計算に狂いが生じた時
酷くには遠く及ばない。しかし、それなりに憔悴しているのだろうか。
メアリー・メイイェルとの再開時におけるユストの見立てである。
顔がやつれていたり、頬がこけた、という訳ではない。依然として彼女の恬淡とした雰囲気はそのままだが、目許が些か暗く見える。青みの深い瞳の奥底に覇気が感じられない。さてはこの数時間のうちにルケリヤに何か言われたな、と勘繰る。
エルスノアが夜風に靡かんとする髪を覆う深い紺色の布を押さえながら彼女に歩み寄った。
「あなたは…メアリー・メイイェル?もしや、あなたも彼らと一緒だったのですか?」
彼らとはユストとイルサーシャを指してである。
「こんばんは、協会長様。二年前の夏に剣霊協会の免状を頂いてからご無沙汰しております。」
メアリー・メイイェルはイルサーシャに似てお転婆で世間知らずな女性だと思っていたが、目上の者に対する挨拶は出来るらしい。無論、先代の研師たるミランダ・メイイェルに礼儀作法を叩き込まれたとも推測できる。
北部から中央へ、依頼者であるルケリヤとアウルス・ボーンが待つメツァールントへ移動する道中にてユストとイルサーシャに出会った。その様に経緯を端的に説明したメアリー・メイイェルは三人に馬車に乗る様に勧めた。貴人に徒歩は不似合いであり、市街地内とは言えども夜道が危険である事に変わりはない。宿泊先まで送るという。
しかしエルスノアは首を縦に振らなかった。ここ数日の間、馬車に揺られては馬の背に身体を預け、そして晩餐会の際も延々と座らせられて膝を折りっ放しだった事もあり、歩きたい気分だと本音を隠さない。加えて酔い醒ましに丁度良い風が吹いているともエルスノアは語り、言葉を続けた。
「ところでメアリー・メイイェル、夜遅くに女独りで出歩くのが危ないとはあなたの方ですよ?」
「御心配をお掛けして申し訳ありません、協会長様。実は先程までルケリヤと話していたので…。」
「わたしも今からルケリヤを見舞うつもりです。来た道を戻る事になりますが、あなたもご一緒に如何ですか?」
「あたいは…遠慮しておきます。」
「何か問題でも?」
「そういう訳ではないんですけど…。」
メアリー・メイイェルはちらりとユストへ視線を向け、気付かれる前に元の位置に戻す。
「あの…協会長様、ルケリヤは今後どうなるんですか?」
メアリー・メイイェルにとって独り立ちして初めて手入れを行った剣霊がルケリヤであった。彼女について極度の感情移入が働いてしまうのも仕方のない事か。
立ち聞きは良くないとユストは羽織る黒いコートの裾に弧を描かせた。すかさずイルサーシャがユストに歩み寄ると彼の耳許に顔を近付けた。
「おい、我には協会長殿が酒に酔っている様子だとはまったく見えんのだが。」
「単なる方便じゃないのか?」
「方便なぁ。ところで酒と言えばあの運送屋、未だに夢の世界を彷徨っているのだろうか?」
「どうだろうね?そこそこ強い酒を立て続けに飲んでいたからな。」
「そなた、酒はたいして好まない割には詳しいんだな?」
「君と出会う以前に何度か痛い思いをしているからね。」
言われてみればグスタフ・ベネシュの状況が気になる。エルスノアの付き添いを終えた後に再びレストランへ足を運ぶべきか、とユストは男らしさの一端を担う尖った顎に右手を添える。ほぼ同時に後方から騒がしい足音が耳に飛び込んできた。
「おやおや、噂をすればなんとかだな。」
新月の日であろうともイルサーシャには目視をせずとも誰の気配か判るらしい。一説では日が切り替わる一二時間前であれば通常の能力を取り戻し始めるとも言われている。ただ、今にも心臓が口から飛び出そうな勢いで駆け寄るグスタフ・ヴェネシュの様相は剣霊ではないユストでも容易く脳裏に描く事が出来た。
案の定、冬の夜であろうとも顔面を滝の如く汗を流しながらグスタフ・ヴェネシュがエルスノアの前に立った。
この男性は誰だろうか、とメアリー・メイイェルは怪訝な面持ちを露にする。あまりの騒がしさに幌馬車の中にいた狼のシュンカも顔を覗かせた。
