袖の下
冬の空という天蓋に覆われた薄暗い街道を進む。揺れる荷馬車を操るのはくたびれた様子が否めない革製のコートを纏い、良い意味で味のあるコートと同素材の帽子を被るグスタフ・ヴェネシュである。
複数の白い息が流れた。
それらは駆ける二頭の馬が吐いたもの、二頭の馬を操る御者台上のグスタフ・ヴェネシュから漏れたもの、そしてグスタフ・ヴェネシュの横で静かに佇むエルスノアの上品な顔立ちの一翼を担う鼻腔から流れ出たもの、と三者三様である。ただただ流れる方向は同じであり、各々の思惑など気にせずに掻き消える。
馬たちには全力による疾走を控えさせ、程良い速さで前進する様に指示を与えていた。例年よりも残雪が多い。幾度となくこの街道を利用しているグスタフ・ヴェネシュの見解である。ならば跳ねる泥から貴人を守る為にも速度を落とさざるを得ない。
剣霊の都との別称を持つコノリギスを出立してから二日目となる。本来ならば中央行政府の首都であるゲルハルステンまで馬を用いて二日を要する。だが、既にかの地を経て一市街地であるメツァールントの目前まで行程を進めていた。グスタフ・ヴェネシュとしては、今回の依頼主であるエルスノアの切迫した雰囲気が脳裏から離れず、それに応えんと休まずに手綱を握り続けた。日中は言うまでもなく、夜間は毛布に包まり睡魔に身を預けているエルスノアに気を使いながら少しでも距離を稼ごうと努めた結果が実を結ぼうとしていた。
別の見方をするのであれば、会話を弾ませて旅行気分を満喫する雰囲気は皆無でもあった。グスタフ・ヴェネシュは手綱の捌きに集中し、エルスノアは数十年ぶりに目の当たりにすることがなかったコノリギスの外の景色を堪能しようと流れる景色に意識を傾けている。黙々と過ぎ去る時間と景色に二人は静かに身を置いていた。
時折、グスタフ・ヴェネシュはちらりと横目でエルスノアの様子を伺っていた。最初は物珍しい光景に心躍らせているかの様な表情を惜しみなく晒していた。ふと目が合った時、わたしとした事が年甲斐もなく、と彼女は自嘲めいた言葉を用いたものの、その眼差しは生き生きとしていた。
やがて中央行政府の領土内にて運送業に於ける四ヶ国間営業許可証を国境警備隊に提示して入国審査を終えた頃から変化が生じた。エルスノアは己の目的を徐々に思い出したらしい。メツァールントに近付くにつれ、伏目がちになっているのが手に取る様に判る。
先代の死を悼む当代。先代がどの様な人物であり、如何様な容姿であったのかグスタフ・ヴェネシュは知らない。おそらく当代と比べても見劣りしない女性であったのだろうと男としては都合の良い想像が働く。まさか亡骸を目の当たりにしたら協会長様は号泣するのだろうか、とグスタフ・ヴェネシュは不埒な想像を掻き立てていた。彼女は物静かで感情の起伏がなだらかな女性だと思い込んでいた。しかし、ここ数日は新たな発見、思いもよらない出来事の連続であったのだから、こうも想像が飛躍してしまうのは無理もない。
残雪を踏み締める蹄の音が耳に馴染み始めて二時間は経過したと思われる頃、グスタフ・ヴェネシュは手綱を手前に引いた。前方に数台の馬車が淀みを見せていたからである。喧騒とは程遠いが、不穏なざわめきが横たわっている雰囲気がひしひしと伝わってくる。
「何事でしょうか?」
エルスノアの尤もらしい言葉にグスタフ・ヴェネシュは持ち前の男らしい低い呻きを一つ漏らした後に答えた。
「何かしらの障害が原因で足止めを食らった状況のようですな。まぁ、よくある出来事です。」
「何かしらとは?」
「この時期でしたら雪崩とか、夏でしたら大雨による冠水や倒木とか。」
「中央行政府は経済力が豊かで街道整備事業に力を注いでいると聞いていましたが…。」
「協会長様、それは中央王立国家時代の話と思われます。先日、ゲルハルステンを通過する際に憲兵が二名、近付いてきたのを覚えていらっしゃいますか?」
「確かにその様な場面がございましたね。グスタフの知己でしたか?」
「袖の下をせびる相手を知己とは言えませんな。この国の住人、とりわけ都会になればなるほど如何に金銭を溜め込む事しか関心がありませんからね。」
「毎回その様な対応をしているのですか?」
「必要経費のうちの一つ、と解釈して頂けたらと思います。」
「グスタフ、あなたはわたしよりも世間を知っている様子ですね。」
大陸全土に散らばる剣霊使いを掌握し、指示を与える無二の存在にこうも褒められてしまうと礼を伝える言葉に詰まる。彼女が知る由もない後ろめたい事情について話し過ぎたと後悔しつつ、グスタフ・ヴェネシュはエルスノアへ向けていた男の顔を運送業に携わる者の面持ちと共に前方へ戻した。
前方の景色に多少なりの変化すら見受けられない。エルスノアも面前の状況を目の当たりにしたグスタフ・ヴェネシュの表情を読んだのか、うら若き乙女の表情に落胆の色を添えた。
「困りましたね。メツァールントまであと少しだと言うのに。」
「仰る通りです。まぁ、ここまで特段の問題もなく順調に進んだのは自分だけの力量と運ではないと信じております。」
「さて?何がそうさせたのでしょうか?」
「実は陰で剣霊使いが協会長様を護衛していると自分は推測しています。」
自己満足を匂わした笑みを湛えるグスタフ・ヴェネシュを前にエルスノアは僅かに首を傾げた。
「何故その様に察したのでしょうか?」
「自分だけでは万が一の際に協会長様をお守りするには…。」
グスタフ・ヴェネシュは言葉の途中で羽織るコートの内側のあるナイフを叩いた。
