あ奴らの戯れ
起きろ、メアリー・メイイェル。
朦朧とした意識の中で心地良い低音の声が響いた。まるで緩やかなせせらぎに混ざるが如く、脳裏に流れ込んでは内部を優しく撫でられた気分である。
誰の声か。イルサーシャのそれにしては低過ぎる。何よりも音質に彼女のそれとは根本的に異なる温かみと落ち着きが感じられた。
残るは一人の男である。何故、声が出せるのだろうかと疑問が生じるよりも、もう少しこの声を聞いてみたい衝動にメアリー・メイイェルは駆られていた。いくら味わおうとも飽くなき声に違いない。弛緩していた口許を引き締め、顎を引いて顔を埋める。頬に石が当たった。ここは放棄された温室の中だったな、と思い返す。
一連の動作を見守っていた声の主は普段からする様に、鼻で溜め息を吐いたらしい。低音を伴った鼻息が漏れる様を敏感この上ない聴覚が捉えたからである。腕を組みながら、やや顔を傾けている姿が容易に想像できる。
鳥の囀りや獣の嘶きを愛でるべき早朝という時間に、声の主はつつましやかに生える草々を踏みしめて歩み寄った。近付くなり肩をゆすられるのか、はたまた頬に手を添えられるのか。引いた顎が更に深くなれば、自ずと身体が強張る。
纏っているであろう黒いコートの裾が地を擦る音を奏で、柔らかな空気の流れを漂わせた。足を止め、片膝を突いたのか。汗臭さや土の匂いとは無縁の、香木の爽やかな移り香がメアリー・メイイェルの鼻孔をくすぐった。
シュンカ、だったな。
親しみを込めた声色に対してシュンカは警戒を示した。大半の者がいたずらに近付けば唸り声を発するシュンカが耳を傾けつつ、すぐさま飛び掛かれる様に全身の筋肉を隆起させている。
今更ながら寝たふりを覆す訳にはいかない。メアリー・メイイェルはシュンカを抱き締めている腕に力を込めた。
この人は悪い人じゃないよ、シュンカ。あたいはこの人の声をもっと聞きたいし、傍にいて欲しいんだ。だから落ち着いて。
シュンカの毛皮の下にある無駄を省いた体の線の硬さが伝わる。飼い主が制しようとも獣が持つ危険予知能力は薄れていない。
一方の声の主は狼の威嚇に物怖じをせず、片膝を突いたであろう姿勢を保っていた。流石は七十二の番号を与えられた、一流と知られている剣霊の使い手、と言ったところだろうか。微動だにせず、生死の狭間を掻い潜り続けてきた相眸にて此方を眺めているに違いない。
剣霊使いはメアリー・メイイェルという年頃の女の寝顔を堪能しようとしている。単に純粋な好奇心によるものか、或いは男の下心による行動なのかは判らない。極度の緊張からなのか、身体が動かなくなっていた。ただ、思考能力は普段よりも冴え渡っている。やはり身体に触れられるのだろうか、と妙な期待と気恥ずかしさにメアリー・メイイェルは息苦しさを覚えた。
シュンカ、君の友人を起こして貰えないだろうか。
再び鼻で溜め息を吐いた。先程よりも緩やかで軽やかだ。それよりもグセーって何なの、とメアリー・メイイェルは内心で自問し、記憶の糸を手繰り寄せ始めた。
初めて聞いた様で、そうでもない気がする。遠い昔、いや、極めて最近の出来事の最中で耳にした事を思い出した。メツァールントへ向かう街道で一組の剣霊とその使い手に出会い、その数時間後に中央王立国家の残党と対峙した。その際に残党たちは己を指して愚生と名乗っていた。
なんだ、この人も中央の人間だったんだね。どうりで物腰が柔らかで、がさつな雰囲気がない男な訳だよ。でも都会育ちの人って、あたいの様な四方八方山しか見当たらない田舎育ちをどう思っているんだろう?
シュンカを抱き締めた姿勢をそのままに、メアリー・メイイェルはやや乾燥している唇に力を込めていた。
どうせなら、こんな野暮ったい格好ではなくて、きちんとしておけば良かったよ。そうだ、中央に着いたら綺麗な服を買おう。相場より少し高いかもしれないけど、剣霊協会への上納金が不足する様な事は無いさ。身体の線が判って、可愛らしさを損ない程度に、優雅な雰囲気が感じられる服が良いな。大胆かもしれないけどスカートのスリットが深くて、だけど肩を出すのは寒いから止めておくべきかもしれない。彼、気に入ってくれる筈だよね?あたいだって着飾れば剣霊にひけを取らない自信は、ほんのちょっとだけあるよ。イルサーシャがいないところで、似合うよ、と誉めてくれたら嬉しいけど、その時もちゃんと声を出せるのかしら?