「きょ…いや、エルスノア様、すみません、自分とした事がお迎えに遅れてしまって。本当に申し訳ございません。急いで市庁舎に向かったものの晩餐会は既に終わり、剣霊使いを共にして宿に戻られたと聞きまして。それで急いで市営ホテルへ走ったのですが、まだ戻られていないと。もしかしたらエルスノア様の事ですからコノリギスでは普段出来ない夜中の散歩でもされているのかと思い、再び急いで市内を駆けずり回っていたところでした。」
両膝にそれぞれの手を当てて肩を上下させながら一気にまくしたてたグスタフ・ヴェネシュを見下ろすエルスノアの眼差しは柔らかかった。
「何かと急いでばかりですね、グスタフは。」
「えぇ、きょ…いやいや、エルスノア様にもしもの事があってはいてもたってもいられませんので。」
「今は周りにメツァールントの方々がいないので協会長でもエルスノアでも、どちらを用いても構いませんよ。あなたのお好きな方を使いなさい。」
「それでは…協会長様。すみません、本当に。」
「あらかたの事情は聞いております。」
「あらかた?」
「えぇ。わたしも肩肘張った晩餐会よりも街のレストランで好きな様に食事をしたかったものです。」
「それは、つまり…。」
「あなたの目の前にいる兄弟からお話を伺いました。」
「では、自分がこうして遅れた理由もご存じで?」
未だに中腰の姿勢のグスタフ・ヴェネシュは被る革製の帽子越しにエルスノアの後ろに立つユストを見上げる。対するユストはさもあらんと短い苦笑を見せた。
「今からルケリヤを見舞おうと向かっていたところですが、誰の事だかグスタフは覚えていますか、ルケリヤを。」
「勿論です。髪が痛ましい事になってしまった剣霊のルケリヤさんですよね?」
エルスノアが前屈みになる。柔らかな眼差しは消え、怒りと悲哀を混ぜ合わせたら可能と思われる様なそれを湛えていた。
「今後はそれを口に出してはなりません。思う事すらなりません。ましてやルケリヤを痛ましいだの哀れなどと見るのでしたら、わたしはあなたをコノリギスから放逐、いいえ、あなたの兄弟にグスタフをすぐさま屠れと下命します。しかと肝に銘じておきなさい。」
口調は穏やかだが、言葉に圧倒されたグスタフ・ヴェネシュは開いた口を閉める間もなく尻もちを突いた。
「半分は本当ですが残りは冗談です。酔いは醒めましたか、グスタフ?」
「いやもう、十回ほど頭から水を被ったくらいな勢いですよ…。」
ユストが歩み寄り、手袋越しの右手を差し伸べる。彼を引き起こすのはこの場にいる者の中で出来るのはユストだけである。しかし、冗談とエルスノアは言ったものの屠られる相手に助けて貰うとは奇妙な感覚でもある。故にグスタフ・ヴェネシュがユストの右手を掴むのに幾許かの時間を要した。
「剣霊とは我々人間には推し量れない矜持の持ち主でね、兄弟。」
そう言いながらユストは引き起こす右腕に力を込め、言葉を続けた。
「彼女たちは下手に憐みを掛ければ矜持を傷付けられたと怒りに身を任せてしまうそうだ。つまりこれ以上ルケリヤの感情を揺さぶりたくない、とエルスノア協会長は願っていると愚生は汲み取ったが、兄弟はどう思っただろうか。」
「いやぁ、それよりも今、兄弟の指が数本足りないと知って驚いている最中だ。」
「それだよ、それ。」
再び不意を突かれた。開いたままの口がそう語っている。何が言いたいのだ、とグスタフ・ヴェネシュは遠慮なしに首を傾げながらユストを見上げた。
「愚生は指を失った。初めてイルサーシャと出会った際の結果だ。こうして手袋を嵌めて目立たない様にしているが、この結果を知った者は誰も何も言わない。何故と訊こうとしなければ同情の眼差しを送る者もいなく、それで構わないと愚生は思っている。愚生にとっての現実を勝手に慮られては困るからな。」
「なんだかちょっと冷たい話じゃないか、兄弟。少しは思い遣ってもばちは当たらないんじゃないのかい?」
「剣霊は愚生よりも冷淡だよ。」
ばっさりと言い切ったユストの奥ではイルサーシャが何食わぬ顔をして腕組みをしてこちらを傍観している。確かにそうだ、と思いながらグスタフ・ヴェネシュは己の尻を二回叩く。薄闇の中では汚れが取れたのか取れていないのか判らない。少し埃がたったぐらいか。
「愚生の話はともかく、エルスノア協会長は酔い醒ましを兼ねて外壁の向こうを散策される。兄弟、君も共に酔い醒ましをしないか?」
「あぁ、勿論だとも。」
再び己の尻を二回叩いたグスタフ・ヴェネシュは革製の帽子を被り直し、エルスノアの前で咳払いを一つした。