「これでは目に見えて役不足というものです。」
エルスノアは彼が言うところの役不足を見つめた。コノリギスを出立する前に一度、このナイフには世話になっている。確かに武器よりも道具という表現がすんなりと呑み込める類の一振りである。
「後々に剣霊使いと合流する事がない、とは言い切れませんが、剣霊帝様より誰かしらを今回の護衛の任に就けるとは聞いておりません。そもそも今回の出立は剣霊協会としてではなく私事ですから。」
「左様でしたか。実際は協会長様の御人柄と人徳が災いを寄せ付けなかったのでしょうな。」
「それを言うのであれば剣霊帝様の御加護によるものだとわたしは信じていますが…。」
詮なき会話に対する呆れと退屈さを混ぜ合わせた色をそのままに、エルスノアの手袋越しの指は首から下げている黄金の指輪を詰っていた。彼女が嵌める手袋は肌触りが優しげであろう毛皮の装飾が手首に施された汚れを知らない逸品である。しかし黄金の指輪の前ではどうだろうか。日々育まれた柔らかな清廉はあらゆる事象に屈さぬ不変の重厚な輝きに呑み込まれたばかりに色褪せて見える。
余程高価な指輪なのだろうな、とグスタフ・ヴェネシュは改めて思いつつ重苦しい艶を眺めていた。
「この指輪が気になりますか?これは剣霊帝様が今回の所用の平穏無事を祈ってわたしにお預けになったのです。」
「なるほど。自分はてっきり協会長様の私物だと思い込んでいましたが。」
「この様な高価な品とは縁が無いものですから。」
「いやいや、そうと知って胸のつかえが下りました。」
何がつかえていたのか、と勘繰りまではいかないものの、グスタフ・ヴェネシュの言葉の真意を探ろうとエルスノアは不思議そうに目を見開いている。
いったい何処のどいつが素朴な美しさを纏う協会長様に不似合いな指輪を与えたのかと密かに苛んでいた、とグスタフ・ヴェネシュは心の内を明かすわけにはいかなかった。何処のどいつとは他ならぬ剣霊帝であったのだから。
コノリギスの住人は剣霊帝の誹謗や讒謗を決して表に出さない。言論統制令は布かれていないが、人間ではない存在の怒りに触れるとどうなるのか己の身で確かめたいという愚かな勇気を振り絞る者は皆無と言えた。そもそも小さいながらも何不自由もなく強固な治安が保たれ、貧困や飢えとは無縁である以上、統治者に不平を述べる者がいようか。一握りの人間による数多の人間の為の国家が成しえない理想を絶巓の剣が治める人間の為の国家は容易く成していた。
「自分は剣霊帝様との会話は勿論、拝謁を許された身分ではないので判りかねますが、協会長様が横におられなくてお困りなのではありませんか?」
黄金の指輪を詰る指が静かになった。何か思うふしがあるのか。エルスノアの溜め息に似た吐息をグスタフ・ヴェネシュは静かに見つめていた。
「わたしが協会を留守にする間、代役を立てました。」
「協会長様の代わりに協会を取り仕切れる人物…そんな方、自分は思い当たりませんな。」
グスタフ・ヴェネシュは手綱を握る右手を動かさず、左手を己の顎に添えた。彼は剣霊協会の本部である剣霊帝が住まう廟堂に誰よりも多く出入りしている者という自負がある。境界線の内側を覗いた事はないが、あの廟堂の透かし彫りが所狭しと施された鋼鉄製の門扉の奥からエルスノア以外の人物が姿を現した場面には遭遇した覚えはない。
「わたしの跡を継ぐ者たちです。あの子たちが再び外の地を自らの足で踏むのは十二歳の誕生日を過ぎてからという掟があります。」
「掟、ですか。部外者である自分が言うのもなんですが、なかなか酷な感じもしますが。」
「剣霊帝様にお仕えし、剣霊と契約を交わした猛者たちを束ねる身となるのです。いかに掟が酷であろうとも多少の事で弱音を吐くようでは務まりません。」
「まぁ、そうでしょうが…。」
「げんにわたしも十歳の時に協会長の座を先代様から譲られようとも十二歳の誕生日にコノリギスの街路を歩くのが待ち遠しかったものです。」
「それは初耳です。どうでしたか、初めて街路を歩いた時のお気持ちは?」
彼なりに優しさを存分含ませて目を細めている表情を前にエルスノアは気恥ずかしさを伴ったのか、咄嗟に顔を横へ動かす。
己について少し話し過ぎた。そして己に好意を抱く男にやたら見せない表情をさせてしまった。エルスノアは暇を弄ばせている右の掌を左の胸に優しく添えた。
「…別の道は無いのですか?」
単に今ある状況を打破すべき手段を模索しているのだろうと彼女の言葉を耳にした者は解釈するであろう。己の有様に対する自問、もしくは己に好意を抱く者に対して再考を促している、と心の襞の内側を読み取れる者がいるだろうか。
グスタフ・ヴェネシュも例外ではなかった。男が女の奥底を知り、理解するのは難しいものである。
「ここまで来たら迂回路はもうございません。分岐点まで戻るには遠過ぎると自分は判断しますが。」
グスタフ・ヴェネシュの矢継ぎ早の返答は彼が一流の仕事をしている証であり、紛れもない真実を語っているとエルスノアは感じ取った。確かにそうだ。もう引き返せないのだ。感慨深い世界に少々身を浸してしまったと悔いる己を追いやり、今置かれた状況を速やかに打破しなければならない。是が非でもメツァールントへ急行しなければ、と現実の中に願望を落とし込まんとエルスノアは横へ動かしていた顔をグスタフ・ヴェネシュに向けた。
「こうして無駄な時間を過ごす原因を調べて貰えませんか?」
「調べる、と言いますと?」
