表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第四章 ゲルハルステン望郷編
60/75

赤心

 仄かな興奮が沸き上がれば同時に自己抑制が生じる。心和むと思う中に堅固な意思を持ち続けなければと自戒の念を抱く。夢にも思わなかった至福の一時だと実感しつつも、これは己に託された仕事であったと現実を直視する。

 グスタフ・ヴェネシュは馬上にて道なき道を進む。雪化粧を纏う針葉樹たちが織り成す冬の風物詩は感慨深さを思わせず、思い切って放棄した荷馬車についても名残惜しむ機会に触れそうにない事を彼は理解していた。懐にエルスノアがいる。両脚を揃えて横乗りの姿勢をとる彼女は脚を動かす馬の揺れに落とされまいと、手綱捌きの邪魔にならない様にと、そして体が触れ合う面積を最低限にしようと、体を縮こませていた。

 メツァールントの手前にて街道封鎖による足止めを喰らった。苦渋の策として長年愛用している荷馬車を放棄し、それぞれ単騎駆けで樹勢の限りを知らない針葉樹による森の中を進む事となった。

「グスタフ、やはり少し無理があったのではないのでしょうか?」

 エルスノアの言葉は非難よりも面目なさを滲ませていた。初めての単騎駆けとは言え、彼女はものの数十秒後には振り落とされそうになり、前方を行くグスタフ・ヴェネシュに助けを請う羽目となった。後戻りする時間は惜しく、代案を練る余裕もないのを理解していたのか、エルスノアはグスタフ・ヴェネシュとの相乗りに不満を漏らさず、彼が跨ぐ鞍に身を預けた。

「いえ、こちらこそ無理強いして協会長様に危険な目に合わせてしまった、と心苦しく思っているところです。」

 道なき道では馬は飛ばせない。やや早めの常歩といった具合か。周囲の静けさと互いの顔の距離も手伝ってか、声を張り上げなくてもそれぞれの声は耳に届く。

「コノリギスに戻りましたら、なだらかな広い場所で馬の扱いを練習をされるのも良いでしょうな。」

「えぇ。時間がある時にそうしましょう。」

「それにしても常に落ち着かれた協会長様があんな大声で悲鳴を上げるとは思いもよりませんでした。」

「からかわないで下さい。物凄く必死だったもので、つい…。」

 エルスノアは俯き加減を強くし、グスタフ・ヴェネシュの腕に掴まる手に力を込めた。

 グスタフ・ヴェネシュにとって、婦人用に仕立てられた手袋の肌触りの良さは革製のコートの上からでも判る。それよりも気恥ずかしさが作用しているのか、エルスノアの上昇した体温は彼女が持つ女の匂いを仄めかせ、グスタフ・ヴェネシュの鼻孔を揺らめかせていた。

 甘美な香りとも、淫靡なかぐわしさとも異なる。言葉では表現出来そうにない安らぎと憧憬を感じさせる匂いといえようか。エルスノアの細くも柔らかな体を抱き締めてもっと匂いを嗅ぎたいという衝動に駆られながらも、グスタフ・ヴェネシュは両手で握る手綱を離さない。仕事の最中である。これがもし仕事の最中でなかったら、と勝手な願望に色塗られた状況を脳裏に描く。エルスノアは魅惑に染まった吐息を漏らすか、先程よりも大声で悲鳴を上げながら平手打ちを繰り出すか。十中八九、後者で間違いは無かろう。

 逆に恋愛とは無縁と語る協会長の視点で今ある状況についてグスタフ・ヴェネシュは思慮を巡らせてみる。使い込まれた革製のコートの上腕部を掴む手から何が伝わっているのだろうか。日々の荷役で鍛えられた男の硬い筋肉に惚れ惚れしている、とはこちらの都合であると否めない。思わぬ出来事に舞い上がるグスタフ・ヴェネシュの全身も熱を帯びている。コノリギスを経つ前日に共同浴場で普段と変わらず適当に体を流した点について彼は悔いていた。入念に体を流すべきであった。

 前を行く馬は背を預けた者たちの思惑など気にせず、速度を落とさずに前進する。引き綱にて後方を歩む馬は二人分の荷の重量に文句を付けずに黙々と脚を動かしている。八つの蹄鉄がしゃくりしゃくりと残雪を交互に踏みしめる軽快な音がひっそりと響く中、絶妙な合の手の名手たる鳥たちの囀りが聞こえない。滅多な事がない限り、人間が立ち入らない針葉樹の森をねぐらとしている生物たちは好奇の目を向けているのだろうか。もしくは息を潜めて警戒を怠らずにいるのか。馬上の揺れに従ってエルスノアが首から下げている黄金製の指輪も変化のある輝きを放っている。彼らはこの魅惑に溢れた鈍い輝きを黙々と眺めているのだろうかとグスタフ・ヴェネシュは一瞥と共に思った。本来の所有者である剣霊帝の威光に伏している様にも思えなくない。

 いやまさか、と現実味を帯びた思考回路に活を入れる。黄金に執着し、その価値を知るのは人間のみである。睡眠不足が手伝ってなのか、夢見がちな妄想に憑りつかれ易いのかもしれない。

