メツァールント外壁
登山は登りよりも下りの方が危険だと言われている。
なにも登山だけの話ではない。言い換えれば往路よりも復路の方が面倒この上ないとは運送業を営むグスタフ・ヴェネシュの持論である。
往路に関しては積み荷を丁寧に扱わなければならないのだから必要以上に緊張するが、復路は空荷の場合が多々ある。空荷となると、どうもあれこれと雑念が働いて手綱捌きが疎かになる。流石に崖から転落する様な失態は起こしていないが、指折り数えられる程度の経路の間違いは苦い記憶としてなかなか拭えないでいた。
では今回は如何なものかと思い浮かべながらメツァールント市街地を独り歩く。本人の前では決して口に出せないが、往路も復路もエルスノアという積み荷がある。往路はそれなりの紆余曲折が生じたものの、ひたすら目的地を目指して進んだ故にからくも結果は残せた。
復路も同じ様に事が運ぶだろうか。まずエルスノアの心境ががらりと変化をきたしていると容易く想像がつく。こちらとしては心の内側を幾つか晒し合った仲ではあるが、重い空気と共にコノリギスへ戻らなければならないであろう。
やはり己の持論は正しい。しかもこの持論に楔を打ち込む機会にはそうそう恵まれそうもないとも確信しつつある。
「いつ来ても人の多い事で。」
誰に聞かせる訳でもなく、ぽつりと言葉が出る。グスタフ・ヴェネシュの独り言に違わず目抜通りは往来が多い。洗練された中央と言われるだけに、首都たるゲルハルステンではなかろうとも、薄汚れた格好をした者など見当たらない。幾度かこの街に足を踏み入れているが、毎回その様に思い、自ずと人気のない場所へと足を向けてしまう。肩が当たっただけで、強いては話し掛けただけで金銭を要求される、とこの国に住まわない者たちの間で風評がまかり通っているからだ。
復路か、とグスタフ・ヴェネシュは反芻した。今、彼の横にエルスノアはいない。ある人物と面会の最中である。その者の肩書きを聞いてもちっとも頭に入らなかったが、このメツァールント市街地の、ひいては中央行政府のお偉いさんには違いなかろう。
恐らく夕食もしくは晩餐会まで付き合わされる見込みだとエルスノアは語った。グスタフ、あなたもやるべき事があるでしょう、とも彼女に促された。放棄した荷馬車の代わりを探す時間に費やせという意味であろう。彼女の言葉は正鵠を射ている。往路の為に、無事にコノリギスに戻り、これまでと変わらぬ日常を過ごす為にも代わりの荷馬車を手にいれなければならない。だからこうして独りメツァールントの街を右往左往している。だが今のところ代々受け継がれた荷馬車と同等な働きをする品は見つかっていない。そう易々と事が運ぶものかと薄々感じていようとも探すしかないのか。
少し考え過ぎではないのかい。そう腹の虫が教えてくれる。なるほど、時間もちょうど良い。グスタフ・ヴェネシュは暇にしている腕を組みながら軽食が摂れそうな目ぼしい店を探す。やはり目抜通りに出ないと駄目か、と被る帽子の鍔をぐいと押し下げて不本意な道へ爪先を向けた。
柔らかな笑顔が板についた中年の女性が営む露店で肉と野菜を詰め込んだパンを二つ買った。今朝方に捌いた鶏肉らしい。そういえばミレーヌは相変わらずだろうかと顔馴染みの店の味を思い浮かべながら、決して安くはないが、そこまで高くはない代金を両替済みの貨幣で支払う。ここ中央行政府の各市街地に於いては他国の通貨による支払いは二割増しになるのが通例である。
「あんた、あれかい?昨日の夕暮れにやって来た剣霊協会の人だろ?」
中年の女性の言葉にグスタフ・ヴェネシュはそうだ、と端的に答えた。
「普段見かけない顔だからと思ったけど、やはりね。」
「良く知っているな?」
「そりゃあんたもう、この街は剣霊協会と縁があるからねぇ。」
「ふうん。」
「ところでお連れさんはどうしたんだい?」
「厳密には運送屋だよ、自分は。今回はきょ…いや、そのお連れさんをお運びしたに過ぎんよ。」
「へぇ?あたしゃ上品な別嬪さんがなんだか野暮ったい男を従えてやってきたと聞いていたんだけどね。あんた、お供じゃないのかい。」
残念そうな表情を中年女性は手を休めずに晒した。無論、グスタフ・ヴェネシュも同じく残念そうな表情を作り上げていた。
「お供だったら独りぶらぶらしていないさ。ところで早速こいつを腹に納めたいのだが。」
グスタフ・ヴェネシュは手にする食料を己の髭面まで持ち上げた。
「この街は路上での飲食は罰金対象だよ。」
「知っている。二年前にたんと持っていかれた。だから聞いているんだ。」
「ここで食べていきなよ、と言いたいところだけど、他のお客さんの迷惑なっちゃうからねぇ。」
残念そうな表情が今度は思案顔に変わった。女らしい眉がほんの少し持ち上がっただけで、がらりと雰囲気が変わるものである。
「大人しく宿に戻るか、或いは…。」
はたと気付いたのか、中年の女性は途中で口をつぐんだ。
「或いは、の先を教えてくれよ。」
「外壁の向こう側って言おうと思ったのさ。」
なるほど、その場所であれば誰かに咎められる事なく腹ごなしが出来る。メツァールントに住まう者たちにとって建造物だらけの世界から大自然の景色を愛でられる憩いの場であり、よそ者たるグスタフ・ヴェネシュにとっても心和む一時を与えてくれよう。
だが、今は違う。リストメクから逃亡してきた者たちで溢れかえっている。昨夕に出会った母子の様子からして決して良い待遇を受けているとは思えない。その様な者たちの前でのうのうと食事をするのは如何なものか、と中年の女性は良識を働かせたのであろう。
