メイイェルの研師
イルサーシャの提案は正鵠を射ていたのかもしれない。
墓標と思われる樫の幹の裏には粗削りな表面に文字が刻まれていた。ただ、書体からして今の文字ではない。明らかに古代のそれである。
弔われた者の偉業をつらつらと長文を以て刻まれてはいない。弔った者の切なる想いを強い一言で穿ったのだ、とユストは解読できなくても肌で理解していた。
イルサーシャの冷たくか細い腕を掴むなり、ぐいと引き寄せる。白銀の長い髪が僅かに遅れて弧を描く。普段は丁寧で紳士的な扱いをするユストが些か荒い行動を見せる。その様な時は事態の進展を示唆している事をイルサーシャは幾度となく体感していた。故に彼女はぞんざいな扱いに文句を述べず、契約者の常々よりも真摯な横顔を見つめては密かに目尻を細めていた。
(君の出番だ。)
端的な言葉に応えるべく、イルサーシャは右の横髪を耳に掛け奥深い緑色の瞳は古代文字を捉えんとする。自らの尾を咥えた黒蛇のピアスは冬の大気に晒され、あらゆる苦痛を糧にする強靭な体躯は磨き込まれた黒曜石の如く燦然とした輝きを放っていた。
「『愛しき男、ここに眠る』」
(それだけか?)
「あぁ。」
判った、とそっけなく答えたユストは鼻から音なき溜め息を一つ放ち、愛飲する煙草を口の端に咥える。普段と変わらずに手際良くマッチを擦る動作をイルサーシャは見届けていた。
「なぁユスト。我が思うに、この墓碑は我と同じ立場の者によるものとしか思えん。」
(理由は?)
「今を生きる者がわざわざ古代文字を刻むか?」
(言い換えれば、ここに眠るのは愚性と同じ立場の者、か。)
イルサーシャは肯定も否定も示さない。自ずと導き出された現実を前に彼女の双眸は拒もうとも受け入れざるをえない将来を見据えているのだろうか。
重苦しい空気が横たわりつつある中、立ち上る煙の根元ではじりじりと微細な音を奏でながら煙草が燃えて灰となる。流れる煙がユストとイルサーシャの視界を横切る。陽が南天を示そうとも街道の往来は依然として少ない。
(ただ、愚生には解せない点が一つある。)
右の二本の指で咥えている煙草を摘まみ上げ、ユストは内なる言葉を続けた。
(剣霊の契約者が身罷った際、墓標にこれを巻き付けるのが慣わしなのだが、目の前の墓標はそれに当て嵌まらない。)
これとは剣霊協会支給のスカーフの事である。それぞれのスカーフには個別に与えられた番号の刺繍が施されている。死しても己の名は刻まずに剣霊の使い手であった証を残す事により、世間一般では名もなき墓であろうとも、協会では所属する者が最期を迎えたと秘密裏に認識される。加えて言うなれば、この方式は剣霊協会規定第五条に明記されており、剣霊も認識している筈である。だが、ユストとイルサーシャが見守る墓標と思しき樫の幹は真新しい素肌を晒していた。
「単に風にさらわれたのではないのか?」
(君だったら『愛しき男』の証を風に飛ばされる様な巻き方をするかい?)
「いや、これでもかとがんじがらめに結ぶであろうな。」
予想していた通りの彼女らしい回答にユストは鼻で短く笑って見せた。
「ただユストがその様になった時、我は果たして潔くスカーフを巻き付けるべきか悩むかもしれん。」
ユストは顔に角度を与えて言葉を続ける様に促した。
「剣霊とて感情のある存在だ。肌身離さず契約者の形見を所持したいと思いついたとしても、何らおかしくないと思わないか?」
規定と衝動を天秤に掛け、後者を優先するという事か。この時ばかりは剣霊が剣よりも女を前面に押し出すのも無理ない。不慮の事故が発生しない限り、剣霊より契約者が先に変わり果てた姿となるのは道理である。たとい頭で理解していようとも、その場面に遭遇した際はこれまで互いを縛り付けていた規定など役に立たないとイルサーシャは言いたいのであろう。
(なるほどね。その様な時の為に、ではないが、愚生たちは二種類のスカーフを支給されている。君もその際はどちらか好きな方を…。)
イルサーシャの可憐な人差し指の先端が頼れる胸板に触れ、内なる言葉を遮った。
「やめろ。そんなだいぶ先な事、我は聞きたくもなければ想像もしたくない。その時になったら我は我の成すがままにさせて貰う。」
詮なき意思が現実を描く場合がある。不吉な音が不幸を呼び起こす。剣霊が契約者と共にありたいと願うのは紛れもない本能であり、それを僅かにも否定する行為は慎めとイルサーシャは示したと捉えるべきか。
そうだな、とユストは早くも遅くもない速度で頷き、火を点けたままの煙草を咥え直す。墓標と思しき樫の幹に再び視線が注がれた。彼には解読不可能な文字に焦点を合わせる。
墓碑銘を刻んだ剣霊もイルサーシャと同じ意見であり、己の思うがままに委ねたのだろうか。仮に規定に従って協会支給のスカーフを巻き付けたとしても風に飛ばされた、もしくは劣化して塵として果てたとは到底考え難い。樫の幹の肌がまだ新しい為である。
次に何者かが持ち去ったのだろうかと疑う。スカーフそのものに金銭的価値は無いに等しい。スカーフの意味を何処かで知った者がこれ幸いにと奪い去り、剣霊使いを倒した証だとちらつかせても大衆は疑いの目を向けるであろう。
剣霊使いに勝利した者の報酬は剣霊に限る。目を奪われる容貌と同時に、視線を逸らさざるを得ない殺気を放つ存在を連れ回す者に誰もが無言で頷くのは目に見えて判る。無論、その報酬を手に入れるまでの道程は容易いものではないが。