「あの、グスタフ、宜しいですか?」

 黄金の指輪を首からぶら下げているエルスノアの物憂げな眼差しはグスタフ・ヴェネシュの鼓動を強く打たせ、我に戻らせた。

「何度か声を掛けたのですが、大丈夫ですか?」

「すみません、ちと考え事をしていました。」

 その場を取り繕う笑顔を零そうともエルスノアの表情は変わらない。

「あとどれぐらいでメツァールントに到着しますか?」

「一時間と少し、と自分は見込んでいます。」

 少しとは僅かながらにも問題が生じた時の保険でもある。どちらにせよ、メツァールント市街地内がかがり火で煌々と彩られる時間よりも早く到着出来る見込みである。

「実は汗をかいてしまったのです。小休止したいのですが。」

「馬を止めろ、と?」

「えぇ。汗をかいたままのわたしの顔を先代様に見て戴くのは心苦しいのです。あなたも手綱を握りっぱなしで疲れたでしょう?」

「いや、むしろ自分はこのままメツァールントまで進むつもりでいました。それに汗をおかきでしたら到着次第、市内の共同浴場に行かれませんか?聞いた話では温浴以外にも蒸し風呂もあるとか…。」

「わたしは人前では肌を晒してはならないのです。」

 物憂げな眼差しの中に深層の傷に触れられたと言わんばかりの悲哀が浮き出ていた。

「あ、いや、そういうつもりでは…。」

 狼狽えるグスタフ・ヴェネシュを横目にエルスノアは手綱を確固として握るなり、己の方向へ引き寄せた。馬は鼻を震わせて白い息を大量に吐きながら脚を止める。あまりの手際良さにこれが馬上から振り落とされそうになった者の手綱捌きとは思えず、グスタフ・ヴェネシュは唖然とした。

「判っていますとも。あなたは気遣いが素晴らしい男ですから。」

 本音なのか建て前なのか、真心なのか嫌味なのか、グスタフ・ヴェネシュにとってどう捉えたら良いのか判りかねる謝意を述べたエルスノアは滑る様に大地に降り立つとゆったりと数歩前に歩む。次に婦人用の手袋を左右共に外し、纏うケープを脱ぎ捨てた。

 グスタフ・ヴェネシュも普段より焦った様子で馬から降りるとエルスノアのそれぞれの防寒具を拾い上げる。彼女の言葉通りに手にした防寒具たちはうっすらと湿り気を感じられなくもない。さては汗をかいたというのは口実で実は馬の揺れに酔われたのか、と彼は思いつつ二頭目の馬の背に一双の手袋と柔らかなケープを丁寧に広げて乗せた。

「何か汗を拭うものを貸してくださいな。」

 振り返りざまにそう言われてグスタフ・ヴェネシュは二頭目の馬に括り付けてあるサドルバックから吸水性に優れた織りが施された純白の布を取り出し、手渡した。右手で布を受け取ったエルスノアはグスタフ・ヴェネシュに背を向けて暇にしていた左手を使って髪を隠す為に頭部に緩やかに覆う布を解き始めていた。

 たおやかな曲線を描いていた深い紺色の生地がはらりと力無く直線を描いては冬の大地に落ちる。肩より少し下で切り揃えた深い栗色の髪がグスタフ・ヴェネシュの前に晒された。

「…綺麗な髪だ。」

 誰に聞かせる訳でもない言葉がふと口に出る。興奮と歓喜が同時に押し寄せてきたのだから、月並みな表現であるのは仕方ない。だがそれは偽りのない純粋な言葉でもある。

 後ろ姿のエルスノアは首を傾げて額とこめかみに布を押し付ける様にして汗を拭う。陰鬱な針葉樹の森の中で深い栗色の髪の間から白く柔らかそうな耳の先端が姿を覗かせている。

「協会長様は北部の者たちの慣わしをご存じですか?女が好いてる男の前で結わいた髪を解くという…。」

 言葉の最中で少し息苦しいとグスタフ・ヴェネシュは感じていた。

「存じております。とても素敵な風習だとわたしは思います。」

 風に攫われた髪の先端が踊り、首許が見え隠れする。立ち襟の頂きにあるのは白く汚れを知らない項。グスタフ・ヴェネシュは生唾を呑んだ。

「自分は北部の男たちの喜びが判った様な気がしてなりません。」

 物静かに語るエルスノアは未だに背を向けたままである。対となる側のこめかみを同じく汗を拭い終えると、彼女は両腕を垂らして空を見上げんと顎に角度を与えた。

「あなたのその様子を見ていればわたしも北部の女性たちの気持ちを僅かながらにも理解出来たと感じています。ただそれよりも…」

「それよりも…?」

「グスタフ、あなたの懐に身を置いて体の芯から熱くなるのを否めなくなったのです。」

 脳が白くなるほど灼き、鼓動を強く打たせる言葉であった。グスタフ・ヴェネシュは一歩二歩と、何かが憑依したかと思われる足取りでエルスノアに近付く。残雪が踏みしだかれる音に気付いたエルスノアは振り向こうとしたが、叶わなかった。背後から肩と腰を抱き締められたからである。

「協会長様、自分は…。」

 グスタフ・ヴェネシュの声は震えている。肩を抱き締めている男の手の甲に女のか細い手が添えられた。

「そこから先は言ってはなりません。」

「ですが…。」

「なりません。」

 エルスノアの語気は女よりも協会長という立場を如実に表していた。

「生まれてこの方、父親以外の男性の懐を知らないわたしにとって、グスタフの懐はとても心地良く、許される限りこうしていたいという思いが芽生え始めようとしていました。ですが、これから亡き先代様にお別れの挨拶をしなければならないというのに、自分勝手な欲に心身を染める愚かさ。協会を束ねる身でありながらユリアはなんて愚かな()だろうか、と亡き先代様に残念な思いをさせようとした不謹慎なわたし自身を戒める為に、こうして大気に身を晒してほとぼりを醒ましているのです。」

「ユリアとは、まさか協会長様の…。」

 グスタフ・ヴェネシュが言葉を途中で詰まらせたのは手の甲に添えられたか細い手が諭すように擦ったからである。その動きは逸る気持ちを落ち着かせる為に優しく、高ぶる熱を吸い取ろうと包み込む。