「そうだよなぁ…。」
グスタフ・ヴェネシュは空いている側の指数本を使って顎先を詰る。彼はリストメクから逃亡してきた者たちの中で唯一の存在の顔と柴色が特徴の髪を思い浮かべていた。
「やはり宿に帰るのが無難だとあたしは思うよ。」
「いや、やっぱり外壁の向こう側で腹ごしらえをするわ。」
有難うな、と別れ言葉と共に露店から去ろうとするグスタフ・ヴェネシュの肩に中年の女性の手が伸びた。止めておけと釘を刺されるのか。
「相談に乗ってあげたんだ。お連れさんの分だと思ってもう一つ買っていきなよ。」
嫌味とは無縁の笑顔を前にグスタフ・ヴェネシュは抵抗する術を知らないが、渋々という訳でもなく追加代金を支払い、その場を去った。ルケリヤに己の血を再び与えるのであれば、栄養は少しでも摂っていた方がこの上ないからである。
急ぐ事もなく、のんびりとする事もなく、グスタフ・ヴェネシュは整然と並べられた石畳を歩く。数多の靴なり蹄鉄、車輪がこの上を過ぎようとも、欠けている部分は見当たらない。多少の汚れは否めないが、それも生活の彩の一つと言えよう。煉瓦造りと石造りの家屋が素材によるものか、ところどころ異なる色合いを晒しているのと同様である。
二十分ほど歩いただろうか。生活の彩に添えられていたお情け程度の植栽が視界から消えた。鋼鉄製の門が荘厳とは如何なるべきかを問い掛けている。こざっぱりした詰所から門番たる兵が槍を片手に面倒くさそうに姿を現した。
「田舎者の自分としては、ちと外の空気を吸いたくて。」
革製のコートの裏ポケットからあらかじめ出しておいた査証を門番たる兵に見せながらグスタフ・ヴェネシュは作り笑顔を浮かべた。よそ者が目の前で懐に手を入れると警戒されるのは度重なる国境通過の際に学んでいる。
「あぁ、あんた昨日の剣霊協会の…。」
灰色の軍服を身に纏う門番たる兵が査証とグスタフ・ヴェネシュの顔を交互に見ながら言葉を続けた。
「ところでご婦人は?」
メツァールントに住まう者たちの全てが自分ではない方に関心があるのをグスタフ・ヴェネシュは理解している。しかし、こうも道行く先々で同じ台詞を聞かされて、辟易を覚えているのも確かである。
「きょ…いや、エルスノア様はこの街のお偉いさんとお話の最中ですよ。」
「ほう、ご婦人の名はエルスノア、というのか。」
本当の名前は違うんだけどな、とグスタフ・ヴェネシュは優越感に浸る。作り笑いを構成する口角が不自然に持ち上がった。
「ここで君に会ったのは何かの縁だと思って聞くが…。」
門番たる兵は右手に持つ槍の石突で石畳の表面を軽く小突いて軽快な音を響かせた。
「剣霊の契約者ってやつはどうしたらなれるんだ?」
そうきたか。だが何と答えるべきか判らない。グスタフ・ヴェネシュの表情から作り笑いは薄れ、困惑の色を差した。
「さて、そればかりはどうも…。」
「なんだ、知らんのか。」
「自分は剣霊協会の出入り業者に過ぎんので。」
「でも剣霊の契約者を見たり、あわよくば話したりした事ぐらいはあるだろう?」
えぇまぁ、と曖昧な返事をする。再び石突が石畳を打つ。恐らく実戦では使われていないであろう真新しい穂先が冬の陽光を柔らかに跳ね返していた。
「自分が知っている事と言えば、剣霊は契約者が他の剣…剣ではなくても剃刀や鋏などの刃物すら握るのを大変嫌う、という事ぐらいですね。」
「それは初耳だ。だが、契約者にとってそんな機会があるのかどうか小生には想像がつかないのだが。」
「と言いますと?」
「剣霊が宿る剣とは強力な魔力を帯びた存在と聞かされている。折れもしなければ刃が欠ける様な醜態とは無縁とも言われている。簡単に折れて使い物にならなくなる剣をわざわざ使う理由はないだろう?」
門番たる兵は外壁の外で伏せているルケリヤについて知らないのであろう。だからその様な軽口を叩けるのだとグスタフ・ヴェネシュは思った。そしてその軽口に対して憤りを覚える己に戸惑いが生じた。自分にとってルケリヤとは何なのだろうか、と。己の血を僅かながらにも与えて情が芽生えたのか。剣霊としての生涯に終焉を迎えようとしている彼女に対する憐みか。あの柴色の髪と瞳が脳裏を駆け巡る。エルスノアの姿を思い浮かべようとも、傷付いた剣霊の姿がこびりついた様に拭いきれない。
「おい君、聞いているのか?」
やや張り上げた門番たる兵の声にグスタフ・ヴェネシュは思慮の世界から引き摺り戻された。
「今はリストメクの者たちが押し寄せている為に簡単に門を開けられない、と小生は言ったのだ。」
「ではどうしたら開けられるのでしょうか?」
「簡単に、と言っただろう?それ以上は小生の口からは言えん。」
そらきた。いつもの展開か、とグスタフ・ヴェネシュはコートのポケットに手を入れ、何かを物色している素振りを見せる。門番たる兵はもぞもぞと動く様子を一瞥してはあらぬ方向へ視線をやる。
「これでなんとか開けられるでしょうか?」
掌の上で鈍く輝く中央の銅貨二枚を見せ、門番たる兵の胸ポケットに入れる。その脇では階級章が誇らしげに佇んでいるが、グスタフ・ヴェネシュには識別は出来なかった。
「一時間だ。一時間で戻ってこい。」
「好きな時に、いう訳にはいきませんかね?」
