ルケリヤの囁き
本当はもう少しルケリヤの傍に居たいけど、そろそろ仕事に取り掛からないとね。
夜の帳が降りきった乳白色のテントの下でメアリー・メイイェルはその様に切り出した。仕事とはイルサーシャの手入れである。つまりこの場を後にしてユストとイルサーシャの許へ向かう旨を伝えたかったのであろう。
ルケリヤとしても若き女研師の意図を予め汲んでいたようである。柴色の瞳に闇を与えたまま頷く。早過ぎず遅すぎずの頷きであった。
「我は平気だから早くお行きなさい。」
どちらかと言えば諭す様な声色でルケリヤは語る。二人の横では狼のシュンカが四股を折って静かにしていた。
「でも…ルケリヤはちょっと怒っているよね?」
一方のメアリー・メイイェルは後ろめたさを雰囲気のみならず顔に出してた。己の主人の声に反応したシュンカは純朴な眼差しをそちらへ向けている。
「我が怒る?」
柴色の瞳が開いた。
「その理由は?」
いつ見ても吸い込まれそうな繊細さと心の奥底を見透かされてしまいそうな澄んだ輝きにメアリー・メィイエルは僅かながらにも呆然となる。そして我に返ったかの様に頭を振る。左右に束ねた砂色の髪がしなやかに揺れた。
「ほら、イルサーシャが蛮族のどうのこうのって…。」
「彼女がマナエグナの巫女であった件でしょうか?」
「そう、それだよ。何なの、マナエグナの巫女って?」
「遠い昔の話です。今の世でこの名を知る者は恐らく皆無でしょうね。つまり人間の歴史の中で必要のない存在であったとも捉えるべきでしょうか。」
「何だか難しい話だよ、あたいには。ただ…蛮族って言うからにはルケリヤにとってイルサーシャは仲良く出来ない存在なのかな?」
話の核心を突くには少々早過ぎただろうか、とメアリー・メイイェルは後悔した。だが、その核心を何時問うべきかも不明である。ならば今しかない。じっと眼を見開いたままルケリヤは答えない。沈黙は時の流れを遅く感じさせる。乳白色のテントが吹く風でたわむ音を二回奏でた後にルケリヤは口を開いた。
「確かに当初は苦々しい記憶に心身を委ねてしまいましたが、だからと言ってあなたの立場に我の私情を絡ませるのは筋違いだと気付きました。」
「そうなんだ。」
胸につっかえていたものがするりと下りたかの様にメアリー・メイイェルは安堵の微笑を浮かべた。
「我は何かおかしな事を言いましたか?」
「やっぱり剣霊は長生きしているから、そんじょそこらの人間と違って視野が広いんだなって。」
「その点について明確な回答はしかねます。単にあなたのかいかぶりでしょう。」
「取り敢えずあたいの知っているルケリヤのままで安心したよ。」
「あなたはメイイェルの研師として長い年月を経て築き上げられた技術と心得を受け継ぐ身。ですからあなたも私情を捨てなさい。」
「あたいの私情…?」
頬を温かく若々しい色に染めたメアリー・メイイェルはちらりとルケリヤに視線を投げようとしたが出来なかった。これ以上、見透かされるのは恥ずかし過ぎる。
「たとえ心が締め付けられる様に苦しくても、立っている事もままならない程に体の奥が疼こうとも、あのマナエグナの巫女の契約者に情けを求めるのは止めなさい。」
「わ、判っている。あたいはそんな安い女じゃないよ。」
胸の内の全てを晒されてしまったメアリー・メイイェルはシュンカの頭を撫でるなりルケリヤに背を向ける。彼女は一歩二歩と進み、立ち止まった。
「安い女じゃないよ。ただ…年頃の女には変わりないのさ、あたいは。」
ルケリヤは答えない。代わりに滑らかな衣擦れの音が耳に滑り込んでくる。起こしていた上半身の力を抜いたのであろう、とメアリー・メイイェルは振り向きもせずにその様に思った。親しい者に肯定も否定もして貰えない立場とは辛いものである。
「また明日来るよ。」
ようやく絞り出したかの様な声でメアリー・メイイェルは一時の別れを告げる。それでもルケリヤは答えなかった。柴色の瞳に再び闇を与えているのは言うまでもない。
それから幾許かの時間が経過したのかは判らない。乳白色の簡易テントの向こうは相変わらずの空模様である。星の瞬きが見えれば多少の気休めにもなろう。だが今の状況でそれを望むのは愚かだとルケリヤは理解していた。
刀身の象徴たる長い髪を失ってから全ての能力が減退している。星々が見えなくとも彼らを覆う雲の流れを存分に観察出来たが、今は朦朧とした世界が目の前に広がっている。冬である故に虫の囀りは聞こえないものの、野鳥の微かな寝息を以前の聴覚は捉えていた。その健やかな音色も耳に届かなくなってしまった。人間には到底及ばない能力はもう取り戻せないのだろうか。希望的観測は現実逃避の迷宮への第一歩である。その様な世界に足を踏み入れたら永久に抜け出せない。
ルケリヤは己に憫笑を送った。刀身を失った剣が未だに矜持を抱いているとは、と。もう元の姿には戻れないのは誰に言われなくても重々承知している。戦いに敗れる日がいつか訪れ、今回が偶然にもその時であったと思いたい。寝返りを打つ。髪が滑らかな曲線を描き、魅惑の艶を発しながらしなやかな音を奏でていたのは過去の話である。
「年頃の女、か…。我はあなたと歳が変わらない頃に剣霊になったと言うのに。」
人間であった頃の己とメアリー・メイイェルを重ね合わせているのか、ルケリヤは視力が減退した柴色の瞳で遠い眼差しを作る。何故か淋しい。無性に誰かと会話をしたい。いや、喋りたいと表現するべきが正しい。契約者であったアウルス・ボーンの横顔を思い浮かべる。既に輪郭が朧気である。
「今の世から旅立つ。いつかは、と思っていたけれども…。」
胸の内を吐露したのか、己に言い聞かせる為なのか、当のルケリヤも判らない。アウルス・ボーンの頼れる手を思い返す。契約を結ぶ以前、彼は南部で野菜を育てていた。何という名の野菜であったかは覚えていない。節くれ立った手で頭を撫でられた時、硬さよりも優しさに満ち溢れていたのは今でも覚えている。そして、生産者として社会に貢献していた男を殺伐とした命の遣り取りの世界に引きずり込んでしまった後ろめたさも未だに残っている。