「グスタフ、あなたにはわたしの本来の名前を教えました。これで許してください。」

 女の添えた二本の指が脱力した男の親指を摘まみ上げる。グスタフ・ヴェネシュの手は抵抗する意思を見せずに掴んでいるエルスノアの肩を離し、茫然と垂れ下がった。

「あと数分はこのままでいさせて下さい。」

 深い栗色の髪が風に攫われて緩やかに数回揺れた後に、エルスノアは髪を覆う布を手にした。

 相乗りは止めて、それぞれが馬を操る事となった。


 針葉樹の森の隙間から建造物と思われる姿を確認出来た。

 冬の曇り空に似た灰色の石積みの壁面は三百年以上を優に語れる傷を所々に負っている。石と石の隙間から生える苔も何処となく色褪せて白っぽく見えた。住人たちの喧騒と欲望に生気を吸い取られたと言わんばかりである。夜になれば限りなく冷たく堅牢な石の肌に侵攻を試みる者たちは畏怖の念を抱くであろう。拮抗する四ヶ国の中で最も領土が狭いが経済面においては最も優位に立つ国、中央行政府の北の玄関たるメツァールント市街地の外壁はグスタフ・ヴェネシュとエルスノアの各々が乗る馬たちにもその様に映ったのであろうか。

 道なき道から本来進むべき街道へ戻る。往来は極めて少ない。街道封鎖の影響と思われるが、これでは警備に当たる衛兵ともすれ違う見込みは低いと思われる。本来ならば各国から商用や観光目的で遥々と馬を飛ばした者たちで往来は賑わい、その様な彼らを労う為の露店も軒を並べている光景が目に映るはずであった。メツァールントでいったい何が起きているんだ、とグスタフ・ヴェネシュは手綱を緩く握りながら外壁を見上げた。

「ここがメツァールントですか?」

 乗馬のこつを掴んだのか、エルスノアはグスタフ・ヴェネシュの横に並んだ。悪路の中で振り落とされまいと努力した賜物なのか、その様な彼女に馬が合わせているだけなのかは判らないが、初めて馬の背に乗った時よりもだいぶ様になっていた。

「はい。外壁の上部ではためいている市章旗はメツァールントのものに間違いありません。」

 エルスノアの心の内を聞かされ、彼女の体を抱き締めて以来の会話であった。無限に横たわる気まずさがそうしていると認めつつも今は仕事の最中である。グスタフ・ヴェネシュは思ったよりも普通に声が出せていた。彼の言葉に誘われてエルスノアも視線を遠くに合わせる。三角形の頂点に羽根を悠々と広げた三羽の鷹の意匠図が描かれ、雄大、屈強、達観を表現していると広義では知られている。

 グスタフ・ヴェネシュは馬から降りるとエルスノアの馬の頭絡とうらくを握った。

「この先の角を曲がればものの数分でメツァールントの正門にたどり着きましょう。二人して馬上で闊歩するよりも、自分が従者の様に振舞えば協会長様の威厳が門番たちにも伝わると思うのですが。」

「お任せします。」

 さらりと言い放ったエルスノアと視線が交わった。

「グスタフ、まだ気にされていますか?」

「それはお互いに言いっこなしでいきましょう。」

 照れ隠しに被る帽子の鍔を下げたいが、両手はそれぞれの馬の馬具を掴んでいる。ならば、と剃る機会を失った髭を蓄えた口許を左右に引っ張って彼なりの笑顔を作った。エルスノアも軽やかな微笑を見せて応える。二人の中で他者には踏み込みようのない信頼が構築されつつあった。

 往路が終わりを迎えようとしている。短くも長くもない日程の中で多くの出来事があった。さて、復路はどの様に計画を練るべきか、とグスタフ・ヴェネシュは脳裏で己の顎に手を添えていた。街道を終始利用できる前提として、現状の単騎掛けでは大幅に時間を要してしまう。技量と経験値を推し量るまでもなく、エルスノアに馬を走らせ続けるのは難しい。物価の高い中央でというのが癪に障るが、新たに荷馬車を調達するしかあるまい。木工所へ赴いて依頼する時間はなかろう。果たして古道具屋を巡ってそれなりの物が見つかるのだろうか。

 また、エルスノアの体調についても気掛かりが生じていた。四六時中コノリギスの廟堂から外に出なかった彼女が旅をしている。外の世界に触れて冷めやらぬ興奮を覚えていたが、本人が思っているよりも体力を激しく消耗している筈である。メツァールントの水が彼女に合うか不安でもある。そして亡き先代の亡骸を前にした後、彼女は深い悲しみに心身を染めるであろう。病は気からと言うが、移動もままならない状態に陥るとも考えられない。

 負の考えしか浮かばない。しかし、これまで幾多の試練を耐えられた協会長様の事だ、今回の限られた日数の中で気丈を振舞うのも造作ない筈だ、とグスタフ・ヴェネシュは密かにかぶりを振って己の良からぬ想像を一蹴し、角を曲がった。

 あっと驚嘆の声を上げたのはエルスノアであり、グスタフ・ヴェネシュは鼻から低い唸りを発して目前のただならぬ状況を表現する。

「なんて悲惨な光景なのでしょうか。」

 馬上のエルスノアは茫然とした面持ちを見せた。

 メツァールント市街地の正門の前に簡易テントが張られ、その中で大勢の者が身を寄せて寒さを凌いでいる。その数はざっと見たところ百から二百の間か。老いもいればまだ乳飲み子もいる。未成年以外と思われる女たちの全てが長い髪を纏めていた。北部の者、先に知ったリストメクから押し寄せた住人たちだと二人は確信を得た。