更に銀貨を一枚、胸ポケットに入れる。門番たる兵の右腕が動いた。石突を軸にして槍の穂先が鋼鉄製の扉へ傾く。行け、と示唆しているのであろう。どうも、と一言添えてグスタフ・ヴェネシュは被る革製の帽子の鍔を下へ押しやり、歩み始めた。
「遅くても日没の鐘が鳴る時には戻ってくるんだぞ。小生の交代の時間だからな。」
食料を持っていない側の手を挙げて門番たる兵に応える。些か足取りが軽快なのは気のせいか。
外の世界とは大袈裟な表現である。しかし、市街地内の様子とは掛け離れた景色が広がっているのも事実である。
まるで避難民の巣窟を思わせ、昨日と全く変わらない有り様にグスタフ・ヴェネシュは遠くを見つめる様な眼差しと共にやるせない溜め息を漏らした。
普段であればこの市街地が彼らリストメクの住人たちを拒む理由は何だろうか、と物思いに耽るものだが、今は違う。変わらずに昨日の場所で横になっているのか不安と憂慮を抱きながら柴色の髪を持つ剣霊が伏している場所へ向けて歩む。
簡易テントの下では子供たちが群れを成して遊んでいる。大人たちは日々の生活に勤しむか、怠惰を貪るかのどちらかである。水や食料などの取り敢えずの生活の必需品は支給されているらしい。脇目も振らずに歩くグスタフ・ヴェネシュは声を掛けられた。痩せ細った皺だらけの老人がこっちに来いと、支給された酒瓶を持ち上げて見せている。老人は笑っているのか素の表情なのか。少なくとも冬の陽光の下では機嫌が良さそうに見えた。
自分は酒がからっきし駄目なんで、と心にもない嘘を緩やかな風に乗せ、その場を後にする。鋼鉄製の正門から最も離れた外壁部は人の気配が薄れ、空の木箱や瓶が散見される残材置き場と思われる箇所となる。空気は乾燥しているが、雰囲気は薄暗く湿っている。その中心ではルケリヤが昨日と変わらぬ姿勢で伏していた。
剣霊と知ってなのだろうか、彼女には見張りの兵が付いている。昨日と同じ兵である。些細な言動に目を光らせて、には程遠いが、一応職務を全うするつもりらしい。見張りの兵は簡易テントの支柱に寄り掛からずに直立の姿勢を維持している。何故なら素早く剣を抜く為に、とグスタフ・ヴェネシュが理解していたのかは判らない。
グスタフ・ヴェネシュは被る帽子を脱いで胸に当て、見張りの兵の前で軽く頭を下げた。またお前か、という顔を刹那に見せたものの、見張りの兵は口を結んだままであった。
剣霊協会の使いでございます、とグスタフ・ヴェネシュは彼なりに物静かな口調で語る。見張りの兵の胸ポケットにも中央の銀貨を一枚、潜り込ませた。内々の話があるので、と視線をあらぬ方向へやり、暫く姿を消して欲しい旨を仄めかす。見張りの兵は頷いた。
さして重要な役目ではないのは誰の目から見ても明らかである。見張りの兵は簡易テントの端が終わる外壁の角を曲がった。煙草の煙が冬の空にうっすらと混ざる。独特な匂いがグスタフ・ヴェネシュの鼻孔を突いたが、彼は嫌な顔をせずにルケリヤの許で膝を折った。
「今日は何の用ですか?」
仰向けのルケリヤは視線だけを動かしてそう口にした。
「用がなければ来てはいけませんかね?」
つれない言葉に気を病むグスタフ・ヴェネシュではない。彼は手にしたままの革製の帽子を地に投げ、もう片方の手で持つ食料を敷物の上へ丁寧に置いた。手頃な木箱を引き寄せ、改めてその上に腰を下ろす。みしり、と不安を誘う音に聞き耳を立てる素振りを僅かに見せるグスタフ・ヴェネシュをルケリヤの柴色の瞳は捉えていた。無論、その様なことで感情の一端を晒す彼女ではない。
「お好きになさい。ただ、あなたが見当たらないとエルスノアが心配するのではありませんか?」
それはどうでしょうな、と疑問を投げるグスタフ・ベネシュは右の膝の上に左の足首を乗せる。彼なりの寛いだ姿勢であろう。
「協会長様でしたら、この街のお偉いさんと夕食を共にする予定ですので。」
「それまであなたは独りぼっち?」
「幸いな事に、ルケリヤさんがいます。」
ルケリヤは苦笑めいた表情を僅かに零した。
「我で宜しければあなたの暇つぶしに付き合いましょう。」
「いや、暇つぶしなんて滅相もない。自分としてはこうしてルケリヤさんと話すのが楽しみで…。」
柴色の瞳がグスタフ・ヴェネシュを射抜く。いつまでも眺めていたいと思わせる飾り気とは無縁の美しさに射抜かれた者は狼狽の色を如実に表す。グスタフ・ヴェネシュはわざとらしい咳ばらいを一つして視線を逸らした。
「我は早々に次なる世界へ旅立つ身。これを暇つぶしと言わないで何と表現すれば良いのですか。」
次なる世界とは剣霊としての死を意味すると昨晩、エルスノアから講釈を受けた。刀身を失った剣霊は脚をもがれた馬と同じだという。いびつな切り口を覗かせているルケリヤの髪を遠い眼差しで眺めながらグスタフ・ヴェネシュは口を開いた。
「なにも数時間後の話ではないでしょうに。」
「明日明後日の可能性は否めません。」
「お気を確かに持って下さいよ。剣霊ってのは人間には計り知れないほど心身共に強く、多少の事ではへこたれないと自分は幼い時に聞かされて育ったんだ。ルケリヤさんだって本当は次なる世界とやらへ旅立つのは御免被りたいのではありませんか。」
「あなたは確か…グスタフ・ヴェネシュと言いましたね?」
「グスタフで結構ですよ。」
「ではグスタフ、契約者を失い、刀身までも失った我とはあなたからしてみれば多少の事なのでしょうか。もう二度と彼の声は聞けず、その温もりを感じられない。そして柄から先が僅か、しかもみすぼらしい残骸の様な刀身だけとなった我は剣として何を全うすれば良いのか。」