やはりまだ見ぬ剣霊はイルサーシャの憶測に違わず規定に従うのを躊躇い、己の意思に従ったと解釈するべきかもしれない。これまで他の剣霊たちと出会い、接する機会がそれなりにあった。彼女たちの主義主張はその数だけ異なるものの、我の強さはイルサーシャと同等もしくはそれ以上とユストは感じていた。恐らくこのまだ見ぬ剣霊も多分に漏れず、と捉えておくべきであろう。
思慮の世界に身を置くユストの横でイルサーシャが動いた。
「油断するな。何かがこちらに向かってくるぞ。」
イルサーシャは右腕を水平に持ち上げてユストの斜め前に立つ。持ち前のやや低めの声色は落ち着きを払っている。何か、とは彼女らしくない曖昧な表現である。少なくとも敵ではないという事か。或いは敵としての判断材料が今は乏しいだけなのであろうか。
一人の剣霊使いと一振りの剣霊の前を通り過ぎた幌馬車から一匹の獣が街道に飛び降りた。一目散にこちらに駆け寄ってくる。犬なのか、とユストは眉をひそめ、イルサーシャは腰を僅かに落とした。飛び掛かられる前に斬撃を放つ為である。獅子搏兎の如く剣霊は相対する者が如何様でも手加減はしない。動物であれば大小構わず尚更である。彼らの牙や爪に迷いは皆無であり、正に無心の境地で一撃を繰り出す。ならば迎え撃つ側も一撃で屠る覚悟で挑まなければならない。絶対の強者である剣霊として幾許かの温情を語るのであれば、相手が攻撃に移ると判断するまでこちらが先手を打たない事だろうか。イルサーシャの切れ長の目尻に涼しげな様相が漂い、一撃必殺の斬撃を繰り出す五指が隙間なく揃えられた。
無類の殺気に当てられて脚を止めた獣は犬ではなかった。精悍な顔つきと強固な四股、体の大きさからして狼であろう。むしろ狼は戦意を削がれたと表現するよりも興味と関心を示さんとイルサーシャを見上げていた。
「そなた、我たちを驚かしても何の得にもならんぞ。」
敵意が微塵にも感じらないと知ったイルサーシャは呆れた口調で揃えていた五指を崩した。
「餌なら他をあたるべきであったな。鳩用のものでは物足りないであろう?」
狼は唸り声すら上げず、吠えもしない。獣特有の朴直な瞳は黙々とイルサーシャを見つめている。幌馬車から出てきたとなると飼い犬ならぬ飼い狼か。野生の荒々しさとは無縁な様子を咥え煙草のユストは感じてた。
街道に停まる幌馬車の御者台からこの狼の主人と思われる人物がはらりと降りた。身のこなしと体の線から判断するに女であろう。ただ、纏う旅装は質素この上なく、風に靡く布地はくすんだ灰色である。唯一、簡素に結んだ左右の砂色の髪が放つ艶が女の華やかさを表現していると言えた。女はずかずかとも、いそいそとも、どちらにも当て嵌まらない歩調でユストとイルサーシャに近付き、膝を折ると静かにしている狼の首に腕を廻した。
「そうかそうか。新たなお客さんを見つけてくれたか、シュンカ。」
二十代中頃と思われる相貌に似つかわしい声の持ち主である。彼女は狼へ愛しげに頬擦りをしながら唖然たる面持ちを隠さない一組の剣霊とその契約者に視線を合わせていた。
「そういつまでも驚いているな。この子、あたいのシュンカは剣霊を見つけるのが得意なんだ。」
大半の者は目の前に立つ存在が剣霊と知ると、後ずさりをするか喉を上下にする。脳で理解するよりもいち早く体が身の危険を察知するからである。しかし、狼を飼う女はこの定石に反する行動を取っていた。むしろ剣霊に慣れ親しんでいる様子が伺える。
「いかにも。我たち剣霊に用があるのなら剣霊協会に依頼を出すことだな。」
イルサーシャは左の横髪に手櫛を入れながら語った。やはり髪の表面に違和感が拭えないのか、遠慮せずに不機嫌そうな態度を露わにしている。見ず知らずの者の前でそれはないだろう、とユストが小突くよりも早く、狼を飼う女はイルサーシャにシュンカよりも強い興味の眼差しを向けると共に口を開いた。
「剣霊、もしかして髪の通りが悪いのか?」
流石に女同士、仕種と表情から答えを導くのは容易なのだろう。
「よく判ったな。だが、そなたには関係ない事だ。」
「いや、関係あるよ。」
シュンカの首に廻している腕を解いた女は立ち上がり、膝の辺りを数回叩く。残雪が儚く舞おうとも剣霊を見つけるのが得意という狼は依然として静かにしていた。
「あたいはメアリー・メイイェル。剣霊協会に所属しているんだったら、メイイェルの研師の名は聞いた事あるだろう?」
さも得意気に腕を組みながら女、メアリー・メイイェルはユストの表情の変化を楽しもうとしていた。なるほど、剣霊協会に所属するのは剣霊自身ではなく、あくまでも契約を結んだ剣霊使いの方であると彼女は知り得ている様子である。ユストは残り短くなった煙草の先端を勢いよく灯らせては最後の役目を与え、鼻から煙を吐いた。
「知っている。だが、剣霊協会公認の研師の名はミランダ・メイイェルの筈だ。」
イルサーシャの腰に左手を当てたままのユストは彼女に代弁を続けさせた。
「実際に会った事がないので果たしてどの様な人物なのか存じえぬが、数年ほど前に引退したと聞いている…と我の契約者は語っているぞ。」
メアリー・メイイェルは腕組みをそのままにイルサーシャの一句一句を事実と風評を照らし合わせているかの様に相槌を打ちながら聞き耳を立てていた。そして最後の節に対して怪訝な表情を惜しみなく晒した。
「語っているぞって…あんた、口が利けないのか?」
「あぁ。不便だが時には便利な場合もあるそうだ。」
「剣霊をそばに置くと何かしらの異変が生じると聞いたことがあるが、それか?」
「そなたが剣霊協会を知る者であれば今更述べる必要もなかろう。」
