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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第四章 ゲルハルステン望郷編
56/75

偽りの香り

 雌雄の鹿を意匠とした市章旗と共に剣と槍を携えた龍を描く国章旗がユストの目に留まった。冬の午後の陽光の下、それらは誇らしげに、そして言わば呑気に吹く風に身を任せてはためかせている。

 リストメク市街地。北部王立国家と中央行政府の国境に面したこの市街地はおよそ五、六百年の歴史を有していると一般では認識されていた。比較的長い歴史を歩み続けた街並みではあるが、当時から肥沃な地とは言い切れず、また軍事的要所としても今ひとつ見劣りするのは、国政を司る者であれば異論は述べないであろう。

 しかし否定的な見解の角度を少し変えれば納得すべき事柄を発見するものである。つまりその様な市街地であるからこそ、破壊の呻きに遭わずに今まで慎ましやかにながらえていたのではなかろうか。なるほど、そうであればリストメク市街地が現在の『北部王立国家の玄関』としての地位を手に入れたのも不思議な話ではない、とユストは目の前の建造物たちに向けて双眸を細めた。

 どの市街地に於いても外壁は存在する。切り出した石を精巧に積み上げた強固なものから、煉瓦にて丁寧にこしらえたもの、何処からともなく掻き集めた丸太を上手に組んだ気持ちばかりのもの、と分ける事が出来よう。リストメク市街地の外壁は長い歴史を知る街らしく、石積みによる堅牢な外観を有していた。これは過去の騒乱期の名残でもあり、今もなお()()で暮らすものたちの安全を保障し、護られているという精神的安堵を産み出す重要な存在でもある。故にその外壁が厚かろうと高かろうと、内側で暮らす者たちの活動の音が漏れる。

 だが、このリストメクの外壁は内側の様相を伝えてくれない。静寂を通り過ぎ、虚無すら感じられる雰囲気は不気味という表現を思わせるのに充分であり、ユストにイルサーシャの剣体を包む赤紫色のケープを強く握り締めさせた。

 鋼鉄の扉に幾つもの鋲が打ちつけられた正門は無造作に開け放たれたままであり、見る者に秩序や規律との決別を思わせる。その決別とは自ら望んだのか、他によってもたらされたのか。門番は無論のこと、誰の出迎えもなくユストは正門の前に立った。

 陽が傾き具合を深くしてから久しい。一人の剣霊使いの影が雪上を舐める様に伸びている。黄昏時の日差しは雪の結晶を煌びやかに彩り、伸びる影は表面の陰影をあからさまにする。

 そこには無数の足跡が残されていた。先端側が揃って向けている方角は国境が待ち受けている。

 ルケリヤは語った、邪剣霊は逃亡したと。忌忌ゆゆしき存在が向かったのは己を打ちのめしたルケリヤが現れた方向とは逆のメツァールントであると、もはや疑う余地はない。では、無数の足跡がメツァールントを目指す理由についてユストは眉をひそめざるを得なかった。

 逃亡を図る邪剣霊を追い詰めるべく追撃を掛けたのだろうか。それにしては足跡に力強さが感じられない。むしろその逆ではなかろうか、とユストは見ていた。この足跡は動揺と困惑による化学反応によって形成された狂乱に支配されたリストメク市街地に住まう者たちの姿を彷彿させられる。

 女や子供の足跡が一振りの剣を手にする剣霊使いに当時の様相を訴えている。邪剣霊の凶猛で無慈悲な一撃の餌食から逃れる為に、住み慣れた市街地を放棄した。その力なき者たちを飢えの呪縛から解放されない邪剣霊が後を追う。その様な仮説が最も妥当であろうか。いや、ユストは誰に見せる訳もなく頭を左右に揺らして否定した。

 剣霊は逃走を良しとしない傾向が強い。己が至上の強さを有していると絶大な自信が根底にある為である。しかし、ルケリヤの言葉の真偽を疑うべきなのだろうかとも、また彼女に対して逃げろと無意識の最中に嘯いたイルサーシャの件もユストの中で一度こびり付いたら二度と落ちない汚れの如く頭から離れないでいた。

 迷宮の入り口に差し掛かってしまったと思わざるを得ない中、ユストは開け放たれたリストメク市街地の正門を潜る。イルサーシャが万全の状態でない今、ユストに出来るのは立ち止まらずに前に進むしかない。数秒遅れて、彼の長く伸びた影も正門に吸い込まれた。

 

 初めてリストメク市街地を訪れた剣霊使いの視界を埋めたのは人間の気配が感じられない、乾いた景色であった。遺棄された街という表現がしっくり当て嵌り、異論を唱える者はいないと思われる。しかもその遺棄から僅か数日しか経過していない。

 本来であれば各々の家から夕食の香りが風に乗り、仕事を終えて帰路に就いた者たちの足取りを軽やかにさせている時刻である。何処の市街地でも目にするかがり火を焚く者の姿、酒場の開店を待ち焦がれていた男たちの飽くなき欲望、またその様な彼らを相手にする、あでやかと危険を混ぜ合わせた魅力を放つ女から滲み出る狡猾さ。それらの肌を撫で回しては執拗に絡みつく異様な雰囲気が全て消え失せているのが遠目であろうとも鮮明に判る。

 正門から奥は目抜き通りを経て、やがて街の中央広場に通じる。これは五、六百年の歴史を有している市街地の共通の特徴でもある。逍遥するユストの靴が長い歴史を知る石畳に硬い響きを奏でさせていた。

 左右に並ぶ商店の店先に陳列している商品が息を引き取った街並みに彩りを添えている。彼らは今ある場所の運命を知らない。深く温かな色の野菜、鮮やかとつややかを中和した婦人服、眩い輝きを以って所有欲を満たしてくれる装飾品の数々。これから先、彼らは人間の手に触れずにどれだけの時の経過を眺めるのだろうか。