婦人用に仕立てられた手袋の先端が調べる場所を指し示した。留まっている馬車たちの間を縫って前方の様子を直接目で見て報告しろ、と言うことか。これまたご無体な、とグスタフ・ヴェネシュは産まれてからそのままにしている太い眉の片方を動かしたが、依頼主からの要望でもある。
「承知しました。状況を見てくるとしましょう。」
グスタフ・ヴェネシュは手綱を持ち変えるとエルスノアに差し出した。これまで酷使してきた握りの部分は陽光の届かない場所でも艶光りを発している。
「わたしが手綱を執るのですか?」
「自分が御者台を降りたら、誰がこいつらに指示を与えるんです?」
悪気の無い笑みと共に、ずい、と手綱がエルスノアの暇にしている手に近付く。
「わたしは生まれてこの方、馬術を会得していません。」
「自分のする様にこいつらを動かせ、とは申しません。肩肘張らずに、変に突っ張らない様に握っていて頂ければ結構です。」
「この馬たち、あなたがいなくなって暴れたりしませんか?」
「大丈夫です。」
「いきなり走り出したりする事はありませんよね?」
「何があっても協会長様を脅かすな、と出立前に言いつけてありますので。」
「そんな…馬たちがあなたの言葉を理解するとは思えません。」
「長年の信頼関係が成せる技ですな。復路の事もありますし、この際は協会長様もこいつらと信頼関係を構築されても損はありますまい。」
判りました、としぶしぶ発した音量に違わず、エルスノアは自信なさげに手綱を受け取った。勿論、馬たちは静かにしている。グスタフ・ヴェネシュは御者台から降りた。ここ暫くの間、同じ姿勢をしていた為に固まった膝を数回擦った後に二頭の馬たちの長い横顔を交互に撫でる。
「グスタフ、すぐ戻るのですよ?」
エルスノアは己の発案と指示を後悔しているのかもしれない。既に両肩が凝固したかの様にしているのが誰の目から見ても判る。ただ、その生真面目な雰囲気と不器用さがグスタフ・ヴェネシュにしてみれば、あらゆる疲労を中和させてくれる要素でもある。彼は返事の代わりに右手を挙げて大きく頷いて見せ、エルスノアが指差した方角へ歩み始めた。
実のところ、馬たちが休息を欲していた事をグスタフ・ヴェネシュは彼らの脚の動きから察していた。日付が変わってから走り続けているのだから、その要求は至極当然と言える。しかし、メツァールント市街地に一秒でも早く辿り着きたいと切なる顔をするエルスノアを横にしては小休止を提案する時機を失してしまったと我が身を苛んでもいた。荷馬車から離れる際に二頭の馬たちの長い横顔を撫でたのは彼なりの謝意であった。
久々に足を着けた大地は往来に踏み拉かれた残雪が汚泥と化している。グスタフ・ヴェネシュが羽織る年季の入った革のコートよりも濃い色であり、直視すれば陰暗な雰囲気に引き摺り込まれそうな気がしてならない。
固まった膝周りを再び撫でながらグスタフ・ヴェネシュは歩む先を見つめる。停止中の馬車を曳くそれぞれの馬たちが地団駄を踏む様に脚を動かしていた。
伸びる影が以前に比べて僅かに長くなった程度でグスタフ・ヴェネシュはエルスノアの許へ戻った。何かを懐に抱え込んでいる。御者台から降りた際と比べて些か難しい表情をしているのはこれから先の状況が芳しくないのか、汚泥の上を歩いた不快感がそうさせてしまったのかはエルスノアには判断がつかなかった。
「いやはや、参りましたな。」
表情と同じく漏らす言葉も這い寄る暗雲を匂わせている。グスタフ・ヴェネシュは彼にとって定位置である御者台にここが一番落ち着く、と言わんばかりに腰を下ろすと懐の中の物をエルスノアの前に晒した。表面に籐編みを施した陶製の瓶である。
「お酒ですか?」
依然として両腕を持ち上げて手綱を握り締めつつエルスノアは口を開いた。少しは慣れたのか、先ほどより肩の力が抜けている様に見える。
「いや、淹れたての珈琲ですよ。これで体を温めながら自分が知り得た情報をお伝えしましょう。」
表面に籐編みを施した陶製の瓶がグスタフ・ヴェネシュとエルスノアの間に置かれる。再び御者台から降りたグスタフ・ヴェネシュは右側の馬に括り付けてあるサドルバッグから金属製のカップを二客、取り出した。くすんだ色合いからしてブリキであろう。一つは使い込まれて所々にへこみがあるが、残る片方は新品である。コノリギスを出立する前にエルスノアの為に用意した品の一つであった。
同素材の蓋を外し、注いだ量は共に目分量で八分。寒空の下で安らぎの湯気と癒しの香りが仄かに漂う。グスタフ・ヴェネシュはエルスノアから譲り受けた手綱を器用に手首に絡ませ、ブリキのカップを握っている。彼は蒸気による極めて微細な水滴が付着するブリキのカップの端に口を着けた後に満足の溜め息を漏らした。
「実は仕事の際に何度か会話を交わした行商の爺様が偶然にも前方におりまして。爺様の話ですと、メツァールントに北部の者たちが押し寄せてきたとか。」
「押し寄せるとはこれまた物騒な…まさか侵攻でしょうか?」
膝の上でブリキのカップを両手で包み込む様に持つエルスノアは暖を取る最中に怪訝な面持ちを見せていた。
「いや。家財道具を持たずに老若男女が慌てて、という話からして、どうも違う様子かと。」
「彼の国で内乱は考えられません。王位後継者が決まり、住まう者たちの結束が強固になろうとしていますから。」
「自分も北部に赴いた際に掲示物を拝見しましたが、あんな綺麗な姫様に楯突こうものなら罰当たりの不届き者ですな。」
