷くとユラン・エレエの言葉に従う。

 体術を会得していようとも女性特有の絶妙な曲線を失っていないと羽織るケープの上からでも判る背中と合わさった。

 新たに広がる視界の中でエルスノアは腰を抜かし、迫る恐怖を前に身体を震わしていた。彼女を守っていたグスタフ・ヴェネシュはもんどりを打ってうずくまり、明らかに無念を思わせる呻き声を上げている。その横では勝利を確信したムルドが奪い取った短剣の使い込まれた刀身を薄闇の中で妖しく煌めかせていた。

「まぁ、今回は特別に許すわ。」

 邪剣霊とて契約者に己以外の剣の柄を握られるのはたいそう癇に障るのであろう。邪剣霊ルケリヤが吐いた平静を装った言葉とは裏腹に苦虫を噛み潰した様な口許を晒している有り様をユストは知らない。


 小が大を制する。そこに偶然を期待するのは禁物である。ましてや平均身長程の中肉中背であり、実戦経験がからっきしの運送屋グスタフ・ヴェネシュが邪剣霊に見初められた高身長で筋肉が隆々とした追い剥ぎ家業のムルドにどう勝てようか。

 気迫で対処しようにも端からその様なものは持ち合わせていない。エルスノアを守らなければならない、いや、守ることを託された栄誉とその()()を完遂しなければならない責務に心身を投げ出す。

 蹲る以前のグスタフ・ヴェネシュの心境である。その様な彼の脳裏を一つの言葉が占めた。己の今ある状況を語るにこれ以上の言葉はない。そして口には出せない。その言葉とはやぶれかぶれ、である。

「グスタフ、あなたはこういうのに慣れているのですか?」

 頼りとする男の両肩のそれぞれに手を乗せて普段と変わらぬ口調で女は問う。

「いや、からっきしですな…。」

 こちらも辛うじて普段と変わらぬ口調で答える事が出来た。エルスノアを落ち着かせる為ではない。まずは逃げ腰な己に発破をかける手頃な手段であった。

「昔、ある剣霊から聞いた事があります。相手をまず睨め付けるのです。」

「協会長様、それは…。」

「そうすると相手は恐れを成して身体が硬直し、戦意を挫かれるそうです。グスタフ、あなたもやってごらんなさい。」

 エルスノアの助言とはあくまでも剣霊であれば、の話である。数多の戦いを経験した剣霊使いならいざ知らず、これまでの生涯で暴力を振るう回数が一度もしくは二度あったかどうか。しかもそれらは兄弟喧嘩の域に他ならない。その様なグスタフ・ヴェネシュは敢えて指摘や反論をしなかった。

 言うまでもなく、それは人間とは異なる剣霊だからこそ出来るのだ、と言いたかった。だが、エルスノアに対して下手に恐怖を植え付ける言動は慎まなければならない。

 ものは試しではないが、グスタフ・ヴェネシュは眉間に力を込め、相対するムルドに鋭い視線をぶつける。何が何でもエルスノアを守らなければ、と思うのと同時に不安が何処となく薄れる感じが判る。これが己を奮うという事なのかもしれない。視線をそのままにして腰にある短剣の柄に利き手を添える。一回、空を掴んだ。いや、場慣れしていない者が一回で済んだのだから上出来と言えようか。

 ムルドがのそりと一歩を踏み出した。グスタフ・ヴェネシュは鋭い視線を更に強くしつつ短剣を鞘から抜く。鞘走りの音は奏でられなかった。それで構わない。目の前に集中できる。ただ、どの様に構えるべきかが判らない。顔の高さで平行にするのか、胸の辺りで刃を相手に向けるのか、それとも腕の力を抜いて垂らしたままにしておくのか。いや、ここは両手で握り締めて構えるべきなのか。道具として使い慣れた短剣が普段よりも軽々しく感じられた。