「あの、協会長様。改めて自分もお供して宜しいでしょうか。久しぶりに協会長様に怒られて既に酔いは醒めてしまいましたが…。」
「怒ったのではありません、注意しただけです。それに酔い醒ましはわたし自身の話です。」
「左様でございました。」
とグスタフ・ヴェネシュは返事をするなり、己の今現在の関心事を遠慮なしに聞き出す。
「ところで協会長様は如何ほどの量の酒を召し上がったのですか?」
「これぐらいのボトルに入ったワインを…そうですね、赤や白、東や南と様々な地方のものを。」
「ほう。様々な地方でございますか…。」
「ざっと五本は下らないと思います。」
エルスノアの言うこれぐらいとはグスタフ・ヴェネシュの握りこぶしの先端から肘までと同等の長さか。
「その五本をまさか、教会長様がお独りで?」
「晩餐会を催して下さった方々が一列に並んでわたしのグラスに注ぎにみえられるのですから、仕方ないでしょう?にこやかに恭しく接されたら、もういりませんとも言い難い雰囲気でしたし、先代様の最期を見届けた方々の好意に対して飲み残すのも失礼ですから全部頂きました。おかげで食事は手付かずでしたが。」
目をひん剥いたままのグスタフ・ヴェネシュと眉を幾分持ち上げたままのユストを一瞥した、至って平静な面持ちの酒豪は軽い溜息を漏らした。
「大の男がお酒如きに何を驚いているのですか。日付が変わらないうちにさっさとルケリヤの許へ行きますよ。」
「協会長様。自分も同行して構わないのかまだお返事を頂いていないのですが…。」
申し訳なさそうなグスタフ・ヴェネシュの問い掛けにエルスノアははたと気付いたのか、どうぞお好きになさい、と一言発して歩み始める。やはり誰がどう見てもしらふの歩調である。
「あ、その前にちょっと…。」
それまで黙って話を聞いていたメアリー・メイイェルが口を開いた。青みの深い瞳がユストとイルサーシャを交互に捉えた後に手招きをする。
ルケリヤの許可は得たので早速イルサーシャの手入れをしたいと彼女は申し出た。早速とは言葉の通り、今からであるとも付け加えられた。
想定外の申し出にユストは難色を示した。勝手な思い込みではあるが、日中に行うものだと端から決めつけていたからである。
対してメアリー・メイイェルとしては陽が出ている間はメツァールントの住人たちが持ち寄った包丁など、日用品の刃物をその場で研ぐ時間に費やしたいと言う。滞在先の住人たちの依頼をないがしろには出来ない。メイイェルの研師がその名を確固たるものにしたのは剣霊の手入れを行う技術のみではない。剣霊の手入れが可能な研師に対する大衆が寄せる技術の信頼に他ならないとメアリー・メイイェルは語った。
夜も深まりつつある。煙草を咥えていなかろうともユストは鼻孔から漏れる白い息を緩やかに流しながら耳を傾けていた。これはメアリー・メイイェル独自の意思や心意気ではない。代々のメイイェルの研師が歩んだ歴史であり、変化や例外を拒絶する掟でもある。
当のイルサーシャはどう出るか。ユストとメアリー・メイイェルの視線が白銀の長い髪を持つ剣霊に向けられる。彼女は左の横髪を耳に掛けながらあらぬ方向を眺めている。思慮に耽っている様子でもない。今度は右の横髪を同じく耳に掛けながらなるほどな、と小さく嘯いた。
「出来るだけ早い方が良いのであろう?我は今からでも構わんぞ。」
意外な返答にユストの表情が変化するのも織り込み済みであったのか、イルサーシャは短い笑みを見せた。
「そなた、我がいない状態で協会長殿と共に外壁に出て大丈夫か、と案じているな?心配はいらんよ。」
「何の根拠があってそう言えるのか愚生には判らないが。」
やや心外な様子が隠せないユストの胸にイルサーシャはか細い人差し指の先端を当てた。
「勘だ、勘。たまには我の勘を信じて損はないぞ?」
「君の勘、ね…。」
「そう渋い顔をするな。そなたとて勘に頼る場面は幾つも遭遇しているであろう?」
「まぁそうだが…。」
「まぁないと思うが万が一の場合、我がいないからと他の剣を握ってはならん。大小問わずに、だ。」
切れ長の目尻に寄った深い緑色の瞳はグスタフ・ヴェネシュが腰からぶら下げている短剣を捉えていた。
「そのまま応戦するな、と君は言いたいのか?」
「棒切れなら構わんよ。」
