寂しく淋しい夜
寄り道は楽しい、とは必ずしも言い切れない。
己が主導権を握らずにただ連れ回されているだけではないか、と自覚してしまうとどうなるか。単に一人勝手に憤るなり遠慮なしに不平を漏らす者もいるだろう。
だがそれでは場の雰囲気がぶち壊される。己がほんの少し我慢すれば何事も穏やかに事は進み、全てが丸く収まると知る者は迷わずその様に選択する。退屈という感情が得も言われぬ勢いで己の中を占めようとも、ひたすら当初の思いを貫く。
げんにユストは最後の一本となった煙草を咥えながら目前の景色をその様に眺めていた。目にするのも些か飽きた針葉樹の樹彩は相変わらずである。目新しい点を言うなれば、細やかな湧水地の袂でメアリー・メイイェルが生真面目な顔をし、数歩離れた場所でイルサーシャが物珍しげに首を傾げていた。川霧豊かな著名な川の源流となるには乏しいものの、清廉たる石清水らしく辺縁の地の景色に相応しいものが感じられるのが唯一の気休めか。
事の発端は元中央王政国家の四人組を屠った後である。彼らが履いていた剣をメアリー・メイイェルが膝を折って恐る恐る拾い上げ、戦いの場となった開発を放棄された支線から幹線に戻る。その際に彼女は黒鹿毛の牡馬の蹄が奏でる音に混ざるせせらぎを聞き取った。まるで計算されたかの様に張り巡らせた苔生す針葉樹の隆起した根と根の間をちろちろと石清水が薄暗い景色に心なしか潤いを与えている。支線に飛び込んだ時、メアリー・メイイェルは恐怖一色に染まりきっていたのだから気付かなかったのも無理なかろう。
研師たるメアリー・メイイェルにとって水に対して他人には理解できないほどの拘りがあるらしい。現場調達の好都合も相まって源流まで足を延ばしたい、とユストとイルサーシャは請われた。拒否する理由を無理に探す必要もない。むしろ目的地であるメツァールントで彼女の目に適った水が入手できない場合も考えられる。頼りなくも可愛らしい水流からして湧水地は近いと見るべきか。判断はそなたに委ねるぞ、と言いたげな眼差しを送るイルサーシャを一瞥した後にユストは剣霊協会公認の研師に頷いて見せた。
湧水地へ向かうのは徒歩である。幌馬車が通れる道幅はおろか、人間が通るにも多少の難儀が見込まれる。適当な幹の太さの針葉樹に手綱を括り付ければ黒鹿毛の牡馬は鼻を大きく一回鳴らした後に大人しくなった。自らの置かれた状況を理解しているのであろう。
メアリー・メイイェルは彼女の胴より一回り大きい木製の桶と陶製の小さな皿を右脇に抱えて荷馬車から降りた。左脇には携行用の水袋がある。色と艶の具合からソノイの樹脂を塗って撥水加工を施した幌と同素材と思われる。左右の脇どちらかを楽にしたそうなメアリー・メイイェルの様子を知ったユストは遠慮なく両方差し出せ、とイルサーシャに代弁させ、それぞれを彼女と同じ様に抱え込む。右側よりも左側の方が見た目に反して重く感じられた。
若き女の研師と彼女を慕う狼、そして剣霊とその契約者が湧水地へ辿り着いたのは支線からさらに三百メートルほど脇に入り込んだ箇所であった。
勢いが緩やかではあるが、絶え間なく湧き出る石清水を陶製の小さな皿で掬い、その縁にメアリー・メイイェルの冬の乾燥した唇が触れる。
「思っていたよりも硬くて歯に沁みるけど、南の水に似ているよ。」
そう嘯いた彼女は足許で興味津々の顔を見せているシュンカの前に陶製の小さな皿を置いた。
「冷たいから少しずつね。一気に飲んだらお腹を下すから。」
長い舌を器用に使って水を喉の奥へ運ぶシュンカの毛並みの具合を確かめる様に、頭から尾の付け根まで緩やかに擦る。せせらぎの弱々しい響きは心身を穏やかにする作用がある。シュンカは郷愁を仄めかす水の味を吟味しては生まれ育った、そしてメアリー・メイイェルと初めて出会ったときの景色を思い描いているのかもしれない。
さて、とメアリー・メイイェルは立ち上がり、左右に束ねた砂色の髪の先端を躍らせた。
「イルサーシャ、湧き水を幌馬車まで運ぶから手伝って。」
「我は手を貸さんぞ。」
無碍な即答にメアリー・メイイェルは目尻をきつくした。
「厳密には出来んのだよ。」
イルサーシャは手頃な岩の上に腰を下ろすなり、両手を左右それぞれの腰より後ろに突いて寛いだ姿勢をとる。薄暗い針葉樹の森の中でも陰影を与えられた剣霊の鎖骨の窪みが冷たくも麗らかに映えた。
「そなた、剣に荷役をさせるつもりか?そもそも我はグラス一杯の水を持つ事すら難儀でな。」
厳密にはグラス一杯程度なら持ち上げられる。しかし、それを超えた重量は無理である。単に大言を吐いているだけだと思い込んでいるメアリー・メイイェルは浅い溜息を吐くと共にイルサーシャに一歩近寄った。
「そんなの野良作業をしたくないっていう単なる屁理屈だよ。」
「屁理屈なものか。物を持ち上げて動かすにはそれに見合った自重が必要だ。我の重量はそなたの五分にも満たないんだぞ?剣霊協会認定の高名な研師様ならそれぐらい理解していると思ったのだが。」
「その気になれば重い物も持てるんだよ?」
「それは人間の話であろう?我は剣霊だ。触れる物を斬る事しか出来ない剣霊がするべき事ではないとそなたは判らないのか?」