剣体となった己の柄を唯一握れる権利を得た手の真下に刻んだ食痕を思い返す。彼の血で空腹を満たす事は出来ないと改めて実感すると共に無性に食事を摂りたくなる。
アウルス・ボーンの代わりに違う男の顔がルケリヤの脳裏で描かれた。半日前に食事を提供してくれた男であり、彼は運送屋を営んでいると聞いている。申し訳ないが、これも名前は忘れた。髭面で嫌味のない作り笑いが印象的であった。不思議な事に長年連れ添った契約者よりも一時間も共有していない運送屋の方が面影が鮮明に描かれる。あの運送屋の血の影響だろうか。
ルケリヤは寝返りを打った。背を外壁側に向ける。見張り役の兵はいない。日没と共に役目を終えるらしい。どうせ何も出来ないのであろうと、彼らは傷付いた剣霊を見くびり、剣霊からしてみれば仮に奮起して暴れたとしても彼らの手に負える訳がない。煩雑に置かれた木箱たちがなければ、もう少し眺めが良いものを、と目を細めるのは置かれた立場からして贅沢な欲求だろうか。
グスタフ・ヴェネシュの顔を再び脳裏に描く。端的に言えば悪い人間ではないと直ぐに察知した。同時に不器用な男であるとも見抜いた。あぶなっかしさは見当たらないが、頼りなさは否めない。果たして彼はこのまま世間の波を必死にもがくのだろうかと思い、慌てふためく姿や得意気な面持ちを想像すると知らず知らずのうちに柔らかな笑みが零れる。
「何が嬉しいのかしら?ルケリヤさん?」
背後からの囁きにルケリヤは表情を凍らせた。以前、耳にした声。女の麗らかさよりも艶めかしさが如実に勝っている声。柴色の瞳は見開いたままとなり、剣霊らしさを物語る指は活動を停止したかの如くぴくりとも動かない。
「人間は息を引き取る間際にいろいろと頭に描くわ。剣霊もそうなのかしらね?」
嬲る声色の最後に憫笑が混ざる。夜の帳が降りて気温の低下が著しく感じられる中、吐く息は無論の事、身体から発する熱も微塵に感じさせない。ただ、凍てつくほどの惨たらしい非情の持ち主であるのは判る。
「おい剣霊、お前の顔を見せろ。こっち向けよ。」
意地汚い男の声が混ざる。この男の声も知っている。薄汚れた番に抵抗する事ももうままならないのだろうか。近付く者の気配を察知出来なかった屈辱、既に剣霊としての能力が著しく減退した事実を認めざるを得ない悔しさ、そして何もかも奪い去った者たちの声に含まれた捻じれに捻じれた腹黒さがルケリヤの憔悴した心身を占める。
「体を動かすのも難儀なのよ、彼女は。まぁ、そう仕向けたのは我だけど。」
柴色の髪の先端を邪な指先が詰る。金属同士が擦れる音、いや、硬質な金属が軟らかなそれを凌駕するむごたらしい音が風に乗り、メツァールント市街地の外壁に吸い込まれる。
剥き出しになった骨を削られる様な激痛が走ろうともルケリヤは悲鳴を上げない。食い縛る歯をそのままに残る力の全てを振り絞り、横臥した姿勢のまま後方へ向けて手刀を繰り出した。
闇雲な一撃であろうとも威嚇するには充分である。むしろ一矢報いたい。描く軌跡に凄味は皆無である。だが、純朴な切なる願いを伴う一閃は男の首筋を捉えた。
表面の皮をいとも容易く割き、太い動脈と静脈を同時に切断する。溢れ出んとする血流の抗いなどものとせずに脛骨をも分断せんと勢いに乗った手刀は速度を落とさない。
しかし、現実は異なった。表面の皮一枚すら割いていない。脂ぎった首筋をそれなりの強さで打っただけである。赤心の剣霊と謳うルケリヤの一閃は過去のものであると受け入れたくない事実が無情にも突き付けられた瞬間でもあった。
剣の機能を失ったルケリヤの心境を知らずに男――アウルス・ボーンを名乗るムルドが痛てぇ、と声を上げる。彼は斬られていなかろうとも斬られてしまったと錯覚してしまった。刃をつぶした剣の一撃を喰らった者の狼狽え様とも言えよう。
気付けのつもりか、邪剣霊ルケリヤは咄嗟の判断でムルドの左の鼻孔にか細い人差し指を突っ込んだ。
「そうも下品に騒いだら、そこいらの人間たちが起きるわよ?」
「おぉ、そうだ。某たちはここの者たちにばれてはいけないんだったな。」
顎を上に向けたムルドは息苦しそうに口を開く。
「そう。だからちょっとやそっとの痛みで大声を出しちゃ駄目よ?」
邪剣霊ルケリヤは最大限に口角を持ち上げた笑みを零す。同時にか細い人差し指が跳ね上がった。裂けた鼻孔から鮮血が溢れ、迸る激痛のあまりムルドは両手で鼻から下を覆う。血が口唇を経て喉まで達したのか、鼻腔から流れ込んだのか、声にもならぬ声で呻く。
「上手上手。やれば出来るじゃないの。」
口角を持ち上げたままの邪剣霊ルケリヤは次なる対象を捉えた。世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳は敗れ去った剣霊の痛ましい姿を映す。
「さて、あなたにはちょっと役に立って貰おうかしら。」
「身動きもままならなくなった我に出来る事はありません。出来たとしてもあなたに協力するつもりは微塵もありません。」
抵抗を見せるルケリヤの前で邪剣霊ルケリヤは表情を変えずに前屈みになった。纏うドレスが妖しげな衣擦れを奏で、聞く者にうすら寒さを助長する。
「七十二の剣霊使いとその剣霊、このメツァールントに到着しているでしょう?」
柴色の瞳に平静を保たせつつルケリヤは答えない。壁際に追い込まれた獲物の心境を予想しては堪能しているかの様な邪剣霊ルケリヤの五指が柴色の髪へ伸びた。無造作に掴んで力を込める。今度は金属の破砕音が響く。想像以上の激痛に苛まれようともルケリヤの柴色の瞳に変化は生じなかった。
「女の方が男より痛みに強いというのは…どうやら本当ね。」
感心を交えた憫笑を見せた邪剣霊ルケリヤは言葉を続けた。