「ぶん回して相手を蹴散らせ、とでも?」
「得物がないよりはましであろう?」
「メツァールント内外にそんな棒切れが体良く転がっているものかね?」
「万が一、と言ったであろう?心配するなら我の手入れに滞りが生じない様に念じて貰いたいものだな。無論、メアリー・メイイェルの腕が確かなのは信じているが。」
人差し指が胸から離れた。捨て台詞ではないが、手入れが終わった後の食事が今のところの唯一の楽しみだ、と語ったイルサーシャはユストに背中を見せた。
白銀の長い髪の揺れ具合を眺めるユストにメアリー・メイイェルが申し訳なさそうに声を掛けた。彼女を宜しく頼む、と一言を残してユストは己の剣霊の後ろ姿を視線から逸らした。
勘だとイルサーシャは語ったが果たして本当だろうか。何かしらの確証を得て彼女はそう言い放ったのだと信じたい。しかし、思い当たる節をユストは見つけられなかった。彼女の従者を護衛に付けた素振りは見せていなく、彼らが事細かな説明なしに快諾するとは思えない。そもそもこの新月の日に彼らが単独行動を執る場面に遭遇した覚えもない。
「お話は済みましたか?」
両手を身体の前で重ねたエルスノアが覗き込む様にしてユストに言葉を掛ける。
「日付けが変わればあなたとの会話が困難になります。早く行きましょう。」
エルスノアの指摘は尤もである。ユストは頷くなり脚を動かした。
無論、振り向きはしないが、イルサーシャはユストにそうして欲しかったのだろうか。背後から吹く風に百年香の爽やかな匂いが混ざっていた。
メツァールント市街地に於いて点々としていたかがり火が盛大に焚かれている場所がある。正門前である。秋口の夕暮れを彷彿させる明るさにグスタフ・ヴェネシュはほぉ、と感嘆を漏らしたがユストとエルスノアは平静を保ち続けていた。
誰が来たのか、と門番の兵は携える槍を握り直す。愛想笑いを讃えたグスタフ・ヴェネシュを見ては眉をひそめ、歩調を緩めないユストの眼差しを知れば槍を握る手に不用意な力を込める。そして二人の後ろを歩くエルスノアの涼し気な容姿を目の当たりにしてはたと気付く。
髪を深い紺色の布で隠している女性を見掛けたら彼女の意向に全て従えと急遽の指令が下っている。その人物は剣霊協会の重鎮とも聞かされていた。何故遥々このメツァールントを訪れたのかは知らないものの、深く関わってはならない存在だと誰もが肌で感じる。何故なら剣霊に睨まれかねない。それでは命が幾らあっても足りない。だが、見た感じでは威厳に満ち溢れていたり、尊大さを前面に出した人物とは思えない。どちらかと言えば上品な面持ちと清廉な雰囲気を纏った、育ちの良さが滲み出ている人物の様に見える。門番の兵の脳裏で様々な憶測が飛び交う中、一行が近付いた。
「外壁の向こう側の空気が吸いたいのですが、宜しいですか?わたしの様な田舎育ちには都会の空気は窮屈でして。」
かがり火の薪が弾ける音に声が混ざる。それははっきりと聞き取れた。大半の若い女性ならば槍を手にした門番の前ではしどろもどろになるか、意を決したかの様に可能な限り大声で喋るものである。だが、目の前の女性はいかにも物腰が柔らかで落ち着いた声を発していた。やはり剣霊協会の重鎮と言われるだけはあると認めざるをえない。門番の兵はぎこちなく頷くと一行の行く手を遮らない様に一歩下がった。
幾つもの武骨な鋲を装飾として施された鋼鉄製の正門には摩擦で地金が剥き出しの閂が掛けられている。その脇に人一人が通れる程度の通用門が設けられていた。一行はくぐもった響きを耳にしながらそこから外壁の向こう側へ身を繰り出した。
「やはり夜ってやつは薄気味悪いものですな。」
夜の静けさを助長するのは冷えに冷えた空気か、かろうじて肉眼で捉えられるあらゆる物体の輪郭か。その両方に恐れを成したかの如くグスタフ・ヴェネシュは弱々しい声を発した。
「その薄気味悪い中をリストメクの人々はずっと耐えているのです。」
羽織るケープで首許を覆い直しながらエルスノアが諭した。
「すみません。自分とした事が軽口を叩きました。ところで協会長様…。」
「ここではエルスノアと言いなさい。リストメクの人々が周りにいるのですよ?」
「そ、そうですね。失礼しました。」
「それで何が言いたかったのですか?」