そうですね、とエルスノアは軽く受け流した。無論、剣霊協会に所属する者が王位後継者の身辺警護を任されているとはグスタフ・ヴェネシュが知る由もない。
「つまり人的な要因でなければ自然災害、もしくは…。」
と、グスタフ・ヴェネシュは言葉半ばで再び使い古したブリキのカップの端に口を着けた。協会長たるエルスノアの前で口外しても良いのだろうか、と思慮の時間を費やす。
「邪険霊によるもの、と言いたいのですね?」
口に含んだ珈琲の味わいがまろやかさよりも苦味を強く感じさせるエルスノアの一言にグスタフ・ヴェネシュは頷いて応えた。
「メツァールントに一番近い北部の市街地をグスタフは判りますか?」
「確かリストメクだったかな。小規模ですが歴史ある街だと自分は認識しています。」
地図を広げずに答えたグスタフ・ヴェネシュはさすが運送業を営む者である。ただエルスノアは賞賛を送る代わりに趣き深い目を見開かせていた。
「協会長様、どうかされましたか?」
「わたしの中で合点がいきました。」
「合点?」
「先日、協会に所属する剣霊使いが落命しました。彼に命じた直近の任務地はリストメクだったのです。」
「剣霊使いが邪剣霊に返り討ちにあったという事ですか。」
「恐らく。急がなければこのままではメツァールントが、先代様の故郷が混沌の渦に巻き込まれてしまいます。」
「そう言われましても…これではなんとも。」
グスタフ・ヴェネシュは横に座るエルスノアから視線を外しながら答えた。やはり前方の景色は些細な変化すら見せていない。
「何か良い案はないのですか?」
「…今のところさっぱりですな。」
「何か見落としている要素の一つや二つ、あるのではありませんか?」
座して待つ、という言葉はエルスノアの辞書にはないらしい。解決策があれば自分が教えて欲しいぐらいだ、と言いたげにグスタフ・ヴェネシュはもの静かな面持ちで残り少なくなった珈琲を口に含んだ。
「グスタフが得意とする袖の下で何とかなりませんか?」
エルスノアの突拍子もない発想と言葉はグスタフ・ヴェネシュを咽返らせた。体内を巡る血液が胃に収めた珈琲よりも熱いのではないのか、と思わせるぐらいに体温が上昇し、汗が滲み、呼吸が小刻みに荒くなる。静かにしていた馬たちは主人の慌てぶりを察したのか、左右の耳をそれぞれ異なる方向に動かした。
「ごめんなさい。わたしとした事が今のは失言の極みでしたね。」
「いやはや協会長様と一緒にいると本当に退屈しませんな。」
咽返った証として嗄れた声のグスタフ・ヴェネシュは気を取り直すべく咳払いを一つし、残った珈琲を飲み干す。喉に潤いを取り戻させた。
落ち着きを取り戻した溜め息の後に袖の下が得意か、とグスタフ・ヴェネシュは己の中で反芻した。あの言葉は協会長様からしてみれば自分はその様に映っている男だと表現していたのだろうか。今ある状況が助長しているのか、やるせなさと惨めな気持ちが同時に襲い掛かってくる。気を紛らわせようとブリキのカップを口許に運ぶが既に中身は空であった、
「よろしければわたしの分もお飲みになりますか?」
エルスノアは手渡した珈琲に未だに口を付けていなかった。
「珈琲は協会長様のお好みではありませんでしたか?」
グスタフ・ヴェネシュの問い掛けにエルスノアは場を取り繕う様な微笑を浮かべた。
「いえ、そうではありませんが…。」
「でしたら体を温める為にもお飲みになってください。自分の事でしたらご心配なく。」
グスタフ・ヴェネシュの気配りにエルスノアは頷いて応えた。ブリキのカップを包み込む両手に顔に近付ける。飲む素振りではない。冬の大気に晒されて乾燥しつつある唇に湯気を当てる為であった。
「初めて珈琲を飲んでから三十年は経過しているでしょうか。とても苦い飲み物だと感じたのを今でも覚えています。」
「なるほど、三十年前…ですか。」
その頃はまだ片言しか喋れない幼い弟の手を引いては親に隠れてコノリギスの市内を冒険していたな、とグスタフ・ヴェネシュは思い返していた。そして横に座るエルスノアの三十年前の姿を想像してみる。容姿が三十歳に満たない者の三十年前。思考回路が深い霧に包まれたと錯覚に陥る。下手な詮索と想像はするべきではない。深い霧から逃れなくなる。
「つかぬ事を伺いますが、協会長様は普段は何をお飲みになっているのですか?」
「白湯です。東部の山脈を覆う万年雪が溶けた水です。」
「ほぉ。自分には水の品評は判りかねますが。」
「剣霊帝様はあの水でお体を拭くと大変喜ばれます。」
「飲むのではなくて拭く、のですか?」
「剣霊帝様も他の剣霊と同じく御身は人間とは異なりますから。水はお飲みになりません。」
薄暗き街道に風が吹いた。
興味と疑問が入り混じった面持ちのグスタフ・ヴェネシュを前にエルスノアは髪を覆う深い紺色の布の表面を撫でる。柔らかな布が僅かにずれ、ちらりと姿を現した滑らかな色合いをした髪も布と同じく波を打った。
水を差されたとは思いたくないが、会話が途絶えてしまった。数多の剣霊と比べるまでもないが、常人よりも世の変遷を眺めてきた、いや、これから眺めるであろうエルスノアの瞳は今ある状況を打破しろと訴えかけているのがグスタフ・ヴェネシュには痛いほど判る。
さてどうしたものか、とグスタフ・ヴェネシュは左の踝を右の膝の上に乗せて彼なりに楽な姿勢を取っていた。顎に手を添え、エルスノアの期待に応えるべく、思慮の世界に身を浸す。