グスタフ・ヴェネシュは返答に窮した。誰しもが明確な答えを打ち出せないのは思慮を重ねなくても判る。彼は暇にしている両手で拳を作るしか出来ないのか。
答えは一つ、とルケルヤは語ると柴色の双眸に闇を与えた。
「折れた剣は何の意味も成さない、用済みの存在なのです。」
作られた拳に力が込められた。骨が軋む音は聞こえないが、甲に走る血管が浮き出たのが何よりの証拠である。
「それは極端な思い込みです。誰もルケリヤさんの事を用済みだなんて思っていませんよ。協会長様も物凄く真面目な顔でルケリヤさんの身を案じていたのを覚えていらっしゃいますか?」
前のめりになるグスタフ・ヴェネシュを再び柴色の瞳が射抜く。だが、今回は動揺や狼狽の影すら見せずに彼は言葉を続けた。
「協会長様だけではありません。ここからは自分の勝手な想像ですが、ルケリヤさんの契約者だって命を絶たれたとしてもですよ、長年連れ添った剣霊を見捨てる様な真似は絶対にしない筈です。」
ルケリヤは黙っている。己の契約者たるアウルス・ボーンとの在りし日々を思い浮かべているのか。それとも戦いに敗れたアウルス・ボーンの死の間際を思い返しているのか。そこに広がる悲しみの色を鮮明に読み取ったグスタフ・ヴェネシュは投げてあった革製の帽子を拾い上げ、普段よりも深めに被った。
「すみません。自分とした事が剣霊について詳しく知らないくせにいろいろと言い過ぎました。ただ、自暴自棄にはならないで下さい。」
言葉を終えて嫌味を一切感じられない笑みを湛えるグスタフ・ヴェネシュの腹が鳴った。昼食時から二時間は経過している中、彼は何も食べていなかった。
「いやぁ実はルケリヤさんも腹が減っているんじゃないかと思って様子を見に来たのですが…まさか口角泡を飛ばす事態になるとは思いもよりませんでした。」
照れ隠しの為か、グスタフ・ヴェネシュはわざとらしく一笑し、先程購入した食料の入った紙袋へ手を伸ばした。失礼しますよ、と断りを入れてもルケリヤは返事はおろか、頷きすらしない。
冬の淡い陽光の許で時の流れを忘れて軽食を摂るのは気分が良いものである。周囲にリストメクの住人たちは見当たらない。他人の視線を気にせずに肉と野菜を詰め込んだパンを頬張る。鶏肉と冬野菜の食感を巧く引き出すさっぱりとした味付けである。ただ口の中が少々もさもさする。一緒に飲み物も買うべきであったと後悔するグスタフ・ヴェネシュの太い眉の動きを読み取ったルケリヤは再び短い苦笑を漏らした。
「ところでエルスノアは当初の目的を達成したのですか?」
当初の目的とは身罷った先代に別れの挨拶をする事である。ルケリヤが回りくどい表現を用いたのはこの場で死を連想する言葉を使いたくなかったのであろう。グスタフ・ヴェネシュは頬張っていた食料を音を立てて呑み込んだ。
「詳細は判りませんが恐らく。」
「恐らくとは、曖昧ですね?」
「自分は立ち会っていませんので。いや、立ち会えなかったというのが正しいですな。」
話は昨晩まで遡る。遥々メツァールントに辿り着いて手頃なホテルを探して荷物を下ろす。その際にエルスノアは従業員から先代の亡骸が安置されている所在地を聞き出した。慣れない馬の背に揺られて体を伸ばしたいであろうにも関わらず、彼女はすぐさまそこへ向かうと言う。一度言い出したら頑として聞かないエルスノアの性格を知るグスタフ・ヴェネシュには首を縦に振るしか術がなかった。
かがり火が煌々と焚かれ、石畳が整然と敷かれた街路を照らしている。二十分ほど歩いただろうか。このメツァールントには相応しくない、しかしコノリギスでは誰もが平伏する深い紺色の一式を身に纏ったエルスノアに対してすれ違う住民たちは皆して怪訝な面持ちを晒していた。それでも彼女は当初の目的の為に足早に先代の亡骸が安置されている場所へ向かう。
手ぶらでは格好がつきませんから、とグスタフ・ヴェネシュは花の購入を提案した。閉店間際の花屋に飛び込み、故人に手向ける花を店員に見繕って貰う。冬だけに花の種類は限られている。白い菊の花束を大事そうに抱えたエルスノアと疲労した様子を一切見せないグスタフ・ヴェネシュの脚が止まったのは街の中心部からやや離れた石造りの平屋であった。
「そこは先代エルスノアの家、でしょうか?」
上の空を思わせる眼差しのルケリヤが口を挟んだ。ちゃんと話を聞いていたんだな、とグスタフ・ヴェネシュは心なしか感心と安堵を覚え、組んでいる左右の脚を入れ替えた。
「かなり古い造りでしたな、あれは。百年、いや二百年はあの場所に建っていると自分は見ていますがね。」
「ならば間違いないでしょう。生まれた家で生を終えるとはなんとも幸せなこと。」
相変わらずルケリヤは表情に変化を与えない。その様な彼女を一瞥した後にグスタフ・ヴェネシュは話を続けた。
先代の生家の前では兵が一人立っていた。警備の為と思われる。腰に剣を履いてはいるものの、そこまで装備は物々しくない。敷地内へ立ち入ろうとするエルスノアとグスタフ・ヴェネシュに向けて警備の兵は駆け寄ってきた。
この家屋と庭は国家の管理下に置かれた為、許可なくして立ち入る事は禁じていると警備の兵は語った。怒鳴る訳でもなく、淡々とした語り口調の中に隙を見せない眼差しを覗かせている様子からして警備の兵は真面目な性格であろう。裏を返せば袖の下は通用しない部類の人間である。さて、どう対処するべきか。あれこれ考えあぐむグスタフ・ヴェネシュを尻目にエルスノアは己の立場と目的を正直に述べた。