「なるほど。お前、素人だな?」

 あっさりと看破されようとも、そうだと素直に認める訳にはいかない。グスタフ・ヴェネシュの鼻から漏れる白い息が色濃くなる。

「いくら睨み付けても無駄な力が入るから止めろ。戦いを知る者の視線ってのはもっとのっぺりとしていながらも空気ですら斬りそうな凄味があるのだが、お前のは違う。単に騒がしくて暑苦しい。それがしに気迫で負けない様に無理して己を奮い立たせているだけだ。そしてそれがお前の限界点だ。」

 そんなの百も承知だ、とグスタフ・ヴェネシュは己の中で呟いた。平然としたムルドが更に一歩進める。右手に拳を作り、左手で拳の表面を擦っている。不敵であり、勝利を確信している薄い笑みを浮かべているがそれを甘受してはならない。グスタフ・ヴェネシュは短剣の切先をムルドの胸元へ向けて腕を伸ばした。

「おや、ただの素人ではなく、()()の素人だったか。そこで腕を伸ばしきったら何の対処も出来ないぞ?それに後ろで怯えている剣霊協会のお偉いさんをぴったりくっつけたままでは動きはとれまい。()()()()だ。」

 ムルドの指摘は正鵠を射ていたと認めざるを得ない。やはりやぶれかぶれ戦法しか手段は残されていないのか。

 この様な時、僅か後方で異なる敵と相対している兄弟ならばどう対処するのだろうか、と脳裏を過る。彼が一流の剣士であろうとも、頼りとする己の剣霊が不在だ。ただこの様な場面の経験値は遥かに異なるに違いない。

「仕掛けないならそれがしから行くぞ?」

 ムルドの口許から余裕と勝利を確信した微笑が消え、満面に相手を呑み込まんとする気迫が浮き立つ。

 距離を縮めて掴み掛ろうとしている。戦いの火蓋は切って落とされた。グスタフ・ヴェネシュも気後れしてはならないと顎の角度を深くし、奥歯を噛み締める。視界が僅かに狭くなると共に一つの策がはたと浮かんだ。

「協会長様、御手をお離し下さい。」

 これまでに聞いた覚えもなければ感じられる雰囲気も異なるグスタフ・ヴェネシュの真摯な声にエルスノアは自ずと無言で従った。

「自分が戦っているうちに早く兄弟のところへ逃げるのです!」

 そう言い放つなりグスタフ・ヴェネシュは腰を落として被る革製の帽子の鍔を左手で摘まんだ。ムルドに向かって投げると共に屈強な体躯の懐を目掛けて飛び込む。雄叫びなどいらない。強く鼻から息を吐いただけであった。げんにすぐ傍にいる剣霊使いは音を発さずにあらゆる敵を一撃で沈めていると聞いている。ならばそれにあやかるのも手である。

 万事が巧くいくとは端から思っていない。ただ失敗しなければ良い。ここでの失敗とは明確に判る。エルスノアに傷を負わせてしまう事である。この大陸に於いて社会を形成する中で剣霊協会の重鎮と一介の運送屋とどちらの命が大事なのか比べるものではないと理解している。

 投げた革製の帽子がムルドのこめかみの横をかすめた。せめて顔面に当たるなり目くらましになってくれたのなら、と目を細めて残念がる暇はない。グスタフ・ヴェネシュは恐怖でしどろもどろな両脚に力を込め、短剣を握る手を振り上げた。

 無我夢中だと思っていた。しかし、この振り上げた短剣を下ろした時、自分は人を傷付けてしまうのかという良心の呵責も同時に芽生えていた。大地に縦横無尽に張り巡らす大樹の根の如く、その思いは瞬く間にグスタフ・ヴェネシュの身体を駆け巡り、身動きを封じてしまった。

 次なる行動を見失った短剣を握る手首を握り締められ、迷いが生じた眉間に頭突きをまともに喰らった。物静かなメツァールントの夜に重く鈍い衝撃音が響いたのがその証である。意識が飛びそうになる中、力強い鼻息が聞こえると共に遠慮なしの膝蹴りが鳩尾を強打する。