「いやいや、既にエルスノア様の酔いが醒めていると判ったのでもう結構です。」
「当たり前です。意気消沈しているルケリヤの前に赤ら顔で立つ訳にはいかないでしょう?彼女とて五百年の歳月を知る剣霊。敬意を払って接するのが当然です。」
「エルスノア協会長、今何と?」
ユストは先を歩む脚を止めて振り返った。
「どうかしましたか、ユスト・バレンタイン。」
ユストに倣ったのかエルスノアとグスタフ・ヴェネシュも制止した。
どうやら兄弟はこの場で協会長と口にしても咎められないらしい。まったくもって不公平では、とグスタフ・ヴェネシュが不精髭の中央にある唇を尖らせるものの、二人の眼には映らなかった。映っていたとしても、脳で捉える事は皆無である。思慮の世界に踏み入れた二人にとって不要な代物に他ならない。
「ルケリヤも五百年を知る剣霊なのですか?」
「も、とはイルサーシャを指してでしょうか。」
「えぇ。ご推察の通りです。」
「左様でしたか。」
エルスノアが重ねていた右手を返し、掌を見せた。前へ進めと催促しているのだろうと汲んだユストは何も言わずに彼女の指示に従う。
「その時代は飽くなき戦争で多くの人々が犠牲になったと聞いております。詳しく聞くつもりはありませんが、ルケリヤとイルサーシャ、彼女たちは共に時代の潮流に呑み込まれ、もがくにもがけなかったのでしょうね。」
ユストは何も応えずに脚を動かしていた。革靴の底が踏み固められた大地を規則正しい間隔で打てば、無機質で味気ない音が薄闇の世界に混ざる。
一方のグスタフ・ヴェネシュはエルスノアの言葉を耳にしながらさも薄気味悪そうに身体を強張らせていた。市街地の外壁のすぐ脇だと理解しているがやはり夜は恐ろしいものである。
いや待て。自分は夜中に馬を飛ばして真っ暗な街道をいるじゃないか、と彼は自問した。そして答えは直ぐに見い出せた。今は地面に足を着けている。べったりと、である。御者台の上から見る眺めと異なるだけで夜とはこうも恐ろしいものなのか。だがあと少しの辛抱だと己の中で呟いた。次の角を折れれば目的地までそう遠くはない。
柴色の髪と瞳を持つ剣霊ルケリヤは初めて言葉を交わした時と変わらずの姿勢で横臥しているのだろう。夜の薄闇が与える陰影によって彼女の容貌が悲哀を誘うものであろうと趣深く昇華させられた姿が容易く想像できる。
グスタフ・ヴェネシュは前を歩く二人に勝る勢いで角を折れた。右耳の横を劈く勢いで何かが通り過ぎた。僅かに遅れて右耳の上にある革製の帽子の鍔がぽとりと地に落ちる。何が起きたのか判らないが、ユストの両肩にそれぞれの手を乗せて背中に寄り添い、身を隠す姿勢を取るエルスノアが映り、その先では上半身を起こしたルケリヤが物憂げな眼差しをこちらに向けていた。
「そこの不精髭さん。あなた、運が良かったわね。」
艶のある声が耳孔に物静かに、そして遠慮なく侵入した。ルケリヤの声とは違う。異様な甘ったるさが耳の奥底にこびり付いて離れそうにない。
「何故、来たのですか。」
今度はルケリヤが口を開き、頭を振る。先端が不揃いの柴色の髪が微かに揺れた。その揺れが遮られるかの様に華奢な三本の指が無造作に摘まむ。ルケリヤの背後から闇と同化していた一人の女性が現れた。艶のある声の主だと誰に教えられなくても判る。同時に彼女も剣霊であると認識する。急激に肌が粟立ったからである。
「役立たずになった剣霊の為に三人もお見舞いに来たとはね。」
言葉の跡に剣霊が流麗な目尻を細めながら鼻で笑う。柴色の髪を摘まむ指が這う虫の如く動いた。鍛えられた金属が素地を剥き出しにした金属を凌駕する凄惨な音が冬の空気を震わせ、ルケリヤは苦悩の表情を浮かべた。
「おい、あんた言い過ぎじゃないのか?ルケリヤさんからその汚い手を離せよ。」
感情任せの言葉と共にグスタフ・ヴェネシュは一歩を踏み出した。
「そう?じゃあ離そうかしら?」
世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳が悪戯な笑みを湛える。
「離すな。」
冷静と厳格を伴う短い言葉を発した者へグスタフ・ヴェネシュは顔を向けた。
「何を言っているんだ、兄弟。ルケリヤさんの苦しんでいる表情が判らないのか?」
「今、ルケリヤは自ら利き手の自由を封じている。」
