巡り合わせ
メツァールント市街地の立ち入り許可に要した時間は三十分程度であった。
剣霊協会協会長エルスノア。彼女の名が出た以上、無碍な扱いはされないどころか、第一級のもてなしを受けてもおかしくない。
理由はいたって簡単である。先代エルスノアの出生地であるメツァールント市街地とは中央行政府の一都市であると共に剣霊帝の庇護を受ける祝福の地と大陸中に知れ渡っている。身罷った先代に挨拶をする為だけに遠路はるばる当代が訪れたという。そして敬虔たる当代の護衛として遣わされた剣霊使いがメツァールントの正門の前に悠々と姿を現した。剣霊を実際に目の当たりにした事がなかろうとも、人間には到底不可能な涼し気な眼光の奥底から放たれる鋭さについて誰もが話を聞いている。その餌食となるのは御免被りたいと思うのは正しい選択と言えよう。
恐らく執政官の許可を得るまでもなく、そこそこの役職者の裁量に委ねられた結果と思われた。両国の関係にひびを入れる様な真似は回避するべきである、と思慮に思慮を重ねていたのだろうか。何はともあれ剣霊協会はおろか、剣霊の機嫌を損ねたとなれば後々がすこぶる面倒になる、とメツァールントの政治を司る者たちは判断したと言えた。人間とは異なる存在、剣霊に憂慮の眼差しを送られてしまうとどうなるか。彼らは考えにも及ばなかろうとも、悪い方向へ転がり込んでしまうという結果は容易く想像出来たのであろう。
無論、三十分もの間をただ茫然と鋼鉄製の正門の前で立ち竦んでいたわけではなかった。風雨に晒され続けている正門の表面を味わい深そうに眺めていたユストと、その様な彼を着かず離れずの位置で見守るイルサーシャ。怖いもの見たさに似た眼差しでイルサーシャの頭頂から爪先までを被る革製の帽子の鍔越しにちらちらと覗くグスタフ・ヴェネシュの三人に冬の淡い陽光は分け隔たりなく平等に降り注いでいた。
上品な性格の持ち主を連想させる、男ながらにすらりとした鼻梁から深い溜息を漏らしたユストはコートのポケットに入れていた両手を出し、メツァールント市街地の正門からグスタフ・ヴェネシュへ体の向きを移した。やや遅れてイルサーシャも彼女の契約者に倣えば白銀の長い髪が俄かに揺れては静かになる。
もしや己の剣霊の姿を覗き見ていた事に対する苦言を頂戴してしまうのか、とグスタフ・ヴェネシュは身体を強張らせた。何人であろうとも、たとえ剣霊の都と呼ばれるコノリギスに住まおうとも、男を自負する者にとって剣霊とは目に毒である。果たしてこの一組にその様な言い訳が通用するのか判らない。
「名は確かグスタフ・ヴェネシュ、だったな。」
剣霊の白銀の長い髪と対を成しているかの様な黒髪の剣霊使いが涼しげに一歩踏み出し、名を呼ばれた者は高鳴る鼓動と共に組んでいる腕をそのままに背筋を僅かに伸ばした。
「持っていればの話だが、一本恵んでくれないだろうか?」
ユストは己の口許で小鹿の革を用いた手袋越しの右の人差し指と中指を揃えて二三度動かした。なんだ、そんな事か、とグスタフ・ヴェネシュが胸を撫でおろしたのは言うまでもない。冬であろうとも背中を伝う一筋の汗の心地悪さをよそに彼は口を開いた。
「生憎、今の自分は煙草を嗜むのを止めたので…。」
安堵したとは言えども剣霊使いの前である。横には一切の隙を見せない剣霊が冷徹な雰囲気を醸し出していた。だが思っていたよりも普通の声で喋れるものだな、とグスタフ・ヴェネシュは己の胆力に我ながら感心していた。
「止めた?では君のコートの前身頃にある焦げ跡は?」
喫煙の素振りを見せていた二本の指先が前身頃へ投げられた。
「えぇ、三年前ですかね、ちょうど。珍しくも雪の日が一週間続いていましたから覚えていますよ。以前から協会長様に煙草は体に良くないから止めろと諭されていたのですが、あやふやにしていましてね。そうしていたら仕事の最中に火種を落として、まぁこの有り様ですわ。」
ユストに指摘されたコートの一部分を誇らしげに叩いたグスタフ・ヴェネシュはにんまりと作り笑いを見せた。一方はつられて苦笑を零すものの、もう一方は彫刻の如くを貫いている。
「そうか、それは残念だ。」
剣霊使いが再び溜め息を漏らす。言葉に違わずなんとも残念そうな横顔をするのだろうか。いやまさか、たかが煙草を持ち合わせていなかったという理由で剣霊使いの機嫌を損ねてしまったのだろうか。横に立つ剣霊はやはり彫刻の様に表情を変えずにこちらに視線を合わせている。
「ところで…。」
高過ぎず低過ぎずの声と共にユストは煙草を指に挟む機会に恵まれなかった右手を顎に添えた。
「ヴェネシュという姓はコノリギスでは多いのだろうか?」