 ユストの脚は動きを止めていないが、その歩調は確実に遅くなっていた。普段の彼であれば今もなお風化に耐えて当時の建築様式を伝える建造物や、独特な住居の区割りに関心を寄せての結果と言えるが、今回は異なる。後方から殺気を感じたからである。

 カミル・ヴェネシュがこれまでの経緯を語った際に登場したムルドという者だろうか。歩調を緩めれば相手も一定の距離を保とうとしている。こちらの様子見にしては漏れる敵愾心が露骨にユストの勘を撫でていた。ユストは右手に持つイルサーシャの剣体を左手に持ち替えた。赤紫色のケープに包まれていようとも柄は何処にあるのか判る。逆手で柄を握り、切先を石畳に落とす。さしあたり杖を突く様な動作を加えながら歩む。

 石畳は五種類の模様と色を持つ小さく切り出した石を均一に嵌め込まれて造られていた。手の込んだ歴史的価値のある街路の上で杖を突く様な動作は疲労と憔悴を見る者に思わせたのか、後方から殺気を放つ者の歩行速度が上昇した。仕留める絶好の機会と踏んでの行動であろう。

 しかし、数多の死線を潜り抜けた剣霊使いにとって、己の剣霊が万全の状態でなかろうとも、背後であろうとも、相対する敵との距離は測れるものである。幸いにして不気味な静寂を保とうとするリストメク市街地では聴覚が必要以上に正確な情報を伝えてくれる。

 五メートルが四メートルに縮まった。三メートルになろうかという頃合に、そろりと鞘走りが靴音の中に混ざる。ユストの後方から吹く風がコートの裾を弄びながらその様に教えてくれた。

 ユストは逆手に握る柄を持ち直した。赤紫色のケープの内側に隠れていた胴を絡ませる二匹の黒蛇の造形が露になる。再び確固としてその胴を掴み、振り向きざまに横薙ぎの一閃を放った。

 躊躇いとは無縁の一撃は白銀の煌きを黄昏時に描く。抗うものは剣霊が宿る直剣の切先による伸びる弧を己に食い込ませた時点で後悔の念を抱かずにはいられない。

 相手は野盗の一味と思われる男であり、上段の構えであった。あと少しだけ距離を詰めたら問答無用の不意打ちを食らわせるつもりであったのだろう。だが、彼は既に昂ぶる戦意が殺気として漏れ、ユストに戦略を練る時間を与えてしまったと気付いただろうか。

 一方のユストは一撃で仕留めた手応えと共に僅かながらにも眉間に皺を寄せていた。骨肉を裂いた感触に自我を揺さぶられた為ではない。その様なものは既に柄を握る左手を通して四股に染み付いている。相手の動きに違和感を覚えたからである。相手が上段に構えてから身体を硬直させていた様に思えた。不意打ちを企んでいた者が同じく不意打ちに出くわした驚愕のあまり全身が引きつったのであろうか。

 腹に一文字の斬撃を受けた者は呻き声と共にたたらを踏み、腹の中の物が飛び出さない様に慌てて剣を投げ捨てて両手で押さえる。かろうじて腸の一部はまだ納まっているが血が止め処なく流れていた。黄昏時の景色が石畳の上に広がりつつある無念の色を薄暗く映し出す。

 勝敗は決した。

 ユストは勝利の余韻に浸らずに敗者の前で片膝を突くと切先を伏せ、柄頭を飾る二匹の黒蛇の鋭い尾の先端を悶え苦しむ男の顎に添えた。

『愚生は剣霊使いだ。ムルドとは貴様の事か?』

 音無き声を発する口は北部王立国家の言葉を用いてゆっくりと動く。矢継ぎ早で荒い呼吸の中、野盗の一味と思われる男は目をひん剥いていた。死に際に何をされるのかという恐怖と斬られた事実を感受できない者の表情であるのは幾度となく見てきた。また、その様な表情を見ても波風立たない湖畔を思わせるユストの眼差しは彼が剣霊使いであると死に際の者に信憑性を植えつけさせた。

『答えろ。ムルドとは貴様か?』

 顎に添えた柄頭の角度が強くなる。鋭い尾の先端が黒の他に魅惑の赤を加え、冬の澄んだ空気に晒された相乗効果もあってなのか、普段とは異なる光沢を放つ。

 ユストの唇の動きを解読するのに数秒を要した野盗の一味と思われる男は急激に渇き始めている喉を使って声を振り絞った。

「何故、こうも、剣霊や剣霊使いが、やたらと、現れるんだ…?」

 やたらとは。ルケリヤとアウルス・ボーンを指しての言葉か。今度はユストが顎の角度に変化を与えた。五種類の模様と色を持つ小さく切り出した石による石畳が新たな色に染め上がりつつある。出血の量から計るに持って数分であろう。

「あいつは、ムルドは、邪剣霊に、気に入られたんだ…。」

『どういう意味だ?話せ。』

「知らねぇ、俺は意味なんて、知らねぇ。直接、邪剣霊に、聞けよ…。」

『その邪剣霊はどうした?』

「街の者たち、が慌てふためいている様を、眺めて、せせら、笑っていたぜ…。」

 野盗の一味と思われる男の震える唇が卑屈に歪む。その形は彼が目の当たりにした邪剣霊の心境を具現化したものか。そして邪剣霊に倣い、事切れる前にユストに一矢を報いる唯一の手段であったのかもしれない。