奇妙な論詰めで頭を上から押さえ付けられた、と歯ぎしりをせんとするメアリー・メイイェルの前でイルサーシャはふんと鼻を鳴らして顎に角度を与えた。岩の上で白銀の長い髪の先端が規則性のない模様を描き出す。
「我は無理だが、なに、ユストがそなたの期待に応えてくれるぞ。」
「彼はあたいの中で既に労力の一つとして計算しているよ。」
「ならば我が手を出すまでもなかろう?」
「ここにいる皆で運べば手っ取り早く終わるよ。」
「我は役に立たないが、そうであろうな。」
「運び終えた後はこの水を沸かして珈琲を淹れて、みんなで飲もうと思っていたんだよ。」
「なるほど。」
顎の角度はそのままに、ちらりとユストへ視線を投げたイルサーシャは様子覗いなのか、首を横に傾けた。
「寒い中で一仕事終えた後に温かいものを飲むと落ち着くんだよ。」
「ふうん。」
「斬る事しか出来ない、力仕事と無縁な剣霊には判らないと思うけど。」
「判らなくて結構だ。」
とっとと作業に掛かれ、と言わんばかりにイルサーシャは顎をしゃくる。メアリー・メイイェルとしては最大限に考えられる嫌味を口走ったつもりであったが、易々とかわされてしまった。
姦しいのは我慢出来る。女同士、しかも年頃の女同士であり、生まれ育った環境や今ある立場は異なるが、共に一家言を持つ一筋縄ではいかない女が己の主張をぶつけ合う会話だ。ただこのまま無駄な時の流れを傍観している余裕はない。ユストは鼻から煙草の煙を吐きながらメアリー・メイイェルの足許に転がる木製の桶を見つめた。これに湧き水を満たし、水袋に移し替えて幌馬車まで運ぶ。三往復ほどで若き女の研師が必要とする量を満たすだろうか。実のところ、身体が水分を欲してもいた。一仕事終えていなくても安堵の溜め息を漏らさせてくれる珈琲に早くあやかりたくもあった。
ユストの視線を追い、彼が何を思い描いているのかを読んだイルサーシャは致し方ないな、と嘯くと共に大儀そうに腰を上げ、木製の桶の淵に手を掛けた。
「もういいよ。あたいとユスト・バレンタインの二人でやるからイルサーシャはシュンカと遊んでいてよ。」
既に相手にするのも面倒な口調のメアリー・メイイェルの前でイルサーシャは左右の口角を僅かに上げる。少し言い過ぎたのかもしれないと自責の念に駆られたのか、とユストは己の剣霊の懐の深浅を覗った。メツァールントに辿り着けばメアリー・メイイェルの手によってイルサーシャの手入れが施される。ご機嫌取りをしろとは言わない。だが、変な蟠りを作らせて研師の技量と心意気に差支えが生じさせるのは極力避けたい。
「手っ取り早くだったか。その点に関して我も異論はないのだがな。」
「でもこの桶すら重過ぎて持てないんでしょ?」
「我は、な。だが我の従者なら話は別だ。」
ここで気難しい奴らを使うのか、とユストは眉をひそめた。果たしてどちらをどの様に使うのか見当が付かない。
従者とは何に対してであろうか、とメアリー・メイイェルが首を捻るのも頷ける。事情を知らなければそれらしき姿が見当たらないからである。か細い指が左右の横髪を耳に掛け、白銀の長い髪がたおやかな曲線を形成しては元の形に戻った。
「従者とはこ奴らだ。そなたが好きな方を選べ。」
黒蛇を模した非対称のピアスが冬の大気に晒された。常人であれば単なる装飾品に何ができるのか、と呆れと訝しみを満面に表すが、相手は剣霊である。人知を超えた能力の一片を垣間見せてくれるかもしれないと朧気ながらも期待を寄せてしまう。造形物にしては妖しい睥睨にメアリー・メイイェルは一歩、後ずさりした。だが、左右の形状の違いを知ろうと逸らした視線が焦点を合わせる。
「なんだか生きているみたいだね?」
メアリー・メイイェルの言葉は左右の黒蛇のピアスに対する賛辞と受け取るべきか。怖いもの見たさではないが、彼らの漆黒の輝きは飽くなき魅惑を湛えているのも事実である。思えばイルサーシャが人前で自らの両耳を晒す行為は稀と言えた。彼女にとってメアリー・メイイェルという女は自ずとそりが合い、心を許せる相手と捉えているのであろう。
「いきなり噛みついたりはせんから安心しろ。で、どちらにするのだ?」
果たしてどちらを選ぶべきか悩むメアリー・メイイェルの剣を研ぐ指が動いた。
「…わっかの方かな。」
「気難しいが、やるべき事は完遂する方を選んだか。まぁ、それも良かろう。」
「じゃあ反対側だったらどうなの?」
「従順で無駄なく利口だが、ちと勘違いをする。」
へぇ、と無言では申し訳なさそうな反応を見せるメアリー・メイイェルの思惑など気にせずにイルサーシャは右のピアスを外す。親指と人差し指の腹を使い、自らの尾を咥える黒蛇の体躯を撫で始めた。
彼らに指示を与える時は言葉で言い聞かせる。その姿を褒め、些細な事を漏らさずに意思を伝える。まるで神に祈るかの様にイルサーシャは連々と言葉を連ねるが、その一句一句はユストの耳までは届かない。傍らのメアリー・メイイェルはこれから何が起きるのか期待の眼差しを送り、その横に佇むシュンカは平静と共に剣霊の物珍しい行動を見上げている。
「いや、呑み込めと言ったのは湧き水だけだ。狼は対象ではないぞ?」
やや語気を荒げるイルサーシャの意図を凡そ勘付いたユストは最後となった一本を投げ捨てた。足早にイルサーシャに近付くなり、ピアスを摘まんでいる側の手首を掴んだ。
(呑み込ませた後、どうするんだ?)