「帽子を投げなければ頭突きはなかったかもな。」

 ムルドの勝利を飾る言葉をグスタフ・ヴェネシュの聴覚が僅かに捉えたかは判らない。彼は激痛のあまり開いた口から胃液を吐き出し、膝から崩れ落ちた。

 全身から力が抜けていく感覚が判る。そして新たに力を込めようにも全てが弛緩したかの様に身体のあらゆる部位が鉛の如く重い。せめて短剣を奪われてはならないと朦朧とした意識の中で思おうが抵抗は出来なかった。柄を握る指が一本二本と剥がされていく。

「大人しく寝ていろ。短かろうと長かろうと剣ってのはこう使うんだよ。」

 ムルドは奪った短剣の切先をエルスノアへ向けた。

「そうだよなぁ、七十二番?」

 最も恐れていた事態に発展してしまった。ユストは背中合わせにしているユラン・エレエから離れ、エルスノアを救うべく駆け寄る。右肩に赤い花が咲き、ラファエラの短い舌打ちが耳に届く。邪剣霊ルケリヤが些細な隙を見逃そうか。彼女が放った真空の刃の餌食に甘んじたユストが片膝を地に着けた。

 致命傷には至らないが剣霊の一撃である。通常の刃の一撃とは異なる肉をえぐられた様な激痛が迸る肩をそのままにユストは立ち上がろうと試みた。すかさず二撃目が足許の大地を抉る。狙いを見誤ったのではない。動くなという警告である事は否応にも判る。もし警告を無視してエルスノアの許へ向かおうものなら邪剣霊ルケリヤは左右どちらかの足首を狙う、とユストは肌で感じ取った。彼にとっての()()はともかく、足首の腱を斬られてはそれこそ身動きが取れなくなる。それは野を掛ける馬と同じく剣士として死と同等である。

 やはりユラン・エレエから離れるべきではなかったのか、と後悔しようにも目の前の危機を打破すべき動くのは剣霊協会に忠誠を誓った者として当然の行動であった。その当然があだとなったのか。

「よくよく見れば剣霊ばりの鼻筋の通った顔じゃないか、このお偉いさんは。恐怖で一層艶っぽく見えるのは気のせいじゃない様だ。」

 勝利の気分に浸ったムルドの言葉に呑み込まれたエルスノアは腰を抜かして声も出せない状態である。

「なに、抵抗しなければそれがしは痛い思いをさせるつもりはこれっぽっちもないさ。」

 狙いを定めた短剣の切先がゆっくりと近付く。エルスノアは後ずさりしようにも身体が上手く動かせられない程、慄いた状態であった。

「ただ…。」

 ムルドはそう発するなり鼻で短く笑った。闇夜でなければ短剣の刀身は月や星々の輝きを浴びて幻想的な輝きを発していたかもしれない。

「あの()()()が何をするかは保証しかねるが、な。」

 ムルドが手にする短剣が翻り、エルスノアは双眸を強く瞑りながら顔を背ける。同時に彼女の胸許の一点が熱を発すると共にあらゆる星々よりも強い瞬きを放つ。

 その場にいる全ての者が凄まじい衝撃の波を全身で受け止めた。短い金属音が申し訳ない程度に響いた事をエルスノアとムルド以外の者は聞き取っていた。

 何が起きたのか、と背けた顔をそのままにエルスノアは双眸を闇から解放する。己とムルドの間に屈強であり触れるのもおこがましく思えてしまう程の物体が割って入っていた。

 己に危害を加えようとしたムルドの様子など気に留めずにエルスノアの視線はその物体の上から下までをなぞる。長尺の得物であった。

 豪奢とは程遠い控えめな装飾しか施されず、むしろ実用的で清々しさを思い起こさせられるものの、その穂先を見れば誰もが己の鼓動が強く打たずにいられない。狂おしいほどに捻じれに捻じれようとも、触れる全てを絶命へと追いやらんとする鋭利な羊の角を模した穂先が段違いで五つ見て取れた。

「これは…。」

 思わず声に出したエルスノアの双眸に己と同じく腰を抜かしたムルドの姿が映る。彼は気絶している様子が伺えた。右手に握っていた短剣は見当たらない。凄まじい衝撃と共に何処かへ飛ばされたと解釈出来よう。

