敗戦国の女
時間とは誰に対しても平等なのであろうか。
刻々と時を刻む時計の針は誰が見つめようとも臆せず正確に、一定の緊張と調子を保つ。感情を有さない動きと精緻な歯車が奏でるささやかな響きに人間は時として安堵を覚え、過去を顧みる機会を与えられる。
時計という人工的な物質から目を離し、大自然に視線をやる。冬の木々の大半は葉を落とし、やがて迎える春を待ち焦がれている。流れる小川は凍て付く大気に覆われてところどころが凍り、元の様に滑らかな潤いを取り戻せるまで誰にも何も語り掛けずに来るべき瞬間を待ち望む。
目の前に広がる世界は時の流れに抗わず、ただ受け入れる。その儚く真摯な姿勢に共感する者は安らぎに身を浸す。時間の概念が齎す自浄作用と言えようか。
悲哀や激昂はこの自浄作用によって均され、人間は自ずとそれを待ち望む生物なのかもしれない。しかし、ルケリヤは違った。五百年前を境に剣霊となったが、人間として生きていた頃であろうとも彼女は頑なに己の意見を曲げず、異を唱えるであろう。
時が自らを癒す事はない、と。
リストメク市街地は住人を失ってから四日目の夕刻を迎えた。歴史を知る石造りの外壁や家屋の分厚くぬめる窓、使い込まれて乾燥した表面の木戸は斜陽に晒されて温かな色合いを差している。
長閑で感慨深い光景に感嘆の溜め息が一つ。落ち着きよりも男の貫禄を思わせる低いそれが吹く風に乗り、何処へとなく掻き消される前に新たな溜め息が漏れた。今度は短く放たれ、艶やかさの中に少なくとも侮蔑の趣きが見て取れた。
白銀の長い髪を持つ剣霊と音なき契約者はその日の朝にリストメク市街地を後にしている。云わば遺棄の呻きにあった人間の生活の場は新たな来訪者を迎え入れようとしていた。
「お前、何が気に食わないのだ?」
顔を正面に向けたままのアウルス・ボーンは己の右腕に絡み付くルケリヤに一瞥を与えた。彼は北部王立国家の兵士が纏う白銀の鎧ではなく、使い込まれた革のコートを羽織っていた。素材は野生のなにかしらの獣か。所々に毛皮が禿げているのはこれまで愛用してきた証であろう。
「いえ、何も。」
素っ気無い口調で返したルケリヤは被るフードを払い除ける。それまで窮屈な思いをしていたであろう髪が広がりを見せ、開放感を謳歌し始めようとしていた。赤銅色の長い髪は決して滑らかではないが、剣霊である彼女の妖しさをを物語るには充分な揺れ具合を見せている。
「嘘はいけないな。」
アウルス・ボーンは鼻で短く笑った。
「あらどうして?」
「色目しかしらないお前の眼差しがまともになっていたからだ。」
「よく観察しているのね。」
「美人は三日で飽きるというが、剣霊というやつはそうでもないらしいな。」
ルケリヤの腕を解き解いたアウルス・ボーンは遠慮無しにリストメク市街地の目抜き通りを歩き始めた。数日前に降った雪の名残りは既に消え失せ、擦れた表面をした石畳が漂う大気に似た冬期独特の渇きを覗かしている。コートと同じく獣の革でこしらえたブーツが硬い音を刻む。
「我はこの街が嫌いだから。簡単なことよ。」
「嫌な思いでもしたのか?」
「我の生涯はある時を境に嘘にまみれ、嘘で塗りたくられたわ。」
前を歩くアウルス・ボーンの背中を見つめるルケリヤは居心地が悪そうな面持ちと共に脚を動かしていた。本来ならば剣霊が契約者の前を歩むのが常である。彼女がこの定石に従わないのは敵対する者の気配が感じられないのか、絶対の自信があるのか、過去の記憶に囚われてるのか。
「ある時、か。」
「えぇ。」
「何時だ、それは?」
「このリストメクに連れてこられた時から。」
暇を弄ばせていたルケリヤの右腕が宙を舞った。揃えた五指から迸る衝撃は前方に構える屋敷の門柱に当たって消滅する。鋼鉄製の門柱の一部を彩る同素材と思われる花弁の装飾が不自然な形に捻じ曲げられた。