「あなたの目の前で七十二の剣霊をへし折ってみせるわ。そうしたらあなたもあちらの世界へ旅立つのが独りではなくなって淋しくないでしょう?取り敢えず彼らが来るまでここで休ませて貰おうかしら。」
掴んでいた柴色の髪を離した邪剣霊ルケリヤは簡易テントの支柱に寄り掛かった。支柱は軋まず、乳白色のテント生地がたわむ事もない。淑女然とした邪剣霊ルケリヤの容貌は夜の静寂に溶け込んでいるかの様に誰もが思わせられてしまう。
「気の利かない男ね、あなた。」
これはルケリヤが吐いた台詞である。その場にいる者たちの視線が意外な事を言うと語る。片方は興味を示し、残る片方は口を尖らせた。
「何だ、気が利かないとは。」
ムルドは割かれた小鼻を押さえつつルケリヤに近付く。押さえている手から未だに血が流れては袖の奥へと吸い込まれていた。
「自分の剣霊の為に椅子を用意して差し上げたらどうなの?」
想定外の指摘はムルドの脚を止めさせた。
「ほぉ。お前、面白い事を言うじゃないか。」
「剣霊に気遣い出来ない男の器なんて、たかが知れているわ。」
「お前の契約者アウルス・ボーンならそうしたか?」
「気安く彼の名を口にしないで下さい。」
「気安くもなにも、某が今のアウルス・ボーンその人だからな。」
抗う手段を失った女にとって傲慢不遜な態度を前面に押し出している男とは未知なる恐怖の対象である。いや、脳裏に描いた残酷な仕打ちを現実のものとする穢れた執行者と表現するべきか。故にルケリヤはか細い眉の根を寄せて体を縮こませた。その姿はムルドの鼻息を荒くさせたらしい。押さえている手から流れる血の量が先程より勢いが増していた。
「某は剣霊使いアウルス・ボーンがどんな男だったかは興味ない。ただ、剣霊使いの所作はじっくり学んでおかないとなぁ。」
鼻を押さえている手が離れた。鮮血に染め抜かれた掌がルケリヤの口許へ伸びる。咄嗟の判断で顔を背けようとも欲望の権化となった掌は狙いを定めた口唇の柔らかさを求めて執拗に追う。
「某の血を舐めろ。お前も食事の提供者がおっ死んで腹は減るし、なによりも体が疼いて仕方がないだろう?」
新月の日でなければこんな下衆など簡単に斬れるのに、と現実逃避に費やす時間をルケリヤは持ち合わせていなかった。顔を背けようとも結局のところ、左右のどちらかしかない。簡単に捕まる。げんに顔を背けて三回目で柔らかな口唇を割って二本の指が渇いた喉と潤いを求める舌を目掛けて侵入した。
指を噛む訳にはいかない。噛んだら血が飛び散って相手の思うつぼである。とは言えども、こちらが舌や喉を動かさずにいようとも、やり過ごせる可能性は極めて低い。
「気高い剣霊もこうなっては手も足も出ないか。」
勝利を確信したムルドは再び小鼻を膨らませる。猛る血が滴り、ルケリヤの口角に小さな赤い花を咲かせた。
普通の女であれば双眸に涙を浮かべて己の無力さを呪うか観念したかの様に心身を脱力させていただろうか。だが、ルケリヤは違う。彼女は剣霊である。涙は流さず、確固とした眼差しを保っている。これから嬲ろうとする相手の未だ恐怖を感じていない態度はムルドを昂ぶらせた。
ルケリヤの柔らかな口唇を割った二本の指先が舌に触れる。付着した己の血を拭う様に動かす。ルケリヤはたまらずむせ返るものの、既に遅い。ムルドの血を摂取してしまったのだ。
「あなた、なんて汚くて不味い血なの…。」
「血に綺麗汚いなんてあるものか。たとえ汚かろうとも毒を喰らわば皿までと言うだろう?さて最後まで味わって貰おうか、いろいろとな。」
二本の指がルケリヤの口唇から程よい丸みを帯びた顎先を経ては麗らかな喉を伝い、魅惑の膨らみに到達した。その上で欲望に駆られた指が二本から五本へ変わる。撫でまわす様な動きと鷲掴みが交互に繰り返され、ルケリヤは声を漏らさんと必死にこらえた。己の意思に反した身悶えを感付かれまいと体を捩じり、視線を遠くへ投げる。簡易テントの支柱に寄り掛かったままの邪剣霊ルケリヤの姿が柴色の瞳に映った。
腕組みをしている彼女は彫刻の如く動いていない。風が吹こうとも赤銅色の髪は揺れずに静かにしている。獲物が動くまで、隙を見せるまで耽々と狙いを定めている様にルケリヤには見えた。では獲物とは何か。己はいつでもどうにでもなる。ムルドは対象ではない。この場にいない第三者…あのマナエグナの剣霊が姿を見せるのを待っているのか。
不本意にも吐息が漏れた。雌の吐息である。ムルドの五指が布一枚の間を這って直に胸に触れたからに他ならない。
「剣霊であろうと所詮は女だな。胸を撫でれば身を捩る。どこをどう触って欲しいか言ってみろ。」
ルケリヤは答えない。これ以上声を漏らすものかと奥歯を噛み締めている。
「弱者の高潔な態度が余計にそそられると知らないのか。剣霊にもなって女の性というものを未だ理解していないとはな。」
「弱者とは…我はまだ敗北に甘んじるつもりは断じて…ない!」
隙をついて手刀を繰り出す。狙いは定める余裕はない。どこでもいい。先程の結果が芳しくなかろうが、もう一度試すべきだ。傷を負わせれば圧し掛かる望まぬ男の身体が離れる筈である。
柔らかな胸をまさぐる手が止まる。想定外の物に触れたからである。なんだこれは、と欲望に染まった顔に僅かにも怪訝な表情を浮かべたムルドは腕を引き抜いた。女体の起伏を愉しんでいた手が握り締めていたのは剣霊協会支給のスカーフであった。
「おう、これは…何処かで見た事があるような…。」
黒字に金の刺繍と黒字に黒の刺繍の二枚である。ムルドは己が口にした何処かを思い出そうとしているのか、握り締める二枚を顔の高さまで持ち上げ、首を捻る。
ムルドに隙が生じた。五指を揃えて渾身の一撃を喰らわせる機会は整った。しかし、ルケリヤは愕然としていた。密かに漲らせていた闘志は霧散し、柴色の瞳は哀しみに暮れている。まるで泣いている様な面持ちである。
「それだけは汚さないで。返して下さい。」