「わたしをお助け下さいましたか、剣霊帝様。有難うございます。」

 大地に腰を落としたままの姿勢でエルスノアはようやくの思いで腕を動かした。首から下げている黄金の指輪に触れる為である。

「まさか五叉の槍、が…。」

 狼狽えとは無縁と思われていた邪剣霊ルケリヤはそう口走り、有り得ないと刮目していた。

「覇王の象徴である五叉の槍が何故…?」

 横臥しているルケリヤも思わず身を乗り出している。悠久の一端を知る剣霊たちがその長尺の得物の名を知り、過去に一見していたとしても不思議な話ではない。伝説に聞く五叉の槍の姿をその目で確かめたくとも首を動かせられないユラン・エレエとラファエラは共に怪訝な表情を露わにしていた。

 そしてユストは再び相まみえた五叉の槍の前で目を細め、大陸の最西端の地であるノエミリオ諸島に於ける戦いを思い返していた。あの時もこの五叉の槍、いや、覇王に模した剣霊帝に助けられている。

 思慮を重ねるユストをよそに一難去ったと実感しているであろうエルスノアが恭しく黄金の指輪を詰った。宵闇の中でその威厳高き重厚な輝きは放たれていない。

 五叉の槍は霧散という形でその勇ましい姿をくらました。立ち上がった彼女は未だ倒れたままのグスタフ・ヴェネシュの許へおぼつかない足取りで向かう。

「とんでもない物を見せてくれたわね。」

 吐いた言葉と共に邪剣霊ルケリヤは戦意を鎮めた。頬に伝わる張り詰めた空気が元来の緩やかな冬の大気へと戻る。想定外の出来事に戦意を根こそぎ挫かれてしまったのであろう。

 あなたの提案を飲もうじゃないの、とまるで愛しい者へ期待を寄せる身悶えを隠さんばかりに邪剣霊ルケリヤは言葉を続けた。

「今から二日後の日付が変わる時間。そうね、このメツァールントの東側の小高い丘で決着を付けましょうよ。あそこなら今回みたいな邪魔も入らないでしょう?」

 ユストが短く頷き、その動作を見るなり邪剣霊ルケリヤは不敵な微笑を浮かべた。

「でもあなた、の一撃で右肩を負傷したわ?二日後までにあの銀髪の剣体を握れるかしら?」

 今度は構わんと頭を振り、右肩を押さえていた左手を降ろす。挑発する者に向けて剣の柄を握る様に拳を見せた。

「あなた左で戦うの?それとも元から左利きなのかしら?…面白い事を思い付いたわ。」

 邪剣霊ルケリヤの右腕が再び動いた。ラファエラの視線がその軌跡を追いつつ、平気だ、と短く誰に聞かせる訳でもなく嘯く。振りかざした右腕から生じた真空の刃はユストの脇を通り過ぎ、気を失っているムルドの左肩を穿った。ユストが味わわされたのと同等であろう激痛はムルドに短かい悲鳴を上げさせ、彼に意識を取り戻させた。

「これで条件は五分五分。どちらが勝つか楽しみね。」

 何事もなかったかの様に平然と歩み出した邪剣霊ルケリヤはユストとすれ違いざまに彼の耳に乾いた唇を近付けた。

「是非ともあなたに勝って貰わないと。の楽しみがなくなるわ。」

 人間の女であれば悩ましい吐息と共に語ったであろう言葉にユストは首を縦にも横にも振らず、冬の大気に晒された乾いた唇を結んだままである。邪剣霊ルケリヤもユストの態度をあらかた予想していたのであろう。

 彼女の赤銅色の長い髪は平然と揺れていた。

 