「ここはリストメクで一番繁盛していた娼館だったのよ。建物の見た目はあの頃のままだわ。」
「詳しいな。」
「まぁね。」
「さては…お前の元職場だったとか?」
「二年ほど。身請けがあるまでね。」
アウルス・ボーンは振り向きざまに怪訝な視線をルケリヤへ送り、対する彼女は自嘲めいた微笑で応える。歩調を緩めずにルケリヤは己の過去について口ずさみ始めた。
時を遡ること、五百余年。大陸では戦乱が常態となり、創造よりも破壊が跋扈していた時代にルケリヤはごく一般の家庭の一子として産まれた。国が興っては滅亡を幾度となく繰り返される最中、ルケリヤが暮らす市街地が所属する国家は中立を貫いた。こちらが侵略をしなけれは侵攻の呻きに合う事はなかろうという安易な考えだったのだろうか。
しかし、中立の立場とは時代の潮流が許さなかった。勢いに任せた敵国を前にルケリヤが暮らす市街地は抗戦も虚しく五日後に陥落し、さらに三日後には国家が消え去った。毎日眺めていた街並みが、教育と愛情、そしてまだ見ぬ幸を信じて疑わなかった乙女に寄り添っていた景色が焼け崩れ、これまで培った数多の尊厳が踏み躙られてしまった。
滅亡する市街地に住まう者たちに為政者たちは一つの足かせを与えていた。自ら命を絶ってはならないという概念である。幼少期から刷り込まれた教えとはそう簡単に覆されるものではない。長年暮らしていた家屋が炎に包まれようともこの市街地に住まう者たちは泣き喚かず、歯を食い縛った。強いて言うなれば、煌々と燃え盛る炎を映す瞳は悲愴を滲ませていた点か。
ルケリヤも例外ではなかった。逃げ惑う最中に両親と離れ離れになり、擦り切れんばかりに憔悴した姿に成り果てようとも彼女は自決の道ではなく、囚われの身を選んだ。
国は滅べど教えは健在なり。有り得ないであろう再興の時の為の教えであるとしたら、何とも愚かしいと敵国の兵の全てが一笑に付したであろう。
破壊により機能を失った街に住まう者たちは移住を強いられた。無論、選択の自由はない。成人を迎えて幾ばくかの歳月を知るルケリヤの移住先は北部地方に新興した市街地、リストメクであった。見ず知らずの街へ運ばれて何をする、いや、させられるのかと不安が募り、移送用の粗末な馬車の片隅で身体を縮込ませていたのは未だに記憶の片隅にこびり付いている。
疲労と虚脱の二文字にどっぷりと漬け込んだかの様な空間の中で、ただ一人、年老いて全身が皺に覆われていようとも爛爛とした眼差しを放つ女がいた。女衒である。恐らく袖の下を利用して移送用の馬車に潜り込んだのであろう。馬車の揺れに体を合わせているのか、元からその様な歩き方なのか、よろよろとルケリヤに近付くとにんまりと笑いながら膝を折った。
「お前はこれから娼館で働く事になる。そこで好きな名前を名乗る権利を与えよう、その方が稼ぎに精が出るだろう、と言われたわ。我にはルケリヤという立派な名前がある、と主張したけど、彼女は溜め息交じりに首を横に振ったのよ。」
「何故、認められなかった?」
アウルス・ボーンの歩調は先よりも緩慢となっていた。己の剣霊の回想録を聞き入る為であろう。
「単純な話よ。既にルケリヤと名乗る娼婦がいたの。」
「そうか。」
「ゾラ。ここリストメクでの我の名前よ。」
「まぁ…悪かぁないな。」
天を見上げんと顔を傾けたアウルス・ボーンは二本の指で顎を詰りながらその様に語った後、乾いた笑みを零した。
「でもそれは偽りの我の名前。我はルケリヤのままでいたかった。」