詮無き想いが次から次へと浮かび上がっては霧散する。その一つ一つを脳裏で吟味しては満足げに口許を綻ばせる。
今度は呆れと否定を練り合わせた溜め息がメアリー・メイイェルの耳の奥を穿った。
そういうのは頂けないな、愚生は。とてもじゃないが、口に合うものではないのでね。
声の主は言葉に違わずに高圧的な苦笑を短く漏らした。
シュンカよ、やはり君に頼みたい。愚生が彼女に触れる訳にはいかないからな。
既に目を覚ましている事がばれているのか。それよりも口に合う合わないとは、何を意味するところなのか皆目見当が付かない。加えて彼の掌が己の身体に触れる事がないと明言されてメアリー・メイイェルは残念に思った。
残念に思わせる理由は判っている。彼には横に立つ剣霊がいる。実の姿は剣とは言え、その魂は生前の女に変わりない。彼が何気なく彼女を眺める眼差しをこれまでの短い時間の中で幾度も垣間見た。彼にとって大事な存在なのは頑なな事実であると理解している。故に悲壮感も込み上げてくる。
心の中が湿った気持ちに満たされんとすると、それを拭い去ったかの様に、軽くなる。これまで体験したことが無い感覚に覆われた。例えるならば満たされた水を一気に飲み干して空になった器になった気分である。得も言われぬ清々しさに身も心も包まれている。不思議という言葉が思い浮かべれば、先程より柔らかな苦笑が緩やかな空気に乗った。
そう怪訝な顔をするな。少しは楽になっただろう?更に楽になりたいのであれば、愚生で良ければ幾らでも付き合うが、あとは君次第だ。
やはり目を覚ましている事に声の主は気付いている。そうでなければその様な台詞が口から出る訳がない。沸き上がる好奇心と拭いきれない引け目がメアリー・メイイェルの中でせめぎ合い、脈打つ鼓動を強くさせていた。顔が火照っている。鏡に写さなくても判る。結んだ唇に否応にも無駄な力が入る。こんな姿を声の主はじっくりと眺めているのか、と思えば思うほど恥ずかしい。唯一の救いは砂色の髪に顔が隠れている事か。何度かばっさり切ろうと考えたものだが、研師という華やかさとは無縁の生業に身を染めているのだから、見た目ぐらいは女らしいところがなければ、と手にした鋏を机の上に置く己の姿をメアリー・メイイェルは思い返していた。差し当たり、この判断に救われたとも思った。
ところでイルサーシャは何処にいるのか、とも気に掛かっていた。声の主の脇に立っているのだろうか。彼の硬くて頼り甲斐のある腕に己のそれを絡ませて、いや、片膝を突いた彼の肩に手を添えて、不敵な笑みを湛えながら見下ろしている姿が目を閉じていようとも容易く想像できる。しかし、香の爽やかな匂いは黒いコートから発せられるもののみであり、平静を装うとも冴える刃を思わせる視線を肌が察知していない。そもそもあの剣霊の性格からして、思った事を声に出さずにはいられないと短期間ながらにも行動を共にして感じ得ていた。
彼女がいないのなら好都合だ。もう少しこの時間を味わいたい。メアリー・メイイェルは不意に身体の奥が熱を帯び始めている事が否めなくなり、シュンカを抱き締める腕に力を込め、もぞもぞと両脚を悩ましげに動かした。
三度目の溜め息が放棄された温室内の空気を震わせると同時に声の主は踵を返した。革靴の底が地を踏むと共に混ざって時期外れの草々が踏みしだかれ、乾いた音が混ざる。ゆったりとして落ち着きのある歩調の中に嘯きが乗る。そしてメアリー・メイイェルは己の耳を疑った。
最後のあれはいただけないが、まぁ、ご馳走さま。久々に美味にありつけて感謝している。そうそう、相方にはくれぐれも内密に、と言っても君には何の事だか判るまい。