立ちはだかる壁をぶち破ればその先は自ずととんとん拍子で事は進むであろう。だが薄そうで実は分厚い壁なのであろうか。一点を突けば難なく瓦解すると判っているものの、その為の妙案が思い浮かばない。伏し目にすれば横で佇むエルスノアの一部が視界に飛び込んでくる。肌触りが良さげな深い紺色の袖がたおやかな畝を作り上げている。
袖の下か、とグスタフ・ヴェネシュは己の中で反芻した。エルスノアは関心の響きを吐く言葉に匂わせていたが、それは忌むべき事柄を包み隠す為の建て前であったような気がしてならなかった。
なにも好き好んで袖の下を渡しているのではない。曽祖父の代から続けているこの仕事の矜持は誰よりも持ち合わせていると自負している。ただ、仕事をこなして生き延びる為、家業を守る為に仕方なく袖の下という裏の手を利用している。世の中、綺麗事ばかりではない。悪に染まるつもりは毛頭ないが、綺麗事では事が進まない場面が多々ある。
そもそも剣霊の都と呼ばれるコノリギス出身と口にするだけで初対面の者は眉をひそめる。この運送屋は剣霊の間者ではないだろうか、という具合である。
人間は人間以外から指図を受けたくない生き物であり、姿は人間の女に似ようとも本質は異なる剣霊に対して彼らは畏怖と侮蔑を同居させている。剣霊の契約者もその様に見られると一般では言われているが、何せ目の前で剣霊が目を光らせて滲み出んとしている殺気を押し殺しているのだから誰もが圧倒されて目を逸らさざるをえない状況となる。しかし、グスタフ・ヴェネシュは剣霊の契約者ではない。商談の場に剣霊はいない。あからさまに色眼鏡で見られ、少しでも印象を良くしようとあらかじめ用意しておいた金貨を握らせる。四ヶ国のうち、何処の金貨でも良い。あの鈍い黄金の輝きは人間の思考を一時的に麻痺させる力がある。小さかろうとも豪奢な雰囲気と重みが手の平に触れた時、表情に出そうと出すまいと満足を覚えずにいられない。
あぁ、一度で良いから袖の下をする側ではなく、される側になりたいものだ、とグスタフ・ヴェネシュは天を仰がんと喉仏を上にした。雲に覆われて澱んだ空は陽光を漏らさない。濃淡のある灰色の世界に余計な存在は見当たらない。ある意味、安穏を思わせる景色はグスタフ・ヴェネシュに想定外の光明を見出させた。
「あの、協会長様。物は言いようですが、お幾ら持っています?」
「何か入用でも思い出したのですか?」
「えぇ。やはりここは袖の下を用いるのが手っ取り早いと自分は気付きました。」
「そうでしたか。あなたに如何ほど預ければ事は巧く運ぶのでしょう?」
「それは協会長様のお気持ち次第と言えましょうか…。」
「そうもったいぶらずに具体的な数字を教えて下さい。わたしよりもグスタフの方がその様な場数を踏んでいるのですから。」
眉間に数本の皴をうっすらと走らせるエルスノアに向けてグスタフ・ヴェネシュはにやりと左右の口角を思い切り持ち上げた。
「袖の下の初心者である協会長様にお教えしましょう。渡す側も渡される側も数字は示さないのが決まりです。共に平静で涼しげな顔をしてはいるものの、どれだけ渡せば相手は納得するか、如何ほどの額を相手は出してくるだろうか、と腹の中の探り合いが密かに繰り広げられる。言い換えるならば、男と女の駆け引きにも通じるところがありますな。」
「ですから、わたしは恋というものとは無縁であると何度言えば…。」
恋を知らない女の眉間に走る皴が怒りと困惑を表現しようともグスタフ・ヴェネシュからしてみれば、それは織り込み済みであった。
「そこで自分としては協会長様が金額を提示し易いように特別に事情をお話します。今、我々が腰を下ろしている荷車は自分の祖父様が運送業を営むぞと一念発起して用意した古き良き商売道具でして、自分は言うまでもなく、自分の父も壊れたり痛んだら自らの手で修復して大事に使ってきました。」
寝息を立てる愛しい我が子の頭を撫でる様に、グスタフ・ヴェネシュは御者台の座面を擦る。少々わざとらしいが、男の柔らかな眼差しは真実を語っているとエルスノアは読んでいた。
「存じております。あなたのお祖父様は先代様の良き話し相手でしたから。それと袖の下がどの様な関係があるのです?」
御者台の座面を擦っていた手が持ち上がり、武骨な掌がエルスノアの前で広がる。このまま話を聞いて欲しいという意思表示にエルスノアは素直に従った。手綱を握り、荷役に従事している男の掌は言葉よりも説得力があるものだ。
「自分にとってこの使い慣れ親しんだ商売道具を放棄します。そうすれば単騎駆けで道なき道を進めばメツァールントへ辿り着けるでしょう。」
グスタフ・ヴェネシュは視線を街道脇の森へ向けた。本来ならば大半は葉を落として冬化粧に染まる森であるが目の前に広がるのは針葉樹からなる森である。草いきれとは程遠い心和む色彩の下は薄暗い。つまりその中を進む者たちが他から発見されにくい。
「放棄だなんて。どなたかに預けては?」
「その預けにやる時間すら協会長様は惜しくありませんか?まぁ、戻ってきた時には寒さを凌ぐ為に焚き火の材料となっているでしょうな。使い込まれた木材は水分が抜けて脂が染み込むものです。こいつは良く燃えますよ。」
「つまり…荷車を手放す代償という事ですね?」
「あの世にいる祖父様も親父も我らが協会長様の為ならいた仕方なし、と子孫の蛮行を英断であると目を瞑ってくれるでしょう。」
さて、ここまで語ってしまえば残るは可否の返事を待つだけである。グスタフ・ヴェネシュは言葉に重みを持たせる為に、わざと遥か彼方を見入らせていた眼差しの中央をこっそりとエルスノアへ向けた。