 固く冷たい大地に着けていたはずの後頭部は温かで柔らかな窪みに収まっている。これがあの世とやらか、とグスタフ・ヴェネシュは朦朧とした脳裏で一人問答する。

 そして時折、冬の夜の空気に晒された頬を手で軽やかに叩かれてもいた。これがなければ大変心地良い。もう少し丁寧に扱って貰いたいものだなと顔を横に動かす。何とも形容しがたい柔らかさと温もりが叩かれていない側の頬で受け止め、鼻孔を緩やかにくすぐられた。人肌の香りである。心なしか、頬を叩く勢いが幾分強くなった。同時に聞き慣れた声が耳に届く。己の名を呼んでいる。起きろと催促しているらしい。ではあの世とやらをとくとご覧に入れるか。疲労感を伴った瞼を持ち上げた。なんだ、先程とたいして景色は変わっていないではないか。メツァールント外壁の宵闇は相変わらずであるが、やはり頭部が軟らかで温かい。濃紺色の肌触りの良い生地が視界の隅に映る。まさかと思い、顔を元の位置へ戻す。普段とは異なる角度でエルスノアの顔を見るなり、グスタフ・ヴェネシュは驚きのあまり開いた口を閉じるのを忘れた。

「目が覚めたのなら起きなさい。膝枕というのは意外と互いに疲れるものですから。」

 もんどりを打ったグスタフ・ヴェネシュが意識を取り戻したのは邪剣霊ルケリヤが立ち去ってから十分も経過していない頃であった。

 しぶしぶ立ち上がったグスタフ・ヴェネシュは鳩尾の痛みと共に事の顛末を思い出し、辺りを見回す。相対していたムルドの姿は見当たらない。代わりに彼が立っていた位置で佇んでいたユストが転がっていた革製の帽子を手渡してくれた。

「流石は兄弟。あの邪剣霊と男を追い払ってくれたんだな?」

 己の腹を撫でながら帽子を被るグスタフ・ヴェネシュは期待と感謝の眼差しをユストに投げた。彼は違う、と音なき唇を動かし、膝を折ったままのエルスノアを一瞥した。

「その様子だと…協会長様が自らやっつけたと言いたそうじゃないか。」

 ユストは言い得て妙だと言いたげに僅かな微笑を見せつつ胸ポケットから煙草を取り出した。マッチを擦る音がひっそりと響き、何事もなかったかの様に煙草の先端が赤く灯れば緩やかな煙が立ち上る。

「誰がどう倒そうがこの場は収まった。なにはともあれ、僥倖だとは思うが。」

 ユラン・エレエの正面に立つラファエラは言葉を続けた。

「短剣を拾ったらどうだ?鞘から抜かれた剣が無様に転がっている姿は惨めで見るに耐えない。」

 ラファエラの感傷に身を置いている抜けるような青い瞳の先を追えば、確かに無様に転がっている短剣がグスタフ・ヴェネシュの視界に映った。

「己の剣は己の手で握り、己の手で鞘に納めろ。()は勿論、この場にいる者はその短剣の柄を握れない。いや、握る資格がないと言うべきかもしれないな。」

 若い割にはなんともまぁ勇ましい口調な事で、とグスタフ・ヴェネシュは口許を歪ませたが、相手は剣霊である。成人にはまだ至らなく見えようとも剣霊である。下手に反論して気分を害させる訳にはいかない。しかも彼女の後ろに控える女の冷たい眼差しも気になる。あの赤髪の女も兄弟と同じ剣霊使いだ、と肌で確信したグスタフ・ヴェネシュは未だに痛む腹に左手を添えたまま、うら若き剣霊の言葉に従った。

 鞘から抜いた時と同じく、納めた際も無音であった。まるで何事もなかったかの様な雰囲気を味わわせられている気分である。だが、それで好いのかもしれない。グスタフ・ヴェネシュは深く鼻から息を吐き、両肩の力を抜いた。

 一部始終を見届けたユラン・エレエはラファエラの両肩から手を離し、脚を動かした。グスタフ・ヴェネシュの脇を通り過ぎる際に普段と変わらない眼差しで一瞥を投げる。彼女は腰を下ろしたままのエルスノアの前で止まると膝を折り、手を差し伸べた。