偽りの名の許にルケリヤが娼館に於いて一目置かれる存在となるのに日数を要さなかった。同僚たちからは、たかだか敗戦国の女が調子に乗って偉そうに、と毒づかれた。しかし、筋の通った鼻梁をはじめとして、しなやかな長い髪、男の視線を虜にする絶妙な弧を描く身体の持ち主には変わりない。少なくとも同性からは羨望の眼差し受ける資格を有しているとルケリヤは理解していた。故に毒づかれようとも、仲の良い同僚が出来ずとも、それらの裏返しだと一蹴しては鼻で笑っていた。
「そして二年後にお前を引き取りたいという心優しい助平野郎のお出ましか。」
我ながら気の利いた言い回しだと思ったのか、アウルス・ボーンは再び乾いた笑みを零す。既にルケリヤは彼の横に並んで歩き、つまらない冗談を、と言いたげな視線を投げていた。
「この街一番の事業家だったのよ。高利貸しってやつね。」
「ついでに見てくれも街一番だったのか?」
「それは平々凡々だったかしら。」
「まぁ、その後のお前は何不自由なく人生を過ごしたと…。誰もが夢見る玉の輿物語じゃないか。」
一定の歩調にて刻まれていた靴の音が耳に馴染み始めている。残り百メートルほどで中央広場に辿り着く距離にいた。
「いいえ。我を身請けして数ヵ月後に事業が傾いたわ。」
「金貸しが傾くっていうのはどういう風の吹き回しだ?お前が散財させたとでも?」
「貨幣価値が変わったのよ。」
経済活動を行う上で、各国で独自の流通貨幣を発行するものである。当時のリストメクが所属していた国家も例外ではない。戦乱の世に於いて奪い奪われるのは常であるが、貨幣価値が変わるほどの出来事とは何が起きたのか。
それは武力を用いた短期間による制圧、物資による長期間の疲弊戦の二者択一の戦略に楔を打ち込まれた瞬間でもあった。敵対する周囲の国家が示し合わせて当時のリストメクが所属していた国家の流通貨幣の機能を失わせる手段を用いたのである。具体的にはリストメクが所属していた国家外にある金や銀からなる硬貨をことごとく融解し、貨幣としての価値を消滅させた。
余談ではあるが、それからおよそ三百年後、トウラドオク王朝による単一国家の終焉と共に勃興した現在の四ヶ国が共通貨幣制度を導入したのは過去の事変を顧みた結果と言えよう。
「権利書や借用書が全て紙屑になって、彼は最後に毒を盛られて殺されたわ。」
「あっけないな。お前も一緒に、なのか?」
「まさか。身請けの日に我の本当の名前を教えたら、彼は何とも言えない表情を見せたのが許せなかった。ゾラのままでいて欲しかったのかしら?」
「どうだろうな?」
「でもそれは我が望まない。毒を盛られても文句は言えない内容よ。」
「つまり…お前がやったんだな?」
「そうよ。」
全く意に介さない様子のルケリヤは一呼吸置いて言葉を続けた。
「その後は家財道具を処分して、いろいろな街の盛り場の女として生きたわ。結局、そこでもルケリヤではなく違う名で言い寄る男たちを手玉に取っていたわね。」
当時を思い返して憫笑を湛える剣霊の赤銅色の長い髪が風に揺れる。
そこに血の臭いが粘り付いた。
アウルス・ボーンとルケリヤは脚を止めた。歩む先に屍が一体、偶然なのか律儀にもなのか、石畳の中央に転がっている。凍て付く寒気が流れ出る血を一時的に凍らせ、淡い陽光により元の液状に戻りつつあった。
眉間に皺を寄せたアウルス・ボーンは屍に近付くと、弛緩した肉塊と化した肩を足先で小突く。うつ伏せから仰向けへと転がる。屍の腹に刻まれた鋭い一閃による生々しい軌跡が晒された。
「見事な一撃だ。」
「そうね。」
「先日出会った七十二番の剣霊使いによるものだろうな。」
アウルス・ボーンは屍の前で片膝を着くと無念を象徴している両手を胸許で組ませた。肩や肘、指の関節の硬さや肌の色合いからして十時間以上を経過しているが、丸一日は経過していないと彼は読み取った。
「あなたの方こそ心優しいんじゃなくて?」