妙な質問だ、とグスタフ・ヴェネシュは眉をひそめた。ユストは何故この様な質問をしたのかをここ最近の出来事、コノリギス出身の青年との出会いを端的に語った。カミル・ヴェネシュという名前が出た刹那、グスタフ・ヴェネシュは両目をひん剥いたと思えば、脂ぎった頬を涙で濡らしながらユストの左手を恭しく両手で握り締めていた。
「カミル・ヴェネシュは紛れもなく自分の弟です。バレンタインさん、あなたは命の恩人だ。」
ユストの左手が意味するところを知っていたとなれば、例え感情に促されるまま従ったとは言えども、グスタフ・ヴェネシュがそれを握り締める事は無かったかもしれない。無論、敵意が全く感じられず殺気が漏れていない相手に警戒心をちらつかせるユストでもない。故にグスタフ・ヴェネシュの行動を遮らずに己の左手を預けた。
「そうも感謝されると気恥ずかしいものです。」
ユストは顎に添えていた右手を使ってグスタフ・ヴェネシュの逞しい肩を二三度叩いた。もう左手を離して貰えないかと遠回しに諭したつもりであったが、その希望は叶えられそうになかった。感情に支配されたグスタフ・ヴェネシュはユストの左手の甲を己の額に擦り付けそうな勢いである。彼の気が済むまで待つかと嫌味のない微笑を零したユストは暇つぶしのつもりか、イルサーシャを一瞥する。
彼女も契約者と同じ表情を湛えていた。その珍しい光景を垣間見る機会を逃してしまったとグスタフ・ヴェネシュが気付く事は皆無であろう。
ユストとイルサーシャは是が非でもと後へ引かないグスタフ・ヴェネシュに従ってかすれた風合いが味わい深いレンガ造りのレストランの出入り口を潜った。どの市街地にも存在するごく普通の、特に気張る必要のない庶民的な食堂である。少々訳がありそうな三名だな、と周囲の客が顔をそのままに視線だけ動かして様子を伺う中、中程の真四角のテーブル席に通された。素朴な燭台を飾る蝋燭がテーブルの中心で癒しの炎を揺らめかせている。そこでの一場面である。
ほんと、バレンタインさんには何とお礼を申し上げたら良いのか。自分はかれこれ三十…あぁ、詳しい歳は酒が入ると駄目ですな。ぱっと出てこない。でもバレンタインさんも自分とそう歳は変わらないと見ていますよ。そんなあなたに自分の弟が、カミルが助けられたとなっちゃあ、おもてなしの一つや二つ、是非ともさせて下さい。どうぞ遠慮せずに、堅苦しい事は抜きで寛いで下さいよ。
なかなか良い店でしょう?自分はメツァールントに来たらまずは通うようにしている、云わばお気に入りの店ですな。故郷のコノリギスにも自分のお気に入りの店がありますが、あそこは小うるさい年増女が切り盛りしていて…。話が逸れましたな。お口に合えば良いのですが、まぁここはお好きなものをたんと召し上がってください。
で、そのカミルですが…彼は同じ両親の血を分けたというのに、どうもここの出来が自分とは違うと言うかなんと言うか。彼は頭脳明晰で何事にも計画性をもって行動に移しますし、危険な橋を渡らない男でしてね。反対に自分はというと、まぁ家業を継いだからなんて言い訳はしたくありませんが、行き当たりばったりの人生ですわ。本当は鳥の様に空を飛べたらいいな、と機械や乗り物の研究やら設計を手掛ける己の姿を小さい時から描いていたんですが、実は細かい事、特に計算や数式は苦手でしてね。いや、大雑把で面倒臭がり屋と言った方が正しいかもしれない。結果として空を飛ぶ代わりと言っちゃあなんですが、四六時中大陸に荷馬車を転がしていますよ。
ところでバレンタインさんは兄弟はいるんですかね?え、いないのですか。姉や妹もいない?自分には弟か妹がいそうに見えたんですけどね。自分と同じく兄貴の匂いってやつかね。あぁ、折角だから今日からバレンタインさんなんて他人行儀ではなく兄弟って呼ばせて貰おうかな。うん、名案だ。今さら嫌とは言わせませんよ。お互いに杯を掲げて、ぐいといきましょうや。
久しぶりに酒が喉に染み渡って…なんとも美味いものですな。もう一杯いきましょうか。おや、イルサーシャさんは飲まれない?あぁ、そうでしたな。でも最初の杯がそのままってのはどうも調子が狂うので…ここは自分がお預かりしましょう。剣霊に出された酒を頂戴するなんて一生にどれだけあることやら。勿論、兄弟が許すのであればですが…え、構わない?では遠慮なく。
なるほど、兄弟はあれですな。え、あれとは何かって、聞かなくても判っているでしょうに。常日頃から澄ました顔をしているものの、実のところ酒は得意ではないということですよ。ほお、違うとは面白い。詳しく聞きましょう。