兄弟は言葉を間違えたのか、とグスタフ・ヴェネシュは憤慨の相に疑問を滲ませた。
「おい、兄弟…。」
剣士の眼差しを崩さずにユストは一瞥を投げて応えた。グスタフ・ヴェネシュは勇み出た一歩を自ずと元の位置へ戻す。喉仏が上下させては息苦しさを感じられずにはいられない。これが七十二の剣霊使いが大陸全土に名を馳せた理由の一端か。
「彼女も名をルケリヤという。」
「は?」
ユストの淡々とした言葉に対して額に汗を浮かべているグスタフ・ヴェネシュは我ながら間抜けた返事だと感じた。だが、それ以上も以下も出来そうにないとも理解していた。
「その様子だとそっちのルケリヤさんは兄弟の知り合いではあるが…お友達ではなさそうだな。」
知機の対象に生死の狭間を知る者の眼差しを送る訳がない。
「彼女は邪剣霊だ。」
グスタフ・ヴェネシュは呻き声を漏らして反応し、エルスノアはぴくりと身体を動かす。ユストの肩に添えたままの五指が震えている。肌で感じた恐怖によるものか、あるいは知己を無惨な姿に変えた者への怒りによるものか。
「もし、ルケリヤが手を離せば兄弟、今度は帽子ではなく君の身体の一部が飛んでいたかもしれない。だが、彼女が仕留めたい相手は君ではない。」
両手をズボンのポケットに入れたユストが躊躇いの色を表さずにずにルケリヤたちに向けて歩まんと一歩を繰り出した。
「なりません、ユスト・バレンタイン。たとえあなたであろうとも邪剣霊を素手で相手が出来るとお思いですか?」
頼りにしていた肩が離れ、空を掴む手をそのままにエルスノアは忠告する。ユストは立ち止まったが口を開かない。代わりに再びグスタフ・ヴェネシュに顔を向けるとエルスノアの盾になる様、目配せをした。
そうだな、と短く素早く頷いたグスタフ・ヴェネシュがエルスノアを前方から見えない位置に移動する。重苦しい空気の中、僅かに残る百年香の爽やかな残り香はグスタフ・ヴェネシュの背中を流れる冷や汗を心なしか和らげただろうか。
「残念。全てが全て、バレちゃったのかしら?」
邪剣霊ルケリヤの柳眉が困惑を象っていた。星々の瞬きが無い夜であろうとも判る。だが、その下を陣取る世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳はどうだろうか。燦然たる輝きを放っていた。これから起こる出来事を何一つこぼさずに堪能せんと歓喜の色すら湛えている。
女の欲深い形相に男は僅かにもたじろぐものである。ユストが進めていた脚を止めたのは、その兆候であったのかもしれない。距離にして三メートル。宵闇に慣れ始めた眼が相手を表情を読むには充分である。
「全てではないが、九割方は凡その察しがついている。」
そう語ったユストはおもむろに取り出した煙草を咥えて火を灯す。マッチを擦る音がこの場にいる誰の耳にも届く。そして再び夜の静寂を取り戻す。
「我の予想した通りに高過ぎず低過ぎずの耳に心地よい声の持ち主ね、あなた。でも大方の察しがついているのなら、敵前で煙草を楽しむのは理解に苦しいわ?」
「そうか?」
ユストは普段と変わらずに鼻から煙を出した。
「今の時代だと、それはもしや降参の合図、とか?」
ルケリヤは薄い笑みを浮かべる。
「愚生は九割方と言った。残りの一割を見極める為にこうしているに過ぎない。」
「我には何の事だか判らないけど、簡単に見極められる事柄なのかしら?」
「君の答え次第だ。」
「へぇ?模範解答を述べられるか自信がないわ。」
ユストの背中を見守るグスタフ・ヴェネシュとエルスノアは口を挟まない。二人は頼りとなる剣霊使いの背中をただただ凝視していた。それで好い。今、邪剣霊ルケリヤの意識はユストに全てを注ぎ込んでいる。下手に気を逸らさてはならない。
「何故、そこにいるルケリヤと対峙した?」
「我を狩ろうとしたから返り討ちに合わせたに過ぎないわ。野暮な事、聞かないで頂戴。」
「ならば、愚生も君を狩る、と言ったら?」
「まぁ嬉しい。」
ルケリヤの柴色の髪を掴んだまま邪剣霊ルケリヤは持ち前の薄い笑みを浮かべると共に悩ましげに腰をくねらせた。