『既に一組の剣霊使いがこのリストメクを訪れ、邪剣霊を追い払っている。つい先日の話と愚生は聞いているが。』

 言葉をたがえたつもりはなかった。だが、絶命を前にした者にユストの音無き声は届かなかった。 

「ムルド、より俺の方が、強くて見てくれも、上だ。邪剣霊は俺が…俺が…。」

 腹を裂かれた衝撃と激痛が絶え間なく襲う中、語るは未練。遂に野盗の一味と思われる男は異様なほど潤いを失っていた左右の口角に血泡の花を咲かせた。飛び散る赤が剣霊使いの頬をかすめると同時に彼は利き手である左手に力を込める。鋭い尾の先端は喉の中程まで食い込み、離れると共に細く赤い糸を引いた。

 東の空はその一部に深い青を含み始めていた。人々の往来を長い年月を掛けて眺めてきた石畳の表面と同じくかすれている。どう、と死に絶えた者は仰向けに倒れ、その手は腹を押さえたままであった。

 立ち上がるユストに勝利の祝福ではないが、鐘の音が耳を突いた。物見塔に据え付けられた厳粛な音色は一日の終わりを告げる。

 鐘は人間の手によるものではない。歯車を巧く組み合わせ、定刻になれば吊り下げられた鐘が揺れてぜつが振動する仕組みである。四ヶ国の鼎立ていりつとほぼ同時期に発明されたこの機構は広く知られるところであり、言うまでもなくユストの視線をそちらへ動かす程度に過ぎなかった。むしろ彼の脳裏では鐘の音よりもある言葉が強く鳴り響いていた。

『邪剣霊は人間を喰らうだけと聞いていたが…。』

 己の中でふつふつと湧き上がる疑問を少しでも払拭しようと試みたのか、ユストは唇を動かした。音無き声を発する者を見守る鍔無しの直剣は何も答えない。ただただ、白銀の刀身に持ち主の怪訝な表情を朧げながら映し出しているだけである。

 ユストは放り投げられた赤紫色のケープを担ぐ様に右肩に掛け、歩みを再開した。

 先程の野盗と思われる男がこのリストメクに於いて今のところではあるが最後に残っていた人間であるとユストは判断した。他の気配は感じられず、ひとまず危機は去ったと己の勘が囁いている。

 このまま先を急ぐ、つまり邪剣霊はもとよりリストメクの住人たちが向かったであろうメツァールントへ足先を向けるべきではあるが、陽が落ちつつある。夜の徒歩かちは体力を極度に消耗する事をユストは熟知していた。己の身を護る剣霊が万全でない以上、その度合いは計り知れない。

 目抜き通りの中頃にホテルと思しき建造物が目に止まった。その名は『紺碧草』。ベッドとワインボトル、カトラリーを意匠とした鉄看板を掲げている点からしてユストの思惑は外れていないであろう。その横は軒先に並べられた品々を見れば青果店と判る。さらにはす向かいに構える店舗は何であろうか。青果店の様に陳列した商品を前面に押し出しておらず、白を基調とした外装からして生業はさておき、事務所の様に思えた。『紺碧草』と同じく壁から突き出ている鉄看板にユストの視線が仰ぎ見る様に注がれた。

 ミアヌ商会とある。黄昏時であろうとなかろうと、黒々とした細鉄による工芸品とも言える鉄看板は上下左右均等な十字を描いている。方位を示しているのであれば旅行会社だろうか、とユストは勘繰った。果たして己の想像が正しいのか誤りなのかを知るべく、ユストはミアヌ商会なる建造物に近付く。遮光目的の分厚いカーテンが開け放たれたままの窓を通して中を覗う。部屋の中央に据え置かれた木製のテーブルの上に種々様々な品々が几帳面に、手に取り易そうに整然と並べられている。

 雑貨店であったか、とユストは素っ気無く踵を返したが、直ぐに振り向くと急いで扉の取っ手に手を掛ける。ミアヌ商会は単なる雑貨店ではない。輸入雑貨店であった。

 リストメクは北部王立国家に所属する市街地ではあるが、大陸の経済を牽引する中央行政府との国境にも隣接している。つまり間接貿易により、このミアヌ商会の一角に敵国である東部帝政国家が原産の百年香が陳列されている可能性が飛躍的に上昇するのでは、とユストは推測した。 

 鉄看板が描く上下左右均等な十字はやはり方位を表現していたのである。


 支配人も従業員も、そして宿泊客も不在の『紺碧草』のカウンターの内側に廻り込んだユストは引き出しを幾つか開け、三回目で部屋の鍵を取り出し、共通銀貨を一枚投げ入れた。使い込まれた鍵からぶら下がる札に部屋番号は六とある。引き出しを元の位置に戻した手をそのままにユストは館内の見回した。扉の数からして全部で九部屋あるらしい。

 六号室の内装は特段、素晴らしいものではなかった。ありふれた、という表現が妥当とも言える。だが、深みのある木材を基調とした調度品と清掃が行き届いている室内に身を投じたユストにしてみれば、安息の一時を約束してくれる掛け替えのない空間に変わりない。 

 羽織る黒いコートをベッドの上に投げ、己の身は椅子に預ける。備え付けの机の中央にイルサーシャの剣体を置き、その手前にリストメクで()()()()()()()二品を並べた。

 胸ポケットから煙草を取り出し、先端に火を灯したユストは一日の終わりを堪能する煙を吐きながらそそれらを眺めていた。

 一品目は林檎である。北部原産の品と思われる。保存の効く、つまり塩気の強い食料ばかり摂取していたユストにとって、瑞々しさと心地良い酸味が期待出来そうな果実は気分転換を約束してくれるであろう。

 二品目は香木である。名称不明の香木である。残念ながら百年香をミアヌ商会にて見付けるには至らなかった。見た目と触り具合で幾度となく触れてきた百年香は判別できる。ただ、鼻腔を撫でる匂いは何処となく百年香に近いものが感じられる。果たしてイルサーシャが気に入ってくれるだろうか、以前の様に勝気な彼女の姿を再びまみえるだろうか、とささやかな期待と一抹の不安を抱え込みながらユストが名称不明の香木を握り締めたのはつい先程の事であった。