確かそれはケンレイショウと言われる現象、とメアリー・メイイェルは独り言の様に、己の知識を確認するように呟く。知識は記憶を呼び起こし、風の噂を脳裏に蘇らせた。
「あんた、もしや…。」
メアリー・メイイェルは青みが濃い瞳をユストの頭頂から爪先に向けて動かし、首許でぴたりと止めた。協会支給のスカーフに施された紋章の刺繍はいざしらず、識別番号を読み解こうとしたが、さすがに黒字に黒の刺繍では実際に手に取って広げなければ困難である。しかし、メアリー・メイイェルは目の前の男と剣霊の組み合わせが何者であるか確信した。
「音無く一撃で仕留める剣霊使い、とはあんたの事だったんだな。偉いぞシュンカ、よくぞこんなとびきりの上客を見つけてくれたよ。」
メアリー・メイイェルは纏うくすんだ灰色の懐に手を入れ、干し肉の欠片を取り出すなりシュンカの鼻先に垂らした。程良い湿り気のある鼻をひくつかせたシュンカはメアリー・メイイェルの言うところのとびきりの上客の前で奪う様に鋭い牙を干し肉の欠片に食い込ませた。
「ミランダお師様は老いも伴って腰を痛めて隠居の身なんだ。つまり、あたいが今のメイイェルの研師だという訳さね。」
シュンカは切り裂く為の牙を用いて口内の干し肉の欠片を噛み千切る。耳にして心地良い音ではないが腹を満たす為の音でもある。腹を満たすとは生の維持という本能の産物である。偶然なのか必然なのか、今のイルサーシャにも剣霊として在り続ける為にするべき事が舞い込んできたと捉えるべきであろうか。
「して、高名な研師様が何故に大陸を行脚しているのだ?」
これはイルサーシャ自身の言葉である。少なくとも彼女は見慣れぬ出で立ちのメアリー・メイイェルに関心を抱いた様子が伺えた。
「簡単な事だ。理由は大まかに三つ。」
メアリー・メイイェルは薬指と小指を折り曲げた状態の左手を作りながら言葉を続けた。
「まず一つ。研ぎ石と水を自分の目と足を使って探し当てなければならない。ミランダお師様の教えだよ。次に二つ。大陸に散らばる剣霊使いたちにとってメイイェルの研師は便利な存在でなければならないからな。これは剣霊協会からの指示だ。最後の三つは次の依頼主と約束の場へ向かっているからさ。ここまで言えばあんたたちも納得できるだろう?」
剣の保全を知る左手はさらに中指と人差し指を折り曲げ、ぴんと伸びた親指を己の馬車へ向けて動かした。乗らないか、と促しているのであろう。
さてどうしたものか。右手を顎に添えたユストは干し肉を平らげて満足そうなシュンカ、親指が示した馬車、そして想像だにしなかった若きメイイェルの研師の順番に視線を動かすと横に立つイルサーシャに触れる左手を離し、羽織る黒いコートのポケットに入れる。これは腕に手を置けという二人の間での暗黙の指示でもある。
「我の契約者はそなたの直近の実績が知りたいそうだが。」
「さてはまだあたいを信用していないんだな。有名な剣霊使いが疑い深いとは知らなかったよ。」
「そう毒づくな。今の世を生き残る術だそうだ。」
有名な剣霊使いは気難しさの中に友好的な雰囲気を持ち合わせている。ふふ、と微笑で応えたメアリー・メイイェルの簡素に結んだ左右の砂色の髪が風に揺れ、イルサーシャの白銀の長い髪も波を打った。
「ちょうど二十日前に七十番の剣霊使いの剣霊を磨いたよ。あんたたちは見たことがあるか?豪奢という言葉は彼女の髪と身体の線の為にあるのかもしれないと思ったよ。」
「高慢ちきという言葉もあの容姿容儀のいかがわしい金髪の為にあると我は思うが。」
「おや…面識があったのかい?」
想定外の返答であったのか、前のめりになるメアリー・メイイェルに対してユストの口許は苦笑を零している形を成していた。
「あとは七十四番の剣霊の手入れを更に二十日前に行ったな。」
「あの若き双子か。二振りとなるとやはり値段は倍なのか?だとしたら、あの赤毛の契約者の懐具合がさぞかし寂しくなったのであろうな。」
メアリー・メイイェルは呆気に取られていた。基本的に剣霊使いは自らと同じ立場の者と共に行動する事は無いに等しいと言われてる。仮に接触しようものならばどちらが上かと己が至上と信じて止まない剣霊同士の争いが生じる可能性が極めて高いからである。しかし、目の前に立つ白銀の長い髪を持つ剣霊はあたかも旧知の如く語り、彼女の契約者も否定の素振りを見せない。
「流石は四ヶ国に名を馳せた剣霊使いは一流と言うべきなのかな…?」
舌を巻いたと言わんばかりのメアリー・メイイェルの前にユストがついと一歩踏み出した。シュンカが警戒して狼らしい唸り声を発する前にイルサーシャが左の横髪を耳に掛ける。鎌首を持ち上げた黒蛇のピアスがまき散らす睥睨がもたらす効果は人間以外の生物も例外ではなかった。
「賛辞は有難く受け取っておこう。ところで手入れの報酬はいかほどなのか我の契約者は知りたいそうだ。」
「泣いても笑っても共通金貨一枚。値引きは勿論しないが、追加料金を取る様な真似もしないよ。」
「それが相場か?」
「何なら七十番と七十四番の剣霊使いたちに聞いてみなよ?」
さしずめ法外な金額を吹っ掛けている様子は見当たらないとユストは汲み取っていた。無論、常人であれば手にする機会は訪れないであろう貨幣を請求している。だが、剣霊は剣霊使いの生命そのものでもある。生命を万全の状態にするべき機会に金を出し惜しみするのは愚行と言えよう。
「報酬に異論はないそうだ。そこで相談だが、御身は次の依頼主と落ち合う場所へ向かっているとの事だが、順番を変えられないか?」
「あんたたちを先に、という事かい?」
「そうだ。共通金貨を追加して二枚払おう。」