「我はあの銀髪と刃を交えたかったのよ。あなた、判るかしら?こう、何ものをも受け付けない高尚で強靭な、数多の血糊を浴びて未来永劫輝きを失わない化粧を施した刀身を持つ剣霊が滅多に見れない表情を晒すのよ、あり得ないって。同時に蜘蛛の巣に飛び込んでしまった蝶の様にじたばたもがくの。見苦しいったらありゃしない。でもその見苦しい姿を我は眺めては楽しんで…。」
「へし折る、というのが君の技だな?」
「あら、ご存じなの?」
「四ヶ国が成立する以前の騒乱の時代にそういう類の剣があったと聞いている。」
「物知りなのね、あなた。でも知っていると見たのと、ましてや味わったとでは全然違うわよ?」
「だろうな。」
ユストはルケリヤの柴色の髪の先端を一瞥し、残り短くなった煙草を足許に落とした。
「間もなく日付が変わる頃合いだ。話を詰めよう。」
「どうぞ。我もこのままの姿勢は疲れたわ。」
「二日後だ。その時、愚生の剣霊は最良の状態で君と刃を交える。文句はあるまい。」
「今すぐにでも良くてよ、と思っているけど、あの銀髪は何処にいるのかしら?」
「彼女なら手入れ中だ。君としては不具合のある者に勝っても不本意だろう?」
「なるほど。それが見極める為の一割という訳ね。」
邪剣霊ルケリヤは摘まんでいた柴色の髪を離し、己の胸許を強調する様な腕組みをしながらユストに歩み寄る。さらさらと心地良い衣擦れが宵闇の中を漂った。
「我を恐れて一歩を引かず、逆に勇んで一歩を繰り出さず。あの銀髪が傍らに居なくても肝が据わっているのね。殺されると思わなかったの?」
「君は計算高い剣霊だと愚生は見ている。ならば初めて会った時点で殺していた筈だ。」
「褒めてくれるの?嬉しいわ。」
艶やかな微笑を送る邪剣霊ルケリヤの顎先が何かを示す様に動いた。もしやとユストは眉をひそめたが目の前の邪剣霊を前にして背中を見せる訳にいかない。じり、と踏み固められた大地が新たな者の不穏な足音を宵闇の空気に乗せて教えてくれる。
「嘘も計算の一つよ。」
後方へ意識を送るユストの間隙を縫うかの如く邪剣霊ルケリヤは作った微笑をそのままに囁く。
「きょ、兄弟、こいつぁもしかして…死にぞこないの剣霊使いにやられるって展開か?」
命の遣り取りとは無縁な男、グスタフ・ヴェネシュが裏返りそうになる声を必死に抑えながらユストに現状を伝えた。
「慌てるな、兄弟。やつは邪剣霊に与する野盗の慣れ果てだ。武器を手にしていない筈だから安心しろ。」
「お、おう。安心しろと言われても、これ、武器として使った事は今まで一度もないんだよな。」
グスタフ・ヴェネシュは腰にある短剣を鞘から抜いた。妖しさは皆無の清らかで滑らかな輝きを短い刀身が放つ。生ある者を傷付けず殺めず、便利な道具として使われていた証である。そして普段からその様に短剣を扱う右手は今回ばかりは自制が効かないほどの震えを伴っていた。
なんたるへっぴり腰か、とグスタフ・ヴェネシュの有り様を表情で語る邪剣霊ルケリヤの眼差しが一点に注がれた。
「ところであなた。そこの隠れている女、あなたの事よ。品の良さそうな身形からしてもそうだけど、ただの小娘ではなさそうね。」
注がれていた世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳から余裕は消え、怪訝が見え隠れする。
「…いや、小娘?あなた、見た目と中身が伴っていないわ?剣霊ではないのに時の流れに抗う精神と肉体を具えている人間がいるとは…。」
己の特異な点を言い当てられたエルスノアは口を閉ざしたままである。代わりにグスタフ・ヴェネシュが恐怖に呑み込まれそうな己を鼓舞するかの様に声を上げた。
「当たり前だ。こちらにおわすのは剣霊協会の協会長エルスノア様だ。お前ら邪剣霊などに指一本触れさせるものか!」
短い舌打ちの後に鼻で長い溜め息を漏らした音がグスタフ・ヴェネシュの耳に届いた。ユストによるものである。目の前に立つ敵意を振り撒く者たちの前でエルスノアの素性を明らかにする事だけは避けていた。敢えて無言で目くばせで彼女を守れと指示をしたのもこの為である。何故なら、彼女の名が知れたら格好の的になるからに他ならない。
「おい、剣霊協会の協会長となれば人質にすればこっちのものだ。コノリギスの連中、指を咥えて見ているだけの状態に出来るぞ?」
ムルドが放った言葉による威圧と恐怖に身を縮こませる様なエルスノアではない。丈の長いスカートの下で両脚が棒の様に自由が利かなくなろうとも確固たる眼差しを保っていた。