片膝を着いたままのアウルス・ボーンの背後で腰にそれぞれの手を当てたルケリヤは世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳に哀れみとは無縁の表情を与えていた。
「どのみち殺される運命にあったからな。今頃あの世とやらではどんな扱いを受けているのか知らんが、亡骸ぐらいはきちんとさせてやっても良かろう。」
「元仲間に斬られなかっただけ、幸せよ。あなたか我に斬られていたら、もっと凄まじい形相で死んでいたわね。」
「斬られた者が事切れるまでの顔なんざ、いちいち観察していられるか。」
「そうかしら?」
「まぁ、某とお前を知る者を口封じする手間が省けたには違いないが。」
ルケリヤは腰に当てていた両手を離し、だらりと垂らすと五指を揃えた。
「さて、次なる手間がおいでよ。」
血の臭いの中に微かな衣擦れの音とのべつ幕なしの殺気が入り混じり始めていた。男であれ女であれ、若かろうと老いていようと、流す血は魅惑の香りを伴うと言われている。その悦を求める存在は飽くなき欲を満たさんとする唯一つ。邪剣霊に他ならない。
「街から人間の気配が消えて、やりたい放題出来ると思ったのかもしれないわね。」
ルケリヤは身体の向きを殺気を発する存在、邪剣霊へ移した。数百年前に流行ったと思われる装いを纏う邪剣霊はルケリヤよりも髪は長く、僅かな弧を描いている事から剣体は曲剣の類と思われる。だが、手入れを怠った剣の証は如実に現れている。髪から滑らかな光沢は消え、淡い陽光をはね返していない。
「面白い。お前と同類のお出ましときたか。」
それなりに戦いを潜り抜けた者らしくアウルス・ボーンは放たれる殺気に飲み込まれまいと鼻で深い息を吐き、片膝を付けたままの姿勢を崩さずに己が頼りとする剣霊を見上げた。
「お前に任せるぞ。」
「構わないわ。でも、同類とか言うのは止めて欲しいわね。」
表情を与えられたセピア色の瞳につられて目尻が細くなる。怒りの一端を物語る仕種を目の当たりにしたアウルス・ボーンの頬に一条の傷が走った。邪剣霊が繰り出した斬撃による結果である。傷口に指を這わせた。冬の夕刻を彩る斜陽とは比べ物にならない濃い色がうっすらと滲む。
歩みを止めない邪剣霊は口許を歪めながら刻々と近付いてくる。あの笑みは獲物を発見した喜びと同時に勝利が手に届かんと実感した者が不用意にも零すものだ、とアウルス・ボーンは知っている。つい最近まで、ルケリヤと出会う以前の己があの笑みを惜しまずに晒していたのだから。
次なる斬撃が放たれた。同時にルケリヤは一歩踏み出すと垂らしていた左手をアウルス・ボーンの右肩に置いた。剣霊特有の冷たい手を通して貪欲な刃物が生成した衝撃が伝わる。
「たいしたことないわね、こんなの。」
「おい、悠長に感想を述べている場合か?早く反撃しろよ!」
「今、あなたの肩を割られるのを護ったわ?」
何を喚いているのか、とさも不思議そうに首を傾げたルケリヤにアウルス・ボーンは歯を剥き出して憤った。
「護るよりも攻めないでどうする?」
「ならば前言を撤回しなさいな。」
さらりと言葉を発しようとも右肩に置かれた左手が鷲掴みの様相へと変化していた。真に憤っていたのはルケリヤであり、人間の女では到底無理な凄まじい迫力にアウルス・ボーンは契約者といえども慄いた。
「判った。ルケリヤ、お前はもう邪剣霊ではない。」
「それだけ?」
世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳から放たれる触れる肌よりも冷たき眼光は非情を匂わせている。アウルス・ボーンは不意にも喉仏を上下させた。
「剣霊ルケリヤは…古今東西お前だけだ。」
「本当に?」
「あぁ、本当だ。」
生気とは無縁の色を湛えた唇が満足げな微笑を零した。