「それでは些か説得力に欠けると我は思いますが…。」
「えぇ、ルケリヤさんが仰る通りです。あなた様が大陸全土に散らばる剣霊使いに指示指令を与える彼のエルスノア協会長様でしたか。お目に掛かれて光栄です。はいどうぞお通り下さい、と事は運びませんでした。」
少し大袈裟に、敢えておどけて話したつもりであったが、ルケリアの反応は薄い。ただ、彼女はそうでしょうね、と口ずさむと共に左の肘を突いて上半身を起こした。
「剣霊使いを束ねるのは剣霊帝様です。エルスノアの協会に於ける役目は彼らに剣霊帝様のお考えを文章にて指示指令として伝え、その成否を剣霊帝様に報告差し上げるだけです。」
「だけ、とは自分には判りかねますが…。ただ、成否を見極めるというのはなかなか大変なのではありませんか?」
「簡単な事。生きるか死ぬか。それだけです。」
ルケリヤの言葉に二つの意味が含まれているとグスタフ・ヴェネシュは気付いただろうか。一つは剣霊使いの命の顛末、そしてもう一つは剣霊の刀身の状態である。
緩やかな風がグスタフ・ヴェネシュの頬を撫で、ルケリヤが纏う青いドレスはたおやかな畝を形成する。だが、彼女の髪はなびかない。痛々しいいびつな先端を見慣れた訳ではない。現実を受け止めている彼女の前でむやみに憐みの表情を晒すべきではないとグスタフ・ヴェネシュは心に決めていた。
「話の腰を折ってしまいましたね。」
ルケリヤは繊細で汚れとは無縁の掌を差し出し、続きを語れと促す。これまでいとも容易く生ある者を切り裂いてきたであろう掌である。グスタフ・ヴェネシュは無意識のうちにごくりと喉を鳴らした後に彼女の意向に従った。
警備の兵は動揺と怪訝を混ぜ合わせた様な表情を作り出していた。日没が過ぎてから久しかろうとも、それは鮮明に見て取れる。エルスノアの真摯な眼差しからして彼女の言葉に虚偽はなかろうと警備の兵は判断したが、ひとつ引っ掛かる点があると二人に対して疑問を吐露した。
剣霊協会の協会長たる人物がこの中央を訪れるとなると国家としては賓客として礼遇するであろうが、少なくとも今朝の時点に於いては軍部にその様な情報は伝わっていない。仮に非公式の来訪であったとしても護衛に当たる者が見受けられない。護衛の兵はグスタフ・ヴェネシュに一瞥を与えた。政治とは無縁の面構えであるのは当の本人が熟知している。とは言え、戦術に自信はもっての外、幼少時のつたない喧嘩を除いて、このかた誰かを叩いた事すらない。腰に差す短剣はあくまでも利便を図る為の道具であり、誰かを傷付ける為の武器ではないと常日頃から公言している男である。
自分はそんなにも頼りない男だろうかと独り肩を落とすグスタフ・ヴェネシュの横ではエルスノアが両手を身体の前で重ねていた。彼女が協会長になる以前、幼い時に出会った剣霊を真似ているという。その様な常に清楚な立ち振る舞いに今でも憧れていると聞かされている。実際にその姿勢をとると心穏やかに物事を捉える事が可能で頭が冴えるとも教わっている。次なる案を思い付いたのか、エルスノアは身体の前で重ねた両手をそのままに口を開いた。
先代様の亡骸をご覧になった方をあなたはご存知ですか、と尋ねた。警備の兵は首を縦に振った。知るもなにも、このメツァールントの執政官の奥方が取り纏めている婦人会の数名が現在、家主である婆様の遺体を拭いている最中であるという。その数名の中に執政官の奥方自身も含まれているのですか、と再度尋ねる。警備の兵は先と同じ様に首を縦に振る。その先代様と言うのはもしやこの婆様の事であろうか、と警備の兵に問われる前にエルスノアはついと一歩踏み出した。
「執政官の奥方に御覧に入れたいものがある、と彼女は言ったのですね?」
「おぉ、よくご存じで。その際に自分も警備の兵も後ろを向けと命じられていたので、協会長様が何を見せていたのか判りませんが、執政官の奥方の蒼褪めた表情からして余程のものを見せられたのかと思いますな。」
「余程のもの、ですか。言い得て妙と表現するべきでしょうね。」
ルケリヤは含み笑いを零した。
「知っているのでしたら勿体ぶらずに自分にも教えてくれませんか?」
グスタフ・ヴェネシュも持ち前の嫌味の無い笑顔を見せる。笑みには笑みで対応する。構いませんとも、とのルケリヤの平然とした返事にグスタフ・ヴェネシュは少々調子を狂わされた気分を味わわされた。
「協会長の標を見せたのでしょう。首から下、手首足首から先の至る箇所に所狭しと標が刻まれていると聞いています。」
「先代様にも同じ標が刻まれていた、とでも?」
「恐らく。その標が刻まれた者は時の流れに抗い、肉体の劣化が極端に遅くなると言われています。故に先代も当代もエルスノアの名を襲う者は常人では成せないほどの若さを保っていられるのです。」
「何故、その様な標を負わなければならない理由があるのですか?」
「それについては明確な回答は我も出来ません。ただ、我の契約者は剣霊帝様との謁見を終えた後にあの御方の実の姿は単なる剣ではない、と声を震わせながら語っていたのを覚えています。その謎の鍵は剣霊帝様に関りがあるのでしょう。」
「その言い方ですと…ルケリヤさんは剣霊帝様の拝謁は叶わなかったのですか?」
「えぇ。剣霊帝様の前では並みの剣霊は全て実の姿に戻されてしまいますから。」