「判りました。全てあなたに任せましょう。」
清廉の中に頑なな意思を思わせるエルスノアの様相はグスタフ・ヴェネシュの心臓を強く打たせた。
「肝心の袖の下ですが、これで賄えますか?」
エルスノアは立ち襟の服の胸許から財布と思しき布製の袋を取り出した。纏う服と同色同素材の小さな布は細長く、手垢に染まらずに張りのある光沢が伺える。婦人用の手袋越しの二本の指が金貨を一枚、摘み上げて横に座る男の視界に納まる様に差し出した。
「これは…まさか共通金貨では?」
庶民に無縁の硬貨とは言え、その存在は誰もが知るところである。グスタフ・ヴェネシュも初めて目の当たりにするが、表面に同配列で刻まれた四ヶ国の国章が彼にその様に判断させた。
「その一枚は自分には大変手に余ります。仮に両替商へ持っていったとしても、あまりの高額具合に何処で手に入れたのかと怪しまれますし、別室へ通されて軍警察に連行されるかもしれません。」
「ですが、今のわたしはこれしか所持していないのです。受け取って下さい。」
切なる眼差しのエルスノアを目の当たりにしたグスタフ・ヴェネシュは込み上がる笑いを抑えきれずに手綱を握っていない側の手で腹を抱えた。御者台の上での不審な取引きに聞き耳を立てているかの様に静かにしていた二頭の馬たちは驚いたのか、共に強く鼻を鳴らすと毛並みの良い長い尾を左右に振り回す。
「あまりに高額過ぎて一方的に拒否される袖の下とは、なんとも具合が悪いですな。」
貴重な硬貨を仕舞う様に促し、魅入る黄金の輝きが見えなくなるとグスタフ・ヴェネシュは手綱を引いて馬首を反転させた。幸いな事に先ほどまでグスタフ・ヴェネシュとエルスノアの後方であった側は馬車の連なりは微細である。今のうちに抜け出しておかなければ、いくら巧妙な計画を練ろうとも微動だに出来なくなるという呻きを甘受せざるを得ない状況に陥るであろう。
「協会長様が行う袖の下はとてもギクシャクしていて、そもそもそんな姑息な手段とは無縁の方であると自分は思い知らされました。ただ、代わりと言ってはなんですが…コノリギスへ戻ったら成果報酬に色を付けていただけたらと思います。」
「判りました。その様にしましょう。」
グスタフ・ヴェネシュは頷いて謝意を表した。その動きは荷馬車を曳く馬たちの足取りに呼応しているかの様に軽やかであった。
「少々時間を食ってしまいましたな。」
「いえ、これから巻き返せば万事解決ですね。」
「お任せ下さい。自分の手綱捌きに惚れ惚れしないで下さいよ?」
冗談交じりのつもりであったが最後の一言は余計であった、とグスタフ・ヴェネシュは悔いを残した。横に座るエルスノアが反応しないからである。困惑の表情を浮かべているだけのか、あるいは呆然とした眼差しを向けているのか。出来るなら前者であって欲しいが、手綱捌きに集中しつつも一瞥を横へやる勇気が湧かなかった。
「ねぇ、グスタフ…。」
これまで一度も発する事がなかったエルスノアの親しげな呼び掛けはグスタフ・ヴェネシュの心臓を強く高鳴らせた。
「な、何でしょうか。」
照れ隠しではないが、被る革の帽子の鍔を詰りながら僅かに俯いた。
「わたしとしてもグスタフと一緒にいると退屈しませんよ。」
「さ、左様でございますか。」
「えぇ。」
荷馬車を曳く二頭の馬たちは御者台の遣り取りとは無縁と言わんばかりに脚を動かしていた。
リストメク市街地から如何ほどの距離を歩いたのか、とユストは歩む脚を止めずに薄暗い空を見上げた。厚い雲が縦横無尽に広がりを見せている。そろそろ冬の風物詩がちらつき始めそうな雰囲気を匂わせている。
普段の様に両手は羽織る黒のコートのポケットに入れ、己の剣霊には左斜め前の位置で歩かせていた。相変わらず往来が少ない街道であるが、それが妙に安らぎを感じさせてくれる。のんびりと寂れた景色を飽きるまで眺めていられる、と言いたいが、何よりも他人の目を気にしなくても済む。不意な降雪を嫌っての結果だと言えばそれまでだが、想定していたよりも少ない。未だ北部王立国家の領土内ではあるが剣霊が長い髪を結わかず、または隠していなくても誰も不審に思わないのは僥倖そのものであろう。げんにイルサーシャが赤紫色のケープのフードを被らずに白銀の長い髪を晒していようとも、ユストは小言を漏らしていなかった。
しかし、イルサーシャは少々難しい表情を作り続けていた。時折、己の髪を手前に手繰り寄せては手櫛を入れては何か気に食わない様子を露にしていた。恐らくは百年香とは異なる香りが染み付き、まだ慣れていないのだろう、とユストは思い込んでいた。ただ、彼女が見慣れない仕種を頻繁に行うにつれ、詮無き思い込みは疑問へ移行する。そして疑問は何かしらの異常を仄めかす手引きでもあった。
羽織る黒いコートのポケットから出した左手が剣霊のか細い手首を擦った。どうした、と表情で語るユストに対してイルサーシャは気まずさを伴った眼差しで応えた。
「櫛の通りが悪い気がしてならんのだ。」
(悪い、か。)
「何かこう、引っ掛かる感じがどうも気持ち悪くてな。」
左手は手首を離した。小鹿の革を用いた手袋を外し、彼女がしている様に白銀の長い髪に手櫛を数回入れる。この日の朝も起き上がる前に彼女の髪に触れているが、その際と何ら変わりない。普段と同じくユストは彼女の髪の先端を人差し指に絡ませた。適度な弾力としなやかさを以って滑り落ちる。日中にも関わらず空が薄暗かろうとも、刀身の象徴たる髪は曇る事なく品のある輝きを発していた。
(君の思い過ごしではないのか?)