相方とはイルサーシャを指しての事だろうか、と訝しむ間に乾いた音の具合に変化が生じた。踏みしだかれるよりも、軽く撫でられる様な音質である。軽やかな音に呼応したのか、周囲の空気がぴんと張り詰められたと頬を通じて感じた。香の匂いが先よりも強くなる。
なるほど、思った通りの間抜け面だな。
善意とは正反対を曝け出しているほくそ笑みを全身に浴びようとも、メアリー・メイイェルは微動だにしなかった。いや、出来なかったと表すのが正しい。
剣霊と素手で喧嘩をすれば、こちらが負けるのは誰の目からしても明らかであるが、どちらが気丈夫で勝気なのかを争うのであれば誰にも負ける気がしない。開口一番、勝手にあたいの寝顔を覗き込むんじゃないよ、と飛び起きるつもりてはあったが、体に力が入らない。四股の筋肉が弛緩し、鉛の様に重くなっている。剣霊の気に当てられたのか、剥き出しの刃が放つ殺気に身体の機能は麻痺させられたのか。瞼すら動かない。辛うじてシュンカを抱く腕の先で指の間接を動かす程度は可能だ。だからと言って、何かが出来る訳でもない。普段よりも敏感な耳の奥へ白銀の長い髪を持つ剣霊の、可憐な容姿の割には思っていたよりも少し低めの声が何の抗いもなく滑り込んできた。
なぁ、そなた。
威圧と表現するよりも高みの見物を思わせる声色に心地良さげな衣擦れが混ざった。白銀の長い髪を持つ剣霊は一歩踏み込んでは膝を折ったらしい。彼女の契約者と同じ行動である。香の爽やかな匂いがメアリー・メイイェルの鼻孔に纏わりついた。
流石に寝心地の悪い場所で愛玩の狼に慰めてもらう訳にはいかんよなぁ?ましてや、あれがすぐ近くにいる。そなた、腹の奥がうずうずしてたまらなかったであろう?
内心を見透かされた者は頬の紅潮と背中に伝う汗を感じられずにはいられない。栄えある剣霊協会認定の研師とは言えども、年頃の女には変わりないメアリー・メイイェルとて例外ではなかった。
さてどうする?メツァールントへ辿り着き次第、陽が傾かんとする時間に早々と宿に潜り込んでは狼のざらついた長い舌を堪能するか?それまでの間はあれの横顔を盗み見しては体の芯を火照らせ、都合の良い一辺倒な想像を膨らませているつもりなのは既にお見通しだ。我とて剣霊であると同時に女でもあるからな。そなたの心と体の疼き様など手に取る様に判る。何なら我があれに跨ってもう一つの食事をする姿をとくと見せてやろうか?その方がそなた、興奮するであろう?
勝ち誇った憫笑は羞恥よりも苦痛の種を無垢な心に植え付ける。言葉では表現出来そうにない息苦しさとやるせなさが縦横無尽に張り巡るのが判る。身体の隅々までもがその感情に支配され、最後は口から溢れ出るのではと思うと共に、ふと身体が嘘の様に軽くなる。自然消滅とは思えない。先程も同じ様な感覚を覚えた。そのきっかけが見つからない。苦痛と言う感情が何者かによって根こそぎ刈られた、あるいは呑み込まれたのかと錯覚を感じ、それを信じ込むしかメアリー・メイイェルには選択肢が無かった。
身体が軽くなろうとも、未だに自由は利かない。閉じた瞼の奥で青みの濃い瞳が周囲の状況を把握しようと努めようにも叶わない。やはり左右の指の第一関節が僅かに動かせるだけである。痙攣に似たもどかしい動きは主人の安否を案じさせたのか、シュンカは折っていた四本の脚を伸ばして唸り声を発した。柔らかな体毛にかろうじて触れていた手が渇いた草の上に振り落とされた。
駄目だよシュンカ、剣霊に牙を剥いたら。相手は眉一つ動かさずに、触れただけで全てを切り刻んで命を奪う存在なんだよ?シュンカがいなくなったら、あたいは本当に独りぼっちになっちゃうよ?