ユストの右手は羽織る黒いコートのポケットから共通金貨を三枚取り出した。メアリー・メイイェルの前で広げられた右手の中央では正真正銘の共通金貨が三枚、魅惑に溢れた貴なる輝きを放っている。ごくりと喉が上下する様をユストは静かに見届けていた。女だけに控え目ながらも鮮明な音を響かせていた。
「駄目だ。」
メアリー・メイイェルが踏ん切りをつけたと言わんばかりに言葉を発した。
「受け継がれたメイイェルの技術は一朝一夕にはいかない信用も得たんだ。」
「それもミランダお師様の教えか?」
尖り過ぎず丸過ぎずの顎を僅かに上に向けてイルサーシャがほくそ笑む。
「違う。あたいの持論だ。」
毅然とした面持ちのメアリー・メイイェルに対してユストは頷いて応えた。
三枚の共通金貨を握る右手が羽織る黒いコートのポケットに消えたと思えば、今度は内ポケットに姿を隠す。取り出したミミズクの風切り羽を用いた筆記具の先端には真鍮製の細い筒が嵌め込まれている。無駄な動きをせずに細い筒を廻しながら引き抜き、剣霊協会の紋章が透かしとして施された紙の上に中央の文字が綴られた。
『剣霊協会より七十二の番号を与えられたユスト・バレンタインとその剣霊イルサーシャだ。真の一流である君の技術と信用に愚生の剣霊を任せよう。』
颯爽と記された文字を読み取ったメアリー・メイイェルは半開きの口を締め直した。
「報酬は一括前金だよ。」
差し出された研師の手の上に共通金貨が一枚、落とされた。彼女の横に佇むシュンカが自分も何か貰えるのかとユストを見上げている。
メイイェルの研師の発祥は剣霊協会の発足と時を同じにして、と剣霊使いの間では言われている。しかし脈々と受け継がれた研師の技術はそれより以前、拮抗する四ヶ国の成立よりも古い。
マーヤ・メイイェル。メイイェルの研師の始祖と言われる人物である。彼女はその笑顔に誰もが和やかに思わせてくれる、ごくありふれた女であった。彼女には物心がついた時から親しくしていた同い年の男がおり、いずれは二人で家庭を築いて平穏な生涯を共にすると思い描いていたという。だが、時勢は戦乱の極みであった。老いも若いも女であろうと子供であろうと己の身を守らなければならない。
ある晩夏の宵にマーヤ・メイイェルは慕う者から衝撃的な告白を受けた。彼は自分たちが住まう市街地を周囲を取り巻く列強による侵略から守る為にある決断を下した。剣霊と契約を結ぶ決断である。
宵のもの寂しげな雰囲気は愛する者が抱く苦渋の表情を色濃く浮き出させ、彼の斜め後ろに立つ剣霊の彫刻の様に整った鼻梁の美しさを際立たせている。剣霊と契約を結ぶとは己の生涯を終えるまで剣霊と共に歩むと既にあまねく知れ渡っていた。女である剣が男である人間を選んでは血と精を糧に永劫を謳歌する。誰がその定義に楔を打ち込めようか。
発するべき言葉を見つけられないマーヤ・メイイェルに出来る事はその場で泣き崩れるだけであった。湿りに湿った声と止まりそうにない嗚咽で無様で愛嬌の欠片すらなくても、何故わたしを独りにするの、とマーヤ・メイイェルは己の気持ちをぶつけるべきであったのかもしれない。だが、彼女が慕う男は己を想う女が平和裏に暮らして欲しいと選択し、その為にどれほどの苦渋を強いられたのかと推し量るべきではないとも彼女は酌んでいた。男の決断に女が口を出してはならない。ならば彼の想いを讃えてわたしは独身を貫こう、とマーヤ・メイイェルは熱き大粒の涙を生まれ育った地に沁み込ませた。
衝撃の告白から三年後の春、マーヤ・メイイェルが慕った男は帰らぬ者となった。戦死である。剣霊と契約を交わした者を討てば勇名が轟く。武辺に生きる者であればこぞって彼を討たんとするのは戦いとは無縁のマーヤ・メイイェルからしても自明の理に他ならない。
奇しくも慕った男の最期をマーヤ・メイイェルに語ったのは彼と契約を交わした剣霊であった。契約者を失った悲壮と摂取すべきものを数日間摂っていない為なのか、その顔はどれほどの端麗を極めていようとも拭えぬ憔悴に浸食されていた。
伝えるべきを伝えたと剣霊は言葉を発するとその場で倒れた。刀身の象徴たる長い髪は優雅な弧を描かなかった。剣霊の髪は首許辺りから先が消失していたのである。剣霊であれ、恋敵であれ、最期を迎えんとする者をマーヤ・メイイェルは無碍に出来なかった。意を決して剣霊の唇に右の小指を当てれば切傷の痛みが走り、血が流れ出す。生気とはかけ離れた唇が彩られ、剣霊は弱り切った声で言葉を続けた。
刀身に生じた小さな傷を放置した事が原因で戦いの最中に真っ二つに折れ、敗北を喫したという。この傷をマーヤ・メイイェルが慕った男は気付いていたが、どう磨こうとも取り除けなかった。とは言えども、あらゆる研師に依頼しようにも誰も剣霊を磨き上げた実績はなく、そもそも剣霊自体が頑なに拒んだ。剣体を晒すとは婦女が裸体を晒すのと同義である。もし女の研師がいるのであれば我はその躊躇いを払拭出来たのかもしれない、と剣霊はマーヤ・メイイェルの頬に手を添えながら霊体の維持を止めた。切傷を伴った手の上には痛々しい姿の剣の柄が転がっていた。
慕った男を失い、恋敵も失ったマーヤ・メイイェルはその翌日、必要最低限の荷物と共に出生の地を去った。今後、己と同じ境遇を強いられる女は後を絶たないであろう。彼女たちは己と同じく愛した男が剣霊と共に死線を掻い潜って少しでも生き永らえるのを望むに違いない。その為には手にする唯一の剣が万全の状態でなければならないとも一振りの剣霊に身を以て教えられた。ならばその悲しみを誰にも味わわせない為に己が女の研師になろうと彼女は心に誓ったと言われている。