ムルドを斬らんとしていた五指は救いを求める形を成して協会支給のスカーフに伸びる。届かない。馬乗りになったムルドが空いている側の手でか細い手首を掴んだからだ。
「思い出したぞ。あいつの首だ。首に巻いていたのと同じだ。つまり、これは亡きアウルス・ボーンの形見という訳か。だったら尚更、某が所有するべきではないのか?」
「嫌よ。汚い手で触らないで。あの人の匂いが消えてしまう。」
掴むムルドの手を振り切ろうとしても叶わぬ望みである。それでもルケリヤは諦めない。絶妙な曲線を描く腰を左右に前後に振り、眉間に力を込めている。男であれば髪が不自然な形であろうとも悩ましい剣霊のあられもない姿を見せ付けられた事には変わりない。ムルドは押さえ付けられない衝動に駆られた。
ただ、先程から静観を決め込んでいる存在が気になる。ちらりと様子覗いに似た視線を乳白色のテントの支柱へ向ける。彼女は表情一つ変えずに己と同じ名前の剣霊が嬲られる一部始終を見届けるのであろう。ならばとことん見せ付けてやろうか。二振りの剣霊の相手をした男になる。誰もが知らない悦を味わうのだ、とムルドは血走った目に卑しい笑みを湛えた。
「お願い、返して。」
ルケリヤは未だ抵抗を試みている。馬乗りになったままのムルドは腰を折り、ルケリヤの耳許に顔を近付けた。
「返してやってもいい。だが交換条件として…判っているな?」
多少のやつれは見受けられようとも女の白い肌の起伏を上から下へと眺める。
「…お好きになさい。」
「たかだか布切れの為に身体を預けるのが剣霊と言うものとはな。」
夜の冷たい空気にベルトを外す無粋な音が混ざる。通常の倍の速さで脈打っている様なムルドの下半身が晒され、無抵抗となったルケリヤのスカートを捲し上げ、左右の太腿にそれぞれの手を掛けて広げた。握っていたスカーフは足許で皺を作っているズボンのポケットに捩じり込んである。
「何だお前、準備万端じゃないか。腰をくねらせている間にその気になったか。」
押し広げた太腿の付け根を見下ろしながらムルドは熱を帯びた身体をすり寄る。ルケリヤは返事をせずに顔を背けたまま全身の力を抜いていた。
嬲る男、嬲られる剣霊、それらを静観する邪剣霊。三者三様の立ち位置に変化を与える存在は現れるのか。虫の囁きは言うまでもなく、夜に啼く鳥の声すら耳に届かない冬の静けさの中にたおやかな衣擦れがひっそりと響いた。
「もうそこいらで止めておきなさいな。あなた、この剣霊の演技に見事にしてやられたわね。」
邪剣霊ルケリヤは寄り掛かっていた簡易テントの支柱から身を離し、右の人差し指を伸ばす。音もなく大気を割く訳でもなく自然と伸びる。行き着く先はムルドの右の鼻孔であった。
「おい、お前、もしかしてまた…。」
下半身を曝け出したムルドの顔面を始めとして、彼の全てから血の気が引いた。
「女には女だけの武器があるわ。剣霊も同じ。でも人間のそれとは少し違うのよ。」
世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳はムルドの下半身を一瞥した。まるで萎れ掛けた一輪咲きを思わせる姿を知り、遠慮なく短い憫笑を送った。
「そこにあなたの自慢の逸品を捻じ込んだらどうなっていたでしょうね?」
「さてはお前、妬いているのか?」
「自惚れるのも勝手だけど、捻じ込んだら最後、間違いなく締め上げられて切断されていたわ。」
「某のが…?悪い冗談はよせよ?」
四の五の言わず黙って聞けと言わんばかりにムルドの右の鼻孔を捉えたルケリヤの右の人差し指が持ち上がる。内側の感触を確かめているのか、弄んでいるのか、詰る様な動きに望まない結末しか脳裏に浮かばないムルドの視線は釘付けになっていた。
「男がいくら硬くて立派と自負しようとも、剣霊からしてみれば骨のない部分に変わりないもの。」
「だが、お前は某のを受け入れて愉しんでいたぞ?」
「あら、契約を結ぼうとも、その気になれば見るも哀れな姿に出来てよ?その気になれば、ね。」
詰る人差し指が動きを止めた。
「これもその一例よ。覚えておきなさい。」
跳ね上がった人差し指は小鼻を割いて付着した鮮血をそのままに天を指す。ムルドは声と表現するには程遠い絶叫と共にうずくまった。寒さが必要以上に痛覚を刺激する。
「急所を狙った捨て身の一撃、てところかしら?別の言い方をすれば剣霊の悪あがき。残念だったわね。」
勝ち誇った笑みを絶やさない邪剣霊ルケリヤは天を指していた人差し指を柴色の髪で拭い始めた。形はともかく、滑らかな色合いの髪に鮮やかな色が惨たらしく差される。
「どのみち血の効力が時間切れになり、触れただけで怪我を負う見込みでした。あなたもそれを知って彼を助けたのでしょう?」
「そうね。彼にはまだ死なれては困るもの。」
「それも時間の問題です。剣霊協会はあなたたちを討つべく全力を挙げるでしょうね。地の果てに逃げようとも、この我の髪を穢した薄汚れた血の持ち主とその血を受け入れた者を今の世から抹消する為に何処までも追い掛ける。覚悟なさい。」
「恨み節なら聞き飽きたわ。」
残念そうな、どちらかと言えば興醒めと言いたげな面持ちの邪剣霊ルケリヤは見下ろす眼差しをそのままに言葉を続けた。
「我が人間であった頃も妬まれ、疎まれ、蔑まれ、寝ても起きても毎日この三つが我の周りをがんじがらめに付き纏っていたのよ。自分の美貌を鼻にかけている嫌な女だ、敗戦国の卑しい女だ、身体を売って男を手玉に取る雌狐だ、てね。人間としての命が終わり、この姿に変わろうとも未だに我の中にこびりついているわ。そう、五百年の歳月を共にしているの。だからあなたの恨み節に動じる様なたまではないのよ、我は。」
未だにムルドの血が残る人差し指を口に含む。再び姿を見せた人差し指に血糊は付着していない。ついと一歩を踏み出した邪剣霊ルケリヤは膝を折り、己と同じ名を持つ剣霊に再び耳許で囁いた。
「確かに不味いし汚れた血だわ。でもこれを味わうのもあと少し。」