血相を変えて、には程遠いが、普段よりもややひっ迫しているユストの面持ちはイルサーシャの親指と人差し指の動きを止めさせた。
「そのまま幌馬車へ運べば良いのであろう?単純明快ではないか。」
(いや、そうではなくて、君の従者が呑み込んだ湧き水はどうやって元に戻すんだと聞いている。)
「口から吐き出させるのに決まっているだろう?」
やはり。自分でも判るほどの苦い表情をユストは描いていた。
(その吐き出された湧き水を用いて愚生たちに珈琲を飲ませるのかい?)
「安心しろ。こ奴らはそこいらの生き物とは別物だ。何も交じりはせんよ。」
(そうとは言え、吐き出されたものを飲む側の気持ちと言うものを君は…。)
「鳥を模した水差しがあるだろう?あれも嘴から水が注がれる。それと同じだと思えばよかろう。」
水差しはあくまでも造形物であり、その姿かたちは写実よりも凝らした意匠に重きを置いているからこそ、抵抗なく注がれた水を口に含む事が可能と言える。そして彼女の従者たちとの決定的な違いは意思の有無である。たまに勘違いするのは君自身ではないのか、と窘めるべきか。だが彼女の機転と好意を真っ向から否定するのも如何なものか、ともユストは心の奥底で囁く己の声に耳を傾けていた。彼女は今、髪の引っ掛かりが気になるという。本調子ではない。多少の意見、意向の食い違いには目を瞑るべきなのかもしれない。
手首を掴んだままのユストに向けてイルサーシャは躊躇いもなく口を開いた。
「そなた、口からがどうしても嫌だったら下から…。」
(それも断固として断る。愚生が全て一人で三十分以内で終わらせる。)
ユストの内なる声を聴けないメアリー・メイイェルにとって、一組の剣霊とその契約者の間で遣り取りが繰り広げられていた、と凡そ見当はつくものの、その詳細までは判らない。イルサーシャは再び手頃な岩に腰を下ろして外した右のピアスを元の位置に付け、ユストは平静を繕いつつもどことなく仏頂面を覗かせている。仲違いでもしたのかな、と気まずく思う中、木製の桶へユストの手が伸びた。
「水汲みはあたいがやるよ。運ぶのをお願いしてもいい?」
ユストは頭を振り、桶を手前に引き寄せた。
「手出しは無用だ。力仕事はユストに任せておけ。」
「でも…。」
「三十分以内で終わらせるそうだ。」
そう言い放ったイルサーシャは後頭部に両手を添えて体を倒し、仰向けになったまま脚を組む。一方のユストは木製の桶が湧き水で満たされるまで羽織る黒いコートの裾を冬の大地の上にたわませている。八分目あたりで水袋に移し替える。これを二回繰り返す。
「結構重いよ?大丈夫?」
メアリー・メイイェルの心配をよそに、ユストは平然と背負った。男と女の違いであると理解しているが、その事実を目の当たりにすると同時にメアリー・メイイェルは目尻を柔らかに細めた。
「転ばない様に気を付けて。」
相変わらず黙然と頷いて答えたユストが踵を返せば羽織る黒いコートに染み付いたイルサーシャの移り香が仄かに漂う。メアリー・メイイェルは力が抜けた両腕を垂らしたまま、ユストの水袋越しの黒い背中を見つめていた。
「そなた、あれの前ではしおらしいんだな。」
「そんな事ないよ。イルサーシャの気のせいだよ。」
イルサーシャの指摘を否定したメアリー・メイイェルは彼女に一瞥もくれずに木製の桶を手にした。それまで乾いた色合いであった木製の桶の内側が深いそれに変化している。ユストと同じ姿勢をとり、湧き水を満たそうとする。その横ではシュンカが脚を折って座り込んだ。
「我の気のせいかなぁ?」
「そうだよ。」
「そのわりには湧き水を汲むあれの横顔を穴が開くほど見つめていたな?」
青みの濃い瞳に動揺が走り、左右に束ねた砂色の髪が踊る。イルサーシャは相変わらず仰向けの姿勢のままである。生気とは無縁の唇は真一文字に結ばれ、趣のある緑色の瞳は闇を与えられていた。
「実は少し歳の離れた兄貴がいたんだ。あたいが生まれる前に病気で死んじゃったけど、もし生きていたら、ユスト・バレンタインがしてくれた様にあたいの面倒を見てくれていたのかな、と思っていたんだよ。」
「だが、あれはそなたの憧れや理想の兄ではない。我の契約者だ。」
「判っているよ、そんな事。メイイェルの研師に男はいらないんだ。」
「そうか。判っているのなら構わんのだが。」