…はぁ、血中にアルコール成分が混ざるとイルサーシャさんが嫌がる、と。つまり、兄弟よりも常日頃から澄ました顔をしているイルサーシャさんの方が酒に弱い、と。まぁまだ若いお嬢さんですから、得手不得手もありましょう。何事も、特に酒についてはこれから少しずつ鍛えていくしか仕方ありませんな。
あ、いや、そうでした。五百年以上も剣霊をされている方に若いお嬢さんなんて言ってしまって失礼しました。そう厳しいお顔をなさらないでください。折角の美人が台無しですよ。元からこういう顔だと言われちゃあ、自分は逃げ道を塞がれた様なものです。ほら、周りの客だってイルサーシャさんをチラチラ見ている。ですから少しは笑顔を見せてくださいよ。まぁ確かにイルサーシャさんの仰る通り、剣が笑っても寒気しか感じませんが、そう簡単には拝めるものではないので。兄弟も先程から煙草ばかり吸っていないで、何か一言添えてくださいよ。自分が思うに酒よりも煙草の方が血に良くないのでは…煙は吐いていて体の中には巡っていないから大丈夫と言われますか。それもどうだかなぁ。取り敢えず自分はもう一杯戴きますよ。
やはり中央で飲む酒は金が掛かるだけに味はしっかりして…あぁうめえ。これでコノリギスと同じ値段だったら最高なのだが、これ以上愚痴るのは野暮でありますな。昨日もここで食事を摂ったのかって?いやいや、昨日のちょうど今頃に到着したぐらいですわ。なんせ協会…いや、エルスノア様ときたら到着し次第、先代様のお顔を拝したいと。遠路遙々でお疲れでしょう、ここは一旦、椅子に腰掛けて食事でも摂って己の体を労らないと、とお諌めしても首を縦に振らない強情な…いやいや意思の強い女性ですからな、あの御方は。
出来ればエルスノア様にもここの酒を胃に収めて一息吐いて貰いたかっものですよ。あの御方はあぁ見えて…いや、兄弟とイルサーシャさんはエルスノア様と面識がまだありませんでしたな、こりゃ失礼。エルスノア様は女として最も花開いて、誰から見ても眩しい年頃の様相ですが、かれこれ六十年は生きているとか。
本人の気力や意思が尋常ならざるものであろうとも、流石にあぁはなりませんよ。何かしらの要因が働いているとしか思えないが、それを聞き出そうとは考えていません。知りたくないと言えば嘘ですが、あの御方が嫌な顔をされる。こう、眉間に数本の皺を寄せて、だけど、後ろめたさを滲ませてお困りの様な。自分はね、あの御方が時折見せる怒っているのが悩んでいるのか、はたまた悲しんでいるのか判らない表情が大好きでして。
ところで兄弟、なんて満足そうな顔をしてコーヒーを飲むんだい?酒よりもそっちの方が好きと言わんばかりだ。え、実際にそうだ?はぁ、間髪いれずにそう言われたら自分はなんて答えたら良いものか判りませんな。
さては…今のが七十二の番号を与えられた剣霊使いの技の一つとお見受けした。相手が怯むなりぽかんとした隙にずばっと一撃。いやいや呆れた顔して笑わないでくださいよ。自分はその様な場面に遭遇した事がありませんし、この先もないと信じているんですから。貧相な想像力で語っても許されましょうに。
おぉ、ようやく食事が並びましたな。山クジラと鹿の肉の盛り合わせにジャガイモとニンジンの付け合わせ、あとは玉葱のスープに焼きたてのパンが二つ。ありきたりのものかもしれませんが、そのありきたりってのが妙に舌と胃袋に馴染んで美味いもんで。兄弟は長旅で疲れているんでしょうから、遠慮せずに残さず召し上がって下さいよ、さっきから煙草ばっかり吸っていないで。イルサーシャさんは、まぁ、目で味わうと言うやつで勘弁してくださいな。構わない?あぁ、そう言って下さってほっとしました。自分は女性の機嫌の取り方が下手なもので。ましてや剣霊ともなると、心の臓がバクバクして背中が冷や汗で気持ち悪いのなんのって。喉もカラカラだ。そんな訳で、自分はもう一杯戴きますよ。
いやはやなんとも、少し呑み過ぎたかもしれんですわ。瞼がこうも重くなっては駄目ですな。この後、エルスノア様をお迎えに行かなきゃならないのに。何処まで、と言われても…建物の名前なんて知りませんよ、こちらとて昨日たどり着いたばかりですわ。このメツァールントの目抜通りに面した一番か二番目に大きくて、装飾がきらびやかな建物を目指せば済む話でしょうよ。あるいは自分の様な学も財産もろくすっぽないコノリギス出身者とは不釣り合いな建物とも言えますな。そんな建物の中に入ると、空気が合わないというか、反りが合わないというか、吐き気は催しませんが、気が滅入るもんです。そりゃあエルスノア様は上品な方ですから、自分と違って絵になるとは思いますよ。