「七十四の番号を与えられたユラン・エレエです。お立ち下さい、エルスノア協会長。中央とは言え、このメツァールントの冬は北部と何ら変わりありませんから。」

 呆然と見上げるエルスノアに対してユラン・エレエは己が仕える主の前で見せるのと同等の優しい微笑みを湛えた。

「あなたも何故ここにいるのですか?」

 エルスノアは差し伸べられた手を取り、立ち上がるなりそう口にした。

「御存知と思われますが、間もなく北と中央の間で式典が執り行われます。その下見を兼ねて。」

「えぇ。その件についてはわたしがコノリギスを離れる以前に聞いております。ですがその、兼ねて、と言うのは初耳です。」

 エルスノアの疑問も尤もであるとユラン・エレエは頷くなり、羽織る灰色のケープをはだけさせて胸許に左の二本の指を入れた。黒字に金の刺繍が施された協会支給のスカーフが波を打つ。丁寧に折りたたまれた紙片を摘まんでいる。剣を咥えた鳩の刺繍が歪むさまをグスタフ・ヴェネシュはちらりと見てはあらぬ方向へ視線を投げた。

「エルスノア協会長を守れと急遽の指示が先程届きました。普段から頂くものとは明らかに筆跡が異なり、文面も見劣りがしますが、他ならぬエルスノア協会長の御身に関わる事となれば疑う暇は有りませんでした。」

 手渡された紙片を広げ、文面を目で追った後にエルスノアは笑みを零す。彼女にとってメツァールントに辿り着いてから初めての安堵の笑みであった。

「これはレンカ・ヴィルダが(したた)めたものに違いありません。次のエルスノアとなる後継者たちがわたしの身を案じて競う様に誰を遣わせるのが良いか、と剣霊帝様にせがむ姿が思い浮かびます。」

 もう一人の後継者がユストに依頼を出している事は事前に本人から聞いていた。さも知らなかった態でなるほど、とユラン・エレエは口の両端を持ち上げた後に首を傾げながらユストに普段と変わらぬ冷たい視線を投げた。

「それこそついでであったが、貴様、命拾いしたな。」

 ユストは返事の代わりに物静かな顔で煙草の煙を鼻から出して見せた。

「相変わらず呑気なものだ。邪剣霊に討たれるなよ。」

 激励の言葉ではない。貴様はわたしが倒す、と言いたいところだがエルスノアの面前で本音を控えているだけであるとユストは理解していた。短くなった煙草を落とし、靴の底で踏みつける。ユストの呑気な様子を改めて窺い知ったユラン・エレエは鼻で短く嘲笑めいた音を鳴らし、この場を離れる旨をエルスノアに伝えた。邪剣霊ルケリヤが再び襲い掛かるのは二日後であり、それまでは()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()で充分役目をまっとう可能であるとも添えた。

「明後日にはわたしも北の王都へ戻らなければならないのでご理解頂きたく存じ上げます。」

 エルスノアの言葉を待たずに脳天近くで一つに纏めた濃淡のある赤い髪を翻らせ、うら若き剣霊を従えた七十四番の剣霊使いはその姿を宵闇と同化させた。

「なんとも近寄り難い雰囲気に包まれた女の剣霊使いでしたな…いや、そもそも剣霊使いに女がいるとはね…。」

 グスタフ・ヴェネシュは既に視覚では捉えられない距離へ移動したであろうユラン・エレエとラファエラの背中をぼんやりと眺めているかの様に嘯いた。

「剣を振るうのに男も女もありませんよ。」

 心なしか諭すような様子を見せた後にエルスノアはさて、と口にして一呼吸置く。我々も帰ろうと仰るだろう、とグスタフ・ヴェネシュは勘繰った。日付が変わってからそれなりの時間が経過している。体が冷え切る前に宿に戻って四股を思いっきり開いて眠りに就きたい。澄ました表情を崩さない兄弟もきっとそう思っているに違いなかろう。グスタフ・ヴェネシュは被る革製の帽子の鍔の先端を摘まんでは下へ降ろす。欠伸をする為である。