シュンカが鼻を鳴らすと共に、メアリー・メイイェルは刺さる様な冷たさに、あっと感嘆の声を上げた。湧き水が木製の桶から溢れ始めている。
メアリー・メイイェルの言葉に嘘はなかろう。桶に汲む湧き水を溢れさせるほど、動揺を隠せなかった。しかし、己の内側を脳裏で抑制しきれるものだろうか。人間とは、強いては情火という衝動に身を任せた女とは時として大方の予想に反する行動をとるものである。
イルサーシャは仰向けの姿勢を崩さずにそれまで組んでいた脚を入れ替えた。心地良い衣擦れが冬の空気を震わせてはすぐに消える。凛々しさの一端を担う瞼が動き、緑色の瞳は闇から解放された。針葉樹の無数の葉の先で限りを知らない広がりを見せる灰色の世界に無数の点が生じる。雪がちらつき始めた。
湧き水の汲み取り作業は結局のところ、およそ二十分足らずで終了した。
ユストが幌馬車の中で水袋からやや大きめの甕に中身を移し替え、湧水地に戻ろうとした最中、手ぶらのイルサーシャと木製の桶を脇に抱えたメアリー・メイイェル、そして足取りが軽やかなシュンカが姿を現したからである。
降雪によりその場を離れたと言う。確かに今ははらはらと舞う程度の雪景色だが、時の経過と共に勢いを増す可能性も十分に考えられる。この先、簡易宿泊所と思われる施設は存在しないと踏むべきであろう。街道を含めた一面が白銀の世界に模様替えするよりも早く、目的地であるメツァールントに向けて出発する旨をユストはイルサーシャを通じてメアリー・メイイェルに伝えた。
つまるところ、湯を沸かして珈琲を淹れ、身体を休ませながら至福の溜め息を漏らすのはまたの機会までお預けになってしまったが、身動き出来ずに無駄な時間を過ごすよりは遥かにましである。
ユストの考えに僅かな疑問すら抱かないメアリー・メイイェルは幌馬車の中で木製の桶を異なる大きさのそれらに重ねて仕舞い込む。雑多な音が幌馬車の中で響く中、なぁユスト、と暇を弄ばせているイルサーシャは普段と変わらぬ調子で己の契約者に声を掛けた。
「そなたが手綱を執った方が早いかもしれんぞ。そもそも雪がちらつく寒空の下、か弱い女に御者台に座らせるつもりか?」
イルサーシャの意見は尤もでもあるが、会話を重ねる事でメアリー・メイイェルに情が芽生えたのか、ともユストは勘繰った。別に悪い事ではない。それまでどれぐらいの時間を要するかは見当が付かないが、メアリー・メイイェルは剣体となったイルサーシャの手入れをする。意識もなく無抵抗の剣体を託す相手と気心が知れた仲であるのは大いに結構と言えよう。
ユストは羽織る黒いコートの襟を立てると顎先を上に向けてのスカーフを解いた。降雪の中で馬を操る際に体温の低下を防止する目的で口許を覆う為である。襟の隙間から見えるか見えないかの位置に存在する食痕の部位をさすりながらユストはメアリー・メイイェルに近付く。手袋越しの人差し指を用いて幌馬車の床を二回指さした。
「ここにいろって事かな?」
そうだ、と頷くユストの前でメアリー・メイイェルは飾り気のない笑顔を見せた。
「声が聞こえなくてもユスト・バレンタインの考えがちゃんと判るようになったんだね、あたいは。」
既にスカーフで口許を覆ったユストの表情は読めない。だが、イルサーシャにはあの黒字に黒の刺繍が走るスカーフの下では微笑を湛えていると判っていた。
兄を慕う妹か、と思う。その逆はどうであろうか、ともイルサーシャは脳裏の片隅で思い描いた。ユストに兄弟がいないのは日頃から摂取している彼の血そのものが物語り、紛れもない事実であろう。彼自身の口からも、もし血を分けた兄弟がいたならば、と空想上の話に花が咲いた覚えもない。それは言い換えれば、人間であった頃の記憶を持たないイルサーシャへの配慮とも考えられる。
我は彼に気を使わせ過ぎているのか、と新たな、とても湿った感情が芽生え始めた。その様な事は断じてあり得ない、ユストが自ずと意に介さずに我と常々接しているのだ、と否定しようとも拭いきれない。気を紛らわせようと白銀の長い髪に手櫛を入れれば引っ掛かりが気になる。イルサーシャの中で陰鬱な気持ちが無限大の広がりを見せた。