「なるほどな。ただ我が思うに逸話を少々美化していないか?」
御者台の上で手綱捌きを難なくこなしているメアリー・メイイェルに向けてイルサーシャが遠慮なしに口を開く。当代のメイイェルの研師から見て異論を投げる剣霊は契約者を挟んで風になびく白銀の長い髪を押さえながら横に座っている。
「失礼な。マーヤ大お師様の偉業はあたいがミランダお師様に弟子入りしてから毎晩寝る前に聞かされたんだ。今の話は一字一句すら間違っていないよ!」
「ふうん。」
「まだ疑っているのか?」
「いやいや、大したものだと思ってな。」
「嘘だ。こうなったら一緒にいる間はイルサーシャに毎晩話を聞かせてやる!」
「無駄だ。剣霊は眠らん。話し疲れたそなたが涎を垂らしながら眠りこける間抜け面を我に拝ませるつもりか?」
「あたいの寝顔は小さい時からとても上品だよ!」
「だと良いのだがな。」
まさかこうも姦しいとユストは思ってもみなかった。加えて知り得たばかりの者がこうも近くにいては煙草の煙をくゆらせて気分転換を図れそうもない。若き女の御者にとって煙草の煙は目に沁みて手綱を誤らせる可能性が考えられる。
「ところでようやく小休止できる場所に巡り合えたんだ。我は食事を摂りたいのだが、構わないか?」
いつもながらに脚を組んで静かに佇むユストを一瞥した後に、イルサーシャの視線はその奥のメアリー・メイイェルに是非を問う。契約者はもとより、小休止できる場を提供してくれた者が剣霊を多少は知る事に対する気遣いか。左右に分けて纏めた砂色の髪が踊り、青みが濃い瞳が剣霊とその契約者を捉えた。
「あっちでなら。」
幌馬車の中で食事を済ませろ、という意味らしい。
「中に入ったらあたいの商売道具に触れるなよ?あと、もう一つの食事とやらは御免だからな。」
「おや、もう一つの食事という言葉を使うとは詳しいな?」
「あたいはこれでも独り立ちしてから五年は過ぎているんだ。それぐらい知っていて当然だ。」
「ならばどちらかが気乗りしなければもう一つの食事は成り立たないのも存じておるだろう?それに幌馬車の中には先客がいる。」
先客とはメアリー・メイイェルに従順な狼、シュンカに他ならない。
「シュンカにとって今はお眠の時間だ。ちょっかい出すなよ。」
この狼についてユストは興味を抱いていた。野生生物に脅威を覚えるのであれば熊や虎という単体よりも群れて狩りを成す狼が特出している。その様な狼が人間に馴染む経緯を持つ要因が知りたかった。
「そのシュンカについてだが、毛の艶や色具合は言うまでもなく体躯が立派な狼だとユストが絶賛している。何処でそなたと生活を共にする様になったのか教えて欲しい、と尋ねているが。」
メアリー・メイイェルはイルサーシャに向けていた視線よりも明らかに柔らかなそれをユストに投げた。その話題を振られるのを待ち焦がれていた様子である。
「あたいが十二歳の時に故郷の南の山奥で助けたんだ。」
「助けた?狼を襲う生物となると、魔物か?」
「人間だよ。」
メアリー・メイイェルの言葉には侮蔑が伴っていた。彼女の故郷では狼の群れによる家畜の被害が増加していたという。男たちは手に武器を取り、女たちは罠を仕掛け、日々の生活の糧の確保に奔走した。そして最後は人間が勝利を得たが、狼狩りに邪魔だと山を彩る木々は伐採され、見るも無残な景色が横たわっていた。
「村中のみんなが反対する中、村長様だけがあたいに同意してくれた。シュンカという名も村長様が付けてくれたんだ。」
「なるほど。聞きなれない言葉ではあるが、何か意味があるのか?」
普段と変わらずに知識の欲求があるものだな、とイルサーシャは靡く髪を押さえている手をそのままに音なき声を代弁しながら一定の歩調を崩さない馬の背を眺めていた。黒鹿毛の牡馬である。
「遥か昔の何処かの言葉で霧掛かった春の事らしいね。ちょうど一つ向こうの山が霧に覆われて幻想的な眺めの中であの子を初めて抱きしめたのを今でもよく覚えているよ。」
在りし日を思い返しているのか、メアリー・メイイェルは年頃の女らしい細い顎を僅かに上に向けている。その姿はユストとイルサーシャの脳裏にも同じ様な光景を容易く描かせる雰囲気を醸し出していた。
幌馬車が進む街道の左右は針葉樹に囲まれている。陽光は天高く伸びんとする枝葉に遮られ、本来ならば幹や大地を彩る苔たちは暗陰な湿り具合に彩られている。まさに冬景色の最もたる残雪以外は暗色で形成されていた。
「そしてあたいがメイイェルの研師になった理由を訊かないのかい?」
ユストは組む脚を入れ替え、握るイルサーシャの腕を数回人差し指で叩く。
「今は結構だ。メツァールントに到着まであと如何ほどか?」
「このまま順調に進めば日没の頃には間に合うんじゃないかな。」
「ならば到着まで後ろで休ませて貰うとユストは言っておる。休める時に休むのも剣士の務めだ。」
「まぁそれは別に構わないが…。」
ユストは腑に落ちない様子のメアリー・メイイェルを一瞥した。もう少し会話を楽しみたいのであろう。だがこれ以上踏み込んだ話を聞いたとなれば、こちらも行きずりの話のみならず出自やイルサーシャと契約を結んだきっかけを語らなければならなくなる。剣霊使いと呼ばれる者が己を曝け出すべきではない。秘匿と存命は精緻な歯車の様に噛み合っており、歯が少しでも欠ければその動きは怪しくなる。
「メツァールントに到着したらおさらば、という訳でもない。それ故に急いてそなたを知ろうと思ってはいない、と言っておるが。」