そう思うと自分の様な男が横にいなくて正解だったかもしれない。認めたくありませんがね。だが、こうして兄弟とイルサーシャさんと一緒に楽しい一時を過ごせたときた。世の中の巡り合わせとは全く予測不可能で面白い。折角だ、イルサーシャさん、自分のためにもう一杯頼んでもらえますかね?剣霊の前に出された酒は頂戴した。次は剣霊が頼んでくれた酒を呑む。こんな機会はこの先、無いでしょうから。うん、やはり自分が思った通りにイルサーシャさんは視線は鋭くても優しい剣霊だ。こんな方の契約者である兄弟は誰もが果報者と思うに違いない。
いやいや、何も下心はございませんよ。お二人を見ていると…月並みな表現しかできませんが羨ましいのでしょうな、独り者の自分としては。ほう、それこそ世の中の巡り合わせだと言われますか。流石は五百年以上を知る剣霊だ、言葉の端々に感じられる重みがそんじょそこらでは足許すら及びませんな。
それはさておきイルサーシャさん、自分の酒は頼んでくれましたかな?あぁ、頼んだばかりでしたか。これは失礼。兄弟、フォークを握る手が動いておりませんよ。端っこにある野菜を突いてる様にしか見えない。もしや山クジラや鹿といった四つ足の肉が苦手でしたか。え、なに、苦手ではないが切れていない、と。ナイフで好きな大きさに切って口に運べば済むだけのことでしょうに?自分より器用そうに見えてたいそうな手間の掛かる御仁ですな、兄弟は。ならばここはもてなす側である自分が一口大に切って差し上げましょう。
なるほどねぇ。剣霊使いはナイフを使ってはいけないとは知りませんでした。己の剣霊が宿る剣以外のあらゆる刃物を握ってはならないとは。いやいや、もし握ってしまったらどうなるのか、なんて聞きはしませんよ。イルサーシャさんの端正なお顔に、ほら、好ましくない皺を刻んでしまいますから。言わなくても自分には判りますよ。危険回避能力ってやつですかね。
イルサーシャさん、まだ酒は来ませんか。本当に頼んでくれたのでしょうね?注文の品が遅いのは店が繁盛しているからだ、なんて宥められましてもなぁ。まぁ良いですわ、酒が来るまで肘を突いて楽な格好をさせて貰いますので。見て下さいよ、このテーブルの味わい深さ。何処の誰だか判らないほどの客がこうして肘を突いては会話に華を咲かせて唾を飛ばし、酔いどれたちの手の脂をさんざん沁み込ませた明る過ぎず暗過ぎずの表面。樹齢は如何ほどでしょうな。実はイルサーシャさんより月日の流れを知っているかもしれん。
さて、酒を待つのは自分の定め、出された料理を食うのは兄弟の仕事、それを見守るのは剣霊の義務、てね。確かに周りが賑やかになってきましたが、それぞれの役目をきちんと果たしましょうや…。
寝たか、と右の二本の指に煙草を挟んでいるユストの言葉にイルサーシャは頷いて応えた。
「酒によるものだと思うが、このグスタフ・ヴェネシュと言う男はまぁ上機嫌でこの上なくよく喋っていたな。」
左右の横髪を交互に耳に掛けながらイルサーシャが毒吐く。ユストは二杯目の珈琲で喉を潤しつつ短い苦笑を漏らした。
「いろいろと溜まっていたものを吐き出す機会だったのだろうね、彼にとって。」
「そう言われてもなぁ。」
イルサーシャが呆れた眼差し送る。その先でグスタフ・ヴェネシュは彼が言うところの味わい深いテーブルの端でうつ伏せて高らかな鼾をかいていた。
「そもそも初対面の相手にあぁまでも矢継ぎ早に喋るものか。我は解せんぞ?」
「追剥ぎから弟を助けたからな、我々は。」
「その時の我は剣体だった。何もしとらん。」
「加えて剣霊を目の前にして共に酒を飲むという行為に緊張の極みであったとか。」
「緊張していたから舌がよく回りました、とは都合の良い性格だな。」
「ともかく君の言う通り初対面であろうとも、彼は感謝の気持ちを如何に表そうかと努めていただけだよ。」
一口大に切られた山クジラの肉に銀製のフォークを突き刺したユストは己の口に運んだ。早々に血抜きが行われたのであろう、臭みがない。加えてある程度の日数を寝かして熟成させたのか、柔らかな食感を楽しめる。満足げなユストはイルサーシャの視線を気にせずに更に二切れ食べた。
「そなたのそうも美味そうな素振りを見るのは久々だ。」
「なんだかんだ言っても愚生にとって祖国だからな、ここは。祖国の空気と水による料理と珈琲、そしてようやくの煙草を堪能して顔がほころぶもの無理ないだろう?」
「別に悪いとは言っておらん。そうだな、名前は忘れたが三年前に西の山奥の市街地で出されたスープをそなたが絶賛していた時と同じ顔をしているぞ。」
「あぁ、あの時か。具は玉葱と卵といった簡素な代物だったが、中央と同じ味付けだったからだろうね。」