問い掛けばかり口にしていると気付いたのか、グスタフ・ヴェネシュは左様でしたか、と申し訳なさそうに謝意を示した。しかし、頭の中では協会長の標が何を意味するのか俄然気になっている。
剣霊帝の姿を許可を得ずに見ると絶命を余儀なく受け入れる事になるという。標とはその一方的な結果を回避する為の手段なのか。標を背負うエルスノア自身から剣霊帝の姿を見た少年、テオドル・バッシュの逸話を聞かされた。彼は吐血と共に死を迎合した。剣霊帝とは強大無比の剣であると誰もが畏怖の念を抱えているが、アウルス・ボーンの言葉は単にその畏怖を讃えただけなのか。
ルケリヤの剣霊らしいか細い五指が グスタフ・ヴェネシュの組まれていない側の膝を包んだ。衣服の上からでは剣霊にその気がなければ斬れる事はない。そうと判っていようとも、あまりの冷たさと想像以上の硬さにグスタフ・ヴェネシュは目をひん剥いた。
「騒がしいですね。」
「すみません、色々と考えてしまいまして…。」
己の内側について指摘されたと思い込んだグスタフ・ヴェネシュはその様に答えた。しかしルケリヤの柴色の視線は遥か先を捉えようとしていた。
「殺気立った者が数名、此方に向かっているのです。」
グスタフ・ヴェネシュは咄嗟の勢いで立ち上がった。だからと言って何が出来る訳でもない。
「殺気立った者…まさかルケリアさんを傷付けた例の邪剣霊がやって来たなんてありませんよね?」
ルケリヤはうっすらと皺が浮かんだ眉間に二本の指を添えて相手を察知しようと努めていた。
「剣霊が一振り。あとは人間が五名。向こうも既に我がここにいると気付いたらしいですね。」
「あの…やはり邪剣霊、でしょうかね?」
「満身創痍の我ではここまでが限界です。加えて今日は新月の日。残り少ない我の霊力が極端に減少します。向こうも同じでしょうが…もはやお互いに目視でしか相手を捉えるしかありません。」
何を悠長な、と思いつつもグスタフ・ヴェネシュは何をするべきか考えに考えた。
相手が邪剣霊であれば、己の身は無論、刀身を失ったルケリヤを庇う事もままならないであろう。ならば邪剣霊が来たと声を挙げてふれ廻るべきか。戦慄に負けじと武器を手に己を奮い立たせる者、戦慄に包まれて恐怖に怯える者、どちらが多いかは大方の予想がつく。後者に他ならない。しかし、このメツァールントは中央の中でも北の玄関とも言われる要所でもある。それなりの軍備は整えている筈である。やはり一目散にエルスノアへ事の次第を伝え、彼女の口からメツァールントの執政官に軍を動かすように提言してもらうべきだろうと思う。ただ、外壁周辺に佇むリストメクの住人たちの安全は保障されるのか。もしや見殺しにされるのでは、と一抹の不安が駈け出そうとする脚を鉛の様に重くさせた。
それまで眉間に添えていたルケリヤの指がグスタフ・ヴェネシュの手首を打った。斬られたと視覚と触覚が脳に伝わり、遅れて痛覚が怒涛の勢いで体内を駆け巡るのか。我は霊力が落ちているのだから安心なさい、と平静な顔でルケリヤは諭す様に語った。
「殺気を放っている、いや漏らしている数は四名。残る一名と剣霊は穏やかにこちらへ向かって…。」
言葉を途切れさせたルケリヤの柴色の瞳に安堵の色が差された様子にグスタフ・ヴェネシュは首を捻った。
「四つ足の気配が大小共に一つずつ。恐らく馬と狼でしょう。大自然の一部たる彼らは人間と違って深沈この上ない洞察力の持ち主でしたか。」
ルケリヤはこのまま我の横にいるようにとグスタフ・ヴェネシュの手首を再び二本の指で叩いた。彼女は軽やかな微笑すら浮かべている。
待つ事、数分。果たしてどの様な御一行がやってくるのか、とグスタフ・ヴェネシュは身体を強張らせてルケリヤの横に立っていた。当のルケリヤは上半身を完全に起こし、病床に伏せていた者が見舞いに訪れた親友を出迎える様な姿勢をとっている。冬の淡い陽光が乳白色の簡易テントを照らす角度が僅かに動いたと実感した頃に彼らは姿を現した。
幌馬車の三方をその動きに合わせて槍を手にした中央の兵士たちが囲っている。槍で行く手を塞ぐ事も可能であろうが、そうさせてくれない存在に恐れを成しているのは誰の目から見ても明らかであった。幌馬車の御者台に並んで座っているのは男と女、そして剣霊である。刀身の象徴たる白銀の長い髪を揺らし、緑色の双眸は穏やかな水面の如く濁らずに静かにしている。もしこの双眸に変化が起きた時、中央の兵士たちは人生の末路を迎える事もままならないと肌で読み取っている。中央で黒鹿毛の牡馬を操る砂色の髪を左右に束ねた女が両手に持つ手綱を緩めながら口を開いた。
「だからあたいはメイイェルの研師、メアリー・メイイェルだって。剣霊協会から貰った免状もさっき見せたじゃないか。」
「現在、このメツァールントの出入りに対して国外の者は制限を掛けているのだ。例え高名な研師であろうとも出入国管理を任されている執政官の許可が下りない限り通用門を通す訳にはいかん。」
三方を囲む中で先頭を歩く兵が脚を止めずに振り向きながら負けじとがなる。
「じゃあ、いつまで待てばいいのさ?」
「さぁ。執政官の公務の繁閑次第だろうな。」
「メイイェルの研師ってのは剣霊だけじゃなくて料理に使う包丁も研ぐんだ。メツァールントの料理人や御婦人たちがあたいの到着を首を長くして待っているんだよ?」
「尤もであろうとも、そんな言い訳は通用せん。」