「そうか。」
「あぁ。」
「あたいとした事が少し喋り過ぎたな。」
「そなたは女だてらに独り流離の身。自ずと会話を楽しもうとするのも無理ない。」
イルサーシャとメアリー・メイイェルの声が途切れると共にユストはゆらりと立ち上がる。比較的低速ではあるが、揺れる御者台で体を支える様にイルサーシャの肩に手を添え、軽く掴む。羽織る黒いコートの裾が風の勢いにさらわれる前に彼は幌馬車の中に姿を消した。
「イルサーシャ、あんたも食事だろう?」
右手が手綱を僅かに絞る。前方にて見え隠れしている僅かに隆起した岩から幌馬車の車輪を守る為である。残雪の濁った白色と街道の素肌である深き土色に紛れて、冷たい灰色が顔を覗かせていた。
「いや。その気が逸れた。」
ユストはイルサーシャの肩に手を添えた際にメアリー・メイイェルの横にいろと指示を出していた。ついでに軽く掴んだのは念押しである。そうまでされては常に勝気なイルサーシャとて是が非でも食事がしたかった訳でもない事もあり、素直に従う。馬と狼、そして剣霊がいる。不穏な空気や身の危険を察知する能力に長けた者たちに囲まれていればこの幌馬車は予定通りメツァールントへの行程を滞りなく進められるであろう。
「剣霊って存在は誰もがこう、伸び伸びとしていると言うか身勝手と言うか、そうなのかい?」
「さて?」
赤紫色のケープの端を弄びながらイルサーシャは応える。
「これまであたいが見てきた剣霊の殆どにそういった印象を覚えたんだ。」
「まぁ、少なくとも人間たちよりは時の流れを遥かに知っているからではないのか?」
「え、どういう意味?」
「時の流れに寄り添うには心身共に自然体であるべき、という事だろうな。」
「自然体、か…。」
今度は左の手綱が絞られた。幌馬車を曳く黒鹿毛の馬は間髪入れずに反応する。イルサーシャの見立てではこの黒鹿毛の牡馬は十二歳と思われる。立派な体躯と落ち着いた艶の毛並み、社会的に見ればまだ若いメアリー・メイイェルを格下の者と反抗せずに指示に応じる懐の深い牡馬でもある。
「それって、時と場合によっては無理しているって事?」
「どうであろうな?」
純朴な疑問が鋭い指摘として投げ掛けられようともイルサーシャはさらりとかわした。正直なところ、常々が己の思うように事が運ばないのは剣霊とて同じである。
「これからメツァールントで二年ぶりに落ち合う剣霊は飾り気がなくてとても綺麗なんだ。彼女は見ても心が和むし、話せば心が温まる。」
「その剣霊はそなたが先に言った殆どに含まれなていない、という事か。」
「そうだよ。彼女はイルサーシャ、あんたと同じで髪は長くて真直ぐ、相刃の直剣だ。色は違うけどね。」
「二年ぶりの再会か。その剣霊と契約者が本当にメツァールントにて姿を現すのか不安はないのか?なんせ二年もの間、共に音沙汰が無かったのであろう?」
「大丈夫。彼女の契約者は嘘が吐けないんだ。」
「なるほど、とても説得力のある剣霊障だな。」
表面では感心と納得の装いを見せていたイルサーシャであったが、己の中では不安という言葉を反芻していた。メアリー・メイイェルの幌馬車に乗り込む前に謎多き墓の前で、古代文字が刻まれた墓標と思しき樫の幹の前でユストと共にお互いの思惑をぶつけていた。あれは誰の墓であったのだろうか。そして墓から離れる際に朔日草を添えるのを忘れてしまった。
「ねぇ、ユスト・バレンタインは静かにしているけど、もう寝たの?」
「あぁ。既に熟睡の一歩手前だ。」
「聞き耳を立てて寝息を確認しなくても判るんだ?」
「彼は我の契約者だからな。それに寝ていようとも我の剣霊障が作用している。」
イルサーシャは御者台の乗降部にある手摺にか細い手を添え、身を乗り出して後方を眺めた。緩やかに遠ざかる景色の中に彼女が求める物は映らない。
予想外に乗り心地の悪い幌馬車の揺れが止まった。それまで閉じていた双眸に光りを与えたユストは身動きせずに頭上を視界に収めていた。目的地であるメツァールントに到着したのか。もしくはメツァールントの地に足を踏み入れる前の段取りの確認か。奇しくも剣霊を忌み嫌う北部王政国家からユストの祖国であった中央行政府への移動となる。両国は友好条約を締結しているとは言え、国境には検問所は設けられている。その場所を難なくやり過ごす手段を講じなければならないとメアリー・メイイェルが念頭に置いているのであれば、彼女は流離の研師として優秀と言えよう。だが、それにしてはまだ陽が高い。頭上の幌が防水処理と補強の為にソノイの樹脂を如何に塗りたくっていようとも鳥の囀りが耳に届く。夕刻以降に夜に啼く鳥は限られている。
左手首に冷たい感触が走った。イルサーシャが握ったからに他ならない。
「敵だ。四人だ。」
声を潜めるイルサーシャの緑色の瞳はユストを覗き込み、直ぐに逸らされた。四人と言ったからには人間であろう。邪剣霊や魔物ではなさそうである。
(相手は追剥ぎの類か?)
「それが…我とした事が判らんのだ。」
珍しくもイルサーシャがユストの問いと己の主観を擦り合わせた結果を自信なさげに答えた。
(飛び道具は?)
「所持していないようだな。」
(足を止められたのか?)
「いや、馬は襲われていない。」
馬とは貴重であり、戦利品として一級であるのは大陸に生きる者であれば誰とて認識している。単に相手を屠るのが目的であれまずば機動力を奪うべきである。やはり追剥ぎとみるべきか、とユストはまだ見ぬ敵について想像を膨らませた。
(メアリー・メイイェルは無事か?)