右肩に置かれた左手が離れ、傷を負った頬に人差し指が這わされた。滲む血は剣霊の人差し指に絡まり、渇きを癒す為の舌に舐め取られた。
「いらっしゃい。楽にしてあげるわ。」
ルケリヤは滲む血を絡ませていた人差し指を邪剣霊に向けて数回動かして見せた。あからさまな挑発に邪剣霊も不敵な笑みを以って応える。
リストメク市街地の目抜き通りを横切る風が対峙する剣霊たちの髪をなびかせ、纏うスカートの裾を躍らせる。遥か遠い過去にこの地に吹いた風も同じ強さで住まう者たちの頬を撫でたのか、雪化粧の香りを鼻腔に漂わせたのか。
次なる風が答えを紡ぎ出す機会を与えるよりも早く、邪剣霊は動いた。地を蹴り、一気に距離を縮めんとする。手入れを怠ろうとも長い髪は羽ばたく尾長鶏の如く宙に揺れ、利き手と思われる右側の五指は狂猛な斬撃にて目前の敵を確実に薙ぎ倒す為に天を仰いだ。
対するルケリヤは挑発に用いた手をそのままの位置に固定し、つい、と左脚を一歩引いただけである。涼しげな表情を保つ彼女は攻撃はおろか、防御の姿勢すら見せようとしない。
互いの距離が二メートルを切ろうとする中、邪剣霊の右手が大気を薙いだ。渾身の斬撃が狙うのは描く弧から察するにルケリヤの首筋か。狙いを定められたルケリヤは未だに動かない。勝利を確信した邪剣霊が口許を歪め、必然の帰結を知るルケリヤが微笑を漏らす。
金属同士が、刃同士が拮抗する甲高い響きは遺棄されたリストメク市街地に鳴り響かなかった。代わりに聴覚を持つあらゆる者が両手を耳に当てたくなる様な惨たらしい礫音が冬の乾いた大気に混ざった。
邪剣霊の右手による手刀は間違いなく、正確にルケリヤの首筋を捉えていた。細長い小指の脇が汚れなき首筋に喰らいついている、と表現するよりは単に触れているだけであった。何故ならルケリヤは顔を横に倒し、赤銅色の髪と肩で邪剣霊の斬撃を食い止めていたからである。
「人間であった頃の言葉を借りるなら、欠伸の出る思いってところかしらね。」
口許の微笑を絶やさずにルケリヤは更に顔を倒した。挟んだ手の上にある赤銅色の髪が押し付けられ、絡まる一本一本が食い込む。鈍く物憂げな礫音が大きくなり、邪剣霊はたまらずに苦痛の呻きを上げた。
なんとも大胆であり、他には真似のしようがない技か、と魅入られたアウルス・ボーンは茫然と口を開けている。その様な契約者を更に驚愕の域へ導こうとルケリヤの右手が遂に動いた。こちらは五指を開きに開き、動きを封じ込められた邪剣霊の首筋の横を経て長い髪を目掛けて伸びる。ルケリヤの右手は邪剣霊の長い髪の一部を掴んだ。
「相手が悪かったわね。我が全て砕いてあげるわ。」
特段、力を込める素振りも見せずにルケリヤは掴む邪剣霊の長い髪の一部を握り締めた。金属の崩壊、剣としての矜持の終焉、女の命の象徴を断たれた苦鳴。邪剣霊はあらゆる苦痛を伴う悲鳴と共に地にへたり込み、遂に霊体を保てずに本来の姿を晒した。
「我は敗者の表情を見るのが何よりの楽しみだけど、なんともあっけないわ。」
足許に転がる刀身が無惨に砕けた一振りの剣を見下ろすルケリヤは己の発した言葉に反して感情の一端をちらつかせていない。握り締めていた長い髪の一部は粉末状の金属となり、冬の大気に攫われる。
圧倒的な勝利を収めた。それでもやはり、世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳は何事も無かったかの様に静かにしていた。
ルケリヤと邪剣霊の戦いの舞台となったリストメク市街地の目抜き通りは既に一日の終わりを告げる用意を始めていた。それぞれの商店の特徴を表す鉄看板たちは暖かな色に染まり、精巧な造形の隙間から漏れる輝きにその場に居合わせた者の大半は感慨に耽るであろう。