言葉が浮かぼうにも、声を出そうにも口が動かなかった。代わりに投げ出された五指が、葉の上から落ちた虫の如く、いびつな動きと共にに這う。
相変わらずの嫌われようか。
白銀の長い髪を持つ剣霊は煩わしそうに鼻を鳴らした。
だが、餌の提供者が苦しむ姿を知って我を威嚇するとは、なんともまぁいじらしくも美しい関係ではないか。我も真似たいところだが、いかんせん相手は見境なしに思い付きであれやこれやとこき使う小娘だからなぁ。更に図に乗るのは目に見えて判る。まぁ、そなたらの真似は未来永劫無理であろうな。
小娘とは誰の事だろうか。メアリー・メイイェルの訝しみなど気に掛けずにふふ、と悪意を込めた微笑を洩らした白銀の長い髪を持つ剣霊は言葉を続けた。
狼如きに威嚇されるのはなかなか癪だが、我は無益な殺生は好まん。そもそも獣肉の味には些かの興味すら無いのでな。それよりもそなた、我が満足するような名案を思い付いたぞ。
唸るシュンカをものともせずに白銀の長い髪を持つ剣霊の気配が間近に迫った。砂色の髪の間から覗いている無垢な耳許に彼女は囁いた。
そなたの可愛い可愛い狼の悩ましく艶めかしい特技をあれに耳打ちしようと思うのだが。
ひっきりなしにもがき続けていたメアリー・メイイェルの指が事切れたかの様に停止した。
果たしてあれがどんな顔をするか見ものだな。そなたを視界に収めた時の態度、会話をしようにも虚ろと卑下の匂い。またそれを気にせずにはいられないそなたの苦痛な表情。想像しただけでも思わず涎が出るというものよ。
それまで微動だに出来なかったメアリー・メイイェルの全身はわなわなと微細な震えを発していた。
それだけは止めて。あたいはあの人に嫌われたくないんだ。変な目で見られたくないんだ。イルサーシャにとって大事な人だっていうのは判っているよ。お互いに心と身体を護って貰える仲が羨ましくて仕方なくて…。メイイェルの研師に恋人は必要ないけど、あたいだって年頃の女なんだよ。
音無き悲痛な思いが行き着く先はただ一つ。男の手の温かさと硬さを知らない頬に熱いものが伝わった。報われないと理解している己を慰める為なのか、止め処なく流れる涙に染まったメアリー・メイイェルを白銀の長い髪を持つ剣霊は凝視している。
それは我の受け持つ範疇ではないのだがな。
自らの契約者を真似たかの様に白銀の長い髪を持つ剣霊は鼻で短い溜め息を漏らした。少々やり過ぎたかという後悔の念は微塵も感じられず、むしろ興冷めだと言わんばかりの短い溜め息であった。
どちらかと言えば、我の相方か、いや、我と相方の基となる存在が好む感情か。まぁ、それなりに満足させて貰ったので良しとするか。なにしろここ最近喰らっていたのはあの朴念仁ののみだからな。飽き飽きしていた中で若くて活きの良い娘が目の前にいたのだ。四の五の言わずに喰らうのは当然であろう?忘れないうちに言っておくが、ここまでは我とそなただけの秘密だ。くれぐれも我の相方には喋るなよ?
耳許に迫っていた気配が薄れた。
とは言え、喋る機会が訪れる事も無いであろうがな。取り敢えずはご馳走さん。
再び衣擦れの柔かな音に香の爽やかな匂いが混ざる。刀身の象徴たる白銀の長い髪が満足げに揺れる様を青みの強い双眸に映り込んではいない。ただ、時期外れの草々は己の身を刻まれるのだけは避けようと踏みしだかれる事に甘んじている事は判る。実の姿である一振りの刀剣の重量にしか満たない者の足音は皆無に等しく、さらさらと流れるような草々の悲鳴が聴覚を掠める。
気配が遠ざかった、いや、煙の如くふと消えたと確信すると共に四股の自由が利き始めた。目を見開くなり一心不乱に飛び起きる。
青紫色の世界は僅かながらにも赤みを挿していた。薄汚れたガラスの壁面越しであろうとも鳥たちの囀りが聞こえる。朝を迎えてから幾許か経過した頃合いだろうか。外気を遮断していようとも寒い。飛び起きた際に投げ出された毛布を肩に掛けようとメアリー・メイイェルは身体を捻った。内股に、股の付け根に滑る様な冷たさが走り、思わず顔を伏せる。