ユストの視線が頭上の幌から横に座るイルサーシャに移動する。彼女は剣霊独特の血の気が失せた唇を結んだまま尖り過ぎず丸まり過ぎずの顎をある方向へしゃくった。ユストの足許から二メートル離れた地点でメアリー・メイイェルはシュンカを抱き締めながら体を小刻みに震わせている。
「唸っちゃ駄目だよ、外に声が漏れるよ。」
体に倣い、押し殺した声も自己抑制が利かないほど震えている。女独りの流離の身でありながら、これまで生命の危険に直面した事が皆無であった訳がない。それとも単に運が恵まれていたのか。
「彼女の話によれば初めて荒事に遭遇した際にメツァールントで落ち合う剣霊とその使い手に助けられたらしいな。それ以来、何かと身の危険の際は研いだ剣霊たちの世話になっているそうだ。」
しゃくった顎をそのままにイルサーシャは語る。
(こうなった経緯と状況を手短に聞こうか。)
ユストは身を起こした。こちらとて剣霊の使い手、そこまで言われてしまっては首を突っ込まざるをえない。
メツァールント市街地へ続く街道を進行中、前方に複数の不穏な空気を感じた。街道の左右を彩る針葉樹の陰に隠れている。剣霊を前にしては僅かながらにも漏れる殺気はもとより、一瞬の隙を見せれば気配を察せられてしまう。速度を少し早めろ、とイルサーシャは手綱を握るメアリー・メイイェルに何気なく指示する。その場を通り過ぎる際に相手は四人とイルサーシャは読んだ。対峙可能な数ではあるが相手もそれぞれが馬に跨っている。こちらはそれなりに加齢を受け入れた馬が幌馬車を曳き、相手はまだ若い馬の単騎駆けである。機動力の差は歴然であり、これを打破するには共に馬から降りる状況を作り出さなければならない。
街道には所々に支線として伸びる寂れた道や簡易休憩所がある。馬車一台なら通れそうな細い支線を見つけたイルサーシャはそこを指差し、助かりたいなら我の指示を信じろ、と確固とした意思を感じさせる声を風に乗せた。何が起きているのか今一つ状況が掴めないメアリー・メイイェルをよそに幌馬車を曳く馬はイルサーシャの言葉に忠実に従う。メアリー・メイイェルが慌てて手綱を振り回そうとも馬は街道から外れ、更に速度を上げる。相手も躊躇いなく支線に馬を飛び込ませた。徐々に道幅が狭くなり、残雪に覆われた道の表面になだらかさが失われつつある。
数分後に道が消えた。イルサーシャとメアリー・メイイェルの前に断崖が平然と横たわっている。人間の手が加えられようとしてから久しい表面をしている。いつの時代の出来事なのか判らないが、これを理由に今ある支線の拡張開発は中止もしくは再開不明の延期となったのであろう。
安心しろ、そなたは幌馬車に身を潜めていれば良い、と今にも泣きだしそうなメアリー・メイイェルに促した後にイルサーシャはちらりと後方に視線をやった。左右は針葉樹が生い茂る中、四騎は縦一列に並んでは狩るべき相手を注視している。そして彼らが纏う衣服は彼女に眉間に皺を寄せさせた。
「あれは…ユスト、そなたが我と出会う前に着ていたものと同じだ。」
イルサーシャはユストの血を摂取することで得た情報と目の前に映る者たちを照らし合わせた結果を正直に答えた。これがイルサーシャを自信なさげにさせた原因か、とユストは短い溜息を漏らす。それにしても今亡き国家の軍属が定めた制服を着用する者がまだいるとは。
恐らく国家滅亡の際に追手から命からがらに逃れた者たちが徒党を組んでいるのであろう。当初は再興を胸に秘めていたとしても、既に五年の歳月は流れた。志は風化したに違いない。
(このままでは埒が明かないな。)
ユストは片膝を突いて立ち上がるなり、幌馬車の外へ向かった。すかさずイルサーシャが彼の前を歩む。剣霊はいかなる時であろうとも契約者の身体を守る義務がある。彼が放った言葉が現状に対してなのか、己を奮い立たせる為なのか、考察する時間を割かずに一歩を踏み出せば白銀の長い髪が普段と変わらずに揺れる。その先端をユストは左の人差し指に巻き付けた。
(君はまだ髪の引っ掛かりとやらが気になるのか?)
「少し、な。」
彼女の答えは正直でもあり、やせ我慢に似た様なものであるのをユストは理解していた。
(可能な限り早く終わらせる。)
左の人差し指からするすると白銀の長い髪の一部が逃げる様に解けた。
幌馬車の外に出る。迫る断崖に圧倒されようとも今は大自然が織り成した景観を堪能する時ではない。イルサーシャの言葉通りに目前の敵はユストにとって懐かしい制服を着用していた。過去の己の姿と重ね合わせたのか、ユストは刹那に目を細めた。
亡き国家の制服を着用した四名は全て馬から降り、こちらの動向を探っていた模様である。羽織る黒いコートの裾をなびかせたユストは彼らからしてみれば、武器を所持していない能天気で不用心な男と映ったであろう。そしてユストの左斜め前を歩むイルサーシャの端正な鼻梁が明確になるにつれて彼らは思わず息を飲まざるを得なかった。彫刻の如き稀なる容姿を目の当たりにした反動と思い込むか、或いは迫りくる殺気に反応した命の灯火が容易くは拭えそうにない恐怖に晒されて揺らいでいるのか。
それぞれが腰に履く剣の鞘に手を添えた。あくまでも手を添えただけである。丸腰と判った相手に抜刀するまでもない。同時にユストの羽織る黒いコートの裾が静かになる。距離にして五メートルの地点である。
「貴公は愚生たちの着衣が何たるか知っているようだな。」
制服の装飾から判断して四名の中で最も位の高そうな男が口を切った。風雨に晒された制服は薄汚れ、階級章は色褪せようとも、彼らの中で過去の階級は未だに引き継がれているのであろう。あからさまな威圧を含んではいないが、良く通る声は目を背けさせない力が込められている。これも軍隊に所属していた者らしい声色か。ユストは四人の顔と制服の装飾を一通り見渡した後に頷いて見せた。
「返事をせんか!貴公はこちらをどなただと思っている!」
この中では次席であろう男が声を張り上げた。
「北部方面第二騎馬部隊隊長、であろう?」
声を張り上げられようともイルサーシャは平然と言い放ち続けた。