少なくとも、ルケリヤは剣霊らしい切れ長の目を細めていた。過去にこのリストメク市街地にて辛酸の何たるかを否応にも味わわせられた彼女にとって、目の前の光景は以前から知るものか、改めて気付いたものか。
擦れた表面をした石畳に映り込む影が伸びきっている。その影の一つを作り上げていたアウルス・ボーンは未だに動かずに片膝を付いたままであった。
「終わったわよ。」
早く立ち上がれ、と遠回しに急かすルケリヤにアウルス・ボーンは尊大な存在に出くわしたかの様な眼差しを送った。
「あれは何て技だ?」
「技?」
「邪剣霊の髪を掴んで握り締めただけで仕留めるとは…聞いたことがねぇ。」
刀剣を武器とするのであれば斬撃と刺突撃の二択であり、剣霊の霊体時の攻撃手段もそれらに準じる。確かにルケリヤの一撃はこの二択には当て嵌まらず、アウルス・ボーンが疑問を抱くのも無理ない。だが、彼はルケリヤの契約者でもある。初めて目の当たりにしたのか。
「あなたに言われるまで技なんて概念は皆無だったわ。」
ルケリヤの右の人差し指がアウルス・ボーンの頬をなぞった。既に傷口は塞がりつつある。ただ冷たい感触が通常より強く感じられた。
「あなた、まだ我の剣体を見ていなかったわね?」
「ケンタイ?剣霊の真の姿というやつだな?」
「そう。我の剣体を手にすれば自ずと判る筈よ。」
「ならばこの場で剣体になってみろ。」
「嫌よ。」
「なに?」
頬に触れる人差し指が斜め上へとずれた。脂でてかる左右の小鼻を二本の指で摘まみ上げる。
「お前まさか、先ほどの邪剣霊と同じ様に某を…。」
冷酷無情の一撃を見て間もないのだから仕方がない。得も言えぬ戦慄を隠せないアウルス・ボーンは口で呼吸を行い、徐々に浅く早くなりつつある。その様な彼の視線は足許に転がる人間の屍と邪剣霊の成れの果ての間を交互に動いてはルケリヤへと持ち上がった。
「剣霊は自らの契約者の命を奪う事は出来なくてよ。」
ルケリヤの言葉は浅く早くなっていた呼吸を安堵を思わせる速度へ戻らせた。なんだ驚かすなよ、とアウルス・ボーンは無用の心配をして損をしたと小言を漏らそうとしたが、左右の小鼻を摘み上げている指が未だ離れていない。
「でもね、傷つける事は出来るの。」
小鼻から通じる冷たき感触が和らいでいく。流れ出た血が有する温度がその様に仕向けていると知るのに時間は要さなかった。
「我は逃走したルケリヤを追いかけて今の世から抹消するわ。あと、彼女と彼女の指示に従ったリストメクの住人たちは七十二番の剣霊使いに接触するとして…我とあなたの秘密がばれない様にしないといけないわね。」
「某に何をしろと…?」
左右の小鼻から流れ出た血は口角まで垂れている。己の血の味のなんたる鉄臭さか、と辟易を覚えるよりもルケリヤの一挙一動が気になる。
「あなた、我に見初められる前まで追い剥ぎ稼業をしていたわね?なぶり殺しは得意でしょう?」
艶やかに微笑む剣霊の内なる姿は無慈悲そのものである。だが、アウルス・ボーンはその無慈悲の中に煌かんばかりの孤高の存在を見出したと言わんばかりに目を見開いていた。
「あぁ。得意中の得意だ。その為に某は剣を握るものだと思っている。」
「ならば時が来たら剣体となった我を思う存分振りかざしなさいな、アウルス・ボーンさん?」
「その件だが、やはり死に損ないの名前を借りないと駄目だろうか?どうも未だにしっくり来ないのだが…。」
意外な申し出であったのか、ルケリヤの細い眉が動いた。
「なぶり殺しが終わったら好きに名乗れば良いわ。ただ、本来の名前を名乗れなかった我の気持ちを知るには良い機会じゃなくて?」
「あともう一つある。人前で喋ると所々に思っている事と正反対の言葉が勝手に出るのは…お前と契約した副作用か?」
「えぇ。我は嘘を強いられて生きてきたから。その反動でしょうね。」