「ふうん。我は料理とは無縁だからさっぱり判らんが。それよりもだ…。」
「百年香だろう?ここに連れてこられる前に煙草と一緒に買ったから安心しなよ。」
「我も早く寛ぎたいのだが。」
「この場で香を焚くのは、ちょっとね。もう少し我慢してくれないか。」
「嫌だ。」
「そう我儘を言うなよ。」
「我ではない。こ奴らの文句を代弁したに過ぎん。」
イルサーシャはゆったりとした動作と共に左右のピアスを交互に剣霊らしいか細い指を使って弾いた。
「そなたたち人間は酒を飲んだり煙草を咥えていれば簡単に寛げるのだから楽なものだな。」
端整な横顔に不機嫌な様相を浮かべつつあるイルサーシャの前にグラスが一つ置かれた。酩酊の一歩手前の状態であるグスタフ・ヴェネシュがまだかと騒いでいた注文の品がようやく運ばれたのである。
店側もイルサーシャと言う存在がただの女ではないと察しているのだろう、たかだか水の注文を誰が運ぶのか従業員の間で押し付けあっていた。ただでさえ提供するのに必要以上の時間を要している。結局のところ、小綺麗な格好をした支配人らしき男がその気まずい役目を擦り付けられてしまったらしい。お待たせしました、と語る声が少し震えている。動揺が見え隠れしていた。
イルサーシャはふんと鼻を鳴らし、目の前のグラスをグスタフ・ヴェネシュのうつ伏せた顔に向けてゆっくりとずらす。剣霊にとって中身の入ったグラスを動かすのにどれだけの力が籠められるのかを知らずに高らかな鼾は未だに続いている。
良かった、剣霊の機嫌を損ねていない。その様に安堵したのか、支配人らしき男が一歩下がってお辞儀をする。頃合いを見計らったかの様にユストが声を掛けた。
「そろそろ我々はおいとまさせて貰うが、兄弟がこの有り様でね。閉店までの間、このまま放っておいて貰いたいのだが。」
言葉の最後に味わい深いテーブルの端に西部の金貨が一枚置かれた。食事代と酩酊している者が席を独占し続ける事に対する対価であろう。是非の言葉を待たずにしてユストが立ち上がればイルサーシャも彼に倣う。
「兄弟が目を覚ましたら先にお迎えに向かったと伝えて欲しい。そう言えば彼は判るからそれまでそっとしておいてくれ。」
それまで脱いでいた黒いコートの袖に腕を通せば、イルサーシャのか細い手が絡み付く。まるでこの時を待っていたかの様な剣霊の動作に支配人らしき男は見とれたのか、口を結ばずに呆然と立ち、大枚をはたいた客の見送りを忘れてしまった。
西部の金貨の表面は燭台の明かりに反応して鈍い輝きを発し、その燭台を彩る炎はグスタフ・ヴェネシュの鼾に呼応しているかの様に揺れていた。
既に日没を迎えてから数時間は経過している。吹く風に幾許かの湿り気が感じられた。天気が崩れると晒された頬で知ったユストは白い息を吐きながら天を仰ぐ。雨か雪が降るであろう。この時期ならその両方が考えられる。イルサーシャを濡らす訳にはいかない。北部から中央へ移り、結わずに済む白銀の長い髪を思う存分に風に靡かせたいところだが少し我慢しろ、と赤紫色のケープをきちんと被るように伝える。だが、何食わぬ顔のイルサーシャは首を縦に振らなかった。
「君の気持ちも判らない事もないが…。」
またいつもの様に彼女の我儘が始まったと悟ったユストは特に感情を込めずに、そう語った。
「我はなぁ、昼夜問わずにこうも賑やかな場所は好かんぞ。」
やけに遠回しな表現をイルサーシャは用いた。流石に中央の北の玄関と謳われるメツァールント市街地であろうとも暗くなれば往来は格段に減少する。その代わりではないが、煌々と焚かれたかがり火が一定の間隔で寒々とした街路に細やかな彩りを添えている。ただし長い白銀の髪には怪しげな輝きを与えていた。
「つまり君は何が言いたい?」
「狙われているぞ、そなた。」
それまでユストの斜め前を歩いていたイルサーシャは歩速を緩め、斜め後ろに移動した。こちらを狙う相手は背後から襲うつもりだろう。
「複数か?」
ユストは歩く脚を止めない。止めた時こそ戦いの始まりである。だが、今はその時点に至っていない。相手の情報が少ないからだ。
「気配は一つ。手にする得物は…短剣の部類の様だな。」
「何時からつけられている?」
「先程のレストランを出た直後だ。恐らくだが、出際に払った余計な金を見て、そなたの懐を狙っているのかもしれん。」
なるほど、傍から見れば手ぶらであり、しかも女連れである。強請るにはもってこいの存在に映ったという事か。
「今から協会長様を出迎える身だ。野暮な騒ぎは御免被りたいものだが、そうはいかないだろうな。」
「あぁ。絶妙な具合で距離を縮めてきているぞ、相手は。」
「君の従者のどちらかを使って巧く撒けないか?」