あれは夢だったのだろうか。メアリー・メイイェルは自問した。ただ夢にしては空想の翼が羽ばたき過ぎていたとも思える。心の奥底に蟠る願望と後ろめたさが一気に押し寄せてきたのだ、と判断せざるをえない。毛布を引き寄せてか細い肩に掛ける。未だに鼓動が激しさは衰えていない。恍惚と後悔、悦楽と気恥ずかしさが居合わせたメアリー・メイイェルの表情を前にシュンカは鼻を鳴らして応えた。
「そんな顔して見ないで。あたいなら平気だよ。」
普段と変わらずに動く両手がシュンカの鼻面を覆った。
黒鹿毛の牡馬の脇にユストは立っていた。鬣に櫛を入れながら、これから先について思案する。滞りなく中央行政府に入国したとしても、その後はどうするべきかが見えてこない。
剣霊協会の協会長を守れ、と拙い文字で指示は受けている。だが、何から守るのかが不明瞭であり、ユストの中で引っ掛かっていた。実のところ、協会長たるエルスノアという人物と合流したとしても、特に剣を振るう機会には遭遇しないのではなかろうか、と疑問が生じた。それならそれで良いが、少々楽観視し過ぎでもある。
郷を離れざるを得なかったリストメク市街地の住人たちを纏め、彼らの祖国故郷へ連れて帰る護衛でも任せられるのか。これは一介の剣士が立ち入る案件ではなかろう。どちらかと言えば政治の色が濃すぎる。無論、剣霊協会からその様な指示が下れば否応なしに従うが、今のところ使者たる鳩が再び姿を現すにしては日数が少なすぎる勘がある。
棄てられた地リストメク市街地と言えば、アウルス・ボーンとその剣霊ルケリヤのその後についても気に掛かっていた。武骨で好戦的であり挑発的な契約者と何処となく淀んだ、退廃的な艶やかさを前面に押し出している剣霊。同業者の動向、具体的には彼らが剣霊協会からどの様な任務を与えられているのか関心を持つべきではないのだが、気に掛かる点が拭えないでいる。
邪剣霊に見初められた男がいると聞かされた。その名はムルドと言うらしい。彼は手にする剣と共に六十九の番号を与えられた剣霊使いの手によって屠られたのだろうか。もしそうであるのならば、何故リストメク市街地の住人たちは住み慣れた郷を棄て、自らの国家ではなく他国を頼ってへ逃げ込んだのか、と疑問が生じる。凶刃によって殺されてしまう、と判断力を大幅に欠いた者たちの何気ない行動が次から次へと連鎖した結果、とも思えなくもないが釈然としないのも事実である。
否定と仮説ばかりが脳裏を過る。確固として肯定できる事柄が見つからないとユストは思いつつ手を動かしていた。上の空で櫛入れをするユストに不満を漏らしたつもりなのか、黒鹿毛の牡馬は大きく鼻を震わせた。
「いや、すまなかったね。」
思案顔を崩さないユストを横目に、黒鹿毛の牡馬は白い息を遠慮なしに吐いては豊かな尾を大げさに振った。言葉と態度が一致しないと訴えているのであろうか。
言葉か、と独り反芻する。音として声が出るのは新月の日という証であり、常ある中の例外と表現しても過言ではない。
はたと気付いたユストの手が止まった。何事にも例外が生じる可能性は秘めている。要因はともかく、人間であった頃の様に言葉を流暢に話せる邪剣霊が存在するとしたら、あのルケリヤはまさか、と眉をひそめる。リストメク市街地の住人たちが恐怖に慄いた対象は邪剣霊ルケリヤとアウルス・ボーンと名乗ったムルドという男ではないのか。こちらが真の六十九の番号を与えられた者たちの姿形を知らないだけにまんまと一杯食わされたのではないか。真偽を確かめる方法は真のルケリヤとアウルス・ボーンの面貌を知る人物と接触する事である。
剣霊協会からメツァールントにいる協会長たるエルスノアの身辺を護衛する任務を与えられた。これは好都合なのか、あるいは指示を下す剣霊帝の予見に知らず知らずのうちに付き合わされているとも考えられなくもない。
おい、とイルサーシャの相変わらずの呼びかけに対してユストは何気ない一瞥で応えた。
「我は黙って眺めているつもりだったが…手抜きにも程があると文句たらたらだぞ?」
黒鹿毛の牡馬の今ある心境を語っているのであろう。馬の内面を読み取れるイルサーシャは居ても立っても居られずに白銀の長い髪を揺らしながら歩み、ユストの横に並んだ。
「鬣はもう充分だ。早く背中から後ろ脚にかけて櫛入れをして欲しいそうだ。」