 煙草の煙の中に香木の爽やかな匂いが入り混じった。普段と同じく、灰皿を香皿として兼用している。イルサーシャの剣体を覆う赤紫色のケープを解き、揺らめきながら立ち上る煙に対して覆い被さる様に白銀の刀身を当てる。曇りなき刀身を舐める煙はわだかまらずに左右に流れ、上へ上へと逃れる場所を求める。そして逃れると共に室内の空気と同化した。

 照明が外に漏れるのを嫌い、燭台の火は灯していない。カーテンを閉めていない窓から差し込む月の輝きと星々の煌きが一人の剣霊使いと一振りの剣霊に柔らかな陰影を与えている。

 短くなった煙草を灰皿に押し付けたユストは林檎を掴んだ。色味や大きさ、形、共に申し分ない物を選んだつもりである。鍔無しの直剣を握り締めている側の袖口に林檎の表皮を数回擦り付けた後に、口許に運んだ。

 薄暗い部屋に軽やかな咀嚼音が一つ。歯応えは期待通りであったが、味がしない。単に水っぽいだけである。見た目に誤魔化されたのか、或いは元からこの様な趣向の品種なのだろうか、と詮無き憶測を脳裏に描きながらユストは口を動かす。空腹を満たして万全の状態を保つのも剣士の務めでもある。芯だけとなった林檎を備え付けの机の上に投げ捨てる頃、香木の煙が満遍なく鍔無しの直剣を燻し終わっていた。

 気休めかもしれないが、許せ。

 応えないと判っていながらもユストはその様に音無き声で嘯く。

 僅かにも落ち着いてくれればよいのだが。

 刀身の中程を走る血抜きのざらついた表面を確かめるかの様に、右の人差し指をなぞらせる。血抜きから柄の付け根へ指を平行に滑らせる。絡み付く二匹の黒蛇の頭を撫でた後にユストは椅子に深く座り直した。左手で握る鍔無しの直剣を膝の上に乗せる。

 黄昏時を迎えてから時計の短い針は既に二つほど進んでいた。冬の夜とは静かなものである。虫の涼しげで儚い合唱に耳を傾けていた時期は終わり、またその機会に恵まれるのは暫く先の事か。寂然とした空気が停滞を続ける中、ユストは己の剣霊の安否を案じて止まない瞳に闇を与えた。

 眠りに就けば夢を見る。己の深層意識が遠慮せずに語り掛ける時間でもある。

 今回の夢の舞台は懐かしき過去の一場面や朦朧と思い描かれる未知の景色ではなかった。『紺碧草』の一室、つまりユストが今ある六号室であった。

 イルサーシャの剣体を膝に乗せ、座り込んだまままどろんだとユストは己の行動を思い返したが、この夢の中でも同じ様な格好でいる。木製の椅子の座面は相変わらずの硬さであり、肩に掛けた赤紫色のケープは変わらずの柔らかさと保温性を有していた。異なるのは膝の上ではイルサーシャが霊体に戻っていた点か。ユストの胸に鼻筋の通った端正な横顔を添え、安堵の様相を示している。勝気で我を通す事を第一とする剣霊の安らいでいる姿はユストの双眸を細めさせた。

 彼女の腰を抱えている側の手はそのままに、空いている側の手を使って白銀の長い髪に一回、手櫛を入れる。彼女の気性に反比例しているかの様に従順で滑らかな肌触りに変化はない。ただ、違和感が一つ。百年香の爽やかな匂いが嗅覚を撫でなかった。

「そろそろ気付いても良かろう。」

 ユストの顔の右側で父と同じ声の主はそう語った。

「あなたは本当に鈍い子ね。」

 今度は左側で母と同じ声ではあるが、息子が知る限りでは彼女らしくない台詞がユストの耳に飛び込んだ。

 ユストは己の剣霊の手癖を二本の指を揃えて立て続けに行う。なるほど、彼女の従者たちはそれぞれあるべき場所にぶら下がっていなかった。

「おっと、首を動かしてはいかんぞ。」

「いい子だがらわたしたちの言葉に従いなさい。」

 父と同じ声の主は短い警告を発し、母と同じ声の主は諭す様に囁いた。

 首の動きを制限されようとも目は自由である。ユストは腰を降ろしている位置から正面の窓に視線を移した。白濁した月明かりに照らされた窓はぬめる様な歪みと共に建物の内側を微かに映し出している。その狭い硝子の世界の中で声を発する存在はユストしかいなかった。

「またもやあなたたちですか。」

 何たる皮肉か。普段は声帯が機能しない男が唯一喋れるとは。

「今回はどの様な用件でしょうか?」

 ユストの声は動揺の欠片すら見せていなかった。慣れ親しんだ、とは語弊があるが、少なくとも左右の存在の正体を見抜いているからに他ならない。

「前々から疑問を感じていたのだが、お前は実の親にもその様に他人行儀なのか?」

「愚生が成人を迎え、軍属になった時からの名残りと思って頂きたい。」

「でもユスト、あなたの血が若い時の可愛らしい頃を教えてくれたわ。わたしたちはね、その頃の様に接して欲しいの。」

 ユストはイルサーシャの腰に廻している側の指を弄ばしていた。絹製の生地は彼の指の動きに従って小さな波を起こしては消滅させる動作を繰り返す。

「人間は若かりし頃にはどう足掻いても戻れないものです。」

 そう語ったユストは弄ばしている指の動きを止める。一拍置いて、軽い溜息を鼻から漏らした。

「そもそもあなたたちは愚生の親でも親族でもない。」

 少し強く言い過ぎたか、と悔やむ。だが揺れる心理を補正しようと別の感情がすぐに生じる。具体的には蛇を模した人間とは異なる意思の持ち主たちにはこれぐらい明瞭に言及しておくべきだと。