「無理だな。先程のそなたの対応でご機嫌斜めだ。しかも今日は新月の日、そなたの血を普段の倍以上の量を与えようとも言う事は利かんだろうな。」
「ならばいたしかたない。君が少し脅かしてやれ。」
そうだな、と情がこもっていない返事をしたイルサーシャと彼女の対応を判りきっていた様に頷いたユストは歩く速度を緩めた。
脅かすとは剣霊の殺気を相手に当てろという意味である。常人であれば生ある全てを切り裂く存在たる剣霊が放つ、剥き出しの闘志の前に自ずと怯んでしまうものである。肌が身の危険を知らせ、脳があらゆる思考よりも生存本能を最大限に優先させる。つまり四股は硬直し、戦意喪失の状態に陥いる。その間にやり過ごしてしまおうというのがユストの考えである。
イルサーシャは左右の五指を揃え、趣深い双眸を細めた。切れ長の目尻が更に長くなる。まだ見ぬ相手の気配が薄れた。新月の日であるが故に霊力が減少しようとも効果はあったのか。かがり火に照らされた前を歩くユストの影が石造りによる家屋の壁まで伸びている。そして細長い影が追従していた。
剣霊は霊体時に於いて影を持たない。厳密には実の姿である一振りの剣であれば影が出来る。だがユストの影の後ろを追うのは紛れもなく人間のそれである。イルサーシャが目を見開くと同時に細長い影が色濃くなった。まだ見ぬ相手はイルサーシャの殺気をものとせず、更に己の気配を消して距離を縮めていたのだ。
戦いに慣れた者に違いないと察し、戦いを避けられないとイルサーシャは意を決した。ユストに声を掛ける間もなくまだ見ぬ相手が近付く。振り向きざまの一撃が届く位置に脚を踏み入れた時に決着をつけんとイルサーシャは左の五指を揃え直す。繰り出すのは斬撃か刺突撃のどちらにするべきか。彼女が最も得意とするのは刺突撃である。ただ、この一撃は大技でもある。振り向きざまに放つには挙動が安定しない。ここは素早く真横に薙ぐべきか。
意識を集中させている背中がまだ見ぬ相手の気配を強く感じ取った。まだ見ぬ相手が飛び込んで一気に距離を縮めてきた。
止む無し。
この言葉が脳裏を掠めると共に互いの殺気がぶつかり合う。左の腕を引きながらイルサーシャは振り向き、まだ見ぬ相手はさらに飛び込んではイルサーシャの左手を目掛けて手にする得物をかざした。刃を向けずに握る柄を離し、イルサーシャの揃えた五指と平行になるように押し付ける。つまり刺突撃を繰り出そうにも繰り出せない状況へ持ち込まれてしまった。力任せに刺突撃を出そうとしても剣霊と人間の腕の力は比べるものではない。
我の一撃を止めるとは何たる技か、と感嘆と焦燥に全てを占められたイルサーシャの見開いた双眸は五指の先の短剣の柄を捉えていた。女の立像が彫刻として施されている。この柄をイルサーシャは知っている。そしてこの剣霊が宿る短剣を握れる者はただ独り。ぐいと短剣の柄で押されて身体の平衡を崩したイルサーシャがよろめく。
灰色のケープを身に纏い、フードを深々と被る相手はイルサーシャをよそに既に次の標的であるユストに一撃を繰り出そうと拳を握る。してやられた。飛び込んだ体制のまま攻撃に移っている以上、声を掛けようにも既に遅い。状況を見守る事しか出来ないイルサーシャが苦々しい表情を作る中、鈍い音が短く響いた。
拳がユストの体を打った音ではなかった。身を翻したユストが一歩前に踏み込み、不意打ちを喰らわそうとした相手を抱き込んだ際の衝撃音であった。そのはずみで灰色のフードがはらりと外れる。脳天付近で一つに纏められている濃淡のある赤い髪がメツァールントの夜を彩るかがり火よりも鮮やかに映えた。
「君は…ユラン・エレエか?」
背後から繰り出さんとしていた拳を脇で挟み込んでいたユストはユラン・エレエの特徴たる髪を一瞥しようとも力を抜こうとはしなかった。彼女の戦意が完全に消え失せるまで油断は禁物であると数多の戦いから得た勘が己の中でそう囁いていたからである。
「祖国に戻って呆けていると思っていたがちゃんと覚えていたか。それよりも貴様、わたしを無理矢理抱き込んだりして己の剣霊では満足してないのか?」
「短剣相手にはこれが一番効く。間合いを得意とする相手の裏をかいただけだ。」
「それはどうかな?」
ユラン・エレエは脇に抱えられて動きを封じ込められていない側の腕を動かした。彼女が契約を結んだ呪縛の剣霊ラファエラの妖しい薄紫色の切先がユストの背中に触れる。同時にユラン・エレエの女らしさの一端を担う項に冷たいものが走った。イルサーシャの指に他ならない。
「そなた、我の一撃を見抜いてあの様な大それた事をしたのか?我が人間であったら突き指どころでは済まなかったぞ?」