剣霊が人間であった頃の苦しみを契約者は背負わされる。俗に言われるところの剣霊障であるが、アウルス・ボーンはもとより、ルケリヤもその名称と性質については知悉していなかった。追い剥ぎに身を落としていた男と邪剣霊として彷徨い続けていた女だけに無理もない。
「今夜は雪がちらつくわ。」
天を仰いだルケリヤの赤銅色の髪が畝を作っては消えた。
「ならばあそこで休むか?」
立ち上がったアウルス・ボーンは親指の腹を用いて小鼻の両脇を交互に押さえつつ、空いている側の親指を彼が言うところのあそこへ向けた。元娼館であった屋敷である。
「質の悪い冗談、と言いたいところだけど、最後に昔を懐かしむのも悪くはないわね。」
「見たところリストメクの中で一番大きい屋敷だ。食料も金目の物も拝借するにはもってこいだろう。」
我ながらの妙案を得意げに語るアウルス・ボーンに対して、そうね、と端的に応えたルケリヤは踵を返した。絶妙な弧を描く腰が反転し、遅れてよそ行きらしい模様入りのドレスの裾が揺れ、赤銅色の長い髪の先端が弧を描く。
剣霊特有の音なき歩行が数歩進んだところでルケリヤは立ち止まった。今夜の一時凌ぎの場を提案したアウルス・ボーンが後を追ってこないからである。振り返った彼女の世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳に映ったのは元同僚の懐を物色している契約者の姿であった。
何と意地汚い事か。
自然と侮蔑の眼差しとなるも、ルケリヤは顔を元の位置に戻すと歩みを始めた。
彼は契約者として見間違えたのだろうか、と自問が湧き上がる。だが、契約の際に血を摂取した際に嫌なものを感じなかった。むしろ我の契約者はこの男以外に考えられるだろうか、と感嘆してから久しくない。見てくれも男の荒々しさが前面に出ているが、それが彼の魅力だと理解している。またもう一つの食事に於いても今のところは不満もない。契約者が剣霊と肌を合わせる興奮に完全に支配されている以上、暫くは現状維持が可能であろう。
やはり素行もしくは資質に疑問を投げ掛けるべきか、と脳裏を過ぎらせると同時に人間であった頃の己の姿を思い返す。敗戦国の女と罵られ、嘲笑の対象として生かされてきた。若かりし頃は将来の夢を抱いていたのかもしれないが、五百年の歳月は記憶の一片を消し去った。ただ皮肉な事に、生きる為に心にもない言葉を使い、上辺だけの愛想で相手を騙し、最後はあらゆる物を奪っていた在りし日の記憶は鮮明に残っている。初めはその様な己に良心の呵責や嫌悪感を抱いていたが、やがて全ての感情が麻痺した。己の否定よりも肯定の方が生きる力になると知ってしまったからだ。
第六十九の番号を与えられた剣霊使いアウルス・ボーンを名乗らせている男は性は違えど人間であった頃の我と何の変わりもない。故にその身体に流れる血に安らぎを求めるのか、とルケリヤは帰着するところを見出しつつあった。しかし、そこに満足は感じられない。その穴埋めをしようと、満足を得る為に新たな衝動がまるですくすくと音を立てて芽生えているのが判る。
ルケリヤの名を持つもう一振りの剣霊とリストメクの住人たちの命を奪うのは既に決めている事項だが、そこに含まれていない者がいる。第七十二の番号を与えられた剣霊使いとその剣霊である。あの長い銀髪の剣霊から黒髪の契約者を奪うか。今の契約者とは異なる毛色の男に抗えない魅力を覚えるのに否めない己がいる。これから行うなぶり殺しは口封じの為であり、言うなれば厄介事であり、覚える満足は刹那的なものであろう。ならば長い銀髪の剣霊の悲痛な姿を目の当たりにし、黒髪の契約者を奪う事こそ最大であり最上の悦ではなかろうか、とルケリヤは思った。
剣とは力の権化で有り、力とは屈服させ奪う為にある。剣霊とはその能力を行使する存在なのだから、至極まっとうな道を進んで何が悪い。