「他国の者たちとは言え、これは扱いが酷過ぎますな。」

 グスタフ・ヴェネシュは頭絡とうらくを握る手に無用に力を込めた。

 理由はともあれ、大量に押し寄せた北部王立国家のリストメクの住人たちを中央行政府のメツァールントのそれらが受け入れると次に何が生じるのかエルスノアは即座に理解していた。国家間の問題に発展する可能性が非常に高い。本来ならば押し寄せたリストメクの住民たちを市街地内に招き入れ、保護するべきである。中央の善意に北部は感謝の意を唱えるであろう。だが、その始終を知った南西と東部はあらぬ杞憂を抱く恐れもある。何事に於いても、特に規模が大きくなればなるほど、物事の始めと終わりの間に余計な尾鰭が付き、誤った見解を植え付けられるものである。

 ならば四ヶ国に属さない者が率先して動いたらどうなるか。軋轢を生じる可能性は低いと思われる。彼らは剣霊が治める人間の為の国家に対して制裁を加える様な真似は出来ない。常人ではその姿を拝謁できない剣霊帝の機嫌と指一つで治世が乱れると知っている。

 エルスノアは馬から降りると簡易テントへ歩んだ。リストメクから押し寄せた住人たちの憔悴した眼差しが動く。煌びやかとは程遠いが小綺麗な身形で清楚な雰囲気が滲み出ているエルスノアは誰が見ても救いの手を差し伸べてくれる存在だと思い込んでしまう。げんに己に最も正直な年齢と思われる少年がエルスノアの正面に立った。

「わたしはコノリギスに身を置く者でエルスノアと申します。あなたの身辺に何があったのでしょうか?」

 子供が相手であろうとエルスノアは普段と同じ態度と口調である。彼女が纏う立ち襟の服を染める深い紺色は依然として落ち着きを払った色合いをしていた。

「コノリギスって何処にあるの?」

 寒さで頬が赤く染まり、櫛入れを忘れた髪が逃亡を強いられたと物語る少年はエルスノアを見上げていた。

「ここから馬に乗って五日ほど掛かる場所にある小さな街です。」

「なんでその小さな街からここに来たの?」

 柔らかな微笑を伴いながらエルスノアは膝を折った。

「わたしを育ててくれた大事な方に御挨拶をする為です。あなたはどうしてメツァールントを訪れたのです?」

 少年がどう答えるべきか悩んでいる最中に中年の女が割り込んだ。

「旅の御方、うちの息子が何か変な事を言わなかったでしょうか?」

 この少年の母親らしい。最愛の息子を後ろから抱き締めるその姿は疲労困憊の中から毅然な態度を振り絞っている。エルスノアとグスタフ・ヴェネシュの二人はうっすらとではあるが事情を知るだけに自然と憐みの眼差しを作り上げていた。

「いや、何も?」

 グスタフ・ヴェネシュは少年の母親に応え、周囲を見渡す。簡易テントの中にいる者たちは手荷物はおろか、皆して着ているものが旅装とは程遠いほど簡素である。

「ここ数日の間、満足な食事をしていないものですから、うちの子が何か恵んでくれと物乞いの真似でもしているんじゃないかと思いまして。」

「最初に彼に話し掛けたのはわたしです。息子さんはどの様な立場に置かれようとも、笑顔を絶やさない立派な子供ですよ。」

 エルスノアが嫌味とは無縁の優しい微笑を湛える。少年の母親は張り詰めてた緊張が解れたのか、肩の力を抜いたのをグスタフ・ヴェネシュは眺めていた。 

「お母さんね、このお姉ちゃんはコノリギスと言う所から来たんだって。」

 つい先ほど知り得た情報を得意気に語る少年は母の温かな腕越しに上を見上げる。優しくも時には厳格な母親がこれまでに見せたことのない面持ちを晒していた。

「それは…本当かい?」

 剣霊の都の名を聞いて、大衆は怪訝か侮蔑のどちらかをあからさまに表す。この場合は後者であると悟ったグスタフ・ヴェネシュはその様な視線からエルスノアを守るかの如く一歩前へ踏み出した。

「あんたたちが剣霊の手先だったら、この状況をどうにかしておくれよ。」

 母親の声色には恨み節の中に藁にも縋んばかりの懇願が見え隠れしていた。

「剣霊の手先ってのは気に食わないが…御夫人、もう少し詳しく教えてくれないか?」

 エルスノアの前に立つグスタフ・ヴェネシュは仏頂面を保ちながら被る革製の帽子の先端をなじる。 

「剣霊協会から派遣された剣霊使いが邪剣霊にやられたんだ。邪剣霊はあたしたちリストメクの住人を皆殺しにするって息巻いたもんだから、急いでここまで逃げてきたんだけど…このざまだよ。」

「なるほどな。だがここから先は一安心だ。なんせこちらは…!」

 グスタフ・ヴェネシュは苦悶の呻きと共に目をひん剥いた。エルスノアに尻を思いっきりつねられた為である。大人たちの会話をつまらなそうに聞いていた少年は面白いものを見たと母親の腕の中で前のめりになる。普段、己が悪さをした際に母親のお仕置きと同じ手段を大の大人が喰らっていたからだ。