不敵な笑みと共にムルドのズボンから渇いた冬の地に落ちたままの剣霊協会支給のスカーフを手繰り寄せ、艶やかな唇を拭う。黒字に走る金色の刺繍が他人の血で汚れる有り様を見たくないとルケリヤは顔を背けた。
整然としたタイル貼りが施された街路を進む。多少の欠損が散見されていたが、やがて真新しい物だけとなる。つまり往来が激しい庶民的な場所から見栄と国家の威信の為に造られた場所に移動した事になる。重厚な建造物の前でユストは顔を上げ、イルサーシャも彼に倣う。メツァールント市街地の中心部に鎮座している市庁舎に他ならない。
「なんともまぁ立派な建物な事で。」
赤紫のケープを肩に乗せたイルサーシャが言葉に反してたいして関心がなさそうに呟く。
「少なく見積もっても五百年前の建造と愚生は聞いた覚えがある。」
「ほぉ。我と同い年という訳か。所々傷んでいるのであろうな?」
「それなりの補修工事はしているとは思うが。」
「ふぅん。」
「君の手入れの件だが、エルスノア協会長と合流してからメアリー・メイイェルに依頼する。それで構わないかい?」
「構わんが…我がいない間、協会長殿はもとより、そなたを誰が守る?」
あれを見ろ、と言わんばかりにユストが顎をしゃくった。市庁舎の出入口には帯刀し槍の携えた兵士が十数名見受けられた。正確な数は十二か。なるほどな、とイルサーシャは頷いたはものの、釈然としない眼差しで隣に立つユストを見上げた。
「そなた、あの邪剣霊が現れたらどうするのだ?」
メツァールント市街地の外壁で横臥している剣霊を指してではない事は言わずとも承知している。
「一先ず何も起きない。愚生はそう読んでいる。」
意外な回答である。少々楽観視し過ぎなのではと思いつつイルサーシャはユストの思惑に耳を傾けた。
邪剣霊は飢えを癒す為に人間を殺める。では、飢えが癒され、今後も飢えを感じる必要がないと確信した場合、わざわざ己が他に倒される危険を冒してまでも殺戮を繰り返すだろうか。答えは否である。邪剣霊ルケリヤは性格や生涯はともかく、言動から判断するからに気高い女であった。その気高い女の中で心身ともに余裕が生じた。ならば彼女その気高さを追求し始める。この場合の追求とは見た目や言動に磨きを掛ける事ではない。あくまでも剣霊として芽生え始めた矜持についてである。言い換えるならば、邪剣霊ルケリヤは無抵抗な数多の殺戮を凌駕する快楽を味わい、その虜となった。己と同じ立場の者、剣霊を倒す事に他ならない。
「ルケリヤの目的は我を倒す、とでも?」
「あぁ。しかも最良の状態である君でなければならない。」
「何故そうも言い切れる?」
「単に倒すだけだったらリストメクに向かう途中で出会った際に済まされているだろうね。」
「この我を倒すとは大それた考えだな、まったく。」
イルサーシャは右の横髪を耳に掛けながら嘯く。普段の彼女であれば不敵な笑みを伴わせているであろうが、今回は違う。神妙な面持ちを保っている。やはり髪の通りが良くないのか、戦いに敗れたもう一振りのルケリヤと己の姿を重ね合わせているのか。
ふと無言の時間が流れる。その時機を見計らったのか、イルサーシャはユストの左袖を摘まんだ。
「それよりもだな、少しは我を労ったらどうだ?」
彼女への労いとは百年香を焚けという意味であると容易に察しがついた。だが、香木を焚いても周囲に怪しまれない場所が何処にあるのだろうか。ユストが辺りを見回すよりも早く、イルサーシャが暇にしている側の手で一点を指差した。
市庁舎の対面に記念碑らしき物体が鎮座している。遠目で判断するからに何処からか切り出した石を用いた石碑であった。
「あの近くなら問題なかろう。我とそなたが逢瀬の真っ只中だと誰もが思うであろうな。しかもこの時間なら逢瀬の邪魔をしようと目論む野暮な輩もおるまい。」
「この時間、か。夜だけに何が起きるか判らないものだが。」
「そなた、心配性だな。そこそこ規模の大きい市街地の中だぞ。」
「それにあんな記念碑があったかどうか、愚生に覚えはないのだが…。」
「なに、我と共にして五年余の歳月が流れたのだ。景色が多少変わっても不思議な事ではなかろうに。」
逸る気持ちに任せてイルサーシャはユストの袖を引く。無論、彼女の力でふらつく様なユストではないが、仕方ないと足先を記念碑へ向ける。イルサーシャは労えと訴えたものの、真意は手入れに出される前に少しでも落ち着きたいのであろう。剣体を見られるのはともかく、触られる事に対して憂慮しているとユラン・エレエに吐露していた。ならば少しでも不安を取り除くのも契約者の努めるところであろう。
「逢瀬に見せるのは妙案として、君は香皿なしに百年香をどうやって焚くつもりだ?」
「あの柵らしき上に乗せて焚けば良かろう?」
記念碑に触れないよう、立ち入りを禁じる柵が設けられていた。鉄製のその高さはユストの腰辺りまであり、記念碑の四方を囲んでいる。表面の厚みは彼の拳の幅程度である。
「柵に百年香を焚いた跡が残るよ。」
「構わんだろ、それぐらい。」
「君に講釈を垂れるつもりはないが、記念碑とは何かしらの偉業を讃えて建てられたものだ。柵とは言え恭しく接するのが…。」
石碑に刻まれた文字を目で追っていたユストは口をつぐんだ。現在の国家の成り立ちを長々と説いている。切り出した石は元王城の一部分だと注釈がされている。ユストにしてみればすこぶる面白くない内容であった。
彼はおもむろに煙草を取り出して咥え、百年香を柵の上に置いた。マッチを擦る。勢い良く燃える炎を煙草の先端に当てると柵の内側へ放り投げた。
「前言撤回だ。」