「では、命の恩人、とやらではどうだろうか?」

「わたしたちは何度もあなたを助けてきたのを判っているのかしら。」

 ユストの本心を予め見抜いていたのか、左右の存在は矢継ぎ早に次なる言葉を発した。

「お前はリストメクの門を潜るや否や、人間を斬ったな。」

「初めて出会った頃に比べたら、だいぶ剣技が上達したわ。」

「だが自惚れるな。お前独りの実力ではない。」

「あの何処の馬の骨とも判らない男の身体にわたしたちが巻きついていたのよ。」

「難なく斬れたのは我らの助けがあったからだ。」

「何処の誰とも判らなくて脂臭い人間に巻きつくのは大儀そのものだったわ。」

 父母の声を模した左右の存在の言葉はユストの中で蟠っていた疑問を一蹴した。確かにあの場面は不可思議な現象が生じていた。

「更にその前は襲い掛からんとする馬を睨んだな。」

「人間以外の動物は素直で御しやすいのよ。」

「さて、これらはお前の為かマナエグナの巫女の為か?」

「ユスト、あなたならわたしたちに対する明瞭な答えが判るでしょう?」

 夢の、いや、深層の世界に於いては喫煙という行為の衝動に駆られない。これが現実であれば、時計の秒針が絶え間なく音を刻む世界であればユストは愛飲する一本を口角に咥えてなんとも言えぬ表情を左右の存在に晒していたであろう。  

「それらに関しては感謝しております。」

「どう感謝している?」

「言葉ではなく、具体的に誠意を示しなさいな。」

「愚生はあなたたちに万感の信頼を寄せています。」

「お前は自分が先程、我らのに何と言ったかもう忘れたのか?」

「親でも親族でもないと言った口が渇かないうちに吐ける台詞かしら?」

 父母の声を模した左右の存在は憤りを露骨に表現する。無理もなかろう。ユストは再びイルサーシャの左右の横髪を耳に掛け、晒された耳朶を親指の腹で交互に撫で始めた。

「愚生はイルサーシャという剣霊と契約を交わし、誰であろうとほぐせない関係となった彼女の為なら死をも厭わないつもりです。つまり彼女の従者であるあなたたちも愚生の意志を見守らなければならない義務があるのです。」

「義務だと?」

「わたしたちの息子は難しい話をし始めたのかしらね?」

「難しくありません。イルサーシャの心休まれば愚生は本望ですし、あなたたちもそれを望んでいる。」

 何か思うところがあったのか、左右の存在は沈黙を保ち始めた。ユストはイルサーシャへ落としていた視線を正面の窓へ再び動かす。やはり映るのは己の姿のみ。ただ、現実ではないと理解しているだけに訝しむよりも妙に落ち着く光景であった。

「お前のマナエグナの巫女に対する情とやらは判った。」

「殊勝な、と言えばそれまでだけど、ね。」

「実はお前に頼みがある。」

「そう、とても大事なお願いよ。」

 どの様な、とユストが問うよりも早く両肩の上で漆黒の空洞が形成された錯覚を生じた。無限の奥行きを思わせる空洞の手前を数本の鋭利な突起が妖しい艶光りを放っている様にユストは感じた。

「我々は腹が減ったのだ。」

「お腹が空いて少し苛立っているの。」

 ユストの眉宇に僅かな力が加わった。そう来たか、と言わんばかりの剣霊使いの表情をぬめる窓では映しきるのは到底無理であった。

「その様な相談は愚生ではなく、イルサーシャにするべきではありませんか?」

「マナエグナの巫女は応えん。」

「彼女が応えないから貴方に訴えているのが判らないの?」

「あなたたちも愚生と同じでしたか…。」

 同じとはイルサーシャの容態の安否を気に掛けている点であると左右の存在は気付いたであろうか。

 ユストはイルサーシャの腰に添えていた手を下へ動かし、膝の裏へ廻した。特に力を込めずにイルサーシャを持ち上げる。深層の世界でも剣霊の重量は変わらず、また彼女が纏う白地に黒の幾何学模様が施されたドレスも絹による滑らかな肌触りを損なっていない。ユスト自身も普段と変わらずに脚を組み、その上に持ち上げたイルサーシャを降ろす。勝気な剣霊は従順な素振りのままであり、精巧に仕上げられた等身大の人形の様であった。

「既にお気付きと思われますが、香を焚きました。イルサーシャはもとより、あなたたちもお気に召してくれると良いのですが。」

 己の発言の真偽を確かめるつもりではないが、ユストの視線が備え付けのテーブルの表面に注がれた。香は依然として焚かれ、一定の調子を崩さずに煙が立ち昇っている。だが、肝心の香りは皆無であった。これも現実とは異なる世界の現象の一つであろうか。

「これは、百年香ではないな?」

 懐かしき父と同じ声の主にユストは頷いて見せた。

「イルセリアが望むのは百年香だけよ。」

 ゆかしき母と同じ声の主にユストは頭を垂れて見せた。

「残念ながら、この北部の地では百年香を手に入れる事は叶いませんでした。」

「それは判っている。」

「わたしたちは常にあなたとマナエグナの巫女の行動を見守っていますから。」

「愚生としては出来るだけ似た匂いのする香を探し当てたつもりです。」

 己の主張を言い終えたユストの両肩に圧し掛かる漆黒の空洞の左側が姿を消した。だが右側は依然として漆黒の空洞の奥底から本能を剥き出しにした欲望が見え隠れしていてた。

「何事も結果だ。ユストよ、お前は過ちを犯したのだ。」

「あなた、そう言わずに。ユストの行動に評価を与えるべきよ。」

「いや、ならん。イルセリアがこのまま目覚めなければ、我々も深い眠りに就かなければならないのだぞ。」

「それならマナエグナの巫女が先に目覚めてくれれば、イルセリアも自ずと自我を取り戻すでしょう。」

 果たして最後に耳にしたのはいつの頃か、父母の遣り取りをユストは黙然と聞き入っていた。父の怒りを静める母は常に幼き息子を庇っていたのを覚えている。それが今、声だけであるが再現されている。郷愁に駆られる想いに心身を染める己と、左右の存在はイルサーシャを通して摂取し続けた己の血から得た情報を忠実に模した演技をしているだけではないか、と怪しむ己が拮抗してる事にユストは気付いていた。