けんもほろろな対応に地団駄を踏む勢いを見せるメアリー・メイイェルの横で白銀の長い髪を持つ剣霊は簡易テントの下のルケリヤを見つめていた。反対側に座る男もこちらの存在に気付いたのか、馬を止めるようにメアリー・メイイェルに伝えると御者台からはらりと降りる。彼が纏う黒いコートの裾が広がりを見せては元の形に収まった。
無論、彼は剣霊使いなのだから腰に得物をぶら下げていない。別の見方をするのであれば、剣霊使い故に丸腰であるとグスタフ・ヴェネシュは思った。その様な男が地に降り、ついと三人の兵のもとへ一歩寄る。警戒心を露にした複数の兵士に囲まれようとも剣霊使いの平然とした面持ちは数多の戦いを潜り抜けてきた者であればこそ可能であると言えよう。
「執政官に事の次第を取り計らって貰うついでに一つお願いしたい。剣霊協会の協会長もこのメツァールントに滞在中と聞いている。彼女に七十二の剣霊使いが馳せ参じたとも伝えて欲しいのだが。」
彼はコートのポケットから取り出した銀貨一枚を先頭を歩いていた兵士へ差し出した。
「俺の剣霊が粗相を働いた詫びと手間だ。遠慮せずに受け取ってくれ。」
先頭の兵士は悪びれる風もなく差し出された銀貨を奪う様に掌に収めた。そして左右の二人を従えるなり足早に市街地の通用門へ向けて歩き始めた。
勇ましいのか、すごすごとしているのか、三人の兵士の後ろ姿を見てどう思うかは見る者次第である。だが、何故かしっくりこないと全員が首を捻るに違いなかろう。実際、彼らが腰に履く剣は鞘から先が見当たらなかった。
粗相とは何を指してなのだろうか、それは銀貨一枚で済む内容だったのだろうか、とグスタフ・ヴェネシュの勘繰りをよそに七十二の剣霊使いは乳白色のテントの下へ体を潜らせた。彼のすぐ後ろでは白銀の長い剣霊が行動を共にしている。彼女を取り巻く爽やかな香の匂いに気を引かれながらも、絹の様な滑らかさを彷彿させる横髪からちらりと覗いたピアスが放つ不気味な視線に寒気を覚えたのは気のせいか。
「お初にお目に掛る。愚生らは協会から七十二の番号を与えられたユスト・バレンタインとその剣霊イルサーシャという。君が六十九の剣霊、名前は間違っていたら申し訳ないが…ルケリヤ、だな?」
物静かに頷くルケリヤの髪の先端を視界に収めたユストは憫然を目許に表した。
「よくご存じで。」
見上げる柴色の瞳に気付いたユストは表した憫然をそのままに、視線をあらぬ方向へ動かす。
「やはりそうか。先日、君の契約者の墓に手を合わせた。」
「どうして我の契約者の墓だと判ったのでしょう?」
「今の世で使われていない文字で墓碑銘を刻んだ点が一つ。また愚生の剣霊も君と同じ様に協会支給のスカーフは巻き付けずに形見として懐に入れておくと言っていた。」
「女の心を知りたければ女に聞け、ですか…。」
ルケリヤは彼女が纏う青いドレスから覗いている胸の谷間にか細い二本の指を差し込んだ。あたかも最初からその場に潜ませていたかの様に剣霊協会支給のスカーフがするすると姿を現す。折り皺は見当たらず、確かに六十九の番号が見て取れた。
「そこまで知るとなると、あなた方は事の顛末を知っている様子ですね。」
「あぁ。最初は単なる予測でしかなかったが…勘と言うものを愚生は無碍にしないものでね。」
「その勘と言うものがどの様な内容なのかはあなたを見ていれば判ります。ところで…。」
柴色の瞳がユストからイルサーシャへ移る。その眼差しの中で厭忌を滲ませていた事をユストは気付いただろうか。
「ルケリヤ、ルケリヤなの?」
メアリー・メイイェルの悲痛な声に一同は首を動かした。彼女は馬駐となる場所を適当に見繕い、黒鹿毛の牡馬の手綱を括り付けてきたところであった。駆け出すなり、ルケリヤの前で両手と両膝を突いたメアリー・メイイェルは己の感情に任せた清い涙を零した。
「あたいの知らないうちに、なんでこんな事になったのさ…。」
行き場のない怒りが言葉となって吐き出された。彼女が当代のメイイェルの研師を襲い、初めて研いだ剣霊がルケリヤであるという。何事でも、特に生業に於いては最初の成果に対して思い入れはひとしおに違いない。柔らかな頬をなぞった涙はメツァールントの踏み固められた地面に儚いしみを形成した。
「メアリー・メイイェル、折角あなたが遥々メツァールントに来て落ち合えたというのに我はこの様な姿となってしまいました。もうあなたに手入れをお願いする機会はないでしょう。」
ルケリヤはいびつな毛先を詰りながら達観した者の様な微笑を湛えて見せる。一方のメアリー・メイイェルは震えが止まらない上下の唇に力を込め、嗚咽交じりの声を振り絞って語った。
「あたいの手入れが甘かったから負けたの?あたいのせいでアウルス・ボーンは死んだの?」
「あなたは非の打ち所がない素晴らしい仕事をしてくれました。」
怪我をしないから大丈夫、と口にしたルケリヤはいたたまれない様相のメアリー・メイイェルの寂しそうな両肩に五指を添えて抱き寄せた。剣霊の腕力とは微々たるものである。悲愴に心身を浸からせた者が救いを求めるきっかけを与えたに過ぎない。メアリー・メイイェルは躊躇わずにルケリヤの冷たい胸許に柔らかな頬を押し当てた。
左右に分けた砂色の髪が揺れては静かになる様を見届けたユストは踵を返した。また後程、と静かに語ると共に初対面であるグスタフ・ヴェネシュの暇そうにしている肩を叩いては顎をしゃくる。今は二人だけの時間を邪魔してはならないと理解したグスタフ・ヴェネシュはそうですな、と呟くと床に投げてあった革製の帽子を深々と被った。