何があったのだ、と首を傾げるイルサーシャを一瞥したユストは煙草の火種を利用して百年香に火を点けた。仄かな明かりが灯り、咥え煙草のまま息を吹きかければ揺らめく煙と共に爽やかな香りが立ち上る。東のとある湖に百年以上浸かっていたであろう名もなき流木を天日に干すと独特の香りを発した、というのが百年香の成り立ちである。どの様な成分によるものかは未だ判明されていないが、少なくともイルサーシャが剣霊となる以前の時代、五百年以上前から存在する香木である。鉄製の柵の上に爽やかな香りを伴う煙を耐えず立ち上らせている百年香を置く。イルサーシャは百年香を焚いた煙に顔を近付け、目を閉じた。彼女が稀に見せる安堵の表情は夜の曇り空の下でも判る。尖り過ぎず丸過ぎずの顎を突き出し、切れ長の目尻に柔らかな曲線を描かせながら深い緑色の瞳に闇を与えている。
「少しは落ち着いたか?」
百年香に並んでユストが咥える煙草の先端も煙を揺らめかせていた。風は吹いていない。故に百年香を焚いた煙も煙草のくすぶる煙もまっすぐに夜空に向けて立ち上り、途中で肉眼では捉えられなくなる。
「あぁ。そなたは判らんであろう、この心地良さが。」
「愚生と煙草の関係、みたいなものだと思っているよ。」
「それが正しい意見なのかどうかは知らんよ。ただ、そなたの喫煙癖をそろそろどうにかしないとならんなぁと我は常々考えているが。」
「それこそ偏見まみれの間違えた考えではないのか?」
「さぁ、どうだか。」
イルサーシャは顎を突き出した姿勢のまま顔を左右に傾けた。白銀の長い髪が音を立てずに表情を変える。その下で黒蛇のピアスたちも揺れているのであろう。睥睨を耐えず撒き散らかしている彼らも百年香の爽やかな匂いを好む。イルサーシャの安堵に染まる横顔を眺めていると彼らも白銀の長い髪の下で、人目に付かないのを好い事に普段とは異なる眼差しをしているのでは、と咥え煙草のユストは思った。我ながら馬鹿げた事を、と己に失笑を送る。造形物が勝手に形を変えるものか。
「何が可笑しい?」
「煙草を取り上げられた愚生の姿を想像しただけだよ。」
「それは我も少し興味があるぞ。百年香を失った我の様に衰弱するのか、それとも苛ついて暴れ出すのか。」
「さぁ、どうだか。」
「そなた、我の真似をしたな?」
微笑を誘われたイルサーシャは柵の上に両肘を乗せ、暇にしていた両手をそれぞれの頬に添えた。ユストは相変わらずの咥え煙草である。
無為な時間に身を置いていると二人は実感しているのだろうか。それで構わない。命の遣り取りを行う者に英気を養う時間は必要である。
深まる静寂が空気の湿り気を教えてくれる。雨が降るのか、はたまた雪がちらつくのか。
のらりくらりと咥え煙草も五本目となるユストが夜空に向けて懸念の眼差しを送る中、市庁舎で動きが見られた。十数名の兵士が列を整える。出入り口の左右に、均等に並ぶ。賓客を見送る態をとったのだと思われる。日頃の訓練によるものだろうかとイルサーシャは関心の向け、首をやや捻っては切れ長の目尻の端に深い緑色の瞳をやる。彼女の横に立つユストは何処となく懐かしげな横顔を晒していた。
「さて、お迎えにあがるか。」
そう語るなりユストは記念碑を一瞥した。まだ吸える五本目の煙草を柵の内側へ投げ捨てようとしたが、思い留まったらしい。それまでの四本と同じく足許に落とすと爪先で火種を踏み消す。一連の動作を目の当たりにしていたイルサーシャは結局のところ記念碑の謂れを聞かされておらず、また彼女自身も我に教えろと追及をしていない。
羽織る黒いコートの右の内ポケットから一枚の紙片を取り出す。厳密には羊皮紙による剣霊協会に所属する剣霊使いの証書である。両面に剣を咥えた鳩の紋章が上部に描かれ、左右の縁には絡まる蔦の意匠が精緻にに施されている。表面には南西部と北部の綴りで、裏面には中央と東部の綴りでユストとイルサーシャの名と共に歴代七十二番目の剣霊使いであると認められていた。通常の任務では素性を明かさない為に偽造した四ヶ国の査証を用いる。それらは左の内ポケットに忍ばせている事により、この嘘偽りのない証書は剣霊使いにとって扱いは別格である。そして今回、この証書を見せる相手は初めて対面する剣霊協会協会長エルスノアその人に他ならない。彼女は七十二の番号を与えられた剣霊使いとその剣霊の功績は耳にしていよう。だが、その容貌は知り得ず、また己の護衛の為に割り当てられた者たちについて聞かされていない筈である。ならば彼女の信頼と安堵を得る為、この場にいる中央の兵たちから不審者と思われない為にはこの証書が有効だとユストは読んでいた。
星々の瞬きが捉えられない夜空の許でいくつものかがり火が煌々と焚かれる市庁舎へ向けてユストは証書を片手に歩みを進めた。イルサーシャには普段と変わらずに左斜め前を歩くように伝えてある。
「なぁユスト。ふと思ったが、そなた、あの中に過去の同僚がいるのではないか?」
「いや、遠目で見る限り知らない顔だけだ。」
「そなたが知らなくても向こうがそなたの素性を知っていたらどうする?」
「その時の為に君に後ろを歩かせていない。」
「なるほどな。」
市庁舎の正門の前に立った。すかさず中央の兵が五名、こちらに歩み寄ってくる。二対五。単純に倍以上である。護衛と言う立場の上で数の上で有利に見せるのは相手の腹積もりを挫かせるには常套手段である。
厄介事は勘弁してくれよ、と五名の兵たちは一応の規律を携えた足音を奏でていたが、じきに狼狽を覚えた。これ以上近寄ってよいものか、と同僚たちの足取りを確認し合っている。目の前に立つ白銀の長い髪を持つ女の容貌に心を奪われ、あらゆる物を無抵抗のうちに切り裂く刃を喉に突き付けられた感覚に身体が支配されてしまったからだ。
剣霊だ。間違いない。目の前に剣霊が現れた。五名の兵はそれぞれの中でその様に悟った。では剣霊の後ろで物静かに佇んでいるのは剣霊使いか。人間が剣を選ぶのではなく、剣が人間を選ぶ。稀有な存在同士を目の当たりにした事実は五つの喉仏を上下させた。
「つかぬ事を訊く。そなたらが護衛を任された剣霊協会の協会長殿を我たちは迎えに来たのだが、ここで間違いないか?」