「わたしの身がどうなろうとも剣霊協会の所以に変化をきたしはしないでしょう。むしろ次なるエルスノアにあなたたちを討てと命を下された剣霊使いたちに追われるのです。この大陸の僻地へ隠れようとも草の根を分けてでも彼らは探し出すに違いありません。」
「命乞いにしてはとげとげしい言い草ね。」
邪剣霊ルケリヤが仮に人間であったらユストが普段する様な溜め息を漏らしていたであろう。その様な表情を宵闇の中で彼女は晒し、言葉を続けた。
「まぁでも、あそこのルケリヤとアウルス・ボーンを打ち負かした以上、遅かれ早かれ剣霊協会とは対峙すると判っていたもの。別に驚きはしないわ。さて…。」
世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳が元の位置へ戻る。
「あなた、我を計算高い女と言ったわね?」
ユストは無言で素早く頷く。
「その計算に狂いが生じた時、あなたならどうする?修正を試みる?」
邪剣霊ルケリヤは不敵な笑みを一つ放った。
「女って面倒くさいのは嫌いな生き物なのよ。そう、剣霊も女なの。」
腕組みしている上側の五指が隙間なく綺麗に並ぶ。ユストにはその様に見えた。やはり邪剣霊に交渉は無謀であったのか。彼女が狙うのはどちらなのか判らない。ユスト自身かエルスノアか。
悔いる間もなくその五指が視界に映らなくなった。ユストと邪剣霊ルケリヤの間に身を割り入った者がいる。後方の二人が動いた気配はない。むしろ邪剣霊を前にして動ける筈がない。前方のルケリヤは依然と姿勢を変えずにこちらを凝視している。
夜風がその者の髪を攫った。薄紫色の短いそれはたおやかなうねりを作り、すぐに元の形に戻る。
「あら、あなた…可愛らしい剣霊だこと。」
邪剣霊ルケリヤの嘲笑めいた言葉に動じる様子もなく、可愛らしい剣霊は己の風貌を論じた者に向けた顔をそのままに口を開いた。
「静観しているつもりだったが危なっかしくて見ていられないな。ユランに感謝しろ。」
イルサーシャが語った勘の正体はこれか、とユストは確信した。同じ剣霊であり、面識のある者であれば心強い。つまり、メツァールントの外壁の外へ出る以前から尾行されていた事となる。ユラン・エレエに借りを作ってしまったか。彼女の別れ際の言葉を思い返しては苦笑を零しそうになる。そしてユストはある動作を行った。
「おい、何のつもりだ?」
うら若き双子の剣霊の妹であり、物静かで聡明な呪縛の剣霊ファエラがユストのたった一つの動作で滅多に見せない動揺する姿を晒した。両手を用いて触れるか触れないかの位置でラファエラの目許を覆ったのである。
僅かに身を屈めたユストはラファエラの可憐な耳許で囁いた。
「愚生とユラン・エレエが初めて戦った時の事を君は覚えているか?」
「覚えている。あれは星々が美しい夜だった。そしてユランがあそこまで悔しがる姿はこれから先、見る機会はないと思う。それとこれに何の関係がある?」
「今回は星の瞬きが無かろうとも邪剣霊の目を見るな。新月の日が終わると同時に君の闘志を根こそぎ奪いにくる筈だ。」
「我がそう簡単にやられると思ったのか?条件が同じなら我には先読みがある。」
「だがクラウディアがいない中、五分五分、いやそれにも満たない勝負をさせる訳にはいかない。」
姉の名を出されたラファエラは目許を細くした。
「我は半人前、とでも?少しは遠回しな表現を使って貰いたいものだな。」
「相手が格上なだけだ。彼女と君とでは剣霊としての年季が違い過ぎる。」
「守られている立場の者の言葉とは思えないな。」
己が至上と信じて止まない剣霊の矜持を愚弄されたと言いたいのであろう。だが、事実である事には変わりない。ラファエラがこれ以上言い訳を口にしないのは彼女なりに現実を冷静に受け止めたと言えようか。
ラファエラは剣霊として百五十余年。対する邪剣霊ルケリヤは少なくともその三倍以上とユストは見積もっていた。彼女はイルサーシャが使う古代の言葉に眉をひそめる事なく理解していた、というのが確たる裏付けである。
ユストの鼻から漏れる緩やかな呼吸音が消えた。同時にラファエラの目許を覆っていた両手が強張る。
剣霊たちは新月の時間から解放された。