 ユストがこれまでの経験から察するに、左右の存在の問答は数分ほど続く見込みである。父の声を借りる右側が何か言えば、母の声を演じる左側が即座に答え、代案を持ち掛ける。マナエグナの巫女、つまりイルサーシャが目覚めれば万事万端整うと言うが、それはユストにとっても切望に他ならない。剣霊と契約者、一振りの剣と柄を握る資格を有する者という既成事実を超越した感情がじわじわと広がりつつあるのをユストは認めていた。

 五年余りの付き合いによる情が働いたのか、そして情が確固たる想いを芽生えさせているのか。

「結論だ。」

 父の声と共に右側の漆黒の空洞が霧散したかの様に立ち消えた。その言葉の意味の如く、全てが納得し、次なる方向を見出したのであろう。

「ユスト、早急にマナエグナの巫女を目覚めさせるのだ。もしそれが出来なければ…。」

「あなたを頂く事にするわ。」

 声の調子からしてユストは嬉々とした母の姿を容易く脳裏に描き、またとどのつまりは腹を満たしたいだけか、と深い溜息を漏らした。

「そう気落ちするな。所詮、人間は死ぬのだ。」

「どうあがいてもあなたは剣霊となったマナエグナの巫女より早く死ぬのよ。」

 現実であれば左右の存在の呆れた物言いにユストは一笑に付していたであろう。だが、今いる深層の世界ではその様な衝動に駆られる事はなかった。

「愚生を喰らった後にイルサーシャにはどの様に弁明するのですか?」

「今言った通りだ。人間は遅かれ早かれ死ぬのだ。」

「可哀想に。怖気づいたのかしら。出来るだけ痛くない様にするわ。」

「折角だ。お前の身体に巻き付いて肋骨を粉砕するのと首を締め上げるのではどちらが良いか、選ぶ権利を与えよう。」

「遠慮せずに好きな方を選びなさいな。」

「何故、鋭利な尾の先で心臓を一突きで刺すという選択が無いのですか。それがどちらにとっても最も効率が良いとあなたたちは重々承知していると愚生は見ていましたが。」

 我ながら馬鹿な質問を投げ掛けたとユストは思った。いや、この際は与太話に真っ向から付き合うべきか。正直なところ、この世界は居心地が良い。以前、左右の存在に己の魂の内側だと教えられた。ここでは剣を振るう場面は訪れず、誰かを殺める状況に陥る事も無かろう。

「出来る事なら五臓六腑を傷付けずに喰らいたいのだ。」

「特に目に見えて動いている心の臓は別格なのよ、と言いたいけど…。」

 その言葉の後に左右の存在は視界に映らずとも明らかに動揺している様相をユストに晒し始めた。

 目を閉じたままのイルサーシャの垂れ下がっていた腕が本来の機能を取り戻したかの様に持ち上がる。全てを切り裂く五指が神経が通い始めて間もないと言わんばかりに数回ほどぎこちない動きを見せ、確固としてユストの手首を掴んだ。

「おぉ、マナエグナの巫女が目覚めたのか?」

「偽りの香りにマナエグナの巫女が反応したとは?」

 左右の存在の動揺は次の段階、つまり驚愕に変化している。無論、ユスト自身も目を見開き、口許の力を呆然と緩ませてしまっていた。手首を握り締めるイルサーシャの五指からは普段とは違い、冴える刀身を思わせる冷たさが伝わってこない。視覚から伝わる情報とは裏腹に触れているのか触れていないのか判らないほどの感触であった。

 閉じていた切れの長い双眸がゆっくりと開き、その中央に深い緑色の瞳がユストの面前に現れる。これまでに見た事のないほど、感じた事の無いほどの眼差しを湛えていた。感慨無量とはこの時の為の言葉かと思わせるほどであった。

 此方こなたの一部たちよ、それぐらいにしておけ。

 イルサーシャの口がそう語ったと深層の世界でユストは己の耳を疑った。


「その都度思うが、椅子の上でまどろむのはあまり感心しないな。」

 現実の世界へ舞い戻ったユストを出迎えたのは五年余りの付き合いを重ねている剣霊の小言だった。

 足許に置いた灰皿の上で焚かれていた名称不明の香は既に灰と化している。膝の上では乗せていた白銀の刀身を持つ鍔無しの直剣の代わりに赤紫色のケープが丁寧に広げられていた。

 彼女は何処にいるのかと視線を巡らせるよりも早く、後方から首許に冷たい感覚が走る。保温に優れた上質な絹製の袖であろうとも、その下にあるか細い腕は刀身と同じく冴え渡る冷たさを有している。本来なら思わず首を竦めてしまう感覚ではあるが、妙に落ち着くのは心待ちと安堵による副作用と言えようか。

「寝起きに襲うとは最も効率が良いと聞かされているとは言え、今のそなたは隙だらけだ。」

 名称不明の香の匂いをふんだんに含ませた剣霊は棘のある口調とは裏腹に、頼れる契約者の左肩に尖り過ぎず丸過ぎずの顎を乗せた。イルサーシャが首に廻した腕の先端にユストは右手を添える。自ずと絡み合う指と指の感触を知った時、彼女の横顔は愁眉を開き終える。飾り気とは無縁の端正なそれを契約者の前で見せていた。

はそなたより先にへばってしまったが、そなたが無事で安心した。」

 彼女が人間であったのであれば、ユストと同じ様に鼻から息を漏らして安堵の表現をしていたに違いない。そう思わせる声色に対してユストは頷いて応えた。

(いや、君の方こそ元の霊体に戻れてなによりだ。)

 絡み合わせたままの指同士が強く握られる。冷たく柔らかな女の指と温かく硬い男の指。互いの違いを再び堪能する日を待ち焦がれていたかの様に密着しては静かにしていた。

「数名ほど斬ったな。怪我はないか?」

 左肩に乗せている顎を支点にしてイルサーシャは顔の角度に変化を与える。切れ具合を更に深くした目尻は労りの色を添えていた。

(何故判った?)