「連れが失礼しました。」

 平然としたエルスノアは取り繕いの会釈と共に言葉を続けた。

「教えて頂けたらと思いますが、リストメクと同じ北部の市街地ではなく、こちらへ避難された理由は何でしょうか?」

「そんな難しい話、あたしは御免だね。あの隅っこにいるのに聞いてみなよ?」

 少年の母親が言葉の終わりに向けた視線をエルスノアとグスタフ・ヴェネシュが追う。煩雑にリストメクの住人たちが入り乱れる簡易テントの一角が空虚を纏っていた。

「もうこの先長くはないらしいけど、コノリギスの住人なら打ち解けあえるんじゃないかね?」

「それはどういう意味だ?」

 僅かながらにも凄みを効かせるグスタフ・ヴェネシュに少年の母親は両腕に力を込めた。不穏な空気を肌で感じた息子は大人たち三人の顔を代わる代わる視界に収めている。

「あたしたちはこれ以上剣霊だの邪剣霊だのに関わりたくないのさ。もとはと言えば何が理由でリストメクで暮らしているだけでこんな仕打ちを受けなければならないんだい?」

 切実な思いを語る母親の前にグスタフ・ヴェネシュは返す言葉が見つからなかった。そして彼の後ろに立つエルスノアがついと一歩踏み出した。

「早く元の生活に戻れるよう、蔭ながらお祈り申し上げます。」

「剣霊の手先にそんな気休めの言葉を言われても嬉しかないよ。とっとと行っちまいな。」

「ではその様にさせて頂きます。ごきげんよう。」

 再び頭を下げたエルスノアは事実を知るべく歩み始め、遅れまいとグスタフ・ベネシュも二頭の馬を曳きながら脚を動かす。その場に残されたのは心の蟠りを存分に吐いた母親と大人の会話に聞き耳を立てていた少年、そして後味の悪い雰囲気が横たわっていた。

「お母さん、行っちゃったね?」

 重い空気を払拭しようと少年は口を開いた。純粋な優しさを持つ者が出来うる行動に母親は安堵とも疲労とも言えない溜め息を吐いた。

「あぁ。これで良いんだよ。」

「今の小父さんとお姉ちゃんは結婚しているのかな?仲良さそうだったよ。」

 見知らぬ異国のつがいに興味津々であった少年は遠ざかるエルスノアの深い紺色のスカートの揺れ具合を眺めていた。既に織りの具合はおろか、しなやかな襞の様子すらすでに判らないほど離れていた。

「さぁ、どうだかね。お偉いさんとその召使いの様な関係に見えたけどね?」

「綺麗だけど、それよりもなんかこう、凄く落ち着いた感じの上品なお姉ちゃんだったね?」

「いいかい、次からはコノリギスの住人に興味を持っちゃあいけないよ。それに母さんだって昔はあのお姉ちゃんに負けないぐらい綺麗で街を歩けば誰もが振り向いたもんだよ。」

「じゃあ、どうして今は綺麗じゃないの?」

 わが子ながらませた事を、と母親が口を尖らせたのも無理ない。

「大人になると色々と苦労するんだよ。まだあのお姉ちゃんは若くて苦労を知らないのさ。」

「ふうん…。」

 少年は母親の言葉に疑問を抱いた。あの落ち着いた雰囲気と優れた洞察力を思わせる眼差しを併せ持つ人物が母親の言うところの苦労を知らない人間であろうか。だが、己の言葉で巧く表現が出来ないと判ってなのか、反論は敢えてしなかった。コノリギスの住人に興味を抱くな、とつい今しがた釘を刺されたばかりでもある。もしここであの二人について口を開こうものなら、尻をつねられる可能性が極めて高い。まったく同じお仕置きを他人がされる様子を初めて目の当たりにした。大人と言えども痛いものは痛い、と判った。

「さ、陽が沈む前にテントに戻るよ。体を冷やして風邪でもひいたらたまったもんじゃない。」

 少年は黙って頷いて母親の指示に従った。すでに斜陽の傾き加減が深くなっている。

 中央行政府にとって避難を余儀なくされた異国の母子の会話に聞き耳を立てず、異郷の男女は一点を目指した。

 腕を振って息切れを伴いながら歩く、という程でもないが、エルスノアの足取りは一心不乱と憂慮を混ぜ合わせた様子をグスタフ・ヴェネシュに思わせた。あの少年の母親が仄めかした言葉を借りるのであれば、コノリギスの住人であれば打ち解けあえる存在とは剣霊に他ならないであろう。簡易テントの中に身を預けている者たちの虚ろな視線を一身に浴びながら二人と二頭の馬は目的地へ進む。

「あの、そこまで急がられなくても。」

 グスタフ・ヴェネシュが声を掛けてもエルスノアは返事をしない。

「聞いておられますか、教か…!」

 振り向き様のエルスノアが伸ばした人差し指の側面がグスタフ・ヴェネシュの乾いた唇に当てられた。黙らせるにはこれが最も効き目があると彼女は知っている。げんに婦人用の手袋越しであろうとも男では成しえない柔らかさに彼は硬直した。

「この場でその呼び方は周りを刺激します。」

「では何とお呼びすれば…?」

「単にエルスノアとお呼びなさい。」

「折角ですから、この際、ユリア様というのは?」

 良案閃いたりと手を叩かんとするグスタフ・ヴェネシュの唇からエルスノアは人差し指を離した。そして先程まで見せていた足取りとは対照的な冷静さを伴いながらかぶりを振った。

「今は良くても、それが慣用となっては後日お互いに困る事になりましょう。」

「左様でしょうか?」

「ともかく、その名はあなたの胸に仕舞い込んで下さい。」

「判りました…きょ、いや、エルスノア様。」

 整った鼻梁から短い溜息を漏らすエルスノアが被る深い紺色の布と落胆の色に染め抜かれたグスタフ・ヴェネシュの頬を風が撫でた。強くはないが冷たい。時間という規則正しく刻まれる存在は二人の会話を尻目に夜を迎えようとしている。

 これから始まろうとしている薄闇の世界に少しでも抗おうとしているのか、薄汚れた乳白色のテント生地も吹く風に身を任せてたわみを作り出している。その下で薄い敷物一枚の上で横たわる存在にグスタフ・ヴェネシュは目を見張った。