言葉を音で出せる数少ない時間の中にいるのにも関わらず、ユストは普段通りに頷いて彼女の指摘に従った。
「すまんなぁ。本当なら我がそなたの毛を手入れしてあげたいものだが、手が滑って一大事という訳にはいかんのだ。それに今の我は他の事でちと取り込んでいてな…。」
彼女の言う他の事とは己の従者たちについてである。放棄された温室の周囲の護衛を陽が昇るまで任せたという。そして霜が降りた大地に淡い陽光が差し込み始めた頃、満腹で途中で動けなくなったからイルサーシャ自らの手で探して欲しいと彼らは語ったらしい。つまり、放棄された温室内の何処かに黒蛇を模した対のピアスが転がっている。そう解釈した彼女は時期外れの草々の上をあてもなく俯いて彷徨っていた最中であった。
「何処で何を喰らったのか知らんが、動けなるほど夢中になるとは…。ふざけるのも大概にしろとしか言えんよ。」
己のするべき事に辟易を覚えた素振りをイルサーシャは晒した。足許の草を蹴れば白銀の長い髪がたおやかな曲線を描いては元の形に戻る。それまで目に出来なかった星々の瞬きの如く朝日を弾いては煌めく。
「見つかりそうなのかい?」
手の動きを止めずにユストは口を開いた。
「さぁな。だが見つけないと我とそなたが困る。」
「愚生も、か?」
「そなた、あ奴らに助けて貰った回数を知っているか?少なくとも指折り数えても足りないであろう?」
「そうだったね。」
それまで櫛入れをしていた反対側へユストは廻り込んだ。黒鹿毛の牡馬は先程と違って豊かな尾を振り回さずに大人しくしている。
立派な体躯の先でメアリー・メイイェルが体を起こす姿をユストの双眸が捉えた。目覚めが悪そうな様子は多少の距離が離れていようとも、誰の目から見ても明らかである。茫然とした面持ちで肩に毛布を掛けた彼女はユストとイルサーシャの姿を見つけるなり、いそいそと近寄る。肩に掛けた毛布は防寒の為、と表現するよりも己の体を包み隠す為、か弱き心を守らんが為の様に映る。伏し目がちのメアリー・メイイェルの後方をシュンカは軽快な足取りで歩んでいた。
「おはよう。疲れは取れたか?」
初めて聞くユストの声にメアリー・メイイェルは唇に人差し指を当てながら頷いく。さしずめ女の仕草を匂わせている姿を目の当たりにしたイルサーシャは細い眉を上下に動かした。
「声…出るんだね。」
「今日だけだ。剣霊障の影響を受けない日だから、と言えば判り易いかな。」
寝起きの弱々しい声で語るメアリー・メイイェルに向けてユストは彼なりの微笑をこぼして応える。
これがいけなかった。
「そうなんだ。」
「あとは普段と何も変わらないよ。」
「それよりもさ…。」
メアリー・メイイェルの右手がこちらに近付いてきたイルサーシャの袖を掴んだ。相手が剣霊と判っていながらもその袖を掴むとは自虐行為に他ならない。メイイェルの研師たる彼女がこの定理を知らない筈がない。何を血迷ったのか。むしろそうさせたひっ迫した彼女の面持ちに当のイルサーシャでさえ剣霊らしからぬ動揺を隠しきれなかった。
「そ、そなた、手を離せ。怪我をするぞ。」
不用意な制止と警告は高ぶる感情を刺激する。メアリー・メイイェルは袖を握る手に渾身の力を込めた。
「さっきの事、もう喋っちゃったの?」
ぐい、と引き寄せれば実の姿たる剣の重量しかないイルサーシャがよろめくのは当然である。ユストは咄嗟の判断でイルサーシャの腰に腕を廻した。投げ出された馬用のブラシが地を打つ。鈍く味気ない音が短く鳴った。
「さっきの事?我は何も知らんぞ?」
「嘘だ。ユスト・バレンタインはあたいを見てほくそ笑んだ。それが何よりの証拠だよ。」
「そなたの寝起きの顔が酷いからではないのか?」
「そんなでまかせなんて聞きたくないよ。二人して仲良く肩を並べてあたいの事を小馬鹿にしていたんだ。」
イルサーシャの袖を掴むメアリー・メイイェルの手が震えている。口惜しさと恥ずかしさがその様にしているのであろう。そう捉えたユストは空いている手を震えるか弱き手に添えた。無論、常用している手袋越しに他ならない。
「なんだい、さっきまではあたいには触れないって言っていた癖に、淋しい女だと判ったら遠慮なし断りなしなの?」
零れんとする涙をこらえる為に目許に力を込めるメアリー・メイイェルに向けてユストは添えた手を優しく上下に動かした。