「ここで朝を迎えるまで過ごしましょう。」

 エルスノアが遠慮なしに発した想定外の言葉はグスタフ・ヴェネシュの開いた口を僅かの間、そのままにさせた。

「ルケリヤも独りでは寂しいでしょうし、わたしたちは彼女の傍に寄り添って時の流れを忘れさせる事だと思いませんか。」

 付き添いの男たちに反論などさせる間を与えずにエルスノアは上半身を起こした姿勢を保っているルケリヤの横に腰掛けた。

「あなた自身もそうして欲しいはず。何も遠慮はいりませんよ。」

 困惑を滲ませようとも、ルケリヤは頭を振らない。強引さは否めないが、やはりエルスノアの主張は剣霊の細やかな願望という的を正確に射ていたと言えよう。

 上半身を起こした姿勢のルケリヤは己の腰から下を覆っている毛布を大儀そうに手に取ると、エルスノアの肩に掛けようとした。

「あの女の剣霊使いが言った様に、ここの夜は相当冷え込みます。の為にあなたの身体を冷やさせてしまおうものなら剣霊帝様に顔向け出来ません。」

 握り締める毛布が明らかに震えている。衰弱した者による渾身の握力によるものであろう。

「いや、ルケリヤさんはそのままで。ここは自分が…。」

 グスタフ・ヴェネシュが鳩尾の痛みをよそに身を乗り出し、己が羽織る革製のコートを脱ごうとした。すかさずユストの手が紳士的な肩へ伸びる。

「おう、兄弟。ここは我々がか弱き御婦人たちを寒さから守らずして…?」

 汚名をすすがんとする頼もしいグスタフ・ヴェネシュは掴まれた肩の上をユストの人差し指が文字をしたためている事に気付いた。

『剣霊にとって熱いだの寒いだのは無縁だ。加えて君に風邪をひかれてはエルスノア協会長がのちのち困る。』

 グスタフ・ヴェネシュの肩から手を離したユストはルケリヤの許へ歩み寄る。侮蔑には幾分届かないが、警戒心を伴う剣霊の目尻に臆する事なく彼は毛布を奪う様に取り上げた。そのままエルスノアの両肩に掛ける。

『日の出の時刻と共に街へ戻りましょう。必要以上の長居は他に怪しまれるので。』

 ユストの口唇の動きを追うエルスノアが彼の音なき言葉を正確に理解したのかは不明である。ユストとしても理解していようがいまいが、関係ないらしい。

 踵を返すなり二本目の煙草に火を点ける。吐く煙が乳白色のテントに遮られて空へ上る前に立ち消えた。

 

 ユラン、の戦いぶりはどうだった?

 邪剣霊ルケリヤと刃を付け合わせてから一時間ほど経過した後にラファエラはそう訊ねた。メツァールントの外壁から既に数キロは離れている。

 まるで己の成果を得意気に訊ねる幼児の様な言葉ではあるものの、問う者を見上げずにやや俯き加減であり、語気は疲労感を惜しみなく晒していた。ラファエラにとって初の単独での戦いは苦難そのものであったのだから無理もなかった。

 ユラン・エレエもその点を理解していたのか、唐突な質問に驚きもせずに平然と脚を動かしている。普段と異なる点と言えば、抱き寄せる様に可憐な首に腕を廻していた事だろうか。

 傍から見れば、歳の離れた姉妹の仲睦まじい光景と捉えるであろう。無論、中央の一都市であるメツァールントと言えども、夜に出歩く者は見当たらない。誰とて好き好んで厄介事が闊歩する夜に出歩かないものである。故にその様に映る彼女たちを見るなり眼差しを細める者は皆無であった。

「ラファエラ自身としてはどう思っている?まずはそれを聞いてからだな。」

 脳天近くで纏めた濃淡のある赤い髪を靡かせ、ユラン・エレエは己の落ち着きを払った声も吹く風に乗せた。

「自己評価は…は苦手だ。」

 視線をあらぬ方向へ投げるラファエラの頭部に温かな手が添えられた。

「難しく考えるな。あの邪剣霊と対峙している際に思っていた事を素直に言えばいい。」

 添えられた温かな手だけが感じ得られる柔らかな髪の感触をラファエラも堪能しているのか、投げた視線から虚脱な雰囲気が消える。

「不安だった。これが率直な気持ちだ。」

「どう不安だった?」

「常に一緒にいるはずのクラウディアがいないんだ。まずは彼女が相手の戦意を削いでくれるからは落ち着いて対処出来たが、今回は違う。相手は万全の状態で襲い掛かってくる。正直なところ、怖かった。でも怖がってばかりではやられるだけだ。だからがむしゃらに、咄嗟の判断に委ねて戦ったんだ。」