「そうであって欲しいが…。」
珍しくも気弱なイルサーシャの様相はユストの男らしく尖った顎に手を添えさせた。
彼女と共にして五年と幾許か。その間、手入れを怠った覚えはない。無論、見よう見まねで専門的な知識を有しているとは言い難いが、可能な範囲で行ってきた。刃同士を直接当てて打ち鳴らす事を避け、血糊は出来うる限り早々に取り除き、湿気には特段の気を使った。しかし剣霊の宿る剣と言えども、数多のそれと同じく自浄作用及び自己修復作用を有していない。剣霊が契約者の血を摂取するのはあくまでも霊体の維持であり、自我の存続の為である。
経年による劣化という響きがユストの脳裏にふと浮かんでは無限大に広がろうとしている。暗雲が立ち込めようとしているのか。どの様な逸なる一振りであろうとも、刃が機能を失っては戦いの帰趨は目に見えて判る。しかも斬れないだけではない。刀身そのものが砕け、痛恨の極みでは済まされない結果が待ち受けている。携える剣が使えないなら新たなる剣を用意すれば良い。だが、剣に宿る人間の意思、言うなればイルサーシャという存在を失った時、果たして平常心でいられるであろうか、とユストは自問した。
思慮の世界に引きずり込まれている中、前を歩くイルサーシャが足を止めた。振り返りざまの彼女の様相は何かを発見したと語っている。まさかこの場で敵となりえる者と遭遇するというのか。
イルサーシャがユストと横並びになり、ユストは彼女の視線の先を追った。墓と思しき一基が街道脇に立てられている。手ごろな大きさの樫の幹を墓標として用いた粗末なつくりであるが、残雪の上に添えられた彩りが建てた者の悲哀と愛情を示している。時期と色合いからして朔日草と思われた。
(ごく最近に建てられた墓か。脅かすなよ。)
イルサーシャの刃を行使する場面を避けられた安堵か、ユストは胸のポケットへ右手を動かした。愛飲する煙草も既に残り僅かとなっていた。メツァールント市街地に到着し次第、百年香と共に購入するべき品の一つでもあった。
「脅かす?そなた、邪険霊が現れたのかと思ったのか?」
(あぁ。ついつい考え事をしていたものでね。)
ユストは冬の乾燥した大気に晒されている唇の端に煙草を銜えた。すかさずイルサーシャの左手が煙草を奪う様に摘み取った。
「脅かそうとしているのはそなたの方だ。墓をよく見ろ。」
彼女の指摘に従って墓を注視する。樫の幹を用いた墓標の上に鳥が佇んでいる。大きさと形からして鳩か。
「協会からの新たな任務ではないのか?煙草の煙を嫌って鳩が逃げてしまうぞ。」
(なるほど。指示書を読んでから一服つけるとするか。)
奪い取った煙草をどう扱えば良いのかと思いあぐねているイルサーシャの指へユストが諭す様に手を沿えた。取り戻した貴重な一本を胸ポケットに仕舞い込みながら墓へ近付く。
墓標の上にいる鳩は白地に茶の斑模様の羽を有している。己の使命を熟知しているのか、ユストとイルサーシャが近付いても飛び立とうとしない。膨らませていた体を元の形に戻したのは七十二と刻まれた脚輪を彼らに見せる為であろう。
ユストの手袋越しの手が鳩の小さな頭を撫で、反対側の手はコートのポケットから手の平に収まる大きさの円形をした真鍮製の小物入れを取り出す。中には雑穀を詰めてあり、協会の使者をねぎらう為に用意した品である。音を立てずに、中身が零れない様に蓋を開け、鳩の嘴へ近付ける。薄暗い冬の景色の中、鳩は喉を鳴らして小物入れの中身を突き始めた。
上下する首からぶら下げているソノイの樹脂を用いた小さな筒を取り外し、イルサーシャに向ける。人間と動物が戯れる長閑な光景の中、樹脂が切断される響きが申し訳なさそうに奏でられた。ユストは幾度となく彼女の一閃を目の当たりにしているが、相変わらず大胆かつ鋭い斬撃である。
彼女が腕を振った勢いは白銀の長い髪を踊らせ、百年香とは異なる匂いが余韻として残る。僅かに馴染みつつある香りの中で先ほどの心配事は杞憂に過ぎないのかと思いたいが、とユストは雑穀に夢中の鳩を見つめつつ思った。
「で、今回の任務を早く聞かせて貰おうか?」
暇を見つけては手櫛を怠らないイルサーシャは未だに彼女の言うところの髪の引っ掛かり具合を気にしている。急かしたのは少しでも己の意のままにならない事柄を忘れたいのだろう。真鍮製の小物入れの中身は半分まで減り、鳩も満足したのか食べ飽きたのか、首を元の位置に戻している。
ユストが真鍮製の小物入れを元の位置に仕舞い込むと同時に鳩は役目を終えたと飛び去った。数秒の間、一人の男と一振りの剣霊は羽ばたく鳩の後ろ姿を見送った後にソノイの樹脂を用いた小さな筒に視線を戻す。