「あぁ、見抜いていたさ。わたしではなくラファエラが、だがな。」
「なるほど。彼女は先読みが得意だったな。ところで愚生はこのままの態勢で君と夜明けまで付き合うつもりはないのだが。」
「わたしとて貴様如きに抱きつかれたまま時間を過ごすのは今生の恥だ。」
語気を荒げようと淡々と語ろうと、女であろうと男であろうと吐く息は共に白い。深夜になれば更に冷え込むであろう。
「君の気の利いた御挨拶はきちんと受け取った。それでどうだ?」
「普段は無口な男が新月の日になった途端、良く喋るな。」
「その件に関して否定はしないよ。」
己に向けた憫笑をふとを漏らしたユストはユラン・エレエを抱く腕の力を抜き、ユラン・エレエもラファエラの剣体を握る手を楽にする。イルサーシャもほぼ同時に狙いを定めていたユラン・エレエの項から指を離した。
殺気をぶつけ合う時間は終わった。何事もなかったかの様にユラン・エレエはラファエラの剣体を己の懐に仕舞い込む。ケープの隙間から覗いた彼女の胸許を覆う協会支給のスカーフが柔らかな皺を形成する。一方のユストもおもむろに煙草を咥えてはマッチを擦り、安らぎの時間を楽しもうとしていた。
「ところで、クラウディアはどうした?」
左の指先を詰りながらイルサーシャが口を開く。灰色のケープは無駄を省いた女の曲線を描いていた。その中にラファエラの姉たる直剣を忍ばせているとは思えない。
「今回は王都で留守番だ。イゼリアーシェ様の話し相手として、剣技の相手としてつつがなく励めと言い聞かせたが、彼女は卒なくこなしているだろうな。」
「我が思うに、それではラファエラと離れ離れで文句たらたらではないのか?」
「中央の状況を偵察しに来ただけだ。そう長い間でもないとも伝えてある。」
ユラン・エレエは街路の端へ歩み、壁に背を預けて腕を組むと手短に偵察の趣旨を話した。一か月ほど後に北部王立国家と中央行政府の間で友好条約締結の記念式典が首都ゲルハルステンで行われるという。無論、その式典は今後の政治的な取り決めの協議の場でもある。北部としては宰相以下、政治に携わる臣下が数名遣わせられるその中に王女殿下の御名も連ねていた。
「やんごとなき人物に万が一の事があってはならない、と。用意周到だな。だが…。」
ユストの視線がある方向へ動いた。
「判っている。貴様、北部の王位を継ぐイゼリアーシェ様を敬うのであればそれ以上言うな。」
ユラン・エレエもユストに倣って視線をある方角に投げた。メツァールント市街地の外壁、しかも鋼鉄製の正門がある位置に他ならない。
「あれは紛れもなくリストメクの住人たちだ。」
彼女にしては珍しく溜め息に似た深い呼吸を一つ放った。
「幼子を除いた女は皆して髪を結わいている。あの様な状況であろうとも国の風習を守っている姿に愚生は感心したよ。」
「貴様、その言い草だと何が原因でこの様な事態になってしまったのか知っているな?」
「これはあくまでも仮説に過ぎないが…。」
今度はユストがこれまでの経緯を掻い摘んで話した。リストメク市街地までの道程で出会った剣霊とその契約者、やがて辿り着いたリストメク市街地の惨状、メツァールント市街地へ向かう最中で目についた墓標。その墓標の裏に刻まれていた文字について。最後にメイイェルの研師と共にこのメツァールントの地を踏んでから半日も過ぎていない事も付け加えた。
「意思の疎通が図れる邪剣霊とは突拍子もない事を。」
「だが、時として異なる視点で相手を捉えるのも必要だと愚生は思うが。」
「それはともかくメイイェルの研師か。貴様も彼女に仕事の依頼をしたのか?」
「無論だ。ただ先客がいるようでね。」
「時期を逃したか。貴様ら、運が悪かったな。」
煙を吐いたのか、単に息を吐いただけなのか、咥え煙草のユストの言葉が白い息と共に夜の空にかき消えた。
「あぁ。何時になれば彼女の番になるのかは正直なところ判らない。」
「クラウディアとラファエラの場合、それぞれ二日を要したが。」
「先客とは外壁の隅で横になっていた剣霊だ。君も彼女、ルケリヤに会って会話を交わしたのか?」
ユラン・エレエはユストの意図を理解したらしい。一度頷いた後に頭を振った。
「ラファエラにあの折れた剣霊を見せて動揺させてはならないとわたしは判断した。」
「恐らく例の墓標に文字を刻んだのはルケリヤだ。つまり彼女の契約者がその下で眠りに就いている。」
「だが、誰が地を掘り返して契約者の遺体を埋めた?あの剣霊には到底無理だ。」
「労働力ならごまんといる。たとえ切先が折れていようとも追手の邪剣霊に唯一対抗できる手段の切なる願いだ。断って機嫌を損ねるのは得策ではないと考えるだろうね。」