の肌に血肉を裂いた感触が僅かながらに残っているからな。」

 彼女の言葉を信じるのであれば、人間では計り知れない感触と言えようか。ふふ、と妖しく微笑を零すイルサーシャは剣霊とは何たるものか、契約者たるユストに改めて知らしめていた。

(早速だが、これまでの経緯いきさつを君に話さなければならないね。)

 その様に切り出したユストは膝の上にある赤紫色のケープをそのままに脚を組んだ。

 柔らかな月明かりがぬめる窓を照らす中、ユストは特に感情を込める訳でもなく、また脚色を加える事無く、淡々と今に至るまでを内なる声で語った。以上だと語り終えると共に組んでいた脚を入れ替え、さてどう出るか、とイルサーシャの動向を覗う。

がどこぞの剣霊の前でナーソヴィムと口走っただと?」

 イルサーシャの語気は呆れと憤慨の一歩手前であった。

(あぁ。そう聞こえたが?)

「そなた、の知らないうちに気の利かない冗談を会得した様だな?」

(冗談というが、君自身が朦朧としていた意識の際に発した言葉だ。) 

「そもそもユストはナーソヴィムの意味を知るまい?」

 イルサーシャは苦笑とも憫笑とも捉えられる短い笑みを湛えた。誰に向けてなのかは当の本人が最も理解しているに違いない。

(逃げろ、じゃないのか?)

 ユストが簡潔に答えれば、イルサーシャの深い緑色の瞳があらぬ方向へずれる。やはり剣霊である彼女にとってこの古代の単語は屈辱の意味であったとユストは確信を得た。

(あの状況で君は最善の手段を愚生に講じたのだと思っているが。)

「…そうか?」

(君ははなから万全の状態ではなかった。剣霊として契約者たる愚生を護るために出来る事をしたのだから、恥ずべき言動ではないよ。)

「まぁ、そなたがそう思っているのならとしては事実として飲み込むしかあるまい。」

 釈然としない面持ちのイルサーシャは気を紛らわす為か、空いている側の手を使って横髪を耳に掛けた。百年香の爽やかな匂いとは何処となく異なる名称不明の香の残り香がユストの鼻腔を撫でる。ただ、彼女が戻ってきたのだと改めて実感させるには充分な効果を発揮していた。

「それでルケリヤとやらの容貌は?どの様な髪をしていた?」

 屈辱の言葉を発させた相手に敵愾心を生じさせるのは人間であろうと剣霊であろうと関係なかった。まして勝気の強いイルサーシャであればこそ、同じ剣霊という存在に対して一歩も引けないのであろう。

(彼女は北の女に倣ってケープを纏い、フードを被っていた。)

 つまりルケリアの髪についてはその下に隠れていて判別が不可能であった、という意図を汲み取ったイルサーシャは眉間に数本の皺を浮かび上がらせていた。

「で、容貌は?」

(端的に言うなれば、君が苦手とする部類だね。)

 ほう、と嘯くイルサーシャの眉間の皺が更に深くなるのを横目ながらにユストは認めた。

「あの容姿容儀がいかがわしい金髪と同類か?」

(そうは言っていないが…。まぁ否定はしないよ。)

「ならば次に出会った時は()()()()()()()()()をしなければな。」

(相手は協会から六十九の番号を与えられた存在だ。無闇に手を出すのはよせ。)

「挨拶と言ったろう?それこそそなたが無闇に気を揉む必要はないぞ。」

 果たしてどの様な挨拶なのかは容易く見当が付く。口舌による戦いを繰り広げるつもりか。相手が人間であれば彼女が剣霊だと知った時点で冷や水を浴びせられたかの様になる。だが、同じ剣霊ではどうだろうか。舌戦とは直情的なイルサーシャには苦手とする分野だとユストは理解している。ならば彼女は己の矜持に従う刃を繰り出すしかあるまい。

 霊体に戻って間もない為か、イルサーシャに上気の兆候が生じているとユストは見ていた。己が至上と自負する剣霊がその様になるのも無理なく、それを宥めるのも契約者の務めでもある。

(久々に霊体に戻ったんだ、食事でもしたらどうだ?)

 ユストはわざとらしく頭を右側へ倒す。黒地に黒の刺繍が走るスカーフが波打ち、その下に隠れている己の食痕のある位置をイルサーシャは横目で一瞥した。

「その前に…あれはそなたが喰らったのか?」

 あれ、とは卓上の上に転がる林檎の芯に他ならない。大気に触れ、時の流れを幾ばくかでも体験した林檎の芯は酸化による惨たらしい色を晒すものである。しかし、それは柔らかな月明かりを吸収しているかの様に食欲をそそる瑞々しい色合いを保っていた。

 そうだが、と怪訝な様相を伴いながらユストが答え、なるほどな、と言わんばかりの面持ちをイルサーシャは見せた。

「あまり美味くなかった様子だが、仕方あるまい。林檎の旨味はこやつらが先に喰らい尽くしたと言っておるぞ。」

 ユストの脳裏は左肩の上にあるイルサーシャの耳からぶら下がる二匹の存在の睥睨を思い起こすと同時に、にこやかな表情と共に奇異な発言を繰り返す若かりし頃の父母の面影の過ぎらせていた。

(つまり愚生は君の従者たちの残飯を口に含んだ、と言う事だろうか?)