丁寧に折り込まれた指示書を広げ、内容に目を通す。普段のユストであればなるほど、と僅かに首を傾げながら鼻から息を軽く漏らすか、困難な内容であれば眉間に皺を寄せて同じく鼻から息を強く漏らすのをイルサーシャは知っている。ところが今回はいずれにも当て嵌まらなかった。もしこの時が新月の日であれば彼は驚きの声を躊躇なく発していたに違いない。
「どうした?じれったいな。」
イルサーシャはこうも間延びした時間を嫌ってユストが両手で持つ指示書を背後から覗き込んだ。
たとえ文字が読めなくても普段とは異なる者の手によるものだとイルサーシャでも理解できた。律儀と厳格を仄めかす筆跡が今回は伸び伸びとして奔放な様子を匂わせている。あまりにも不均等な文字の羅列具合からして幼年期の子供が書いたとしか思えない。
「これは…正しくも指示書、なのであろうな?」
イルサーシャは己の奥深き緑色の瞳に驚きと怪訝を一緒くたに表現させ、丸過ぎず尖り過ぎずの顎をユストの肩に乗せた。百年香とは異なる匂いがユストの鼻腔に向けて漂う。
(間違いない。ちゃんと指示が記されているよ。)
「ふうん。それでこの幼稚な筆跡の持ち主は我とそなたに何をさせる気だ?」
(中央にあるメツァールント市街地へ取り急ぎ赴き、剣霊協会の協会長一行を護衛しろ、という内容が記されているが…。)
「という内容だと?原文は何て書いてあるのだ?」
(『メツァールントへ急いで行って、協会長様とお友達が怪我をしないように守ってあげて』)
淡々と内なる声で語ったユストはイルサーシャの反応を待たずに剣を銜えた鳩の紋章が透かしで施された上質紙を折り目に沿って畳むとコートの内ポケットに仕舞い込んだ。指示書は目を通し終えた後に焼却にて破棄するのが慣例ではあるが、幼気な筆跡が行動に移す事を思い留めてしまったからである。のちのち協会長たるエルスノアと合流するのだから、彼女に手渡す形で返却すれば良い。
では気を新たにメツァールントへ向かうか、とユストは周囲を見渡した。薄暗い空の下に丘陵が幾重にも重なり、その間を縫う様に街道は延びている。このまま何事もなく進めば一両日中に元祖国の土を踏む事が出来る見込みである。
「なぁユスト、この花の名前を知っているか?」
水を差すつもりではないのであろうが、イルサーシャの一言は気持ち新たに一歩を踏み出そうとするユストの動きを止めた。足許、厳密には墓に添えられた黄色い花の事を聞いているのであろう。
(朔日草。冬の花だね。)
「実はこの墓標を見ていて仕上げ具合があまりにも雑だと我は思ったのだが。」
(急ごしらえなら仕方ないさ。)
にべもないユストの返事であったが、イルサーシャは己の中で生じていた疑問を述べ始めた。墓標となる樫の幹に手は加えられているが、削り方及び仕上げが中途半端である。錆付いたか欠けた刃物を用いて力任せに無理やり削った様相が伺える。しかも墓碑銘と思しき文字も見当たらない。
己の剣霊の言葉に耳を傾けるのも契約者の務めの一つである。察知能力が人間とは比較にならないほど勝る彼女が気に掛ける存在はこれから先の光明を照らすとも、轍を踏まぬように訴え掛けているとも考えられる。
ユストはそれまで何気なく視界に収めていた墓標と思しき樫の幹の前で膝を折り、手袋越しの右手を伸ばした。やはり水分を未だに多く含んでいる。専門の者が建てたのではないと誰の目から見ても明らかであり、幹の表面を削る事で手一杯で刻むべき墓碑銘は諦めたのであろうか。風雨に晒されて幾許としか経過していない生木の色合いに儚さを覚えるか、ありのままの己の姿を連想するかは見る者次第であろう。
「そなた、表ばかり見て裏は調べないのか?」
イルサーシャの言葉に湯ストは難色を示した。ここに手を置け、と墓標に触れていた右手を使って左肩を叩く。
(墓を裏からまじまじと見るのは気が進まないな。)
「それはげん担ぎ、というやつか?」
(弔われた者に対して失礼というものだよ。)
「この際、詫びとして朔日草をもう一輪捧げれば許してもらえると我は思うが。」
(ならば君がやるか?)
棘を含んだ言葉ではなかったが、イルサーシャは切れの長い目尻に表情を与えた。
「仮に墓碑銘があったとしても我は今の文字が読めんのをそなたは存じている筈だ。」
あっけらかんと言い放ったイルサーシャは勝ち誇ったかの様に丸過ぎず尖り過ぎずの顎を僅かに上にする。奥深き緑色の瞳が朔日草が咲く一帯へ一瞥を与えた。朔日草の愛らしい姿は薄暗い街道に心和む色を添えるいじらしさを思わせる。ユストは小言を吐く気を失せたのか、協会支給の黒字に黒の刺繍が走るスカーフ越しの首を数回撫でた後に微笑を零す。彼なりの降参という意思表示である。
剣霊使いは墓標と思しき樫の幹の裏に廻り、再び膝を折った。