「北の人間の剣霊嫌いはもはや伝統だとわたしは見ているが。既に事切れた契約者はその場で放棄させられたかもしれないぞ?」
「そうであろうとも墓は必要だ。残された者が死者を慈しむ拠り所としてな。」
「下手を打ったか、そのルケリヤとやらの契約者は。」
「同業者の死がその一言で片付くとは思いたくないが、否めないな。」
「そもそも貴様らこそ何故ここに足を運んだ?」
ユラン・エレエは背を壁に預けたまま組んでいる腕を入れ替えた。睨め付ける眼差しは相変わらずだが、敵意を示す様子は感じられない。
「愚生たちはとある人物の護衛だ。」
「護衛か。貴様らには似合わない任務じゃないか?」
「そうだとしても未来の協会長様から仰せつかったからな。慎んで拝命するしかあるまい。」
ユストの遠回しな表現にユラン・エレエは眉をひそめたが、それもほんの僅かな時間である。
「つまり、とある人物とは当代の協会長様、という訳か。直ぐに頭に血がのぼる剣霊と呑気な契約者で役目が務まるかの疑問だ、わたしには。」
今度は黙って人間同士の話に耳を傾けているイルサーシャが表情に変化を与えられる番であった。だが呑気な契約者は彼女の肩に手を置いて短い苦笑を零すと共に煙草の先端にじりじりと音を立てさせた。
「だが、愚生たちはこれまでの五年余りを死なずに済んでいる。それに対する評価だと思うがね。」
数多の死線を潜り抜けた者の言葉に偽りはない。吐く言葉と共に流れる煙草の煙を一瞥したユラン・エレエは否定も肯定もしなかった。
「今から協会長様をお迎えに上がるが、君も一緒に来るか?」
「わたしにはわたしのやるべき事がある。」
「だろうな。」
「そもそも貴様と仲睦まじく並んでなんて、洒落にもならない絵の一部になろうとは思わん。」
ユラン・エレエは道を空けろと言わんばかりに右手で何かを払い退ける動作をした。
「そうだな。確かに呑気な男の台詞だったと後悔しているよ。」
いつもながらに鼻から溜め息を漏らしたユストは残り少なくなった煙草を投げ捨て、羽織る黒いコートの裾に短い軌跡を描かせた。
「貴様、わたしに対して簡単に後ろを見せて良いのか?」
「君もこれ以上やり合うつもりは無いだろう?」
「あぁ。ただ…ひとつ気になる事がある。」
濃淡のある赤い髪の先端が揺れたと思えば彼女は既にイルサーシャの真横に立っていた。ユラン・エレエは首を傾げ、イルサーシャの耳許に双剣を自在に操る女剣士の美貌の一翼を担う端麗な口を近付けた。
「新月の日とは言え、どうも調子が出ていないようだな?」
「それは…単にそなたの思い込みに過ぎんよ。」
「強がっても無駄だ。わたしには判る。」
口調は相変わらずではあるが、ユラン・エレエからユストと話している際の険しい雰囲気が微塵も感じられない。顔を覗き込まなくても知己を労わる柔らかな女の表情を自然と作り上げている事をイルサーシャは理解していた。
「実は今の我は…。」
果たして己の状態を口外しても良いのかと不安に思う中、マッチを擦る音が白銀の長い髪の中に隠れている形の整った耳に滑り込んだ。剣霊の超感覚が減衰していようとも、ユストが振り向いた様子は感じ取っていない。女同士の会話に口を挟むつもりはないという彼なりの意思の表れであろうとイルサーシャは汲み取った。
「髪の通りが悪くてな。」
やや気恥ずかしそうなイルサーシャの言葉をユラン・エレエは理解したらしい。柔らかな女の表情に変化は見られなかった。
「メイイェルの研師が貴様を最良な状態に戻してくれる。案ずる必要はない。彼女は若いが、腕は一流だ。」
「そう願っているが、我はユスト以外の者に剣体を見られるのは百歩譲って我慢するとしても、触られるのは気が引けるのだ。」
「男を知らない女の様なことを。」
「悪いか。」
「貴様らしくないと言っている。クラウディアとラファエラの場合、どちらが先に研いで貰うか掴み合いの喧嘩をしたぐらいだぞ?」
当時を思い返したのか、ユラン・エレエは短い微笑を零した。右手の甲でイルサーシャの鎖骨辺りを軽く打つ。契約者でなかろうとも服の上ならば、晒された肌に触れなければ傷を負わないと熟知している者の行動であった。
「次に会う時には万全にしておけ。」
ユラン・エレエは羽織る灰色のケープを翻した。しなやかな身のこなしと共に脳天近くで一つに纏めた濃淡のある赤い髪が馬の尾の様に揺れる姿をイルサーシャは眺めていた。
「終わったか?」
頃合いを見計らったかの様にユストが声を掛ける。あぁ、とイルサーシャは視線を動かさずに虚ろ気な返事をする。
ユラン・エレエの姿は宵闇に映る石造りの建造物たちと既に同化して探せない。