ユストが御者台へ消えてから十秒と数えない内に黒鹿毛の牡馬が鼻を震わせる音が小さく響き、幌馬車の木製の車輪はぎこちない音を奏で始める。横座りの姿勢でユストが示した位置に腰を下ろしていたメアリー・メイイェルは己の幌馬車の揺れに体を合わせているのが飽きたのか、立ち上がるなり雑貨の山の中から彼女の掌に収まる大きさの物体を取り出した。携帯用のやや黄ばんだ透明色のそれは固形燃料であった。
「外は寒いし、やっぱり珈琲を淹れてあげようと思って。」
イルサーシャの視線を知ったメアリー・メイイェルはブリキ製の小さなポットにユストが運んだ湧き水を柄杓で注ぎながらその様に答えた。使い込まれた五徳の下に、同じく色に斑が広がる鉄製の椀の中に固形燃料を置く。ユストよりは幾分ぎこちない手つきでマッチを擦り、固形燃料の上に投げ入れる。柔らかな炎が広がった。
「そういえばイルサーシャ、例の従者に湧き水を持たせたままだよ。早くその甕の中に注がせなよ?」
「あぁ、そうだったな。」
上の空という表現がしっくりと当て嵌まる様相のイルサーシャは右の指を打ち鳴らそうとしたが、ふと思い留まらせた。
「湯にする分は汲み取ったか?」
「今ポットに注いだのを見ていたでしょ?」
そうだったな、と再び同じ言葉を用いて答えたイルサーシャは指を打ち鳴らした。剣霊とメイイェルの研師の視線が注がれていようといまいと、甕の中身が自然と増す。失われし兄への憧憬がメアリー・メイイェルの中で膨張するかの様に、とりとめのない懸念にイルサーシャの心の襞が浸されるかの様に、それこそ水が湧き出でるかの如くである。
普段使い用なのか、装飾が施されていないこげ茶色をした飲み口の厚い陶製のカップ二杯それぞれに粉末状にした珈琲豆を目分量で入れ、湯も目分量で注ぐ。曇った輝きのスプーンで中身を交互に二三回掻き回した後に、ここでは本格的な道具はないからさ、でも数分したらカップの粉が底に落ち着いていい味を出すんだ、とメアリー・メイイェルは我流の淹れ方について釈明をする。しかし、珈琲に対する関心が微塵もないイルサーシャは黙って右側の耳に黒蛇のピアスを付け直していた。
「イルサーシャも飲んでみる?」
「いらん。それよりもユストに飲ませた方が良かろう。外は冷える。」
「イルサーシャが運ぶ、と言っても無理だったよね。」
「あ、あぁ…。そなたが持っていってやれ。」
以前、エジュ・エジェ市街地にて珈琲が注がれたカップを片手に持ち、零さない様に歩いた事をイルサーシャは思い浮かべていた。あの時は大変だったとは思っていない。むしろ彼の為に出来る事が一つ見つかったと、ささやかな発見に密かに喜んだものである。しかし湧水地で大言を吐いた以上、今更己の口から出た内容を翻すにはばつが悪過ぎた。
珈琲の湯気がうっすらと立ち上るカップを両手に握るメアリー・メイイェルは一緒に御者台に行かないか、とイルサーシャを誘ったが、彼女は頭を振った。剣霊として雪を嫌っての事であろうと判断したメアリー・メイイェルは大人しくしていたシュンカに声を掛け、揃ってユストが手綱を握る御者台へ姿を消した。
生ける者たちは横に並び、何を話すのであろうか。いや、何を共有するのであろうか。生とは無縁の、契約者以外は全てを切り刻む剣霊はただ独り残された。素直に御者台へ行けば良かったものを、とイルサーシャは後悔した。雪が多少付着しようとも払い落とせば大事には至らない。さりとて一歩を踏み出すのを躊躇ってしまった。嫌な女だと自らを卑下しようにも募る寂寥感が勝り、それを認めたくない己の感情が緑色の瞳に虚無を差し、伏し目がちにさせる。
幌馬車の車輪が奏でるぎこちない響きと未だに慣れない独特な揺れ具合が続く。
幸いな事に降雪は数時間ほどで収まった。天を覆う厚い雲は動く気配を見せていない。街道を彩る景色に微かに施されたであろう冬化粧は星々の瞬きに応える機会は失われてしまった。柔らかな光を発する月を望もうにも、例え厚い雲が強風に煽られて霧散するなりしようとも、それは叶わないと理解している者の数は如何ほどか。
新月の日が訪れようとしている。剣霊障の煩わしさから解放される一方、剣霊の剣霊たる能力が著しく低減する日でもある。つまり危機回避の度合いはもとより、戦いの場に身を置くとなれば、不安を抱えながら敵と対峙しなければならない。