 麗らかな青いドレスを纏う柴色ふしいろの髪。程良い柔らかさを思い描かせる唇と意思の強さを表す筋の通った細い鼻梁、情の欠片を易々とは見せない切れ長の目許という端正な顔立ちからして剣霊に間違いない。だが人間とは比にならないほど気配の察知に長けている剣霊であろうとも二人の存在に気付いていないのか、微動だにしなかった。彼女は目を閉じ、さながら深い眠りに就いている様相を晒している。

 エルスノアは剣霊の前で膝を折り、剣霊の顔を覗き込んだ。

「ルケリヤ、わたしの声が聞こえますか?エルスノアです。」

 なかなかの別嬪さんはルケリヤという名前なのか、確か何処かで見かけた覚えが、と記憶の糸を手繰りながらグスタフ・ヴェネシュは簡易テントの角柱に二頭の馬たちの手綱を結び、エルスノアとは異なる角度からルケリアの容姿を眺めていた。

 剣霊の都に住む人間が剣霊と遭遇する割合は他国のそれとは比べようがない。ただ、剣霊たちは協会からの任務を遂行する為にコノリギスに常駐せずに契約者と共に大陸に散らばる。契約者と言えば、彼女の傍らに寄り添う者の姿が見当たらない。不自然な状況は一抹の不安を呼び起こし、抗えない驚愕と悲壮を目の当たりにする。孤独の真っ只中に身を置く剣霊ルケリヤは己の髪と同じ柴色ふしいろの瞳に宵闇を映し出し、身を起こした。

 グスタフ・ヴェネシュは発しそうになった声を喉許で必死にこらえた。過去に彼女を見かけた時と髪の長さが極端に異なっていたからなのか。いや、右の項から左の肩の下に掛けてその先が失われていたからである。切れない刃物で無理やりこじったかの様にいびつな先端を形成していた。

「エルスノア?本当にエルスノアですか?コノリギスから離れる事のないあなたが何故ここに?」

 三十路には少し早い容貌を匂わせている剣霊の声は哀愁の彼方に辿り着いた者しか発せられない響きを伴っていた。

「先代様が身罷みまかられました。剣霊帝様の御許しを得て、お別れの挨拶をするべく先代様の故郷であるメツァールントに脚を運んだ次第です。」

「先代様とは前任のエルスノアの事ですか?」

「えぇ。わたしには育ての母とも言える御方でした。」

「月日の流れとは止まることを知らず、そして早いものですね。」

 ルケリヤは感慨深い世界に踏み入れているのか、柴色ふしいろの瞳はあらぬ方向を捉えている。いや、彼女は視覚を失っているのでは、とグスタフ・ヴェネシュは切なさを伴った剣霊の眼差しをエルスノアの脇で眺めていた。

「エルスノア、あなたは今のが置かれた状況を既に知っている様子ですね?」

 まるで事の重き噛み締めていると言わんばかりにエルスノアはゆっくりと頷いた。

「剣霊帝様からお伺いしました。協会もアウルス・ボーンという有能な剣士を失って残念です。」

 アウルス・ボーンという男の名。そして剣士という立場から鑑みるに、の者はこの剣霊ルケリヤの契約者であろうとグスタフ・ヴェネシュは想像を働かせているのも無理なかった。

「宜しければあなたがこの様な姿となった経緯いきさつを話して頂けませんか?」

 エルスノアは力なく垂らしているルケリヤの右手首を掴み、己の頬に当てた。生気とは無縁のか細い指と指の間に鮮やかな赤が滲む。

「おやめなさい。は刀身の殆どを失おうともまだ僅かに刃は残っているのです。」

「だから何だというのです?」

 エルスノアの憐憫の情が織り成した頑なな言葉にさすがの剣霊も息を呑んだのか、一呼吸の間が置かれる。

「このままではあなたに深い傷を負わす羽目になります。」

「お話して頂けるまで離しません。」

 不屈の意思を貫くエルスノアの有り様を察したルケリヤは観念したかの様な微笑を見せた。

「判りました。五十年ばかり前、協会長の地位を襲ったばかりのあなたは単に強情な少女だとは思っていましたが…少しも変わっておらず、むしろ安心しました。ところで、あなたの横にいる男性は?」

 ルケリヤの柴色ふしいろの瞳が動く。ようやく彼の気配に気付いた様子が否めない。やはり刀身を失った事により人間の比ではない察知能力は大幅に減退しているのだろうか。

「自分はグスタフ・ヴェネシュと申します。しがない運送屋を営む者ですが、今回、教か…いや、エルスノア様自らのご依頼でこのメツァールントへお送りする大役を受けまして。」

「それは大儀でしたね。思い立ったら己を曲げないエルスノアとの道中は。」

「いや、そこまで骨を折るような事は有りませんでした。」

「本当に?」

 グスタフ・ヴェネシュの視線がルケリヤの柴色ふしいろの瞳に捉えられた。剣霊の瞳が持つ透き通る魅惑の色合いの奥底に潜む妖しさに吸い込まれそうになる。いつまでも眺めていた衝動に駆られるも、このまま魅せられまいと内心で歯を食い縛って抗う。だが、無駄な抵抗でもあった。酩酊した者の如く、たがが外れたかの様に自ずと口が動き、喉が震えた。

「確かにエルスノア様は強情で()()でも動かないほどの意地っ張りですが、時折見せる悩まし気なお顔でお願いされるとついつい…。自分はあのお顔が大好きで、いつ見てもぐっと来ますな。」