「愚生が君を淋しい女とこれまで思った事はないが?」
「思っていなくてもさっき知ったんでしょ?」
「愚生が君に触れられない、と言ったのか?」
「意味の解らない内容ばっかりだったけど、自分の言った事すら覚えていないの?」
「覚えているも何も、君との会話はこの場が初めてだが。」
「それも嘘だ。寝ているあたいの前でいろいろと喋っていたじゃないか。相方には内緒って念押しまでしちゃってさ。」
今度はこちらがほくそ笑んでやる番だ、と意気揚々のメアリー・メイイェルに対してユストとイルサーシャは共に内心で首を捻った。
「ユストは陽が昇るまで我の膝の上で寝ていたのだが。そなた、悪い夢でも見たのか?」
「夢なんかじゃない。イルサーシャの方こそ、あたいが動けないでいるからって、ずけずけと言いたい放題言ってくれたよね?イルサーシャも最後は相方には秘密だ、なんて。実のところ二人は仲が悪いんじゃないの?」
女研師の手に添えられていた剣霊使いのそれが強く握られた。何か思うところがあったのか。痛いとは思わなかった。真剣な眼差しと男の握力の前に、感情に任せて少し言い過ぎてしまったかな、とメアリー・メイイェルは後悔を覚えた。
「相方、と愚生とイルサーシャのそれぞれが言ったのか?」
ユストの容貌を間近にしたメアリー・メイイェルは顔を背けて頷いて見せた。先程まで彼が醸し出していた柔らかさは消え失せ、剣士の双眸に飲み込まれそうになったからである。
「正直に答えて欲しい。その時に君は愚生とイルサーシャの姿を見たか?」
「見ていないよ。瞼が重くて開けられなかった。見えていないからって自分達じゃないなんて理由にならないよ。だって声といい、雰囲気といい、二人そのものだったからね。」
淋しげに俯けば左右に分けた砂色の髪が同じ様に項垂れた。
「訳の判らない事と言ったな。覚えている範囲で構わない、愚生たちに教えてくれないか?」
「あたいが嬉しいと思ったら、それは頂けないとか、悲しいと感じたら喜んだり…。」
珍しくもイルサーシャが溜め息を漏らし、メアリー・メイイェルの言葉を遮った。
「辛い若しくは苦しいと胸の内で叫んだら、腹一杯になったと我かユストのどちらかに言われたと。」
ほら、知っているじゃないか、と言いたげにメアリー・メイイェルは俯いていた顔を僅かに上げ、恨めしそうにイルサーシャを見据える。青みの濃い瞳は苦々しさを滲ませている剣霊の表情を映した。
「そうだよ、イルサーシャはシュンカに向かって獣肉なんて喰えるか、て息巻いていたんだ。裏を返せば、動物に対して、命あるものに対して殺す事と食べる事しか考えていないんだ。」
そうであろうな、とイルサーシャは判りきっている口調で言葉を続けた。
「我は肉を口にしない。だが、あ奴らなら時と場合によっては喰らう。しかも我の命令で無理矢理に、だ。常々の鬱憤を我の姿に成りすましてそなたにぶつけた、という訳か。」
無言で頷いたユストは握るメアリー・メイイェルの手を離し、イルサーシャは緑色の瞳に呆れの色を差している。二人の様子からして事の真相を突き止めたらしい。
「すまなかったな。だが、そなたのおかげであ奴らの居場所に見当が付いたのも事実。」
イルサーシャは爪先をメアリー・メイイェルが先程まで伏していた場所へ向けた。
「さっきからあ奴らって誰なの?」
イルサーシャもユストも答えない。ふらりと歩み始めた剣霊を視線で追う契約者の横顔をメアリー・メイイェルは見上げる。
白地に黒の幾何学模様が走るドレスの裾が静かになった。腰を屈め、探し物を片手で拾い上げて拳を作る。まるで懲らしめているかの様にか細い手首の腱が浮き出るほど握り締めている。そのまま歩み始めた元の位置、つまりメアリー・メイイェルの脇に戻ると握り締めていた手を広げて見せた。
「あ奴らとは我の従者たちの事だ。」
水仕事とは無縁の掌の上で鎌首をもたげた黒蛇と自らの尾を咥える黒蛇のピアスが共に凄まじい睥睨を撒き散らしていた。
左右それぞれが在るべき場所である耳へ戻すべく、イルサーシャは首を交互に倒しつつ言葉を続けた。