「そしてそなたは同第三騎馬部隊副長、その後ろが東部方面歩兵師団伍長、最後が首都防衛隊所属の補給部隊一等兵。すまんな、この者は声が出せないのだ。」
四名は皆して同じ顔をした。目を見開いた表情である。
「もしや貴公も愚生たちと同じく中央王立国家の軍属か?何処の所属であったか是非ともお教え願いたい。」
興奮を抑えきれない隊長はユストの両肩を叩かんと脚を踏み出したが、イルサーシャも半歩前へ出て相手の動きを封じた。
「今は流離の身だ。名乗るつもりも思い出話に華を咲かるつもりも毛頭ない。」
「流離の身だと?国家滅亡と共に同胞がそこまで落ちぶれたとは…何とも嘆かわしいではないか。」
では自分たちは現在どのような立場にいるのか。副長の棘のある言葉にイルサーシャの流麗な目尻は剣霊らしいものへ変化させていた。
「今の暮らしの方が気に入っていると我の契約者は言っているが。」
「我の契約者…女、やはりお前は剣霊か?」
伍長が発した疑惑と警戒の声に四名は腰を落として両足をにじらせた。
「ならばどうする?」
イルサーシャの一声は彼女なりの先制の合図でもあった。彼女も僅かに腰を落としたと思いきや、踵を踏み込んで最大限の疾走を生じさせ、白銀の長い髪が一条の房となって尾を引く。その姿は鞘から抜き放たれた一閃の如く凄まじく、見る者全てに狼狽の真っ只中にいると思わせる視線を作らせる。
腰に履く剣の柄に手を掛ける時間は与えられようとも、鞘走りまでは不可能であった。隊長は喉を左手の手刀で貫かれ溢れる血潮は泡を吹き、副長は振り返りざまの長い白銀の髪による横薙ぎに腹を割かれ白とも赤とも言えない臓器を撒き散らし、伍長は左肩から股まで右手の斬撃を受けて声にもならない悲鳴と共に倒れた。生ある全てを切り刻む剣霊の華麗であり凄惨な一撃の前に彼らは甘んじた。
ただ独り残された一等兵は剣の柄に掛けた手をそのままに腰を抜かしていた。剣を抜こうにも腕に力が入らない。仮に抜こうものなら剣霊の慈悲なき一撃が振り下ろされるかもしれない。絶体絶命を正に体現している最中に足音を立てずに剣霊が歩み寄る。垂らした両手の先端は同胞の血に染まり、見下ろす緑色の瞳の奥では血が通っていない者らしい冷淡さが垣間見れた。
「た、助けてくれ。愚生は君を知っている。王都で一度会った。そう、君は近衛部隊所属だったな。」
乾ききった喉に鞭を打たんばかりに声を振り絞りながら一等兵はイルサーシャの後ろに立つユストに縋り付こうとした。
「残念な事に知らんと言っておるが?」
膝を折ったイルサーシャは右の人差し指の先端を一等兵の胸の中央へ置いた。纏う制服の上からでも剣霊の肌が判る。契約者以外は磨き抜かれた刃の冷たさと硬さを感じられずにはいられない。
「ちょうど六年前の春だ。当時補給部隊に配属されたばかりの愚生は近衛部隊に新たな剣を五十振り引き渡す任に当たった。とても簡単で手っ取り早く終わると思っていた。だが君は五十本数え終わった後に受取証にサインをせずに一本一本丁寧に鞘から抜いて検品を始めたんだ。」
当事者がすっかり忘れ掛けていた記憶を相対した者が鮮明に覚えているとはままある。顎に右手を添えようとするユストは突き上げる様なイルサーシャの眼差しを知り、ゆっくりと頷いて答えた。
「…五十振りとはたいそうな数だな。」
「とても几帳面で真面目で誠実な男だと愚生は思った。君も思い出してくれただろうか?昔の誼ではないが同じ志を抱いた者同士、助けてくれないか?」
浅い呼吸を繰り返して上下する一等兵の胸はイルサーシャの人差し指の先端により血を滲ませ始めている。うっすらと広がる血痕を前にユストは頭を振り、唇を動かした。
『どうやら君は彼女を本気で怒らせてしまったようだ。』
一等兵は生命の危機を目前としてあらゆる感覚が研ぎ澄まされていた為か、慣れ親しんだ中央の言葉であった為か、ユストの唇の動きを正確に読み取った。それ故に、音無き言葉の意味するところが理解出来なかった。
剣霊にとって契約者が唯一柄を握る権利を有する対象であり、その逆も然りである。契約を結ぶ前の話とは言えども、ユストが一度に五十振りの剣の柄を代わる代わる握ったと知ったイルサーシャの悲哀や憤慨を通り越した面持ちは虚空そのものであった。
特に力を込める様子もなく、イルサーシャの剣霊たる指は一等兵の胸に沈んだ。胸骨の抵抗をものとしない。ただ惨たらしい破壊音を人々の記憶から忘れ去られた断崖は無情に反響させる。心臓に傷を負い、その機能を停止させられた一等兵は無意識にも身体を強張らせ、最後は脱力と共に力尽きる。この世の恐怖を味わい尽くしたと言いたげに目を見開いたまま事切れた。
ユストも一等兵の亡骸に近付き、膝を折る。屍の双眸に闇を与え、一方的な勝利を得たイルサーシャの右腕を掴む。深く突き刺さったままの一等兵の胸から引き抜く。血が噴き出ることはない。ただ止め処なく過去の国家の軍服を鮮やかに染め上げる。
「我と共にする以前の話だ。気になんぞしていない。」
ユストはそうかとも判ったとも返事をせずに、なめした鹿革でイルサーシャの右手に付着した血を拭き取る。出来うるならば彼らに失踪したリストメクの住人たちについて聞き出したかったというのがユストの思惑でもあった。この周囲を根城としていたのであれば、否応にも目についた筈である。だが死人となっては何も語らせられない。とは言えども、少々早まったのではないか、とイルサーシャを論難するべきではないともユストは理解していた。
「そなた、何か言いたげだな?」
剣霊よりも女の勘を優先したイルサーシャは己の右手を丁寧に拭き上げるユストの横顔を眺めていた。
(以前の同胞に対して愚生の手を煩わせまいと君は判断したんだろう?)
「さて、どうだか。」
イルサーシャは視線をユストの横顔からあらぬ方向へずらした。そこには幌馬車がある。シュンカを抱き締めたメアリー・メイイェルが怖いもの見たさに顔を覗かせていた。
「おい、この四人の剣を拾え。亡国の剣はメツァールントでは報奨金になるかもしれんぞ。」
イルサーシャの声にメアリー・メイイェルはびくりと体を強張らせて反応を示した。
鳥たちは何事もなかったかの様に囀りを続けている。