五名の兵の心境などお構いなしにイルサーシャが口を開く。剣霊の求める回答をしなければ彼女は機嫌を損ねるかもしれない、と生存本能が否応にも働く。げんに切れ長の双眸に潜む深い緑色の瞳に人間の温かみなど微塵もない。狙った獲物は尽く仕留める冷たさのみである。しかし、何と答えれば良いのか。そもそも答えて良いものなのか。
「すまんが…我の言葉を理解出来なかった、という事はなかろうな?」
虫の居所が悪そうな雰囲気を遠慮なしにイルサーシャは示す。それをやってしまったら彼らは正に蛇に睨まれた蛙状態だぞ、と思いつつユストは先程の証書を五名の兵の前で広げて見せた。ただ、全てを公にした訳ではない。万が一を考えて己の名前が記されている部分は証書を持つ手の指二本を使ってそれらしく隠していた。
「これで我々は怪しい者ではないと信用して貰えるだろうか?」
イルサーシャの冷たい眼差しから逃れようと五名の兵は一斉に証書を見つめる。一秒二秒、と胸の内で数え、三秒と同時に証書を折り畳んだ。いかにも勿体ぶる素振りを見せる。自ずとこの証の価値が貴重であると認識され、目の前に立つのは単なる剣霊とその契約者から唯一無二の存在から密命を帯びた存在なのだ、と昇華させてしまう。ユストの狙いはそこにあった。
「どうだろう、信じて貰えたかな?」
ユストが物静かに放った念押しの言葉に五名の兵は難色を示さない。それぞれが頷いて見せるだけである。それでは遠慮なく、と言葉を発するまでもなく、ユストはイルサーシャの腰を左手で軽く叩いた。
「おいユスト、そんな便利なものを所持しているのならばさっさと彼らに見せれば済む話ではなかったのか?」
数歩前に進んでからの事である。押し殺した声のイルサーシャの顔は前を歩いている為に見えないが、流麗な目尻の先端が普段より鋭くなっていると容易に想像が出来た。
「制服とは不思議なもので日々袖を通していると、制服を着ていない者を色眼鏡で見てしまうものでね。」
「仲間意識というやつではないのか?何の関係があるのか我にはさっぱり判らん。」
「君の意見を否定するつもりはないが、仲間意識が強くなるとそれ以外は見下すものだよ、普通。」
「ではなにか、我とそなたは彼らに見くびられていたとも?」
「最初はな。流離の身の番が何か面倒な事を起こすのでは、と見ていたと思うよ。」
「だが、剣霊たる我を知って緊張のあまり身動きが出来なくなったところで、これ見よがしに証書を出した、という筋書きか。」
「大方外れていないよ、君の考え。」
「そなた、我をだしに使ったな?」
「まぁな。怒るなよ。」
「怒っとらんよ、それぐらいで。」
常々よりも幾分大股で歩くイルサーシャの腰に添えていた左手が離れた。前方が更に慌ただしくなる。エルスノアを賓客としてもて成す晩餐会が終了したのであろう。
「さて、毎回毎回難儀で骨折り損な任務を押し付けてくる協会長殿のお出ましだな。」
「難儀で骨折り損であろうとも愚生と君に今の世を生きる糧を与えて下さる方だ、エルスノア協会長は。上品に振るまえとは言わないが、下品な行動は控えるんだよ?」
「我はいつでも上品だ。そなたが一番よく知っているであろう?」
踵を返したイルサーシャは仏頂面のまま左右のピアスを交互に弾くとユストの左斜め後ろに控えた。
慌ただしさが夜の市庁舎を取り巻いてから数分が経過しただろうか。正面の出入り口からエルスノアと思しき人物が姿を現した。深い紺色が印象深い立ち襟のドレスと髪を隠す同じ色の布を纏う女性である。彼女の様相からして豪勢な食事や贅を尽くした酒を前にご満悦の様子は感じられない。どちらかと言えば幾分申し訳なさそうである。ただ、暖房が効いた部屋から冬の外気に触れて急激な寒さを覚えたのか、いそいそと婦人用の手袋を嵌め始めていた。
こつこつと高らかな踵の響きを夜の帳に乗せてユストはエルスノアに近付く。既に周囲を取り巻く警備の兵たちはこの男がどの様な人物であるか知らしめられた。故に慌てる素振りすら見せない。
「七十二の番号を与えられた剣霊とその使い手、エルスノア協会長をお迎えにあがりました。」
公の場で名乗るのは剣霊使いとして忌むべきであり、ユストはその慣例に倣った。剣霊使いとは表立った存在にあらず、名を知られては秘匿性が低くなる。つまり剣霊使いの知られざる技が明るみに出てしまう可能性が極めて高くなる。
ユストは言葉の最後に頭を下げた。イルサーシャもユストの左後方に移動し、白地に黒の幾何学模様が走るスカートの両端を軽く摘まみ上げる。
「あなたたちが七十二の者たち…。どうぞ楽になさい。」
なるほど、確かに容姿は若かろうとも放つ雰囲気は年長者の重みを具えている。鈴を振る様な声の中にはこれまでの人生で喜びと悲しみを人一倍経験してきた者の厚みを感じ取らずにはいられなかった。エルスノアの言葉に従い、ユストは下げた頭を元の位置に戻す。彼の前に立つ女性は思慮を重ねつつある表情を作り出していた。
「それにしても何故ここに?まさか偶然にも、という事でもありますまい。」
ユストはおもむろにズボンのポケットから丁寧に折りたたんだ紙片を取り出してエルスノアに差し出した。
「これは?」
「エルスノア教会長の疑問も尤もですが、愚生たちは正規の依頼を受けております。」
婦人用の手袋を嵌めている手が淑やかに動く。文面を一通り読んだエルスノアの眉間に困惑の皺が浮き出る。グスタフ・ヴェネシュが愛してやまない表情とはこれか、とユストは眺めていた。
「あなたたちはこの手紙を誰が書いたのか存じていますか?」
「愚生たちの友人ソフィー・バグーからの依頼です。」
「いいえ。剣霊帝様の御心でしょう。ソフィーは単に認めただけに過ぎません。」
紙片を折り目に添って畳み直したエルスノアは差し出された時と逆の動作をする。ユストの左斜め後ろに立つイルサーシャと視線が交わった。
「なぁ、協会長殿。ソフィーは幼いなりに懸命に書いた文章だ。我は今の字は読めんが、文字一つ一つの気迫でそれくらい判るぞ。その点を酌んで貰わんと。」