闇に眼を慣らそうにも限度ある。明かりを灯そうにも獲物がここにいると相手に知らせるようなものでもある。一時的に身を隠す場所はないか、と手綱を握るユストの双眸は流れ去ろうとする左右の景色に目を凝らす。比較的大きな建屋が映った。人里離れた街道の脇に住まう厭世感に身を浸した好事家の邸宅だろうか。何処にでもその様な類の人間がいる。幌馬車と馬一頭が収まるには充分過ぎる敷地で一晩やり過ごすべきであろう、と意を固めたユストは馬首を街道の脇に向けた。そもそも黒鹿毛の牡馬が若くもない事もあり、疲労気味である。動かす脚がメアリー・メイイェルと出会った時よりも明らかに鈍くなり始めていた。
夜間の侵入者と怪しまれた場合、北部の金貨を一二枚、気付けとして渡せば邸宅の主はて見ぬふりをするであろう。速度を落として目的地へ近づくにつれ、ユストの眼差しは怪訝の色を湛えた。家屋にしては素気ない造りに思える。
建屋は温室であった。放棄されてからそれなりの年月を経ているのだろうか。壁面となるガラスは薄汚れにより濁り、一部は破損している。幸い、天井部は穴が開いていない。こちらも篠突く雨と豪雪に長年耐えた証として人為的ではない模様がうっすらと描かれていた。そして大空の気まぐれによる影響を殆ど受けていない内部は貧相な雑草が観賞用の植物ばりに遠慮なしに生えている。
御者台から降りたユストは温室の出入り口を何か思い当たる節が有り気に眺めた後に幌馬車の中で大人しくしているイルサーシャとメアリー・メイイェルに顔を見せた。
「何か問題でもあったの?」
手綱を離した事に対する不安を言葉と表情で語るメアリー・メイイェルへユストは頭を振って応え、イルサーシャのか細い肩に左手を置いた。
「今夜はこれ以上先に進むには難がある。ここで露営するから外に出ろ、との事だが…。」
「疲れたのなら、あたいが手綱を握るよ?」
「誰が手綱を捌こうと、操る馬は一緒だ。」
イルサーシャの言葉を借りたユストの指摘に気付いたメアリー・メイイェルは乗り出した身を元に戻すと座ったままのシュンカの背中を撫でる。
「仮に馬が持ったとしても、メツァールントに到着するのは草木も寝静まる頃だ。幸いな事に雪も収まった。急いて皆して体力を無駄に消耗する必要はなかろう。」
「それ、イルサーシャの意見?それともユスト・バレンタイン?」
興味と関心が織り込まれた視線が剣霊とその契約者のそれぞれの顔を見比べる。
「剣は柄を握る者の意思に従うだけだ。我の考えの訳が無かろうに。」
イルサーシャは己の肩に置かれたユストの左手を払い除け、白地に黒の幾何学模様が走るドレスの裾を翻した。どうやら虫の居所が悪いらしい。幌馬車という狭い空間の中に閉じ込められて鬱屈した雰囲気に呑み込まれたのか、あるいは知らぬうちにメアリー・メイイェルと仲違いでも起こしたのだろうか。ユストは何かあったのか、とメアリー・メイイェルに視線を投げたが、彼女は不思議そうに首を捻る。君も早く外に出たまえ、と後ろ姿のイルサーシャに向けて人差し指を二回動かす。その際に視界の奥に映った白銀の長い髪の揺れ具合が普段よりも勢いがある事にユストは気付いただろうか。
温室の開口部の高さは二メートル半前後はある。これだけあれば黒鹿毛の牡馬も体高を気にせずに中に引き込める。無論、幌馬車自体は温室の脇に放置する事になるが、時間にして半日にも満たない程度の話である。その旨を幌馬車の持ち主たるメアリー・メイイェルにユストは伝え、彼女は難色を示さずに嬉々として温室の中に身を躍らせた。気持ちは小旅行気分なのであろう。やれやれとユストは音無き短い溜め息を漏らした後に黒鹿毛の牡馬を曳いて温室の開口部を潜る。その上部に意匠を凝らした桟による装飾が施されているのが夜目に判る。
二人よりも先に温室の中でイルサーシャは腕を組んで佇んでいた。温室の床形状を長方形として、中心よりもやや左寄りの奥である。
「そなたたち、体を休めるなら我が立つ位置付近にしてくれ。ここなら隙間風の影響が少ない。また、もしもの時はすぐさま脱出路を確保出来る。」
放棄されて久しくとも冬の外気を隔てた空間に細やかな安堵を覚えたのか、シュンカと黒鹿毛の牡馬はイルサーシャが指摘した付近で両脚を綺麗に折って座り込んでいる。動物たちは剣霊が身の安全を保障してくれると理解している。脱出路とは彼女が繰り出す斬撃の衝撃でガラスの壁面に穴を空ける即席のものであろう。