既にユストは簡易テントの外で一定の歩調で脚を動かしている。彼の左斜め前ではイルサーシャが正確に付かづ離れずの位置にいた。あれが風の噂に聞く七十二の剣霊使いとその剣霊か、とグスタフ・ヴェネシュは革製の帽子の鍔越しに眺めた。音無き一撃で相手を屠るとなれば筋肉隆々の大男に違いないと思い込んでいたが、どの角度から見ても普通の三十路を迎えた青年である。さてはあの剣霊自身がずば抜けて強いのか、と腰より下まで伸びた白銀の長い髪の揺れ具合を追う。ルケリヤも以前はあれくらい長かった。そして以後はあのいびつなままで過ごさなければならないのかと思うと不憫で仕方がない。
悲愴に染まりきった再会の場から部外者たちは立ち去るのに長い時間は必要なかった。緩やかな風が乳白色のテントをたわませては通り過ぎる。そのはためきが奏でる煩雑な音をルケリヤとメアリー・メイイェルは堪能しているのかと思わせるほど、二人は微動だにしない。
沈黙は数分で続いた。そして嗚咽が収まり掛けていたメアリー・メイイェルは顔を上げて真っ直ぐな眼差しでルケリヤの面持ちを捉えていた。彼女は新月の日に剣霊の力が大幅に減退するとは知らない。むしろ赤心の剣霊に己の内側を覗かれても構わないという意思の表れであった。
「早速だけど、ルケリヤの状態を見るよ。研ぎ直したら昔みたいに…。」
ルケリヤは頭を振ってメアリー・メイイェルの提案を遮った。
「研ごうとも失われた刀身が戻る訳ではありません。」
「そうであっても、まずはやってみないと結果は判らないよ。」
「結果など既に見えています。そもそも我はメアリー・メイイェル、あなたに無様な剣体を晒したくないのです。」
メアリー・メイイェルは返す言葉が思い浮かばなかった。弱り切った剣霊が己の心境を吐露した。いや、させてしまったのか。彼女は青みが濃い瞳に悲哀の色を浮かべては再びルケリヤの胸許に頬を密着させた。
「判った。ルケリヤが嫌なら、あたいは何もしない。」
「えぇ。有難う。」
僅かな間を置いてからルケリヤは言葉を続けた。
「我の気持ちが少し落ち着いた頃に改めて手入れをお願いするかもしれません。」
無論、その機会は訪れないとメアリー・メイイェルは理解している。気遣いから生じた戯言に過ぎないとも察していた。密着させた頬をそのままに彼女はゆっくりと頷いた。
「こうなってしまったからではないけれど、ルケリヤは一旦お預けで、イルサーシャの手入れを先にさせて貰うよ。」
「それは構いませんが、よりによってあの剣霊…。」
「髪が引っ掛かるって一緒にいる間、彼女はずっと悩んでいたんだ。あとメツァールントに到着したら一仕事するだろうとも言っていたよ。」
メアリー・メイイェルにとって、胸許から見上げたルケリアは困惑や疑問をうっすらと滲ませている様に映った。故にイルサーシャの状況について語った。しかし、剣霊の眉間に走る数本の皺は思慮が紡いだ造形ではない。侮蔑と嫌悪が招いた結果であると正面から見れば明らかであった。
「一仕事…ですか。」
自ずと浮かない表情を作っていたと気付いたルケリヤは口角を上げようとする。だが、出来なかった。
「多分、ルケリヤとアウルス・ボーンの仇討ちだろうね。」
えぇ、と心ここに有らずなルケリアの返事にメアリー・メイイェルは内心で首を傾げるべきであった。
「そうすれば、アウルス・ボーンもきっと喜んでくれる…よ?」
ルケリヤの掌がメアリー・メイイェルの面前で広げられた。その動き様は抵抗する存在を尽くかわし続けてきた流水の如く、無駄な動きが無ければ隙もない。誰であろうと言葉を噤む。剣霊の手に温もりを期待するものではないと重々承知しているが、身の毛がよだつほどの冷たさが触れるまでもなく判る。剣霊の怒りを招いてしまったのだろうか。意思とは関係なしに体を硬直させるメアリー・メイイェルの耳許にルケリヤの声が滑り込む。
「アウルスが喜ぼうとも、我は全く以って嬉しくありません。」
面前の掌が横に移る。剣霊らしさの一端を担う汚れや傷とは無縁な三本の指が柔らかな砂色のもみ上げをさりげなく摘まみ上げた。
「イルサーシャと名乗る剣霊が纏うあの模様はマナエグナ…蛮族の巫女の証。五百年の歳月が流れていようとも我は鮮明に覚えています。」
「マナエグナ、なんて初めて聞く言葉だし、蛮族っていきなり言われても…あたいには何が何だか判らない。確かにイルサーシャは気が強くて思いっきりも良くて、ちょっと短絡的なところもあるけど、決して粗暴な性格の剣霊じゃないよ?」
ルケリヤは摘まみ上げた砂色のもみ上げを詰りながら顔を横に倒し、青みの濃い瞳を覗き込んだ。滑らかという言葉とは無縁となって、そうも日時が過ぎていないいびつな毛先がお情け程度に揺れる。
「あの剣霊とはどれほどの付き合いでそこまで理解したのですか?」
「ちょうど一日が経ったぐらい、だと思う。」
「そう判断するには期間が短過ぎるのでは?」
「剣霊の癖をそれぐらいで見抜けなければメイイェルの研師とは言えないよ。」
メアリー・メイイェルの揺るがない物言いに対してルケリヤは柴色の相眸に闇を与えて頭を振った。
「あなたにとって悪い印象が無かろうとも、蛮族は蛮族。我はあの忌々しき者の手助けを受ける訳にはいきません。」
もみ上げを彩る砂色の髪が数本、はらりと落ちた。その切り口に鮮やかさは皆無に等しい。しかし有無を言わさぬ凄味が成した結果であるとメアリー・メイイェルの落とした視線は感じ取っていた。
風が吹く。落ちた砂色の髪の行き先を誰も追わない。