という話し相手がいなかったものだから、そなたにちょっかいを出したまでの事。喉を潤すには差支えがなかったのだから許してやれ。」

 絡み合う指は女の方から離れ、新たに落ち着きを与えてくれる場所へ移る。か細い親指の側面が事の真実に唖然とする男の唇をなぞった。

「本来ならば林檎の酸には気を遣わなければならないが、今回はこやつらの計らいに感謝しなければな。」

 唇から顎先を経て、首筋へか細い親指が下りた。黒地に黒の刺繍が走るスカーフの柄を上からなぞる訳でもなく、規則性のない軌跡を描き始めている。

「なぁ、先に種明かしをしてしまったが、あの林檎が美味くなかった原因は名の知れない香によるものだ、と言ったらそなたは驚いたか?」

(さぁ、どうだろうね?)

 我ながらつれない返事だとユストは思った。イルサーシャもその様に受け止めたに違いない。音無き溜め息を漏らし、ユストは言葉を続けた。

(君は愚生より悠久を語れる資格を有している。その様な君の言葉は常に新鮮だ。毎回驚いていたらこの身が持たないよ。)

「そうか…なるほどな。」

 イルサーシャは言葉を発し終えると同時に協会支給のスカーフをなぞるか細い親指を静止させた。少しは彼女の自尊心をくすぐったか。左肩の上に乗せて久しい顎が離れる。剣霊らしく足音を立てずに歩むイルサーシャはユストの前で立ち止まった。組んでいる脚のうち、上側の膝の皿を可憐な人差し指を使って二回突付く。脚を崩せと促しているのであろう。以前、後方より対面で食痕に口を着ける方が食事がしやすく、何よりも落ち着くとイルサーシャは語った。今は霊体に戻って間もない事もあり、彼女の意向に僅かでも抵抗や嫌疑を掛けるべきではない。ユストは彼女の為の赤紫色のケープをベッドの上に投げ、脚を組むのと逆の動作をした。

 ユストの両肩にイルサーシャはそれぞれの冷たい手を置き、一歩前へ進む。女は全てを許した男の懐中に飛び込むのを望む生き物という。僅かに左右の口角を上げたイルサーシャはまさしくその瞬間を待ち焦がれている雰囲気を纏っていた。少なくとも食事を提供する側であるユストにはその様に見えたのは、淡くも妖しい月明かりの作用によるものだろうか。

 食痕を覆う為のスカーフにイルサーシャの手が再び移り、喉を潤さんとする柔らかな唇が首筋に近付く。百年香とは異なる爽やかな匂いがユストの鼻腔を強く突いた。イルサーシャの唇は首筋から耳へ移り、淡い月明かりに負けじと妖しく囁いた。

「霊体に戻ったばかりで些か調子が出ない。ここはひとつ荒療治といくぞ。」

 荒療治とはどの様な意味だ、と尋ねるのはおろか、首を傾げる暇をユストに与えずにイルサーシャは触れる両手を下へと滑らせた。彼女にとって一番落ち着く場所である胸板を経て、腰のベルトへ移動していた。

(おい、イルサーシャ、何を…。)

 普段のユストであれば己の剣霊の名前を口にせずに単に君と言っていただろう。それだけ想定外の出来事であった。帳が下りきった夜の世界の中でイルサーシャの左右の五指は飾り気のない真鍮製のバックルに数回軽い音を響かせる。

 膝を折ったイルサーシャはユストの股の付け根に顔を近付けた。目尻の切れが長い双眸は剣霊らしさを微塵にも感じられない程に優しく閉じ、凛々しき唇は艶やかに虚ろに開いて正反対の表情を惜しみもなく曝け出す。イルサーシャの右手は虚ろに開いた唇が欲する物へ、左手は衝動に駆れて動く上半身を支えんとユストの内股へと添えられていた。人間ではあり得ない温度の唇と舌が愛情と欲望に余すところなく染まり、ただひたすら結果を求めてそれぞれの役割に没頭している。

 暇にしていたユストの手が白銀の長い髪を掬う様に触れ、逆に櫛入れをするかの如く移動して冷たい頭部へ辿り着く。イルサーシャは声すら発さずに前後の動きに合わせて顔を左右に傾けている。その表情はまさに無我夢中という言葉が当て嵌まると思うユストは柔らかな月明かりの下で双眸を細めた。

 椅子に降ろしているユストの腰が浮いては迫り出した。音無き呼吸が吸う方吐く方共に荒くなる。男らしい顎の先端が薄暗い天井へ向けて徐々に傾き始めた。

 そして女の頭部に触れる手に力が加わると同時に男の顎の先端が限界まで角度を広げた。

 悦楽とは迫る波濤に似ている。限界まで上り詰めた瞬間に、一気に崩れ落ちる。とても些細な時間の出来事の後にユストは気だるさの真っ只中に身を預けた。あらゆる筋肉が弛緩しようとも聴覚だけは冴えている。僅かな衣擦れの後にイルサーシャの喉が欲望を叶えた音を奏でた。

 深夜の冷たい空気を震わせた響きが耳朶の奥底に纏わり付いたと思えば、広げたままの太腿にも冷たい感触が走る。荒療治を終えたイルサーシャが横顔を付けたからに他ならない。

 これは百年香とは異なる偽りの香りがもたらした結果なのだろうか。ユストはイルサーシャの頭に添えていた手をそのままに白銀の長い髪を弄び、顎の先端を上へ向けたまま窓へ視線を投げた。

 リストメクの夜は静寂を貫いていた。


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