小旅行気分が落ち着きつつあるメアリー・メイイェルは露営の為に必要な品を幌馬車から運び込み始めた。土の上で直に横にならない様にと敷物を二枚、防寒用の毛布は一枚しか所有していないと相談を持ち掛けられたが、ユストからしてみれば普段から羽織る黒のコートがあれば事が足りた。
使い込まれた質素なカンテラに明り取りとして火を灯し、食事の用意を始める。献立は携行と保存に優れた固形スープを熱湯で戻し、その中に石の様に硬い乾燥したパンを力尽くでちぎって入れた簡素な一品である。簡素であろうとも、煮込むにつれて食欲をそそる匂いが立ち込める。鼻をひくつかせたシュンカには初めて出会った時の様に干し肉を食べさせ、黒鹿毛の牡馬には幌馬車の隅に貯め置きしてあった干し草を与えた。
虫の声や風の囁きすら耳に届かない温室の一角で各々が口を動かす。シュンカの遠慮を知らない咀嚼音、黒鹿毛の牡馬が漏らす鼻息、ユストとメアリー・メイイェルが握るスプーンの先端がスープ皿の底に擦れる音。イルサーシャは何も奏でない。独り静かに腕を組み、意識を周囲に張り巡らせている。
「とても寂しい夜だよ。」
メアリー・メイイェルはそう嘯くと手にするスプーンをそのままに温室の天井を見上げた。壁面を這う蔦の慣れ果てを経て、薄汚れたガラス貼りの天井の向こうは暗い空が広がっている。月の姿はおろか、星々の瞬きも感じられない。
確かに寂しい夜だとユストも感じていた。だが今は談笑を楽しむ時間ではないとも知っている。彼は最後の一匙を喉に通し終えた後に羽織る黒いコートを脱ぎ、広げた敷物の上で横になろうとした。イルサーシャが近付き、敷物の脇に両脚を揃えて座り込む。その上へさながら普段からしている様にユストは頭を乗せ、メアリー・メイイェルに対して背を向けて横になった。
動作の一部始終を眺めていたメアリー・メイイェルは剣霊と契約者の睦まじき仲を見せ付けられた、と思うよりも、食後の会話を楽しむつもりはないと態度で示されたのだと理解した。東の空の闇が薄れ始め、誰よりも目覚めが早い鳥の声と共に露営を解くと聞かされている。つまり今は休息の時間に移行したと言えた。
ユストと同じく敷物を広げ直し、メアリー・メイイェルも横になる。シュンカを横に添わせて使い古しの毛布にくるまる。夜行性の狼であるシュンカは嫌な顔をせずに拾い主の寝顔を見届けるのであろう。
(…寝たか?)
横になってから二十分までは経過していない頃にユストは音無き声でイルサーシャに尋ねた。彼の言う就寝の是非を確かめる対象はメアリー・メイイェルに他ならない。
(熟睡だ。横のシュンカは薄目を開けた状態で起きているがな。)
無用に音を立てるべきではないと判断したイルサーシャも音無き声にて答えた。
(そうか。)
ユストは寝返りを打った。イルサーシャの膝に対する頭の収まりが悪かったのであろう。温室の薄汚れた天窓の先は相変わらず分厚い雲で覆われている。北部で満天の星空を眺められずに祖国へ足を踏み入れる事となるのか、とユストは表情で語り、それを寸分の狂いもなく読み取ったイルサーシャは黒髪に手櫛を入れた。
(そなたも寝たらどうだ?疲れたであろう?)
(あぁ。)
イルサーシャの手櫛は続いている。剣霊である彼女の手の冷たさに慣れ始めたのはいつの頃からだろうか、とユストは振り返っていた。行動を共にし始めた五年余り前は想定外の冷たさに驚いたものだが、一二年でその驚きは慣れに変わり、やがては日々の癒しと成りえた。
(あ、そなたが寝る前に一つ…。)
虚ろを見つめていたユストの焦点が俯いているイルサーシャの緑色の瞳に合わさる。手櫛が一瞬止まったかの様に思えたが、すぐにまた動き始めた。
(…いや、何でもない。)
(愚生に何か聞きたい事があるんじゃないのか?君らしくないな。)
イルサーシャは答えない。ただ、手櫛を止めて掌でユストの両目を覆う。今の件は忘れて寝ろ、と示唆しているのだろう。思い付いた事を口に出さずにはいられない、良い意味で直情的な彼女が控え目で抑制された行動を取る。これも彼女の髪の具合の悪さに加え、新月の日を迎えようとしている心身の変化がもたらした一片だろうか、とユストは勘繰る。無論、明確な答えなど導かれず、彼女にそうであるか問うつもりもない。
(君も少し休んだらどうだ?)
(我は寝たくても寝れん。そなた、それぐらい既に存じているだろう?)