元娼館の出入り口に差し掛かった。鋼鉄製の門柱の一部を彩る同素材と思われる花弁の装飾が視界に入り込んだ。捻じ曲げられようとも律儀に己の存在意義を示している装飾に可憐な二本の指が添えられた。先の邪剣霊の一閃を食い止めた際と同じく金属同士が摩擦する、一方がもう片方を容赦なく侵す惨たらしい音が奏でられる。
「好い事を思いついたわ。」
言葉通りに妙案を思いついたと言わんばかりにルケリヤが再び振り向けば、アウルス・ボーンは元同僚の懐から物色を終えてこちらに近付いている最中であった。硬貨を袋詰めにした財布と思しき物体をぶら下げている。
「リストメクの夜は冷えるから今夜は存分に温めてあげるわ。」
今は違えど、娼館を前にしてその様な台詞を吐かれてはアウルス・ボーンが思わず鼻息が荒くなるのは必定と言えた。冬の冷たい風に晒された切り傷に走る痛みを忘れて、である。
「なんだ、これの侘びって訳でもあるまい。」
平静を装いつつ空いている側の手で己の小鼻を指差すアウルス・ボーンの眼差しは目の前に立つルケリヤの曲線美が如何様に変化するのかを思い描いては吟味を重ねていた。
戦えば流れる血が沸騰した様な錯覚に陥る。この錯覚を鎮めてくれるのは異性と肌を重ねる事であると剣を携える者、死線を潜り抜けた者たちの間では広く知られている。恐らくルケリヤは邪剣霊との戦いで己の昂ぶる感情を抑制出来ずにいるのであろう。
時として女とは貪欲な存在だと男は思う。ましてや己が至上と信じて止まない剣霊の欲となれば尚更である。アウルス・ボーンは財布と思しき物体を羽織るコートのポケットに捻り込むとルケリヤに近付くなり剣霊らしいか細い肩に手を置いた。
「お前の望む通りまで付き合おうじゃないか。」
己の肩に置かれた契約者の手に一瞥を送ったルケリヤは薄い笑みを僅かに見せる。金属が絶命の悲鳴を上げた。花弁の装飾は地に落ち、儚く乾いた音はルケリヤが望む音色であったのだろうか。良し悪しを口にせず、表情に変化を与えずにルケリヤは元娼館へ脚を進め、アウルス・ボーンも彼女の後を歩んだ。
数時間後、リストメク市街地の夜は星の瞬きを奪われた。煌々と燃え盛る元娼館によるものである。五百余年の歳月を眺めてきた建造物の最期を見守るのは元娼館の中庭に立つ一人の男と一振りの剣霊。
予想とはかけ離れ、しかもあまりにも大胆な結果にアウルス・ボーンは開いた口が塞がらないという表現を自ら体現していた。
「どう?温かいでしょ?」
「あ、あぁ…。」
アウルス・ボーンの虚ろな返事を予測していたのか、腕を組んだルケリヤは形の整った顎を斜め上にし、荒れ狂う炎と舞い上がる火の粉の協奏を涼しげな眼差しと共に堪能していた。
柱が焼け、熱風に晒された窓ガラスが割れ、屋根が崩れ落ちる。全身に伝わる熱気と鼻腔を突く臭気はルケリヤにとって人間であった頃の記憶、辛酸を嫌というほど舐め続けた記憶の邂逅を招く。戦争の渦中に飲み込まれて家族を失い、生き残った為に敗戦国の女と罵られ、人間としてではなく単なる道具の様に扱われていた。奇しくも人生が負の方向へ転がり落ちた時も同じ様な光景を目の当たりにしていた。だが、その記憶を思い起こさせる場に暇乞いの時を自らの手で招いたのだという実感にルケリヤは心身を浸している。そして自ずと薄ら笑いを浮かべている己の姿に気付いていたのであろうか。
世の変遷を傍観したと語るセピア色の瞳に映る炎の揺らめきは妖しくも狂猛である。過去の苦渋は尽く拭い去った。その奥底で育まれつつある新たな欲望をアウルス・ボーンが知る由もない、七十二番の男を我が奪い、新たな契約者にする。そして用済みとなった男は抹消せん、と。
元娼館が燃え尽きたのは日の出の刻を迎える間際であった。