 普段は淡々として口数が少ないラファエラが興奮気味に多くを語っている。物珍しい光景にユラン・エレエはほんの僅かに呆気にとられ、可憐な首に廻している腕に優しく力を込めた。

「戦いは行き当たりばったりが常だ。それでも巧く立ち回っていたとわたしは評価するが。」

「そうかな?」

「ただ、不安だったのは、なにもクラウディアの能力が得られないからだけではないと思う。クラウディアそのものがラファエラの視界に映っていない事が不安だったのではないのか?」

 心の奥底を覗かれた様な気分に駆られたのか、ラファエラは身体を縮こまらせた後にユラン・エレエを見上げた。

「クラウディアもラファエラがいない、と今頃不安に駆られているかもしれん。」

「そうかもしれないね。」

「実はわたし自身もラファエラと同じ気持ちだ。片方の腕が暇過ぎて仕方がなくてな。」

 己の契約者を見上げている瞳は夜の帳が降りていようとも抜ける様な空色を保っていた。そこに無垢と純情の色がやんわりと混ざり合わさる。

「ところで話は変わるが…エルスノア協会長を窮地から救ったのは一体何だったのかラファエラは判るか?」

「あれは五叉の槍だと()()()()ルケリヤは揃えて口にしていた。覇王が所持していたとも言っていた。」

「数百年前に覇業を成し得たノイ・トウラドオクの亡霊が突如現れて己が手にする槍を投げてはさっさと消えた、と説明されてもな…。」

「だが、彼女たちが示し合わせて虚言を吐くとは到底思えない。あと、覇王は姿を現していない様子だった。」

「空から勝手に降ってきた、とでも?」

 小馬鹿にしたような口調のユラン・エレエに対してラファエラは真顔を作り、頷いて見せた。

「ユランは覇王と目が合った者は命が絶たれてしまうという伝承を知っているか?」

「あぁ。この大陸の今の世を生きる者なら誰もが一度は耳にしていると思うが。」

「伝承とは長い年月と共に多少の尾鰭が付くとは言え、その本質に嘘偽りはないものだ。つまりユランを除いたあの場に居合わせた人間たちは覇王と目が合ってもおかしくない状況だったが、皆して絶命から逃れている。」

「なるほどな。だが、どうしてその槍が覇王の五叉の槍だと判った?覇王は自らの命を絶つ際にその槍と共に入水したとも伝承が残っている。あの()()()は現物を見た事があるとでも?」

「ユランの推測は恐らく当たっている。」

 可憐な首に廻した腕の先端に剣霊の手が添えられた。防寒用の手袋越しでも判るほどの冷たいそれであるが、ユラン・エレエは躊躇わずに握る。

「ルケリヤとは五六百年前に流行った名前だ。覇王が君臨した時代と合致する。」

 そこまで言い切れるのであればあながち間違いはなかろう。ユラン・エレエは握るラファエラの手を詰る事で感心の意を表す。

「五六百年の歳月を知る剣霊か。確かイルサーシャもその頃だったな?」

もそう聞いている。ただそれよりも…。」

 詰られている手がするりと伸び、ユラン・エレエの胸許へ救いを求める様に触れた。

「年季の入った格上の邪剣霊と対峙したんだ。ご褒美が欲しい。」

 食事という褒章を望んでいる。ラファエラの要求は想定内であったのか、ユラン・エレエは眉一つ動かさずに手頃な石壁に背中を預けるとラファエラを胸許へ抱き寄せた。

「クラウディアにはこのご褒美は言うなよ?」

「どうして?」

 今更判りきった事を。ユラン・エレエの短い微笑はそう語っていた。

「喧嘩の素になるからだ。」

 胸許を覆う黒字に金の刺繍が施された剣霊協会支給のスカーフは既にラファエラの手に握られていた。灰色のケープの下で契約者の血を摂取する喜びと安堵を表す音が喧騒とは無縁のメツァールントの裏通りで粛々と鳴り響く。

 伏し目がちのユラン・エレエはラファエラの髪を掬う様に撫でていた。


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