(就寝が全てではない。気を楽にするのも休養の一部だよ。)
(そなたが寝たらそうさせて貰うつもりだ。)
(なるほど。)
(そうと判ったら早く寝ろ。)
イルサーシャの相変わらずの強がりな具合にユストは安心したのか、音無き微笑を洩らし、やがて緩やかで深い呼吸と共に眠りに就いた。
一振りの剣霊を残して喧騒とは無縁である冬の夜の帳が下ろされたかの様に見えた。吹く風のざわめきすら聞こえない夜である。彼女はユストの両目を覆っている手をそのままに、空いている側の手を用いて右耳からぶら下がる黒蛇のピアスを取り外す。己の尾を咥える黒蛇の屈強な体躯をしなやかで冷たい二本の指で詰る。明り取りの質素なカンテラの頼りない輝きに晒された黒蛇のピアスは未来永劫変わる事のなかろう睥睨に陰影を与え、厳かとも不気味とも言い切れない雰囲気を纏わせていた。
「少しの間、我を独りにさせてくれ。」
切なく細めた目尻の様相に黒蛇のピアスがどの様に答えたのか。イルサーシャは力なく鼻で笑った。
「既にそなたの相方には外の守りを任せてある。たまには我の知らぬところで相方とじゃれ合っているのも悪くなかろう?」
夜明けと共に戻って来い、と一方的な指示を与え、人差し指の爪の上に乗せられた黒蛇のピアスは無造作に弾かれた。どの様な放物線を描くかイルサーシャは目で追わず、また硬質な物質が地を打つ音は奏でられなかった。
ようやく落ち着いたと肩の力を抜いたイルサーシャは前のめりの姿勢となる。白銀の長い髪が蟠りから解放されたかの如く、八方に広がりを見せ、地に触れる先端は規則性のない曲線を存分に描く。
イルサーシャが安らぎとして求めていたのは何人たりとも触れさせたくない場所、ユストの胸許である。彼が生きている以上、絶える事のない鼓動を感じるべく冷たい頬を密着させる。崩れる事のない一定の速度と力強さを具える契約者の鼓動は剣霊の端正な口許を弛緩させた。
広がる白銀の長い髪の隙間から夜の世界が覗える。強いて言うなれば、安らぎの場を得た事で景色を眺めて想いを巡らせる余裕が生まれた。
日付が変われば新月の日となる。その貴重な一日にユストの祖国、中央行政府を初めて訪れる。国土は小さいが大陸の中で最も経済活動が活発であり、洗練された街並みと人物たちが住まう国と聞かされている。果たしてその様な空気が肌に合うのか不安を募らせるイルサーシャを少しでも慰めようと、ユストのシャツに僅かながらにも染み付いた百年香の爽やかな匂いが形の整った鼻孔を掠めた。
思えばユストはこの百年香の為に奔走した。北の地では入手困難であろうとも、隣国である中央では簡単に手に取る事が出来ると聞かされている。今日までは仮初の匂いに甘んじ、明日からはそのもどかしさから解放されるのであろう。
頼りとする契約者、いや男の真摯な行動と横顔に女は感謝と愛情を覚える。末永くユストの傍に居たい。イルサーシャは己の心の内で密かに呟いた。先程までつまらなそうにしていたシュンカも既に目に闇を与え、黒鹿毛の牡馬に至っては熟睡の域に達している。シュンカの傍らで安らかな寝息を湛えるメアリー・メイイェルの姿を緑色の瞳が捉えた。左右に分けた砂色の髪が力なく垂れ、弛緩した唇と柔らかに閉じた目許を晒している。
剣霊協会公認の研師という、世間からしてみれば厳かな肩書を持つ彼女の寝顔は数多のそれと何の変りもない。感情の変遷も数多と同じなのだろうか。メアリー・メイイェルのユストの横顔へ向けた眼差しが未だにイルサーシャの脳裏にこびり付いていた。無論、間違いが起こる可能性は低いと信じている。だが、イルサーシャにとってメアリー・メイイェルに敵わない点を挙げるのであれば、一つある。男が女の肌に求めるのは柔らかさと香り、そして熱であると理解している。イルサーシャの肌は冴える刀身の如く冷たいが、メアリー・メイイェルは安らぎと温もりを持ち合わせた肌の温度を有している。何処でも構わない。ユストの手がメアリー・メイイェルの肌に触れた時、彼は長年忘れていたであろう温かさを知ってどの様な顔をするのか。少なくとも己が契約を交わした剣霊には無いものを感じ得るに違いない。
つまらない考えを膨らませてしまった、とイルサーシャはユストの胸許に付けている頬を更に押し当てた。伝わる鼓動はそのままに視界の一部が地面を映し出す。乾いた緑から味気ない茶へ移り変わろうとしている草々の間に蜂が一匹、横たわっていた。恐らく温室に迷い込んだ結果、図らずも凍てつく外気に触れずに、生き永らえたのであろう。しかし、その幸運も数時間で終わろうとしているともイルサーシャは捉えていた。羽根を動かそうにも飛べず、黄と黒の縞模様に覆われた腹部を無駄にもぞもぞと動かし、六本のか細い脚は何を掴む訳でもなく、足掻き続けている。弱り切ろうとも己の命の灯火を消すまいとする姿は剣霊の流麗な目尻に変化を与えた。
「お互いに淋しい夜だな。」
イルサーシャの呟きが届いたのか、蜂はぴたりと動きを止めた。だが、すぐに元の様に足掻きを続ける。月明りも星々の瞬きも感じられない夜、カンテラの細やかな炎は徐々に動きが緩慢となる蜂の様子を教えてくれる。
夜明けの一時間前、遂に蜂は息絶えた。腹の先端が顎に触れるくらいに体を丸めた最期の姿。淋しい夜を共にした者の死を見届けた後にイルサーシャは目を閉じた。