 何人なんぴとにも聞かせてはならない内容を惜しみもなく吐露したグスタフ・ヴェネシュが目を丸くしたのも無理ない。被る革製の帽子を奪う様に脱ぐなり、火が出ているのではと錯覚が否めない顔の半分を覆いながら、彼の言うところのぐっと来る対象の様子を伺う。

 エルスノアは呆れ果てた表情を惜しみなく晒していると思いきや、意外と平静な面持ちを保っている。

「ルケリヤは赤心の剣霊と謳う存在。彼女と視線を合わせた人間は秘め事を嘘偽りなく語ってしまうのです。」

 言い終えるなり、彼女は握るルケリヤの右手首へ更に空いていた手を添えた。

「あなたは刀身が打ち砕かれようとも剣霊としての能力は未だ残っています。わたしにこれまでの経緯いきさつを話すのは協会に属していた契約者の剣霊たる務め、と思いませんか?お話して頂けたら、あなたが次なる世界へ旅立つ事の無いよう、最善を取り計らいましょう。」 

 次なる世界とは一振りの剣と言う拠り所を失った剣霊の魂が彷徨う道程を指しているのであろう。ルケリヤの柴色ふしいろの瞳が再び虚空へ戻り、力なく頷いた。

 エルスノアとグスタフ・ヴェネシュも自ずとルケリヤと同じく遠くへ視線ををやる。光級の高い星々の輝きか確認できる時刻となっていた。あと三十分もしないうちに市街地の周囲は煌々と焚かれたかがり火に包まれる。その揺らめきに一時の安堵を覚えるのか、新たな戦慄の境地に誘われるのか、二人が知る由もない。


 ルケリヤが語るには、剣霊協会から受けた邪剣霊討伐の指示を実行するその日は朝から細雪がリストメク市街地の景観を彩っていたという。剣霊である彼女にとって柄を握る権利を唯一許した契約者、アウルス・ボーンは日没と共に正門近くの外壁に背を預けていた。

 鍛え抜かれた四股から放たれる己の斬撃は抗える存在を知らないと自負する彼の横でルケリヤも黙然と佇んでいる。

 アウルス・ボーンは戦略よりも戦術に重きを置く剣士であるのは契約を結んで十年余りの年月が包み隠す事なく教えてくれた。しかし、今回は思うところがあるのであろう、彼は腕を組んでは深慮の世界に心身を浸していた。

 外にいては体が冷えるから、とルケリヤがなだめようともアウルス・ボーンは首を縦にも横にも動かさない。何が彼をそうさせているのかルケリアは理解しようと努め、ろくに返事すらしないアウルス・ボーンの神妙な横顔を眺める事で己の中の疑問を和らげていた。

 邪剣霊とは字の如くよこしまな意思に支配された剣霊である。彼女たちは己が宿った剣体が朽ち果てる、或いは刀身を失うまで殺戮と血を求めて大陸中を闊歩する。本来ならば人間の、剣を知る男の血が最も好むと言うが、選り好みをする余裕は皆無なのであろう、哺乳類であれば手あたり次第に血を摂取する。故に邪剣霊は人間であった時の言葉を失うと広く認識されている。しかし例外が生じた。流暢に喋る邪剣霊が今回の討伐対象であった。

「ルケリア、それは本当ですか?」

 簡素な敷物の上で仰向けになっているルケリヤの横で両膝を突いていたエルスノアの細く整った薄い眉が動いた。

もアウルスも最初は信じられず、実はたちと同じ側の剣霊の間違いではないかと疑いもしました。しかも、彼女は…ルケリヤは…とアウルスの目的を知ると戦いの日時を指定してきたのです。」

 刀身を失った影響なのだろうか、とルケリヤの言葉にエルスノアは首を傾げた。

「今、何と言いましたか?」

「ルケリヤはリストメクの最奥にある共同広場に夜の帳が最も深くなる頃、たちと刃を交える、と。」

「まさか邪剣霊もあなたと同じ名前とでも?」

「あの頃はこの名前が流行っていました。同名の同世代の者が故郷にたくさんいましたから、としては何の違和感もございません。」

「そう…。」

「柔らかな雪が石畳を彩り、共同広場に置かれた二つのかがり火が最も明るく感じられる頃、ルケリヤは約束通り姿を現しました。そしてアウルスは深手を負い、は剣として見るに耐えない姿に…。まさかあの様な剣が存在するとは…。」

 当時を思い返したルケリヤはエルスノアとグスタフ・ヴェネシュの位置から見えない方向へ顔を背けた。蘇る恐怖と敗北による屈辱、剣霊の最もたる特徴である刀身を表す髪を二度と元に戻らぬ姿に侵された絶望がルケリヤを蝕んでいるのが判る。剣霊は涙を流せない。今、彼女が顔を背けたのは音無き嗚咽、いや、同じ剣霊にしか理解不可能な慟哭を誰にも見られたくないという強かさと健気さがそうしたのだと二人は受け止めていた。

 これ以上ルケリヤの心を揺さぶるべきでない。そう判断したエルスノアはおもむろに立ち上がった。

「あと少し辛抱です。」

 意を決したと思われるエルスノアの言葉は誰に向けて発したのだろうか。敗者に甘んじたルケリヤに、巻き添えを喰らったリストメクの住人たちに、そして往路を終えようとも衝撃の事実に打ちひしがれまいと鼓舞すべき己の為か。ただ、彼女の趣深い瞳が睨ね付けた先はメツァールントの正門であり、確固とした足取りでそちらへ向かう。

 いつになく平静と従容自若を思わせる彼女の面持ちを夜の始まりとは言え、眩し気に見上げていたグスタフ・ヴェネシュも、はたと自制心を働かせてエルスノアに従おうと腰を上げた。ルケリヤは未だに顔を背けている。このまま放っておいて良いのだろうか、と憐憫を伴わせた眼差しで見下ろす。静かにしていたルケリヤの手が宙を掴む様に持ち上がった。