首を突っ込みたがる質ではないが、己が知る者の事となるとついつい躍起になる。イルサーシャは彼女なりの嫌味のない微笑をエルスノアに見せた。
「その点はあなたの仰る通りですね。ただ、協会からの依頼書は目を通した後は抹消するのが規則。何故大事にしまっておいたのですか?」
「こうでもしないと、愚生たちに依頼を出されるエルスノア協会長が怪しむかもしれないと勘繰った結果です。」
「なるほど。七十二の番号を与えられた男は抜かりなくも心配性、という事でしょうか。」
「そうして今の今まで生き永らえてきました。」
確固とした言葉を放つユストを眺めるエルスノアは身体の前で重ねている手の上下を入れ替えた。
「では、あなたたちにわたしの護衛を任せましょう。ただ…わたしを迎えに来る筈の者がまだみえていないのです。」
確かにエルスノアの視線の動きはある人物を探しているとユストは感じ取っていた。無論、その人物が現れる可能性は極めて低い。未だに遠慮ない鼾を高らかに鳴らしている筈である。
「協会長殿が待ち焦がれているのは、もしや妙なにへら笑いが板に付いた運送屋の事か?名は確か…ヴィクトル・グロシェクだった様な。」
ユストは左手でイルサーシャの肩を二回叩き、頭も二回左右に振った。
「グスタフ・ヴェネシュ。つい先程まで彼は愚生たちと共におりました。エルスノア協会長をこのメツァールントまでお送りする大役を任せられたとも彼から伺いました。ただ、無事に辿り着いて安堵したのか、少し疲れが出てしまったらしく今は安静にしております。」
「あら、あなたたちとグスタフは知り合いでしたか?」
「その点もつい先程の話です。」
「わたしの周りで実はあなたたちの友人という立ち位置の者は多いのですね?」
「いやそれは少し違うぞ、協会長殿。あの運送屋は友人ではなく兄弟と言っていたが?」
再びユストの左手がイルサーシャの肩を二回叩く。今度は頭を振らずに少し強めに彼女の肩を掴んだ。
「この度ようやくエルスノア協会長に相見える機会となり、愚生の剣霊は未だ興奮冷めやらぬ状態です。どうぞご容赦下さい。」
再びユストは頭を下げた。
「構いません。それにグスタフが今何をしているのか判り安心しました。」
さて行きましょうか、と軽やかな一声と共にエルスノアは身体の正面を市庁舎へ向けた。メツァールント市街地の執政官を始めとして次官と思われる者が数名、警備の役となる兵士が十二名。彼らはエルスノアとユスト、そしてイルサーシャを順々に見ては飽くなき程にその繰り返しを行っていた。大陸全土に散らばる剣霊使いを束ねる唯一の存在、剣霊に選ばれた男、誰もが目を奪われる白銀の長い髪の剣霊という稀有な三者を前にしているのだから無理もない。
執政官に晩餐会のお礼と帰路の見送りは無用の旨を伝えたエルスノアは深々と辞儀をした。どうぞ頭をお上げください、と執政官は少々慌てふためいた様子を見せる。
「エルスノア協会長、風の湿り気が強くなりました。早々に戻りましょう。」
そう耳打ちをしたユストはメツァールントの政治を司る者たちの容貌を一瞥する。やはり知らない顔である。普段と変わらずに鼻で溜め息を吐く。長居をするつもりはないが、その方が心置きなく街を歩ける。
エルスノアが踵を返せばユストもそれに倣う。少し遅れてイルサーシャが白銀の長い髪に弧を描かせた。
エルスノアが纏う深い紺色が印象深い立ち襟のドレスと髪を隠す同じ色の布は夜の空気に溶け込んでしまったかの様に映る。焚かれたかがり火の横を通れば彼女の整った目鼻立ちが一層際立って見えた。
「少しゆっくり歩きませんか。結構速足なのですね、あなたは。」
「気付かずに失礼しました。これぐらいで宜しいでしょうか。」
エルスノアの意向に沿って歩速を緩める。善し悪しの返事はない。つまり問題ないと解釈しても構わないのであろう。
「こうも速足だといつもあなたのイルサーシャが困るでしょう?」
「いや、普段はユストと腕を絡ませて歩いている。煙草をふかしながら素っ気ない面をしているが、それなりに我に気遣っているらしいぞ。」
「あなたたちも他の剣霊と契約者と同じ様に仲が良いのですね。」
「そうしないと意思の疎通が出来ないからな。今夜もじきにそうなる。」
エルスノアは脚の動きを止めずに空を見上げた。
「なるほど。今日は新月の日でしたか…。」
エルスノアの髪を覆う深い紺色の布が心地良い衣擦れを発しようとも厚い雲はそのままである。首からぶら下がる黄金の指輪が姿が見えない星々の代わりに鈍い輝きを放っている。
「宿に戻る前に寄り道をしたいのですが。」
「どうぞ遠慮せずにご自由に。愚生たちもお供します。」
「では…ここメツァールントの外壁の外へ。」
ルケリヤを見舞おうというのか。それも剣霊協会協会長の務めの一つなのであろう。市庁舎を後にして目抜き通りを二区画進み、右に曲がればエルスノアが泊まる国営ホテルに辿り着くが、そのまま通り過ぎる。昼とは打って変わって往来が少ない。冬の空気に晒された家屋の壁面を少しでも温かな色に染めようとかがり火が煌々と焚かれている。
小規模な村や中規模の市街地とはやはり異なる。大規模な街になればなるほど硬質で冷たいものが拭えない。メツァールントも例外ではない。そして居心地が悪いとユストは感じていた。以前は街の、この国の景色に慣れ親しみ、溶け込んでいた己を歩調を変えずに顧みる。五年余りの歳月とはそこまで人間を変えてしまうものだろうか。
燃料となる薪が弾ける音の中に軽やかな蹄の響きが混ざった。既にイルサーシャは蹄の響きを察知していたらしい。危険な相手であればユストとエルスノアを制止させるなり、二人の前にせり出していたであろう。だが、変わらず後方を歩いていた。
剣霊協会認定の研師メアリー・メイイェルは一行の前で手綱を絞って黒鹿毛の牡馬に止まる様に指示を出す。左右に束ねた砂色の髪を緩やかに躍らせながら彼女は御者台から降りた。