「人間の心の中に蟠る感情がこ奴らの糧だ。普段はユストのそれらを喰らっている様子だが、なるほど、目の前に活きの良い無垢な娘が現れたとなれば見過してはいられなかった、という事だそうな。」
「だそうな、って…ピアスと会話が出来るの?」
「まぁな。常々我に語り掛けてくるぞ。」
「あたいはピアスに弄ばれたの?」
「これはあくまでも仮の姿だ。」
すらりと伸びた剣霊の指が左右の黒蛇のピアスを弾く。揺れ動こうとも睥睨に変化は生じない。
「本来の姿は人前には見せたくないと聞いたことがある。その昔、ある人間に見せた途端に卒倒されたらしい。」
「その昔ってイルサーシャは一緒じゃなかったの?」
「どうであろうな?そもそも我もこ奴らの本来の姿を知らんよ。」
それは初耳である。何気なく女たちの会話を聞いていたユストは目を見開いた。己の父や母の姿も模して語り掛けてくるのは偽りであるのは理解している。しかし、強靭な体躯を持ち、あらゆる存在を呑する黒蛇というのも仮の姿なのか。
これまでの認識が何気ないたった一言で覆されてしまった。この様な時に煙草を一本、口に咥えれば少しは気が紛れるというものだが、既に切らしている。腕を組み、些か難しい表情を浮かばせているユストの傍らにシュンカが近付いた。彼を見上げて口を開けば鋭い犬歯の間から長い舌が現れる。
「腹が減ったか。愚生ではなく君の友人にお願いするべきだな。」
手袋越しの手が狼の頭を撫でる。怒りは無論、嫌がる素振りすら見せない。その光景を知ったメアリー・メイイェルは剣霊とその使い手の言葉に虚偽はないと確信せざるをえなかった。
「判った。二人の言葉は信じるよ。取り乱してごめん。」
申し訳なさそうに、気恥ずかしそうに軽く頭を低くするメアリー・メイイェルの肩にユストの手袋越しの右手が添えられた。
「頭を上げてくれ。あの黒蛇のピアスについて理解しようと受け入れようとしても、なかなか難しいのは君より長い付き合いの愚生ですら同じだ。」
添えられた手が離れた。さて、もう少しこの場の景色を眺めていたいが、とユストは羽織る黒いコートの襟を立て、首に巻き付けている協会支給のスカーフをずり上げて口許を覆った。
「そろそろ出発の用意をしないとな。」
踵を返した剣霊使いは黒鹿毛の牡馬を曳いて出入口へ向かう。柔らかな畝を形成する黒のコートに同調しているかの様に黒鹿毛の牡馬の豊かな尾が左右に揺れている。
陽は昇る勢いに衰えを見せず、薄汚れたガラスの壁面を経た陽光に照らされた時期外れの草々は煌々とした化粧を施されていた。冬だと思えない光景にどうして今まで気づかなかったのだろうか。雲に覆われていない澄み渡った冬の空は見る者の胸に響く。とりわけ北国では貴重な一時であり、有難みすら感じてしまう。
黒い背中が遠退けば白銀の長い髪を持つ剣霊に焦点が合う。彼女もメアリー・メイイェルの視線に気付いたのか、人差し指を上に向けて二三度動かした。近くに来いと呼んでいる。
「なぁ、実は我もシュンカに餌付けをやってみたいのだが。」
「餌付けって?」
「ほら、干し肉をぶら下げてだな…。」
あぁなるほど、とメアリー・メイイェルはイルサーシャが欲するところを理解したが、就寝時に干し肉を懐に忍ばせる習慣は身に付けていない。
「ごめん、今は手持ちがないよ。馬車に戻ってからだね。」
「そうか。」
「ねぇ、イルサーシャ。さっきは酷い事を立て続けに言っちゃってごめんね。」
「構わん。言いたい事は遠慮せずに言えば良い。その方が後腐れなく済むからな。」
「そうかもしれないけど…。」
「そなたらしくないぞ。先程から謝ってばかりだ。」
そう言い放ったイルサーシャは先を歩くユストに倣って歩みを始め、メアリー・メイイェルも肩に掛けた毛布に両手で押さえながら後を追う。無論、シュンカもメアリー・メイイェルの傍らを離れずに四股を動かした。
「あと最後に一つ…。あたいの秘密、ピアスからもう聞いたの?」
女の切ない眼差しに女はそれとなしの表情で応えた。
「さぁ?こ奴らの言う事は話半分で聞いているからな。そうでなければ我とて身が持たんよ。」
黒鹿毛の牡馬が曳く幌馬車が放棄された温室を後にした。
それはメアリー・メイイェルが安堵の表情を浮かべてから十分も経過していない頃であった。