 相手が普通の人間であればグスタフ・ヴェネシュは躊躇わずにその手を掴んでいたであろう。だがルケリヤは剣霊である。契約者以外がその肌に触れれば切り刻まれるとコノリギスの住人だけに熟知している。今ここで意味も理由もなく斬られるのは御免こうむりたいものだが、無碍な扱いをするのも気が引ける。傷付いた者の助けを求めている仕種を前に良識が働こうとしていた。直接触れなければ、且つ剣霊側が敵意を抱いていなければその端麗な肌に触れても怪我をせずに済むとも聞いている。

 グスタフ・ヴェネシュは止まり木を探し求めている様なか細い指に向けて羽織る革製のコートの袖口を恐る恐る差し出した。

 ルケリヤの指はその先端に視覚を備えているかの様に、血管が隆起した男らしい手首を掴んだ。そして見た目とは大いに異なる冷たく固い、鋼鉄の指の感触にグスタフ・ヴェネシュは度肝を抜かれた。

「グスタフ・ヴェネシュと言いましね。あなたの血を少し頂けないでしょうか?」

 ルケリヤの想定外の言葉はグスタフ・ヴェネシュの口に結ぶ事を忘れさせてしまった。簡易テントの角柱に手綱を括り付けた二頭の馬よりも白い息を濃く吐いている。不思議な事に手首に痛みは走らず、血も流れ出ていない。刀身の大半を失ったルケリヤだからこそ、この様な状況が成り立つのであろう。

「自分の血…。何故です?」

 最適な言葉を選んでいた訳ではなく、単に言葉を発するのに時間を要したグスタフ・ヴェネシュの語気を前にルケリヤは淡々と答えた。

「日付が変われば新月の日となります。」

「それと自分の血が何か関係でも?」

「明日もこうして霊体を保っていられるかどうか、自身の事ながら見当がつかないのです。」

「こう言っちゃなんですが、先程のきょ…いやエルスノア様の血がうっすらと指に付着していますが、恐らく、いや、絶対にエルスノア様の方が自分よりも高貴で希少な血でしょう。それでは駄目なのでしょうか?」

「エルスノアは女です。は女の血は求めません。」

 剣霊とは己に正直であり、確固たる拘りを貫くという。その揺るぎない信念は時として周囲に強欲を撒き散らす事となると周知されているが、ルケリヤも例外ではないと言えようか。

 グスタフ・ヴェネシュは遠退くエルスノアの後ろ姿を眺めていた。今ここでルケリヤと押し問答をしても時が無駄に流れるだけであろう。とは言え、やはり無視も出来そうにない。既に触れている鋼鉄の指を振り解こうとも不慮の傷を負う可能性が低い、と確証が成り立たせられない。いた仕方なしと彼は鼻から深い溜息を吐いた。

「自分の血がルケリヤさんに合うかどうか判りませんが…。」

 不安を匂わせた言葉など意に介せずにルケリヤの五指がグスタフ・ヴェネシュの手首に食い込んだ。剣霊の一撃は斬られた事を実感できないほど鮮烈であると流布されているが、まるで飛び散るガラスの破片が突き刺さった様な痛みが走る。呻き声を上げまいと歯を食い縛り、こめかみに力を込める。数滴の血が滴った。その先にはルケリヤの背けた顔がある。滑らかな頬に落ちた血は目的地を知り得ているか、魅惑の口角へ滑り落ちる。グスタフ・ヴェネシュの位置からでも舌なめずりをした際に姿を現した生気とは無縁の舌の先端が覗えた。

「腱も脈も傷付けていません。それぞれの指は問題なく動きますし、暫くすれば血も止まりましょう。ところで…。」

 ルケリヤは遠慮なしに音を立てながら白い喉の中頃を上下にした後に言葉を続けた。

「あなたの血はエルスノアの後ろ姿をに描かせました。しかもごく最近の景色です。グスタフ・ヴェネシュ、彼女は剣霊帝様にお仕えする身と知りながらもあなたは…。」

 愉悦を堪能し終えた際の虚無をはらんだ雰囲気のルケリヤは顎の角度を僅かに広げた。本来ならば長い髪が多様な畝を織り成していたのであろうが、いびつに切れた髪の先端は静かにしていた。

「えぇ。理解していますとも。自分にとって()()()()に代わる女性は未だ知りませんし、この先出会う事もないでしょうな。」

 血は虚偽を語らない。下手にごまかしたり、しらを切るよりも臆せずに堂々とするべきだ、とグスタフ・ヴェネシュは手首から滴る自らの血をそのままに本心をぶつけた。

 そう、とルケリヤは感慨深さを匂わせている様子もなければ簡素とも異なる相槌で返した。

「血を摂取した際の避けられないことわりとはいえ、不用意にあなたの内側を覗いてしまい謝らなければなりませんが…。」

 男の手首に食い込ませた女の指先が離れた。

「己の内を言葉に表せて少しすっきりしたのも事実でしょう?」

「それは…まぁ、御尤もで。」

 返答に困る中、グスタフ・ヴェネシュは先を行くエルスノアの様子を再び覗った。刀身を失った剣霊と運送業を営む男の会話が聞こえない位置でこちらへ怪訝な眼差しを送っている。彼女としてはルケリヤに興味や関心を示さずにグスタフ・ヴェネシュはこれまで通り、すぐに後を追うと脳裏に描いていたのであろう。

 彼は革製の帽子を被り直すとエルスノアに向けて肩をすくめて見せた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